おかえり、魔法のクッキー

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 微かに陽気な魔法の音が聞こえて来たのを覚えてる。  遠くから聞こえるような、近くから聞こえるような。  不思議な、でも明るく楽しくなる、そんな音。  それはやがて「にゃあ〜」という鳴き声に変わり鼻歌になった。  にゃ〜♪ にゃにゃ〜♪ にゃ〜♪  アッチッチな溶かしたバターに砂糖、蜂蜜、次にパカッと割れる音が小気味よく響いて卵が落ちる。それが僕に加えられ木ベラでサクサク混ぜられて二つに分けられた。片方にはココアをたっぷり。そして僕は滑らか肌の二つの塊になった。  レンガ作りの壁からスーと固く冷たい空気が漂う。ここは厨房というとこらしい。薄ーく目を開けると、耳から目の周りにかけてが黒、額から口元は真っ白なハチネコおじさんがニンマリこっちを見ていた。 「おはようにゃ。でもまだ寝てていいにゃ」 「……」 「今度は何にしようかにゃ? どうしようかにゃ?」  肌寒い空気の中、僕はまた眠くなっておやすみについた。  次に気がついた時はポッカポカだった。  バターや蜂蜜の甘ーい香りが漂い、綺麗な焼き色がついていた。真っ赤っかだったオーブンから取り出されると、厨房の冷えた空気がとても気持ちいい。 「よし、いいのができたにゃ」  ハチネコおじさんが満足そうに僕を見る。そして鼻歌を陽気に歌って厨房から出ていった。まだ体は動かない。力が入らなかった。 「おはよう! 新入りさん」  声の方に目を向けると可愛い格好の猫型クッキーが立っていた。オレンジピールのツバ広帽、カーキ色の服。片手に双眼鏡、腰にはチョコレートのサバイバルナイフ。顔が黒、茶、白の三毛になっている。 「私は冒険者バンチュール。よろしくね。あ、まだもう少し冷えるまで動かない方がいいわよ。固まる前に動くと腕がポロッと取れるから」 「あのー?」 「まだ頭がぼんやりしてる? そのうち冷静になってくるわ。おめでとう、あなたもハチネコおじさんの手作りクッキー。私達の仲間よ」  僕は片手をゆっくり顔の前に持ち上げてみた。狐色の手だった。そしてその手には泡立て器が握られている。反対の手には(ボール)。近くにあった小瓶に映る僕の姿は、頭にビヨーンと伸びた白い帽子、そして白いコック服を着ていた。顔はハチネコおじさんと同じように黒と白。 「あなた料理人のクッキーみたいね」  僕は力が入らない手をそっと下ろした。 「料理は大事。だって食事は冒険に欠かせない基本中の基本。食べなくちゃ死んじゃうんだから。そして美味しい料理は体も心も満たし希望となる。でしょ?」 「うん」 「さあ、私と一緒に冒険に行こう。食べられる前にこっから外に飛び出そう」  バンチュールは外の世界の事をいろいろ話してくれた。人がいっぱいいる街の事、市場ではいろんなものが売っていて賑やかでとっても面白いってこと、水がいっぱい溜まって波立つ瑠璃色の海のこと、澄んだ空気の藍色が空まで届きそうな山のこと、深い緑の木々が鬱蒼と生い茂るジャングルのこと。全部、ハチネコおじさんが話してくれたんだって。  そういえば僕も陽気な歌を聞いたような。「美味しくな~れ♪ みんなに笑顔にゃ♪ 届け~にゃ♪」  あたまもだいぶスッキリして来て、体が冷えてしっかりと体を起こすことができるようになった。 「この世は笑顔で溢れてるって。さあ、笑顔を探す冒険よ!」  バンチュールが腰のサバイバルナイフを抜いて向こうの窓を指差した。 「僕は怖いな」 「大丈夫。さあいこう」 「……」 「それともここに一人で残る? ショーケースの中で動けなくされちゃうわよ。食べられちゃう」 「そ、それも怖いな」  僕は俯いた。 「私がいる。ね」  バンチュールが差し出した手を僕はそっと取った。心にポッと小さな炎が立ち上がる。体があつくなる。バンチュールから漂うオレンジとチョコレートの匂いが鼻腔を抜け体の芯を震わせる。  僕は「うん」と言って立ち上がった。バンチュールに手を取られ一緒に窓の方に駆けて行く。窓からは心地よい日差しが差し込み、柔らかい風が肌を撫でた。 あー、気持ちいい!  窓から見下ろしたその景色には小さな庭があって、片隅に白いテーブルと椅子が置かれていた。芝生にレンガ作りの壁、ラベンダーが片隅に植えられ、小さなハチが飛んでいる。見上げると真っ青な空に白い雲。 「ほら、冒険に行くしかないでしょ」  バンチュールが爽やかなラベンダーの香りをいっぱいに吸い込んで大きな声で笑う。目がキラキラしている。僕も色鮮やかな広がる世界にワクワクした、突然始まった冒険に戸惑ってるし、僕料理人みたいなんだけど、だけど一緒に行ってみたいと強く思った。ほら、いま僕は柑橘系のこの香りをどうやって料理に使おうかウキウキ考えてる。 「よし! 行くよ。1、2、3」 「ま、まって〜」  僕は手を取られ窓から芝生の庭に飛び降りた。 「にゃにゃにゃ、待つにゃー」  後ろでハチネコおじさんの声がした。そして「にゃんにゃんにゃにゃん」と泣いている声が聞こえてきた。  ハチネコおじさんの事が気になったけど…… ごめんなさい。  僕、この手を離したくないんだ。バンチュールの笑顔が好きで、一緒に行きたいって思ったんだ。一緒に笑顔を探しに行きたいんだ。
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