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ロムは左腕の震えに耐えながら、バイクで住み慣れたアパートに帰った。
絶対に、そんなはずはない。まさか自分がそんな
――ミスをするなんて。
だとしたら。
上がったきりのエレベーターが降りてくるのを待たずに階段を飛ばしながら駆け上がって自室に雪崩込む。
前、右、散らばったカラーコンタクトの箱、そして洗面台の鏡。
その前に手をついて、"Call"する。
「おい、ROM!!何サボってんだよ!!俺は全部言えって言ったろ!!」
急に動きを止めた身体から汗が吹き出して、服の中で蒸気になる。その気持ち悪さは、現実なのに。置かれた状況はこんなにも現実味が無い。今日も、それより前から、ずっと。
じり、じり。
鏡が揺らいで、自分を写すはずの鏡には汗ひとつかいていないROMが浮かび上がった。
自分と同じ顔、同じ服。それでもそいつは、ロムの怒り顔ではなく飄々とした無表情を見せた。
『言ってるよ、僕は全部。』
スピーカーを通して聞こえる冷ややかな声。わざわざ自分の声をサンプリングして埋め込んだ瓜二つの声。
「言えてねぇ!!仕事の内容、頭から抜けてるって言われてんだぞ!おかげでクビだろ!!」
『何、なんか足りてなかったの。』
「前にした仕事を、もう一回やってるって言われた!人の名前も忘れてるって。」
『あーそれかぁ。』
ロムは、鏡の自分と目が合わないことで自分の複製の反乱を知った。
「ふっざけんなよ!!」
拳を振り上げて鏡の直前で止める。
これが割れてどうする。写らなくなってどうする。
そんなのは、無数に存在するディスプレイのひとつが無くなることしか意味しない。概念は、アルゴリズムは、記憶は、分散した電子空間に残り続ける。こいつはいなくならない。存在し続ける。
自分がそうしたからだ。
ROMと話すのにわざわざ家の鏡に向かうのは、それが話しやすいからということでしかない。本当は携帯だろうとなんだろうと、同期したデバイスで話そうと思えば話せる。それでもこうして取り乱すのがわかっていたから、ロムはこの場所を選んだ。
「お前、俺が……俺が何のために。」
ロムは震える左手で頭を抱えながら肩で息をした。
『まぁそんなに気を落とすなよ。それはお前にとって本当に必要な記憶だったか?こっちだって、安いサービス料金で限られた記憶容量しか使えないんだから、色々工夫してるんだぜ?』
「そういう問題じゃ……無い。お前の仕事は俺の記憶のバックアップだろ、本人に対して伝える情報を勝手に選別するな。」
『はっ?選別するな?なんだよ、じゃあお前が今日した糞の色でも教えろって?朝の脈拍、食べたご飯、歩いた距離、呼吸の回数、ぜんぶぜんぶぜんぶ………僕は当然覚えてる。覚えられないお前と違って。人間様の欠陥を補ってるのに随分な言い草……』
「……もう、良い。」
『第一、仕事なんてお前に出来るのか?記憶の欠落がどんどん酷くなってるのは良いとしてさ、まず笑顔が下手くそじゃん。ほら、笑ってみ?鏡に向かってさーんはい……』
「いい加減黙れよ!!」
怒鳴り散らした鏡には、しかし不自然なくらいの微笑みが浮かんでいる。
ロムはそれを見て僅かに身体を震わせると、「ROM、眠れ。」と言ってその一切の機能停止を命じた。
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