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一瞬、聞き間違いかと思った。
"音響整備の日にケツ決めたくねえ。"
ここ数ヶ月ライブハウスを回って、そんなことを言われた記憶が無い。
"なるべく早く終わらせてもらえますか"
"直すのヒドいとこだけで良いんで"
業界全体が切迫している。そんなのわかってる。だから諦めて来た。音楽が不要不急ではない人種がいることくらいわかる。というか一般はむしろそっちだ。
音楽に身を置いている人間であっても、クオリティよりもビジネスと割り切ってしまう人間は少なくない。
自分にとって大事なものが他人にとっても大事ではないことくらい、理解をしているし諦めている。
それなのに、こんな小さいライブハウスの、こんな胡散臭い男がその言葉を吐くとは。
「ロムー、こっち来い。」
ホールの真ん中より少し後ろに立った昌也が手招きする。
「ここ。この場所で良い。」
「……はい?」
「うちのハコに来る客はみんな、音だけを聴きに来る奴らじゃねぇんだわ。」
横に並んでステージを見上げたロムに、昌也は淡々と話し始めた。
「酒飲みたい奴、ヤる相手探す奴、新しいメンバー物色してる奴、日常に居場所が無い奴。どんなクソみたいな人間もグチャ混ぜにするくらい、うちのハコはバンドのテンションをぶち上げるステージなワケよ。こうやって」
昌也がスタスタと最前列の柵まで歩く。
「特に最前で聴くのはさ、スピーカーから出てくる音だけじゃねえじゃん。マイク通す前のアンプの音、ギター弦の弾ける音、演る奴らの臭い息、汗、踏み鳴らす振動とかさ。全部浴びてさ。それで良いんだよ。それが良い。ぶっちゃけ音響設備なんか、二の次。」
何故かムカつくはずの台詞が、心にすんなり入ってきてしまう。舐めた男の舐めた自慢話なんて。頭ではそう思うのに、感情は完全に持っていかれている。
いつのまにか再び煙草に火を点けた昌也が、ふーっと天井に煙を吐いた。
「だからロム。お前がいま立ってるその位置。その場所で、一番音が良く聴こえるように調整してくれりゃぁ良い。レコード会社のお偉いさんとか、記者が立つ位置だから。」
「……客より偉い人に媚びるんすか。」
「あ?アホお前。」
昌也はまた口角を上げて、ロムの目をサングラス越しにピタリと見据えた。
「演った奴らが売れるために、だろうが。お前んちの会社が今まで相手してたようなアーティストが、最初からデカいハコで演奏してた訳じゃねぇ。みんな、こういう小っせぇとこから成り上がるんだろうがよ。」
わかってる。この男の言うことは、100%合っている。
それなのに、何で俺はこんなに………この男の口から聴くのが嫌なんだ?こんなに、ざわざわするんだ?
「この場所っすね、わかりました。じゃあ作業に……」
目を逸らして背中から作業道具の入ったリュックを下ろした瞬間、肩をぐいと引かれて耳元で煙草の香りが濃くなった。
「頼りにさせてくれよ。クソみてぇな仕事しやがったらインポって呼ぶからな。」
中指を立てながら放たれたその台詞は、先程までとはまるで別の重さを持ってロムの胸を揺らした。
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