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女は続けた。
「私、あの人の妹なんです。久しぶりに会って、いま期間限定で同居してて。そしたら……その……こういうことがすごくよく起きて。」
こういうこと。
……どういうことだ?
「町中で誰かが、兄に話しかけるんです。でも兄はその人のことを知らなくて。初めは、よく似た人がいるのかもしれないと思いました。東京ならそんなこともあるのかと。でもあまりに回数は多いし、みんなちゃんとロム、って呼ぶんです。でも、本人は、兄は自覚が無い。」
「………。」
「何か、新しい記憶から消えていってるみたいで。過去のことはよく覚えてるし、日常生活もそこまで支障は無いんです。ただ特に人の名前が思い出せなくて……」
頭がクラクラする。そんな冗談を、と言いたいが、半年の待ちぼうけを過ごした痛みが、一気にその事実の重みを突きつけて来た。
そして妹を自称する女の瞳が緑色で、ロムが隠したかったものを意図せず見せられていることも、女の言うことが嘘ではないことを示している。
絞り出した声が、嫌に震える。
「名前だけ?会ったこととかも忘れてんの?」
しかし昌也にしてはあまりに気弱な質問に、女は残酷にもあっさりと肯定した。
「はい。だから……その……。」
女は一度目を伏せて、チラリとカフェの中のロムから昌也を隠すようにして姿勢を直した。
「若年性アルツハイマーとかなんじゃないか、って。その、前にバイクで大事故したことがあって、その後遺症とかがあるのかも。」
「後遺症。」
「……わかりませんけど。私、医者じゃないから。」
やけに道路のうるさい日だな、と思った。
出来事と聴覚が分離して、客観的な出来事と言えば冷めきったアスファルトに自動車の騒音が響いていることくらいだった。
「本人の知らないところで病気のことを伝えるのはタブーだってわかってます。でも、本人に自覚が無いから、私が会えた人にこうやって可能性を伝えるしか出来ないんです。……すみません。」
窓越しにロムの姿を見る。
どうにも興味無さそうに、コーヒーカップを持ち上げて空を見つめている。
「兄に、もう一度確かめに行きますか?」
そう言われて、自分が随分と険しい表情をしていたことに気づく。
確かめる、か。
「……いや、良い。」
しばらく剃っていなかった顎髭を撫でながら女を見る。
「もう、良い。店戻ってくれて構わない。悪かったな。」
少しホッとしたように一礼をして小走りで店に戻る女を見ながら、昌也は携帯を取り出してその番号を探した。
確かめる。
だとしたら一番良い方法がある。
本当に忘れているのか、忘れたふりじゃないのか。身体なら、覚えているのではないか。
………どうしたら思い出すのか。
『はい!サウンドギークの大塚です!』
3度のコール音で、相手は電話に出た。
「……ああ、大塚さん?あんたんとこのエンジニアでさ、一番耳の良い奴に出張整備頼みたいんだけど。」
『ああ、それじゃあ宮下ってやつを寄越しますよ!不器用ですけど耳は良くて………』
「頼むわ。」
最後まで聞かずに、電話を切った。
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