# 2 欠落のはじまり

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 ロムはおしゃべりを止めてだんまりを決め込んだ鏡の前で、本物の自分の顔を眺めながらしばらくそうしていた。  息を吐けば、肩が下がる。そして服の皺がよれて、また息を吸えば姿勢が元に戻る。  何度も何度もそれを繰り返して、ここにまだ生きている。  半年間ROMを使って、もはやロムの生活はROMなしでは成り立たなくなっている。自分の記憶が無くなるタイミングは読めない。漫画の設定のように1日分だけ覚えていられるというような単純なものでもない。  全く忘れない記憶もあれば、何度でも忘れてしまうこともある。とくに人の名前や顔はそれだ。  初期設定から、携帯電話でもROMの機能の一部を使えるようにしている。過去に会ったような素振りを見せる人がいれば、その場ですぐに確認できるように。  ……そうすれば大概のミスは防げる。そうやってやりすごして来たはず。出来ていたはずなんだ。  ――そうだ。  携帯から記録を呼び出す。  "千賀 昌也"  その名前が保存されていることに、ほっと胸を撫で下ろす。 "ライブハウス Tempest 店長"  どこからか検索された本人画像がそれに添付されて表示される。丸縁のサングラス、派手な花柄のスカジャン。間違いない、本人が記録されている。   "20xx年 11月3日 名刺を渡す"  ――良かった。  交流ログの始まりはtempestで仕事をした先日だ。2度目の名刺交換をするようなミスはしていない。ひとまずそのことに安堵する。  恐る恐る情報を下にスクロールする。  同期された腕時計はバイタルデータも記録していて、その時の感情や会話も残されている。それらを総合して、ROMは交流した相手とロムとの関係性を推察して簡単なメモに残す。後からそれを手入力で修正することは可能だが、これまでそれを修正したことはなかった。  "知り合い、大学の頃の会話を交わす"  "4年前のバイト先の友人、挨拶のみ"    ほとんどの情報が、修正するほどの価値の無いものだったから。  しかし、昌也はどうだ?  あの感情の動きが、会話が、……セックスが。記録されたのだとしたら。ROMはそれをどう記載するのだろう?  ロムは期待にも恐怖にも似た気持ちで指を動かした。  "仕事に関する会話をする"  "仕事の態度に関するアドバイスを得る"  ……アドバイス?あれが?  思わずクスリと笑うが、それももはやROMの皮肉なのかもしれないと思うと笑顔は凍った。  "18:23、衝撃により意識途絶"  "20:02、大塚社長と電話"  ……あ。  記録はそこで途切れている。  ……そうだ。  昌也はあの日、腕時計を外した状態でロムをベッドに縛り付けた。その上、電話を終えたロムの携帯の電源を切り、ゴミのように投げ捨てたのだ。 「………はは……。なんだよ。……はは。」  ロムは身体を折り曲げながら、床に両腕を付いて力なく笑った。    に残っていないのに、に仕舞われた情事と想いがある。ROMには知られずに、自分だけが覚えていることが。それがこんなにも、こんなにも嬉しいなんて。  いつの間にかすっかり意味をなくしていた、自分自身の感情を記憶すること。抱えること。  その感覚が呼び起こされるような気がして、湧き上がる情動にロムは嗚咽した。
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