7 血の誘惑2

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7 血の誘惑2

 掛け布団の上にぱたりと無造作に載せていた千雪の白い手。その指先にするりと一本一本が硬くて長い虎鉄の指が絡められた。中高時代は真剣に野球をしていた虎鉄は引退した後も朝に夕にランニングするなど、身体を鍛えることは怠っていないから、その指先が繋がる血管の浮き出た腕は逞しい。千雪がまろび縋ってもびくともしないだろう。 「……なあ、欲しいんだろ? いいぜ。久々だろ? 飲みたきゃ飲めよ?」 どちらが飢えているのか分からないような、欲を帯び低く掠れた虎徹の声に、千雪は腹の奥がぎゅ、ゾクゾクと反応する。しかし最期の理性を振り絞って苦し気に呟いた。 「……だめだ」 「気にすんな。お前のために、いいもん食って、鍛えてんだから」  ぎらり、と虎鉄の瞳が妖しく光り、彼は自らの形良い唇に尖った犬歯を見つつけるように当て、力を込めて噛みしめた。 「だめぇ!」  ぷつっと丸く真っ赤な血が、鮮やかな紅でもさしたように虎鉄の唇に滲んでゆく。  そのまま千雪の唇にそれを押し付けるようになぞられ、差し入れられた舌先についた鉄の味が一瞬のうちに千雪の意識を絡めとられそうになり、どんっと虎鉄の肩を押し身体を離したがもう遅かった。  ばちん、と千雪の視界が舞台の暗転でも見ているかのように切り替わる。  目線に映る世界の色彩が暗転する。  虎鉄の身体が赤い陽炎のような光が揺らめく姿に変わり、赤い血潮が波打つように身体中を巡る姿が見える。その生命の脈動に千雪の中のもう一つの強い衝動を帯びた意識が覚醒し、かっと見開かれた明るい黄色の瞳の虹彩の半分が、見る見るうちに血のような赤に染まっていく。 「ああ……。欲しい。欲しいよぉ」  先ほどまでのどちらかといえばそっけない態度とは真逆の甘ったるい声で千雪が指先を悩まし気にかきむしりながら虎鉄に強請ると、その妖艶な変化に気がつき千雪の視界からは黒い影の塊にしか見えない虎鉄が、満足げに血のにじむ唇の端を微笑みの形にひきあげた。  虎鉄の、そのエネルギーの塊のような熱が欲しい。  思わず擦り寄った千雪の身体を虎鉄は逞しい腕で抱き止め、手早くシャツを脱ぎ捨てると自らの首筋を千雪の赤い唇の前に差し出した。  「虎鉄ぅ、もっと、ちょうだい?」 「ほら、飲めよ。がぶっと、来い!」  こんな時、あさましい自分の瞳の色は欲望を得てどんな色に染まっているだろう。獣のように虎徹を求める自分が恐ろしくて申し訳なくて、一度虎鉄に聞いたことがある。  その時も虎鉄は臆せず、恐れもせずに、ただ一言「死ぬほど、魅力的だ」とだけ千雪に応えてくれた。 (でもそんなの、俺の眩惑の魔力に嵌っているから。虎鉄が俺を想うのはただの幻想)  ぎりぎりの理性がそう囁くが、どうしても血を求める衝動を止めることができなかった。 (嫌になるよ。俺の中の、父さんの血)  今も世界中を虜にする圧倒的なその魔性の美貌でモデルとしても実業家としても長年世界に灘たるセレブリティとして有名な千雪の父。  その正体は眼差し一つで人を惑わし狂おしいほどに恋慕の情を掻き立て、相手にその身も心も全てを差し出させる強烈な魔力を持つ吸血鬼だ。  吸血鬼の父と人間の母との間に生まれた千雪も僅かにその力を受け継いでいる。しかし吸血の為に無闇に力を試すことは好まず、そのせいで普通の食事だけではどうしても解消できぬ、慢性の貧血にも悩まされることになったのだ。  