6 血の誘惑1

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6 血の誘惑1

 しゅんとしたのはただの演技だったのか。突き放した分詰めてくる。いつも通りの近い距離感で接してくる虎鉄を心にもない言葉を使ってまで再び突き放すことはできなかった。  なんだかんだ文句は言うが、臆病者で人との関係を深める術を持たない千雪にとって、心の距離をぐっと向こうから詰めてくれる虎鉄との間合いが嫌いではない。むしろ……。 (世話やかれんの、本当は嫌じゃないって虎鉄にバレてんのかな。そんなの恥ずかしい)  仕事の関係で海外にいて年に数度顔を見せればいい方の父と、祖父の代から続く喫茶店を一生懸命護る母。両親は優しいがやはり幼い頃は寂しい思いをしてきたこともある。  だからこんなふうに甲斐甲斐しく世話を焼いてもらうと嬉しくてどうしても顔がにやけてしまうのを止められなくなる。 でも千雪はそれを虎鉄に悟られたくなくて、ひっそり口元に腕を翳して誤魔化した。 「千秋さん今日ヨガ教室の日だろ? 俺、シフト早めに上げてもらうから、夕飯、下のキッチン借りてなんか作るよ。一緒に食おうな?」 「……わかった」    穏やかで低い声で話しかけられると、胸がぎゅうっと暖かく、同時に切なくもなる。 (何もかも虎鉄に敵わないのは男としては悔しいけど、やっぱ、虎鉄、優しい。カッコいい。好き……)  甘やかされたら照れ隠しで憎まれ口ばかり叩いてしまうが、千雪はもう思い出せないほど昔から、そうあの保健室で虎鉄をより強く意識するそのずっと前から。虎鉄のことが大好きなのだ。  面倒見がよく長身なのにキビキビと動く頑健な身体も、日に焼けた顔から零れる白い歯に浮かぶ、眩いお日様みたいな爽快な笑顔も、こうして具合の悪い時に優しく触れてくれる暖かい掌も。どれも千雪が憧れて止まず欲しいものばかり。万年貧血気味で運動の苦手な千雪にとって虎鉄が試合で活躍する姿を見に行くことが何より楽しみだった。虎鉄は幼いころからの、ずっと千雪の一番のお気に入り、出来れば手離したくはないのだ。  虎鉄は、この喫茶店と同じ通り沿いにある中華料理店で受験が終わった直後からアルバイトをしている。虎鉄の兄が以前バイトをしていたというのと、大将が4兄弟が所属していた地元少年野球チームの監督をしているからその縁があるのだ。きっと今、遅い昼休みの合間に千雪に食事を運んできてくれたのだろう。  千雪の方も祖父が残したこの喫茶店での母の手伝いを土日や講義の合間の時間にはできるだけするようにしている。しかし今日はどうにも体調が優れず店の三階にあるこの部屋で休んでいた。このところの初夏を思わせる陽気と上着の必要な涼しさが、交互に訪れその寒暖差にやられたのかもしれない。  今、二人がいる店の三階のこの部屋はかつては亡くなった祖父のものだった。 畳敷きのこちらの部屋は寝室で、ひと跨ぎできる狭い廊下を挟んだ向かいの部屋には、祖父の残したかつてお店でかけていたジャズのレコードがたくさん詰まった棚もそのままにしてある。  二階には設備は古いがダイニングと水回りがそろっているが、三階で飲み食いする時は今どき珍しいちゃぶ台にくたっとした座布団を敷いて胡坐をかいて食べている。  古めかしい紐で引っ張って点灯するタイプの電気に、背中をつけるとじゃりっととれる砂壁。廊下の間は星の模様の硝子の引き戸がついている。ちょっとノスタルジックなこの空間は祖父が存命中から、兄弟が多く賑やかな自宅から静けさを求めて度々転がり込んでくる虎鉄にとっても居心地の良い隠れ家となっているようだ。熱心な野球ファンでもあった祖父は虎鉄のことも孫同然に可愛がっていた。 「ほら食べろ? レバニラ炒め! 白メシもスープも貰ってきた。貧血にきくぞ?」  先ほどからなんとなく鼻先に漂っていたのは染みついた油の匂い。しかし時としてどうにも脂っこいものが苦手な千雪は思わずうぷっと口元を手で覆ってしまう。 「ごめん。いますぐは無理……。食べられなさそう」 「また目の下にうっすらクマができてるぞ。折角の美人が台無しになるだろ?」 「余計なお世話だ。俺にクマがあっても誰もかまわない」 「俺がかまう。青白い顔した幼馴染を放っておけない」 「母さんの特製トマトジュース飲んで休めば回復するから。まだ下の洗い物残ってるし……」  「それも俺が後でやっておくから。お前はちょっとでも食べろ。大将のレバニラ、美味いぞ?」 「桂花の中華はどれも美味いのは知ってるけど……」  言いながら、わざわざ店から借りてきてくれたであろう、古めかしいところどころへこんだのおかもちの中から、中華スープとご飯、桂花飯店のロゴの入った中華皿を取り出してくれる。  大方、『喫茶 night・dreamer』の息子がまた貧血を起こしたと心配して大将自ら進んで作ってくれたのだろう。大将の初恋の人は、千雪の母の千秋だから、やたらと千雪にも甘い。  虎徹は祖父の頃から使い込まれたちゃぶ台に置くと、手際よくラップを取り外してくれようとした。 「……レバニラ食べたってすぐどうにかなるわけじゃないし」  ふるふると首を振り、千雪はまだ頭の芯に抜けきらぬ気だるさから、背中からぱたんと布団に寝転んだ。子どもの頃、このお爺ちゃんの部屋に泊りに来ると怖かったものだ。天井の節が人の目玉のようにギョロリと千雪を見張っているようで。いつもの癖でついつい顔に見えるようなところに目をやって、ため息をつく。 「ほんと、嫌になるよな。こんな身体」  千雪の貧血は根強い。体質的に食べ物やサプリで解消できる部分と、そうでない部分があるのだ。虎鉄はそれも承知で、こうして精の付きそうな食べ物をせっせと運んでくることをやめない。 「後にするか?」 「うん。ごめん。ちょっとまた寝るかも……」  ざり、と畳が虎鉄の膝下で擦れる音がし、ぬっとまた視界に千雪に覆い被さるように虎鉄の黒い眉をひそめた神妙な顔が現れる。 「辛そうだな。じゃあ、こっち、飲むか?」  低い声で促され、虎鉄のやや首元の寄れた中華料理屋の揃いのTシャツから覗く、逞しい首筋に物欲しげな視線を送ってしまった。 そこに歯を当てれば味わえる至福の快感を知っているからこそ、迫られると弱い。 「は、あ」 思わず漏らして待った溜息を恥じて、千雪は頬を染めぱっと目線を反らした。
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