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5月。晴天。
神奈川県鎌倉市某所。
風光明媚なこの地のとある小高い丘に、いつ誰が設置したのかわからない、ひとつの白いベンチがあった。
白いベンチからの見晴らしは素晴らしかった。頭上の空は大きく、眼下には街並みと、その先に青々とした海が広がっていた。夜になれば星々のきらめきと夜景が昼間とは別の美しさを見せてくれる。
ここは鎌倉でもちょっとした名所になっていて、テレビに出たり、映画や小説の舞台になったりもしている。恋愛ドラマで使われていた時期は、
『両想いの白いベンチ』
とか身も蓋もないあだ名が付けられたこともあった。
今は『みはらしの丘の白いベンチ』と無難な名前で呼ばれている。
さて、そんな白いベンチに本日座っているのはひと組の男女。午前の清々しい風と空気がふたりをそっと包んでいる。ふたりの目線は交わることなく、眼下の景色に注がれている。
「あれ、江ノ島ですよね。よく見えますね」
「そうですね。景色素敵ですね」
「いやあ晴れて良かった」
「ほんと、とても気持ちいいですね」
かれこれ1時間、景色の話を続けていた。
「あの船は……」
男性が遠く行き交う船の種類を手元のスマートフォンで調べ始めたあたりで、白いベンチからやや離れた灌木の繁みがガサガサッと揺れた。
白いベンチの男女はそれには気付かず船談義をしている。
「先輩、いつまで続くんでしょうか、これ」
「いいところなのですから、ずっこけたりしてはいけませんよ、ペルル。よく見ておくのです」
「好きなら好きって早く言えばいいのにって思います」
「なかなかハッキリできないからこそ、我々が必要なのですよ」
「乗り移って告白するとかですか」
「そんな野暮な。告白する瞬間、それを受け取る瞬間こそ尊いのです」
ひとりが――先輩と呼ばれた方が繁みから出た。透き通るような真っ白な髪と肌、真っ白な服装、腰には銀の細剣を佩いている。長身ではあるがほっそりとした肢体、華奢な体型をしていた。降り注ぐ太陽に照らされたその姿は、眩い白銀の輝きそのものであった。
続いてもうひとり、ペルルも繁みから出て来た。先輩に並ぶ。背丈は先輩より頭ひとつ分くらい低い。同じく真っ白い服装と細剣を帯びていた。こちらも線が細く繊細な体つきをしていた。髪は光り輝くブロンドヘア。
ふたりとも、陽光のきらめきに紛れて消えてしまいそうなほど眩かった。その姿は正に――
「あたたかく見守るのです」
先輩は、男性側の白いベンチにもたれかかり、じっと男性を見つめた。
「見守るだけですか」
ペルルは見るともなしに男性の手元のスマートフォンを覗いた。充電が90%だった。
「気持ちは伝わりますよ」
先輩が男性の肩に手を置くが、男性は気付かない。
先輩はそんな男性の横顔に微笑みかけ、耳元に唇を寄せ、囁く。
「大丈夫ですよ。いつでも我々はあなたの味方です」
存在に気付かぬとはいえ、ふたりの距離の近さにペルルはなんだかドキドキした。
スマートフォンの充電が89%になった。
ふと、男性が船談義をやめ、意を決した表情で女性を見つめた。女性もはっとした表情で男性を見つめ、その言葉を待つ。
「小田さん!」
「は、はい!」
「あの……」
言葉が途切れた。ぐっとペルルたちの身体に力が入る。固唾を呑んで見守る。
「……」
「……」
「がんばれ」
思わずペルルの口から言葉が漏れた。すると、男性は女性の手を取り、
「小田さん、僕はあなたのことが好きです。よろしければ、僕と、お、お、お付き合いしてください!!」
女性の表情がぱあっと輝き、
「はい! 喜んで! 私も朝井さんのことが大好きです!!」
即答であった。
男性がガッツポーズをした。
「やったー!!」
ペルルも両手を上げて喜んだ。瞬間、ラッパの音があたりに鳴り響き、たくさんの花びらが舞い散り、足もとでは色とりどりの花々が咲き乱れた。
「え!?」
