其の三「あの友人」

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『ある日、増えて溜まっていた部屋の荷物を整理した。本当に気まぐれだった。その時、その子に借りていたはずの物を発掘したんだ。 何でそれを借りたかなんて覚えていないよ。ただ、それには子どもの字で名前が書かれていた。そうだ、あの子の名前だ。唐突に頭の中で蘇ってきた。 その子は姉弟の家の方だった。気が強い姉妹よりも、実は私はその子との方が気が楽だった。 返しに行かないと! 何年も、二十年近くも経っていたのに、急に返しに行かないと。そう強く思ったんだ。何かに呼ばれたのかもしれない。 一体何に呼ばれたのか。そんなの全くわからない。 本当に今さらだったんだよ。それに、返す物も物だった。バケツだよ? なんでそんなものを借りたのか、全く覚えてないし思い出せない。 だから、重要なのは「バケツを」っていうとこじゃないの。「返しに行かないと」って思ったこと。 こうして私は昔住んでいた家に戻った。当時の家はもうそこにはなかったけど。 だけど、そこに立つと蘇ってきた。不思議だよね。 何回何十回も通った道。この道をこっちへ行けば何があった。あっちへ行けばあれがあった。 いろんなものが変わっていた。なくなったものもたくさんあった。増えたものも。 だけどわかるんだよ。思い出すんだ。 あの子の家はこの道をまっすぐ行ったところ。突き当たりにはお稲荷さんの赤い鳥居が見えてくる。そこを道沿いに右へ曲がる。そこには家がいくつか建っている。その中の一つがあの子の家だった。 私は道を歩いた。小さかったあの頃みたいに。今でもそこにいると信じる、年下の友人と会うために。 もしかしたら会えるかもしれない。 覚えていなくても、バケツだけ置いていけばいいや。たかがバケツだ。置いて、押し付けて帰っちゃえばいいや。 渡さなくて、渡せなくて後腐れが残るのだけは嫌だな。後味が悪い。 そうだ。運がよくて、もしあの子に会えたらこう言おう。 「久しぶり。覚えてる?」 そう言って笑うんだ。 私の足どりは軽かった。』 バケツ、ね。 バケツくらい返しに行かなくてもいいんじゃない? たかがバケツだよ? そうじゃなくて、あの子は理由が欲しかったんだ。何年も前に離れた友人。恥ずかしくて会いに行けない。もし相手が自分のことを忘れていたとしたら。 うん、すごく、ショック。 だから、何か理由が欲しかったんだろうね。傘でも本でもペンでも何でもよかった。 思い出の時間と一緒に借りた何かを返すっていう理由で、あの子はもう一度その場所に戻りたかったんだ。 でも、よりによってバケツはないよねえ。 『何度も歩いた道を歩く。 先の方に小さな鳥居が見えてきた。色褪せて、くたびれてしまったお稲荷さんが変わらず座っていた。 何度も何度も往復した道を歩く。 道を曲がればすぐそこだ。いくつも家が見えてくる。 そう、いくつもの家が見えてきた。 人の気配が全くしない住宅地がそこにはあった。 足が止まった。あんなに軽かった足が。 そこは確かに記憶通りの場所だった。でも、誰の声もしなかった。 時間を重ねた建物。カーテンや雨戸が閉まりきった窓。車が一台も入っていない車庫たち。門の柵は鍵がかかっているのかがたがた揺れるだけ。 最後に見たその場所はもっと明るかった。日が当たってあたたかかった。たくさんの声や、音が聞こえていた。 喋り声、笑い声、子どもや妹弟を叱る声、泣きわめく子どもの声。でも、やっぱり多かったのは笑い声。楽しそうに生活する、家族の声。 私の年下の友人たちを含めた住人たちの声が聞こえていた。 聞こえていた、はずだった。 だから、時間が経ってもその場所は変わらない。そう思っていた。 こんな風に変わってしまうなんて、思わなかった。思いたくなかった。 彼らの未来は光輝いて、希望に満ちていたはずだった。それなのに、なんでこんな風になってしまったんだろう。 外側だけはあの日のままで、中身だけが空っぽにされて置いていかれた家たち。 その場所は私の知らないうちに冷めきってしまった。 私は、気がついたらあの子の家の前に立っていた。何度もチャイムを鳴らしに玄関へ立ったあの家。 他の家と同じように閉じられ、物音すらしないあの家。とても、冷えていた。 だけど、なんでだろう。 その家だけ、なにかの気配がした。 私はしばらくそこに立ち続けた。 あの子は、あの子たちはどこにいるんだろう。そう、ぼんやりと考えながら。 どれくらい時間が経ったのか、私はやっとそこから帰ろう思った。そこにいても何も変わらないから。何もわからないから。 ただ、どうしてもバケツだけは置いていこうと思った。だから私は記憶を頼りに、家の裏手へと回った。そこには水道があった。多分水ももう出ないだろう水道の蛇口に、私はバケツを引っ掛けた。 さよなら。 私は心の中で言った。