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「何、ここ」
気が付くと雪乃はやけにぼやけた空間にいた。強いていえば深い霧の中にいるような視界の悪さ。でも、霧と違って寒さは感じない。自分の体を見下ろす。黒のスラックスに細いストライプの入ったシャツ、ライトグレーのジャケット。A4サイズが入る大きめの黒いバッグ。今朝の出勤時の服装だ。何やら白いモフモフした者の上に座っている。ベッドと呼ぶには小さく、スツールというには何かが違う。
「土原雪乃さん」
真横から声がして雪乃はびくりと身を竦める。いつの間にか3歩ほど離れた場所に空色のフードを目深に被った男が立っていた。雪乃はなぜか既視感を覚えまじまじと相手を見つめていると男は笑ったようだった。けれど続いて発された言葉は物騒なもの。
「あなたにしかできないことは何ですか? なければ死にますが」
「……は?」
何言っているんだこいつ、と思う反面、ここはあの世ってやつかもしれないと雪乃はさほど動揺することなく納得していた。最後の記憶を反芻すればたぶん自分は歩道橋から落ちて、車と接触している。だったらむしろもう死んでいると思っていいんじゃないか。毎日のように死ぬかな? と見下ろしていたけど本当に死ぬことになるなんてなと感慨深さに呆けてしまう。ここまでいっても死ぬのが嫌だとか、悔しいとかそういった感情がまるで出て来ないことにあきれる。
「ない」
「え?」
「私にしかできないことなんてないよ」
「あの、ないと死んでしまいますよ」
「それも仕方ないんじゃない」
「いやいやいや、あっさり諦めすぎですよ!?」
男は死神ではないのだろうか。自分と正反対に動揺する男が少しだけ羨ましい気がする。色々言い募る男を眺めながら雪乃は苦い笑みを浮かべた。自分にしかできないこと、そんなものがあればいいのに。あったらもう少し生きるのを楽しんでいたんじゃないか。
「物書きはどうです!?」
「っ」
呼吸が止まったかと思った。なんでそんなこと知っているんだと叫びかけてあの世の死者ならありかと思いつつも今までで一番動揺したのは確かなようで雪乃は無意識に胸に手を置いた。
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