129人が本棚に入れています
本棚に追加
「……バケモンかよ。」
ロムは薄暗い鏡に向かって首を伸ばすと、くっきりと歯型の残ったあたりを撫でながら呆れた。
両耳に銀のリングピアスが刺さっていてもなお、他人からもたらされる傷は痛い。それが噛み跡ならなおさら。
始発で逃げるように一人暮らしの部屋に帰り、シャワーを浴びてもしばらく眠れなかった。どうにか微睡んだところでアラームが鳴ったからほぼ寝れなかったようなものだ。
もう秋が冬に差し掛かる頃だが、ときおり寝苦しい湿気に包まれる晩がある。昨日がそれだったようにも思うし違う理由があったとも言える。いずれにせよロムは上半身に何も着ないまま、忌々しげに歯を磨いた。コンタクトの外れた瞳は、今日も今日とて黒髪の間から鮮やかに緑色を発している。
大学進学の上京以来、同じ部屋に住んでいる。
5階建てアパートの3階、北向き。いつも涼しいと言えば聞こえが良いが、暗い雰囲気は拭えない。それでもこの部屋が好きなのは、骨ばった手すりの鉄の匂いと外廊下の床張りの立てる音が心地良いから。
ロムはそうやって生活を選んで来た。
自分の生い立ちが特殊で、それを癒やすのが音であると気付いた時から。
家中に這わせたケーブル類の中から、木製の振動板を使ったスピーカーに繋ぐ配線を選んでスイッチを入れる。パソコンからデータを引っ張り出して、再生ボタンをクリックする。
流れ出した名盤を背で聴きながら、昨日は一体なんだったんだろうかと考える。
『俺がヤりたい時には呼ぶから。』と昌也は言った。
傷んだ身体を縮こませながら"こっちが警察に駆け込むとは思わないのか"と言いかけたが、結局それを言えはしなかった。
……どういうわけだか。
男の感触も、匂いも、身体に異物をねじ込まれるのも、ついでにいろんなところを噛まれるのも、嫌でたまらないはずなのに。
「はぁぁぁぁ……。」
黒いTシャツを着て、スプリングのへたったベッドの横にずるずると座り込む。
「……生きている感じが、した。」
いくつかの言葉を比較して、口にした言葉はしっくりと胸に落ちてきた。そう、生きている感じがしたのだった。
快楽とか相性とか、よもや昌也への感情だとか。そんなもので形容するのは筋違いで、それよりもっと深い部分で、自分の核を突かれたような。
それがロムの辿り着いた言葉だった。
冷静に考えれば仕事先でレイプされただなんてありえない事件なはずなのに、その痛みの記憶はまるで宝物のように腹のあたりに残っている。
なぜ、どうして。
そんなことを考えだしたらおそらく昌也の思うツボだ。おそらくあの男は何も悪びれることなく、今日も自分の好きなように生きて、ときおり獲物を見つけては昨日のように誰かを抱くのだろう。
『昨夜、クソみたいな夢を見たんだ。』
ベッド際で落とされた言葉がやけに耳に残って、ロムは耳を塞ぐように頭を抱えた。
最初のコメントを投稿しよう!