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「すいません、手伝います」
お蕎麦を沸騰した鍋に投入していると、航太君が腕をまくりながらそう声をかけてきてくれた。
「ううん、大丈夫だよ。気にしないで」
「でも……」
「おい、航太。人のカノジョ捕まえて何してんだよ」
航太君の後ろからにゅっと湊人君が顔をのぞかせる。
「お前がこれから世話になるんだから、手伝って当然だろ。コイツの事起こすの大変だと思うんですけど、よろしくお願いします」
「あはは! 頑張るね」
「穂花さん、なんか、いい顔で笑うようになりましたね」
航太君に指摘されると、ドキリと心臓が跳ねた。湊人君が「おい~」と不満そうに声をあげる。
「たとえ航太でも、穂花サンに手出したら俺も怒るぞ」
「はいはい。そんな事は絶対にないから安心しろ、そしてお前は邪魔だからあっち行ってろ」
「やだ、俺も手伝うもん」
私はゆで上がるのを待ちながら自分の頬をむにむにと揉む。確かに、最近笑うことが増えてきたような気がする。心の重荷になっていたものは全てなくなり、体まで軽くなった。タイマーが鳴り、蕎麦がゆで上がったのを知らせる。私はそれを冷水で締めて、湊人君と航太君にリビングに持って行ってもらう。リビングでは優奈と洋輔君が天ぷらを摘まみながらお酒を飲んでいて、航太君の怒る声が聞こえてきた。それを聞いて、私はまた笑みをこぼす。毎日が楽しいなんて思うことがあるなんて、一年前の自分が今の私を見たらきっととても驚くに違いない。それくらい、今、私の世界は輝きに満ちている。
***
それぞれ明日は朝から仕事があると言っていたので、早めの解散になった。湊人君がシャワーを使った後、私もお風呂に向かう。髪を乾かしてからリビングに戻ろうとすると、湊人君の話している声が聞こえてきた。覗き込むと、スマホをスタンドに立ててソレに向かって何か話をしていた。
(テレビ電話でもしてるのかな?)
映らないよう、そして聞こえないようにそっと台所に向かおうとすると、湊人君が私に気づいて「あ、穂花サン」と声をかけてきた。
「湊人君、電話してるんでしょ? 私の事は気にしないで……」
極力小声で湊人君に話しかけると、彼はぶんぶんと首を横に振る。
「電話? 違う違う、配信やってんの? 今日引っ越ししましたってさ」
「じゃあ尚更私に声かけるのやめてよ!」
思わず大きな声が出てしまった。慌てて口を塞いだけれど、きっと彼のスマホのマイクは私の声を拾ってしまっただろう。湊人君は笑い始める。
「見て見て、コメント欄がみんな『ほのかさん』で埋まってるよ。穂花サンも出たら?」
「やだ、絶対イヤ。本当にイヤ」
「えー。みんないい人なのにね、残念」
そう言ってスマホに向かって話しかける彼の横顔は、とても充実しているように見えた。仕事も順調だっていうのが私にも伝わってくる。
「でも、ファンの皆が受けいれてくれて本当に良かった」
彼のその言葉に私は大きく頷く。
「俺も仕事頑張んないとね。……早く結婚したいし」
湊人君はそう言って、私を見てにやりと笑った。きっと真っ赤になっているに違いない。心の準備も何もしていないのに、急にそんな事を、しかもファンの人たちが聞いている場所で言われたのだから……恥ずかしくて仕方ない。
「あはは! ちょっとプロポーズには気が早いかなぁ? そういう訳だから、今日はこれでおしまいにしまーす。またね」
スマホに向かって手を振る彼を見て、ようやっと大きく息を吐いた。呼吸も少し止まっていたことに気づく。私は湊人君の近くに座る。
「大勢の人の前で変な事言うのやめてっ!」
そう抗議すると、湊人君は始めは笑っていたけれど、すぐに真面目な表情になった。そして、私の左手を取る。
「本気だよ、俺は」
湊人君はそう言って、私の左手の薬指に口づけをした。照れたような笑みを見せるけれど、私は恥ずかしくてまっすぐ彼を見つめる事は出来ない。
「いつかさ、俺がもっと稼げるようになって立派な人間になったらさ、結婚しよ?」
「……」
「穂花サン? 返事は?」
「……ぁい」
「もー、すぐ真っ赤になるんだから。かわいいなぁ」
湊人君がぎゅっと抱きしめてくる。私が恥ずかしさのあまり真っ赤になっているのにも、彼はすっかり慣れて「かわいい」と褒めてくれる。それも恥ずかしいのだけど……それを隠すように、私も彼の背中に腕を回した。しばらくそうしていると、湊人君がゆっくりと離れていった。
「……もう寝ないと」
「明日、朝早いもんね」
「うん。あと、帰り遅くなるっていうか、晩ご飯いらないかも」
「遅くまで仕事があるの?」
ゆっくりと首を横に振る湊人君。
「レッスン後、航太の家に行くんだ」
最近、湊人君は航太君から本格的に作曲について習っている。ニューアルバムには間に合わないけれど、今後のOceansの曲作りにも参加していく予定らしい。航太君は「作曲ができるようになってそれが認められたら、セカンドキャリアにも役立つだろうし」と早くも将来の事を考えてくれている。それがとてもありがたいと湊人君は笑って話していた。
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