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『仮にこの腫瘍の拡大が続けば、1年程度で意識不明になる場合もあります。脳の損傷は深刻です。』
自分の異変に気付いたのは半年ほど前。
医者はどこまでもデジタルにそう言い放った。
まず、生活の辻褄が合わなくなった。
それまでのロムの一人暮らしは、多少の波はあっても穏やかで――退屈だった。
時節柄、引く手あまたとはならなかったものの、音響の仕事は大塚の采配のおかげで細々と存在した。少ない収入も自分一人を食わせる分には特に問題無い。金のかかる趣味があるわけでもない。音楽があれば生きていける人種だから。
それにも関わらず、見に覚えの無い出費がある。
慣れない場所での、飲んだ覚えの無いバーの会計。
最初はカードの悪用を疑った。しかしどうやらその形跡も無い。
まさか自分が酔いつぶれて徘徊している?
それも、全く検討違いだった。なぜならロムはあまり酒が強くないから、そんなに酔ったなら必ず二日酔いになる。記録にあるその日付の前後に、二日酔いの疲労感はなかった。
それから、それまであまり好きではなかった携帯のGPSをオンにするようにした。自分がどの道をたどり、どこに行き、どのくらい滞在して家に帰るのか。
自分よりも電子的な情報を頼るなんて考えたくもなかったが、半ばヤケクソだった。
――ウソだろ?
自宅にいると思っていた記憶の日に、自分は確かに出掛けている。
その事実を突き付けられて、ロムは愕然とした。
何が起きてる?一体、何が………
病院に行かなくてはならない。
それだけはわかった。自分の脳みそに何かが起きている。考えたくもない、何かが。
手が震える。記憶が震える。
行きたかった場所、行くはずだった場所、行ってないはずの場所。それが全て、塗りつぶされる夢を見る。
行った、行ってない、行く、行きたい、行きたかった?
………何が、何が本当なんだ?
上京してからまともに行きもしなかったアパート近くのクリニックからは、すぐに大病院への紹介状を書かれた。
"若年性認知症の疑いにつき"
白い巨大なドーナツに吸い込まれるみたいにして受けた検査では、脳みそを輪切りにした白黒画像がデザインコンペよろしく並べられた。
『6年前にバイクで事故をしたということですが、その時にきちんと治療をしましたか?』
……知らねぇ。きちんと治療したか、なんて俺がわかるはずあるか。ただ、安静にして動けるようになったら動いただけだ。
『治療としては、まず脳の中で血管を圧迫している腫瘍を取り去る手術が必要です。それから、記憶減退の進行を抑えるために投薬治療を………』
進行を抑える?治らない?これから、これが良くなることは無いのか?
長々と続く説明の後に、余命最短1年の診断と治療に向けたあまりに絶望的なスケジュールを眺めて、ロムは一言だけ、「ありがとうございました。」と言った。
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