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こうなってしまっては、辰彦にできることは何もない。ただそう問うことは許されよう、と辰彦が問いかければ、恵眞は「よいのだ」とにっこり笑った。
「新しい生を受けたなら、この生命を全うせねばならん。冥府は死した者の行く場所じゃ。妾の在るべき場所ではないのよ」
それが、かつて此岸に生き、初めて死した存在である閻魔王へ捧ぐ、変わらぬ思慕の証であると、恵眞はいつもの調子で告げた。そこに迷いはないように見えた。
それにな、と恵眞はどこかいたずらを働いた童のような笑みを見せた。
「辰彦。お前のことも気に入っておるのだ。官吏として働くなれば、妾が色々と教えてやろうぞ」
自信に満ちたその言葉に、辰彦はいささか表情もやわらかく肩の力を抜き、けっと毒づいた。
「此岸のことは知らないことばかりのくせに。お前がおかしなことをしないように、オレがちゃーんと教えてやるよ」
「なにおぅ⁉ 妾のどこが物知らずというか! 礼儀を知らぬ小童め!」
そうふたりの言い争う声がこだまする中、火車は此岸へ向けてと空を駆けていった。
*****
「よろしかったのですか?」と女官が閻魔王へと尋ねた。書き物を続ける閻魔王はその問いに「何がだろうか」ととぼけて返す。
此岸で付喪神として命を得た恵眞は、彼岸では神気が得られず程なくして命を落とす。けれど、元は冥府で作られた閻魔帳だ。完全に此岸だけで生きられるわけでもない。だからこそ、此岸と彼岸を行き来する官吏の職を与え、此岸へひとまず追いやるしかなかった。その事情を恵眞は理解していない。
いいんだ、と閻魔王は一言告げた。その表情は、恵眞や辰彦がいたときよりもいささか穏やかなもの。
次にまた相まみえる時が楽しみになるだけだから。閻魔王はそう、彼らの道行きを祝いだ。
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