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雪乃は右腕や左足、肋骨の骨折と崩落した歩道橋のアスファルトで負った傷などかなりの重傷。なんと5日間意識不明だったらしい。目が覚めた時、両親やら友人やら憔悴した顔で泣いているのを見て、ああ死ななくて良かったなと改めて思った。
やはり老朽化していた歩道橋が崩落したのに巻き込まれ、車に接触したという顛末。赤信号で止まるところだった車はあまりスピードが出ておらず、上手い具合にボンネットの上を転がったので致命的な傷を負わずに済んだという。雪乃の前に落ちた男性は亡くなったことを聞かされた。ただ同じ時間に居合わせるだけの人だったけれど、亡くなったと聞けば思いの外胸が痛んだ。退院したら花を供えて拝みに行ってもいいだろうかとぼんやりと思う。
「まずは体をしっかり治すんだよ」
見舞いに来た人全てにそう言われ、言われなくても動けないよと苦笑い。長期入院になりそうだから会社はクビかなと諦め気分。とりあえず、歩道橋崩落はかなり大きな事件として取り上げられているらしく、マスコミは病院に入らないようにされているとはいえ、責任者の謝罪やお見舞金の手続きやら動けない雪乃の代わりに動いてくれる両親は大変と聞く。寝ていることが最良とわかってはいるが居た堪れなさも日が経てば感じてくる。
3週間が過ぎた頃、意外なことに会社の上司が見舞いに来た。不愛想でいつも顔色が悪い主任がいつもより悪い顔色で虚ろに見下ろしてきて落ち着かない。身を起こそうとしたのを止められてしまったため雪乃はただ横たわったまま様子を窺うことしかできない。沈黙が耐え切れなくなってきたときようやく主任は口を開いた。
「土田さん、君はまた復帰する気はあるだろうか」
意外な言葉に目を瞬かせた。とっくにクビになっていると思っていたからだ。沈黙をどうとったか主任は淡々と話し出した。
「誰よりも在庫の管理が的確で、総合案内の説明も丁寧、郵便発送のミスも少なく、配布間違いもない。土田さんが事故に遭って出社しなくなったら仕事が滞りやすくなった」
「え……」
「縁の下の力持ちだったのだと全員が思い知った。今回の事故は君の過失ではない。会社の総意として君の復帰を望んでいる。体を治してからでいい。完全に回復するまでは配慮もする。だから、考えてもらえないか」
雪乃は「考えてみます」と見舞いと復帰への打診の礼を言った。ただ面倒を避けたい一心の仕事だったのに思わぬ評価を受けて戸惑う。自分には価値があると言われるなんて思いも寄らなかった。思ったより現実の世界にも救いや希望があるのかもしれない。そう思うのは気恥しいが悪い気分ではなかった。
さらに数週間後。病室にパソコンを持ち込めるようになって久しぶりに物語投稿サイトのマイページを見る。数週間前に1通のコメントが入っていた。冷やかしや悪口だったらどうしようとびくびくしながら表示した。
『初めまして、夢野と申します。いつも雪原さんの物語を楽しみに読ませていただいています。催促するつもりじゃないのですが最近投稿が止まっていて心配になりました。物騒な事故もありましたし……。
私は雪原さんの物語が好きです。なんだかホッとして、元気になれるから。どうかまた雪原さんの物語が読めますように』
雪原は雪乃のペンネームだ。雪乃は口元を押さえてうつむいた。口元が緩む。たぶん顔はかなり赤いと思う。うれしい。子どもの頃の夢を唐突に思い出した。たった一人でいい。誰かの大切な物語を書ける人になりたい。
「ああ、もう、物語の続き、書かなきゃ……」
面倒くさそうな言い方と裏腹、雪乃の表情は明るく楽し気だ。雪乃は思う。自分の物語のキャラクターと話したあの夢を見た時、自分は1度死んだんじゃないかと。もう1度生きるために使命をもらったのだ。自分だけしかできないことに気付かされた。
人気者になりたいわけじゃない、稼ぎたいわけじゃない。物語を書くのは楽しいだけじゃない。むしろ苦しかったり、しんどかったりする方が多い。表現しきれなくて自己嫌悪することだってある。だけど、ただ誰か一人でいい。読んでくれる人がいたなら幸せだ。御しきれないキャラクター達の生き様を伝えられたら最高だ。体調に気を付けながら少しずつ、確実に物語を紡ぐ。キーを打ち込む軽快な音がリズミカルに病室に響きだす。雪乃はもう迷わない。籠めるのは誰かへの誓い。――君の物語を紡ごう。
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