自分に対し愛情とも献身とも言うべき感情を強く持たれれば持たれるほど、その血は甘く力を持って生命力が身体に巡るのだという。  虎鉄の血は甘くとろりとネクターのように濃厚で、我が身に巡るそれは内側から虎鉄に抱かれているように千雪を酔わせる。  だが甘ければ甘いほど。それが哀しくて、それが苦しくて。  千雪がどんなに虎鉄を思っても、どんなに虎鉄が千雪を求めてくれても、それは真実の愛とは程遠いのではないかと嘆くのだ。 (虎鉄、ごめんね。こんなことさせて)  あの日。あの学校の保健室で……。思い出されるのは鮮やかでどこか背徳的な記憶。 『甘い……。美味しいよぉ』 『……いっぱい舐めてな。俺の血もなにもかも、全部千雪にあげる……、千雪、あのな……』  虎鉄のその熱っぽい口ぶりはまるで殉教者のようだったのに、虎鉄の足元に跪きその膝に唇を這わせ傅いていたのは千雪の方だった。  熱に浮かされたような眼差しでうっとりと虎鉄を上目遣いに見上げ、彼の血で濡れた唇で微笑みを浮かべた時、千雪の瞳を見つめ返した虎鉄は今までにない熱のこもった視線でもって千雪を射抜いてきた。  その後の記憶は混濁していてよく覚えていない。無我夢中で味わった虎鉄の血潮が千雪の全身を駆け巡り、疼くような甘美な熱に侵されて最後には気を失ってしまったのだ。 (お前は俺に……。俺の中の『あの力』に捕まったままなんじゃないのか? 俺だって……。この想いは、恋なのか、それとも血を欲しいだけの欲なのか。わからないよ。でも、俺は……、ずっと……)  そして千雪自身も、大好きな虎鉄と離れることもできずに、かといって思いを真っすぐに伝えることもできないまま。  千雪自身も好きな男の血潮を味わう快感と本能が導く誘惑から逃れることができない。 引き寄せられた虎鉄のその弾力のある瑞々しい首筋は汗で塩辛く、だけどそんなことが気にならぬほど、歯を当て強く食い込めせていけば、千雪にしかわからぬ独特の狂おしく芳醇な上等な酒にも似た香りが立ち昇る。  千雪は身震いして自分の浅ましさに艶めかしいため息を吐き、そのまま生命そのものである生き血を啜ることを最後の理性で逡巡し真っ赤に染まった唇を離すと、千雪の視界は元通りに戻った。 「ごめんっ」 「あやまんな。なんてことない。飯食うのと一緒だろ?」 「……っ」 「遠慮すんなっ。俺も遠慮なくお前を貰うから!」  虎鉄が千雪のシャツを強引にまくり上げ、荒い息をつく白い胸を露わにさせる。 「虎鉄っ! やだ!」  鍛え上げられた虎鉄の身体と比べたら白くひ弱に見える身体をまだ明るい昼下がりの窓辺に晒されるのが恥ずかしくて、千雪は細越をよじって腕を伸ばし掛け布団を引き寄せようとしたが、獲物を押さえつける猛獣のようにしなやかな動きで虎鉄が間髪入れずに覆いかぶさってきた。 「綺麗だから、全部見せろ。俺にもお前を食わせるんだよ」 「……!!」 「だから。もっと飲め。俺の血に酔うんだ」  再び牙を突き立てた瞬間から迸る虎鉄の甘く濃厚な血を口いっぱいに味わいながら、千雪は艶めかしく身体をよじり身悶えながら喉元を鳴らす。  あの時から、千雪は度々虎鉄が捧げる血の誘惑に負け、彼と互いに互いを貪り合う、凡そ親友同士の範疇は逸脱しつつも名前を付けがたい、どちらが獲物とも捕食者とも言い難い関係に陥ってしまったのだ。
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