楽しかった思い出に、別れを告げた。 自分の唇が乾いて、頭が冷えていくのがわかった。 全部終わったんだ。きっと望んだ通りの、後腐れのない終わり方だよ。 そう思おうとした。でもやっぱり寂しくて、私はまたしばらくそこから動けなくなった。 どんな顔で私はあの子の家を見ていたんだろうね。 不意に、後ろから声が投げ掛けられた。それも私を更に突き落とすような言葉が。 「そこの家の人は亡くなりましたよ」 私ははっとして振り向いた。誰かいるなんて。 背後に立っていたのは一人のお婆さんだった。いや、お婆さん、と言っていいのか迷ってしまう。 彼女は短い白髪で、背がひょろりと伸びていた。がりがりに痩せていて、手には皺がたくさんあった。 私がお婆さんと言いにくいのは彼女の雰囲気からだった。 腰が曲がるなんて無縁の真っ直ぐ伸びた背筋。ほとんど傷んでいないだろう白い髪。なんと言ってもギラギラとした目。 私の中にある「お婆さん」のイメージから彼女は遠かったんだ。 それから、彼女の言ったことがじわり、じわり、と、頭に、脳に、染み込んできた。 なくなった だれが あのこが あのこたちが あの、かぞくが なんで いつ どうして 私は固まった。言葉が染み込んだ脳は理解しようと動き出す。だけど変な甲高い音がして、頭と胸が痛くなる。 もう、あの人たちは、どこにも、いない。 息苦しくなった。息が吸えない。息が、吐けない。 それでも、やっと吐けた言葉に意味はなかった。 「なんで」 私は彼女を見た。たくさん言いたいことも聞きたいこともあった。でも、ひとつだって伝えることはできない。 ここはどうしたんですか? あの家族たちはどうしたんですか? 頭がぐちゃぐちゃして、うまく動かせない。 彼女はそんな私に問いかけた。 「貴女はどうしてここに」 私は淡々と過去を語った。昔一緒に遊んだ友人たちのことを。そのうち頭に冷静さが戻ってきた。それと一緒にやって来たのは、悲しいという感情だった。 ここはああいう場所だった。ああいう人たちがいたはずだった。それなのに、どうして。 私は彼女を見た。見たこともない人だった。 私の聞きたいことが伝わったのか、彼女は顔を家の隣に向けてこう言った。 「私はそこに住んでいます」 彼女は、あの子の家の隣に住む住人だった。見たこともない人だった。 彼女の家の玄関へ続く数段しかない階段に座って、私は話を聞いた。そこからは蛇口に引っ掛かったバケツが見えた。 彼女の話は、私が中学生になって引っ越してからの続きの昔話だった。 「ここらはもともと分譲地として整備され、家が建てられ、そして売却されていったのよ」 知っている。そのうちの一つにあの子たちも住んでいた。 「みんな普通に生活していたわ」 それも知っている。だって、私たちはあの日までは笑って一緒に遊んでいたんだから。 「でも、いつからか変なことが起こるようになった」 変なこと? 「扉が突然閉まったり。棚から物が次々と落ちたり。真夜中に家族のものじゃない悲鳴が家の中だけに聞こえたり。庭に動物の死骸がおかれていたり」 それは、怪奇現象、っていうんじゃ。 「家だけ残して人は次々と出ていった。だから、今は空き家だけが残ってるの」 だから誰もいないのか。引っ越したなら、そうなるよね。引っ越したなら。 「ただ、隣のあの家」 あの子と、弟と、その両親であるおばさんとおじさんの四人が住んでいた、あの家。 「あの家に住んでいた家族だけは家を出れなかった」 出れな、かった? 「まず子どもがいなくなった。姉と弟が行方不明になった。私たちも探すのを手伝ったけど、見つからなかった」 いなくなった。 「次に父親がいなくなった。警察に届けたけど、結果は変わらなかった」 一度だけ見たことのある、おじさん。 「最後に、母親がいなくなった。毎日、一人で泣いていたわ」 遊びに行くといつも笑ってあの子を呼んでいた、おばさん。 いなく、なった。 みんないなくなってしまった。 どこに?! いつ?! 一体どうして!! 私は思い出した。 引っ越した後、一度だけあの子の母親と偶然会ったことを。 あの人は笑っていたはずだった。私のことに気付いて声をかけてくれたんだ。何年も前の、娘と息子の遊び仲間。たったそれだけなのに覚えていてくれた。 「今はどう?」 私の今を心配して、様子を聞いてくれた。 私はそれがすごく嬉しかったんだ。 それなのに。 ああ、でも。最後におばさんとこの近くで会ったとき、一人だったな。それに、おばさん、子どもたちのこと、一言も、私に話さなかった。 もしも。あの時点で既にあの子たちがいなくなってしまっていたら。 私はすっと血の気が引いていくのがわかった。 あの家族は一体どこへ。』 引っ越しじゃないの? 何処か遠くで狐の泣き声が聴こえる。
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