驚いてあたりを見回すと、花籠を腕に提げた先輩が、籠に盛られた花びらを振りまいていた。ミニサイズの可愛らしい天使がラッパを吹きながら、男女の頭の上をぐるぐると旋回していた。
「先輩!?」
「演出です」
先輩が指をパチンと鳴らすと、すべてが消えた。
「……」
ペルルは動揺した気を取り直し、
「よかったですね! これで、ええと、次は育むターンですね!」
ペルルの言葉に先輩は頷き、
「そうです。我々――天使とは、大いなる神の御心に従い、人々のあらゆる物事に対して」
言いながら、指を順番に立て、
「1、種をまき。2、芽生えれば育み。3、花を咲かせる。のです」
「今回は恋愛だったから、育むのはふたりの愛で、花は結婚かな」
「そうです。さすがわたしの後輩ですね」
満足そうに微笑むと、ペルルの頭を優しく撫でた。
その手の温かさにペルルの心は安心で満たされた。
ペルルと先輩、ふたりが出会ったのは、およそひと月前――
♢♢♢
見習い天使は、先輩天使と一緒に天界から地上に降り、天使の役割を学ぶ。
初対面の日、見習い天使ペルル・ドールは緊張していた。
「よ、よろしくお願いします!」
「よろしく、ペルル」
先輩天使が微笑んだ。
その眩しさにペルルは目を細めた。
(うわあああ、なんて綺麗ーー!!)
ペルルとマッチングされた先輩は、天界において指折りの美しい容貌を持つ天使であったから。
(仕事はもちろんだけど、先輩の美しさも学べたらいいなあ)
「どうかしましたか?」
ペルルは思わず拝んでいたのだ。
「あ、ええと、アハハ!」
合わせた手をほどいて頭をかいた。
「ふふふ、仲良くしてくださいね」
「は、はい!!」
そんなこんなで、ペルルと先輩は、ひと月ほど前に地上に降りて来た。
見る物すべて珍しく、きょろきょろするペルルに先輩が、
「これを」
綺麗な装飾のほどこされた銀の弓矢を渡してきた。ペルルは先輩に言われるがまま、綺麗な弓矢を空に向け、矢を放った。すると矢は自ら向きを変え、空を飛び、とある男性に刺さったのである。
矢を追いかけて来たふたりの前に現れたのは、中堅メーカーに勤めて2年目の男性。机に座ってパソコンに向かっていて、なんだかくたびれていた。
「これを」
先輩がペルルに綺麗な装飾のほどこされた銀の小物入れを渡してきた。開けると、きらきらと輝く宝石のような細かな粒がたくさん入っていた。
「人生、仕事、恋愛、趣味、才能、等々あらゆる可能性の種です。さあ」
うながされ、ペルルはきらめく可能性の種を男性に振りまいた。
「お疲れ様です!」
「お先に失礼します!」
ちょうど終業時刻、新入社員たちが帰宅をはじめた。まだ帰れない男性は、ひょいと顔をあげて挨拶に答えようとして、新入社員のひとりとバチっと目が合った。バチバチッと電撃が部屋を駆け抜けた。
「ひゃっ」
電撃を避けてペルルは体をかがめた。
「稲妻が走りましたね」
先輩は冷静に状況を呟いてから、
「芽生えたのは、恋愛の種でしたね!」
うきうきと、楽しそうに言った。
男性と、女性との出会いであった。
♢♢♢
話は『みはらしの丘の白いベンチ』に戻る。
「食事に行きませんか! ランチが人気の店を予約してあります!」
「わあ、うれしいです! 実はとてもお腹が空きました!」
男性と女性は、恥ずかしげではあるが、見つめ合って言葉を交わす。もう眼下の景色も海も船も視界にはなかった。
やがてふたりは白いベンチから立ち上がり、ぎこちなく手を繋いで、丘を降りていく。ペルルはニコニコしながら手を振った。
「よかったー! いってらっしゃーい! さてさて花が咲くのはいつかな! ね、先輩!」
言って、隣に立つ先輩を見上げるが、はてさて、真顔であった。
「先輩?」
「まだです」
「え」
「光あれば影があります。我々天使の役割が種をまき、芽を育み、花を咲かせるのならば――」
言いながら険しくなる視線の先、初々しいカップルの行く手に黒い影があった。
「あれは?」
