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初めてロムに会ったのは、空気がぬるびた春の頃だった。
その日はいつも通りブッキングのライブが終わって、清掃に入る前のフロアに降りた時だった。
残っているのは撤収前の出演者だけで客はとっくに全員帰ったと思っていたが、防音扉のあたりで一人、やけに存在感のある黒髪の青年がいた。
体格や醸し出す雰囲気はモテる要素を持っているのに、それを隠すように伸びた真っ黒な前髪の間からやけに澄んだ目が覗く。目が合った瞬間、昌也は不思議な予感に震えた。
「あ、ここの店長の方ですか。」
「ああ?」
不意のことに驚いて強めの圧をかけたが、青年はさほど気にもとめずにショルダーバッグをごそごそと探ってから名刺を見せて来た。
「俺、宮下ロムって言います。サウンドギークのエンジニアなんですけど。」
「はあ。」
ロムは名刺を渡すでもなくすぐにまた自分の鞄にしまったので、昌也は思わず気の抜けた返事をしてしまった。
名刺を渡される機会は多くある。でもその多くが、出演者との繋がりを作りたい記者や、出演させたいバンドがいる事務所などだ。
もちろん音響関連の営業を受けることもあるがそれは営業であって、名刺をしまうなんて愚の骨頂だ。大体、サウンドギークは既に取引があって、担当はこの男じゃない。
……何がしたい?
もともと、テンペストがあるあたりはあまり治安が良い地域とは言えない。ビルオーナーだって怪しいもんで、店長になった時から昌也は常に裏社会からそれなりのバランスを強いられていた。だからこそ、意図の読めない相手が一番怖いということを知っている。
昌也は自分のペースを取り戻すためにわざとゆっくりとジャケットの内ポケットに手を伸ばして、ジッポの金属音をカチリと立てながら取り出し、自然を装いながら目を細めた。
しかしそんな威圧感を無視するかのように、ロムはすぱんと要件を言い放った。
「空調、直したほうが良い。」
「………。」
火を点ける前の煙草が口からポロリと落ちそうになる。……なんだって?
「ファンの雑音が酷い。爆音で演奏しているときは誰も気にならないと思うけど、音が止んだ時にノイズに気付く人は気付く。それで興醒めしたら、せっかくの音響を整えてもすべて台無しだ。」
……こいつ。それだけを言うために俺を待ち伏せしてたっていうのか?
「ふ、ふふふ……。」
笑いがこみ上げる。
ちらりと目を覗くが、からかっている様子は無いし、お節介にしては耳が良すぎる。
今日の出演バンドはラウド系が多かったから、その中で空調が気になるだなんて相当の変態だ。
「なんすか。」
「いや、すげえ耳してんなと思って。」
ロムはきょとんとした顔で昌也を見上げ、そして笑った。昌也はそれを見て、思わず声をかけてしまった。
「このあと時間あるなら、つきあえ。」
23時のライブハウスで、ロムは少し悩んでから「うん」と言った。
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