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1 連れ去られた婚約者
大陸の南の端。
そこに、三方を大洋に面したセイデリアという名の王国がある。
王国の北東は隣国ダンシェルド王国に国境を接しており、両国の間には深い森が東西に横たわる。
自然豊かで温暖な気候のセイデリアの民は、争いを好まない穏やかな国民性で知られている。
海に近い国というのは、心も広くなるものだろうか。
僕が生まれてからも、そして生まれる前も、この国は他国と争ったことなど一度もない。まるで、平和のかたまりのような場所だ。
自己紹介が遅れた。
僕はこのセイデリア王国の王子、フェリクス・セイデリア。
少し年の離れた兄のアンドリューがこの国の王太子をやっていて、僕はお気楽な第二王子という立場だ。
年が離れている分、僕が物心ついた時には既に兄は王太子としてバッチリ教育を受けていた。
誰もが認める唯一のセイデリア王太子アンドリューは、将来王位を継ぐ存在として国中から愛されている。
一方、第二王子の僕の方は、特に何も期待されずのびのびと育った。もちろん、「期待されていない」っていうのは、良い方の意味でね。
実は、そんなお気楽のんびり第二王子の僕には、可愛い可愛い婚約者がいる。
彼女の名前はエステル・ダンシェルド。隣国ダンシェルド王国の王女だ。僕が十四歳、エステルが十二歳の時に婚約した。
我がセイデリア王国とダンシェルド王国との国境にある森はとても深くて、両国を行き来しようと思うとかなりの日数がかかる。未来のセイデリア王子妃としての教育のためという名目で、エステルは僕との婚約が成立するとすぐに、セイデリア王国で一緒に暮らすことになった。
――実は、僕がワガママを言ったんだ。
二歳年下のエステルはとっても素直で愛らしく、僕にとってはかけがえのない存在。
馬を飛ばしても何日もかかるダンシェルドに住んでいては、会いたい時にすぐに会えない。エステルと片時も離れたくなかった僕にとって、その距離は耐えられないほど遠かった。
長い栗色の髪に、まんまるの大きな目。
ダンシェルド王国には美女が多いと言われているけれど、エステルもその例にもれず、たった十二歳でこの美しさだ。
年の割に随分大人びて見えるのに、話すとのんびりしていてとても穏やかな性格。
僕の他愛もない話も一生懸命聞いてくれて、ほわっと花が咲いたような優しい笑顔で応えてくれる。
こういう穏やかなところが、平和を好むセイデリアの国民にも広く受け入れられると思うんだ。我ながら、良い婚約者を選んだと思ってる。
少しおっちょこちょいなところも彼女のチャーミングポイントだ。すぐに道に迷うし、物は失くす。思い込みも激しい不器用さんで、僕が近くにいて守ってあげなければと思わせる。
それが僕の愛する婚約者、エステル・ダンシェルドだった。
彼女が愛おしすぎて、早くエステルが十八歳にならないかと毎日待ち遠しかった。彼女が十八になれば、結婚できるから。
周りからは「今から結婚のことばかり考えて気が早い」なんて色々言われたけれど、周りの意見なんて関係ない。
誰が何と言おうと、僕はエステルと結婚して彼女を幸せにすると決めていた。僕の頭の中はいつもエステルでいっぱいだった。
乗馬の練習もかねて、ダンシェルドとの国境にある森の近くまで遠乗りするのが、僕たちの休日の過ごし方の定番。森の手前には広大な菜の花畑があって、そこに敷物を敷いてランチをするところまでがお約束だ。
ちょうどこの日もいつものように、エステルと僕は何人かの従者や護衛騎士を連れて、菜の花畑にやって来ていた。
雲一つない、良く晴れた日のことだった。
「エステル、僕が君とずっと一緒にいたいとワガママを言ったから、家族と離れ離れにさせてしまった。本当にごめんね」
「フェリクス様、何を仰るのですか! 私はダンシェルドを出て両親とは遠く離れてしまいましたが、フェリクス様が私の家族なので、全く寂しくありませんよ」
エステルは先ほどまで頬張っていたサンドイッチを食べるのを忘れてしまうくらい真剣な表情で、僕に向かって返事をする。
力の入った両手につぶされそうになっているサンドイッチを僕が笑いながら指差すと、エステルは驚いた顔をして、もう一度サンドイッチを口にした。
エステルはいつもこんな感じで、僕のために一生懸命になってくれる。僕もそんなエステルの気持ちに応えたい。絶対にエステルを幸せにするんだ。
食事のあと、僕たちは広大な菜の花畑でかくれんぼをして遊んだ。
腰くらいの高さまで伸びて、今を盛りと咲き誇る菜の花に隠れてしまったのか、ふと気付くとエステルの姿が見えなくなっていた。
春のそよ風に吹かれる菜の花畑の中をかき分けながら、僕は必死にエステルの栗色の髪を探す。
目の前に広がるのはいつもと何ら変わらない光景なのに、なぜだか僕の心の中には不安の波が押し寄せていた。
そしてこの後、その不安が的中することになる。
◇
しばらくエステルを探したが、一向に見つからない。
太陽の光の眩しさに目を細めて遠くの方を見ると、僕たちが乗ってきた馬をつないである方向で、騒いでいる従者たちが目に入った。
(なんだろう……みんな血相を変えて大騒ぎして……)
彼らが何を話しているのか遠くて聞き取れなかったのだが、何らかの事件が起こったのだろうということは分かった。
(……エステルは大丈夫かな? 早く探さないと心配だ)
不安な気持ちを抱えたまま、もう一度菜の花畑に視線を戻す。
すると随分と遠くの方で、菜の花の間からひょこっとエステルが顔を出したのが見えた。
エステルの無事な姿を確認してホッとしたのも束の間。
エステルと共にダンシェルド王国からセイデリアに来ていた護衛騎士のイルバートが、突然エステルを横抱きにして僕たちとは反対側に向かって走り始める。
「イルバートどうした! どこへ行くんだ!」
イルバートはとても焦った様子でエステルを近くの馬に乗せ、そのまま同じ馬にまたがった。突然のことに訳が分からないと言った表情のエステルが僕の方を見るが、イルバートはそんなことには構わずに馬を森の方向に走らせ始めた。
「……エステル!!!」
僕の渾身の叫びも空しく、エステルをのせたイルバートの馬は、あっと言う間に森の奥深くに向かって消えて行ってしまった。
◇
後から聞いた話だが、どうやら僕たちが花畑で遊んでいる時、セイデリアとダンシェルドの国境付近で両国の兵士の小競り合いが起こったらしい。ダンシェルドの兵がちょっとしたケンカからセイデリアの兵に剣を向けてしまい、そこから両国の戦闘に発展。
『エステルをセイデリアの人質に取られる前にダンシェルドに連れ戻せ』
そんな指示がイルバートの元に届いたと、イルバートの近くにいた従者が教えてくれた。
この時まだ十四歳だった僕は、この突然の出来事に手も足も出なかった。
いや、手も足もでなかったのは僕だけじゃない。
平和ボケしたセイデリアの人たちは慌てふためくばかりで、目の前でエステルが連れ去られるのを指をくわえて見ていたんだ。
僕はこうして、大切に想っていた婚約者のエステルをほんの一瞬の間に奪われてしまったのだった。
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