黒い影は、黒い髪に真っ黒な服装の、
「――悪魔は芽や花を刈り取り、破壊し、無に帰すのです」
「悪魔!?」
ペルルは目の当たりにしたのは初めてだった。
先輩はペルルの肩にそっと手を置き、
「ペルル、あなたはここにいてくださいね」
言うやいなや、一足飛びで悪魔を目指す。同時に腰に佩いた銀の細剣を抜き放つと、呼応するように背中に大きな白い翼が生えた。
男女はなにも気付かぬまま、手を繋ぎ悪魔のもとへ歩む。
悪魔が腕を振り上げると、その背中に黒い翼が広がった。あたかも巨大な闇が広がったよう。その腕には巨大な鎌が握られ、今まさに男女の首を、命を、芽を刈り取らんと振り下ろされた。ニタリ、と悪魔の顔が恍惚に歪む。
その瞬間、先輩が悪魔と男女の間に身を滑り込ませ、駆け付けた勢いのまま、剣で鎌を弾き返した。細剣はいつの間にか巨大な剣へ姿を変えていた。
悪魔がたたらを踏む。先輩は翼をひと煽ぎし、悪魔を後方へ吹き飛ばした。男女から距離を取らせたのだ。
華奢な体からは想像のできないパワーであった。
(先輩、戦ってる、すごい。わたしは……わたしは……)
ここにいろと言われたが、ペルルはいてもたってもいられない。戦い方はわからない。でもいつでも飛び出していけるよう腰の細剣の柄をぎゅうと握りしめていた。噴き出した汗で柄を握る手がすべった。
「ペルル、人事を尽くして天命を待つ、とはこのことです!」
突然、先輩が叫んだ。態勢を立て直そうとする悪魔に斬り込みつつ、である。
「は、はい!?」
そんなタイミングで話し掛けられるとは思っていなかったペルルはすっとんきょうな声を上げた。
「悪魔が勝てば人は失敗し、我々が勝てば未来へ進めます!」
晴天の太陽の下、みはらしの丘に白と黒の羽が乱れ飛び、剣と鎌が打ち合わされる金属音が響く。
悪魔にその首を狙われ、天使に守られるも、露知らず睦まじく丘を歩く人間の男女。
「もちろん我々が導く天命は勝利、未来への道です!!」
先輩の剣が一閃。腕ごと悪魔の鎌を斬り落とした。
敗北を悟ったのか、悪魔は地団駄を踏むと、空気に溶けるように消えた。落ちた腕と鎌もほどなく消えた。
「ふう」
ひと息つき、巨大な剣を一振りすると、もとの細剣に戻った。
天晴れ、天使の勝利であった。
「先輩ー!!!」
ペルルは叫びながら駆け寄った。感情がなにやら高ぶって、わけも分からず涙が出てきた。
勝ったことは嬉しい。でもなによりも先輩が無事なことが嬉しくて、ほっとして、たまらなかった。
「ペルル、道理がわかったところで、これからは見守りだけでなく、戦いの練習もしましょうね」
先輩が優雅に剣を納めながら、微笑んだ。
「はい!」
こうして、男性と女性は仲良く手を繋ぎながら丘を降り、ランチが人気の店を目指して、鎌倉の繁華街に続く道を進んで行った。
「では、人気のお店とやらについて行きますよ!」
「えっ」
やにわに先輩がうきうきし始め、胸もとから小さめのタブレットを取り出した。画面を操作して、開いたWebページをペルルに見せてきた。
『鎌倉ふぁんまっぷ』
「これ、わたしが作ったサイトですけど、結構人気なんですよ」
くるくると色々なページを見せてきた。食事処と題されたページには、食事のできる店の名前が写真や特色とともにずらっと並んでいた。
「新しいお店が追加できるかもしれません!」
心から楽しそうに、破顔した。
「せっかく鎌倉という賑やかな街にいるのですから、楽しまなくては!!」
先輩は鎌倉地区を管轄する天使であった。
「はい!!」
ペルルもつられて思い切り笑顔になった。目もとに残っていた涙がぽろりと落ちた。まるで真珠のように美しく輝く光の珠。
そんなペルルを見て、
(初めて会った時から、なんてキュートな見習い天使でしょう。わたしの可愛い後輩ペルル・ドール)
とか先輩が思っているかどうかは、また別のお話。
――終わり。
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