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80日目
「打掛けの次は、簪か?」
「うう……」
恥ずかしそうに俯きながらも、差し出してきた桐の箱は目の前に置かれたまま。美しい鼈甲で作られた簪は、毎日贈られた結果これで十本目になった。
島原の太夫かと思うほど、たくさんの
簪だ。おまけに俺は太夫ほど髪が長い訳では無い。高島田は結わないし、髷もない。だから簪は一つ二つを適当につけていただけなのに。
「自分以外の人が贈った簪はつけて欲しくない?」
「……うん」
「なるほどねぇ」
確かにこれだけあれば、今まで使っていたものは棚の奥に仕舞われるだろう。緩く結っただけの髪ならば、十本全て使う必要も無い。
周のやつ。見た目によらずなかなかの独占欲だ。
「本当は、一つだけのつもりだったんだ。でも見ているとどれも君に似合いそうで……選べなかった」
「わかった。分かったからそう情けない顔をするな」
やっていることは、他の誰とも比べられないほど豪胆だというのに。当の本人がこんな有様だなんて。
もしも耳としっぽがついていたら、きっとぺたんと垂れているだろう。
「打掛けの時も言ったが、嬉しいよ。本当に」
「それならいいんだ」
「わざわざ俺のために、寝る間を惜しんで買ってきてくれたんだろう? 目の下にクマをつくるほど」
「それは……まあ、うん」
嘘をつけない性格だということはもう知っていた。だから、もしやと思って鎌をかけたらどうやら本当だったようだ。
「心遣いは嬉しいが、貴方が体調を崩したら意味ないだろう。ここに通うのだって金はいるんだし」
「面目ない……最近、少し仕事が忙しくなってね」
そういえば、周がどんな仕事をしているか聞いたことがなかった。少なくともかなり稼いでいるのは事実だし、時間に融通が効きそうなところを見ると自分で店をやっているのかもしれない。
眠たそうに瞬きをする様子を見て、自分に何かできないだろうかと考えた。以前だったら「俺はただの蔭間なのに」と思っていただろうが、最近はもうすっかり諦めた。これだけ長い時間を共に過ごし、それなりに色々してきた仲だ。「ただの蔭間」と割り切るにはあまりにも踏み込みすぎていた。
「どんな仕事か聞いてもいいか?」
「貿易商だよ。海外の商品を仕入れているんだ」
「ああ、だから」
俺の機嫌を取るために毎日持ってきていた菓子の中に、洋菓子が必ず含まれていたのか。最近になって街で見かけることの多くなったとはいえ、俺たち庶民には手に入れられないほど高価だと聞く。それほど希少なものを、仕事で携わっているとはいえ毎日贈ってくれていたなんて。
改めて、周の優しさに驚かされる。
「商品の仕分けはずっと弟に任せていたんだ。でも最近、他のことにかかりきりでね。私が全部している」
「二人だけでしているのか」
「そうだよ。実家を出て、何かしないと生きていけなかったからね。とりあえずやってみよう、と手探りで始めたら幸運にも上手くいったんだ」
それは、あまりにも幸運すぎるだろう。しかし、欧米の文化が急速に入ってきて、多くの人に求められる中で、貿易というのは必要な仕事になるだろう。そこに目をつけたのは先見の明があったと言えるし、弟と二人で行っているのも手間や煩わしさなど気にせず、自由に動けるのだろう。
しかし、二人だからこそ苦労もある。今がまさにそれなんだろう。
「少し寝るか? 布団を出すぞ」
「そうだね……本当は、もっと話したかったんだけど」
「無理するな。明日もあるんだから」
その言葉を聞いて、周は少しだけ笑って「横にならせてもらうよ」と言った。きっと、嬉しかったんだろう。俺が「明日」と言ったから。明日、本当に周は来るだろうか。以前はそうやって不安になることもあった。でも今はそれが「当たり前」になった。周と過ごすことが、明日も会えることが、俺たちにとっての当たり前になったのだ。
周は今でも嬉しそうに笑うし、それを見ると俺も嬉しくなる。二人で過ごすことが当たり前になった生活は、蔭間とその客にしてみればおかしいのかもしれない。でも俺たちに取っては、自然なことなのだ。そして、俺に取っては。
(嬉しい……すごく)
幸せだと、心の底から思えた。
いつの間にか周専用になった布団と夜着を用意しながら、緩み切ってしまった口元に力を込める努力をする。こんな間抜けな顔を見られたくない。それに、まずは周を寝かせる方が先だ。
雲雀に貰った疲れの取れるお茶もあったはず。香りがよくて、ぐっすり眠れるのだとか。
「周、着替えたらお茶でも飲むか」
「淹れてくれるの?」
「貰い物だがな」
帯を解く音がしたので、背中を向けてお湯を沸かす。今更何を恥ずかしがっているのかと自分でも思うが、こればかりはしょうがない。恥ずかしいものは恥ずかしいし、気まずいものは気まずい。こんなにも長く一緒に過ごしているのに体を重ねたことがないのだから。しょうがないのだ。
湯のみにほどよい温さのお茶を注ぐ。ふわりと華やかな香りがした。布団の傍で座っている周に差し出すと、ほう、と一息ついて口に含む。やっぱり所作が美しい。こんな些細なことにさえ目が奪われてしまう。
「それを飲んだら横になれ。きっとよく眠れるはずだ」
「うん……でも、君は?」
「そうだなぁ」
周が通い始めるまで、誰も訪れないこの部屋で何をしていただろうか。適当に本を読んだり、苦手ながらも三味線を弾いてみたり。そんなことをしながら時間を潰していたような気がする。
しかし今は、何をしたらいいか分からなかった。
「もし、何もすることがないのなら、一緒に寝る?」
「それは……質問?」
「うん。そうだね」
そういえば前も似たような会話をしたな。その時も、ふらふらと甘い誘いに乗ってしまったような気がする。しかも今は、周の隣で眠る心地良さを知ってしまっている。
尚のこと断る理由なんて存在しなかった。
「それで貴方が、よく眠れるのなら」
「だったら大歓迎だ」
空になった湯呑みを受け取る。片付けは後にするとして、一人分の布団に向かう。ごろりと横になった途端、周はまた深いため息をついた。
「本当に疲れているんだな」
「そうだね……少し、無理をしたとは思うよ」
もう半分以上目は閉じられているし、口調はふわふわしていた。それでも何故か俺の腰に腕を回し、ぎゅうと抱きしめてくる。これで安心するのなら、別にいいけれども。
なんだか身体中がソワソワした。
「夜鷹、君も寝るのなら、簪を外した方が」
「え、ああ。そうだな」
「動かないで」
そんなこと、自分でも出来るはずなのに。なぜだか髪に伸ばされる手を拒めなかった。むしろそうして欲しいとさえ思ってしまう。
髪に差していた簪を、ゆっくりと抜かれ。
まとめていた髪が、はらりとほどけ。
「あ、まね」
吐息が重なり合う距離で、お互いの視線が交わった。
「あ……」
どちらのものか分からない声が、合図だった。
視界が琥珀色に染まる。鼻先には、もうすっかり嗅ぎなれた白檀の香りがあった。唇が、柔らかいもので塞がれている。それが、周の唇だということに気づいた時にはもうすでに思考が停止していた。
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