約束

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聞きなれない言語が飛び交う夜の港。 男たちは闇夜に紛れ、大小様々な積み荷を運び込む。 甲板に立った男は狂ったように男達を急き立て、その周りの男もまた怒号を響かせた。 どうやら作業が遅れているらしい。 私は軽く眉間に皺を寄せ、後ろ手に縛られた腕を振り返る。 「こんな頑丈にしなくたって、逃げやしないっての。」 必要以上に固く縛られた縄からは、蛇のようにとぐろを巻いた嫌な感情が感じられた。 「メアリー大丈夫?」 私は同じように捕らわれた格好の友に囁きかけた。 彼女はチラリと振り返ると、海のように青い瞳を数回瞬くと小さく微笑んだ。 その瞬間、怒号と共にメアリーの身体が吹き飛んだ。 弾かれた華奢な身体は積み荷をなぎ倒し、衝撃音と叱責の声が辺りに響き渡った。 「バカヤロ!お前なんてことを…!お、おい大丈夫かよ。」 慌てて駆けつけた男は恐る恐るメアリーに近寄ると、真っ青な顔で尋ねた。 彼女は横向きに倒された身体をゆっくりと持ち上げると、何事もなかったかのように微笑んだ。 その顔は…月の光を浴び、口の端から滴る血と相まって、この世の者とは思えない程美しかった。 「メアリー、ルイス。お喜びなさい。 神の祝福により、あなた達を迎え入れたいとのご要望がありました。」 ある日の昼下がり、私達は優しく微笑んだマルト神父に呼び出された。 「本当ですか!やったー!神父様、ルイスは?ルイスも一緒ですよね?」 歓声を上げたメアリーは飛び上がって喜び、傍らに立つ私にきつく抱き着いた。 「もちろんだとも。先方も是非にと、そうおっしゃっていた。」 神父は薄らと涙の浮かんだ目元を和らげ、私達を強く抱きしめた。 「…元気で頑張りなさい。もしつらい事があったら、いつでも戻って来ていいんだよ。」 メアリーはコクコクと頷き、耐えきれずに嗚咽をもらし始める。 しかし私は知っている。 もはや私達に戻ると言う選択肢などないのだ。 なぜなら…私達は売られたのだから。 ここは孤児院。 様々な年齢の子供たちが常時50人は収容される、ひと際大きな孤児院だ。 その為いつだって経営は火の車。 国からの援助や集められた募金だけでは、到底賄いきれない。 もちろん、私達だって馬鹿じゃない。 孤児院の経営状況には、ある程度の年齢に達すればそれなりに察しが付くものだ。 だから子供達は健気にも努力するのだが…、根本の解決には至らないのだから虚しい努力と言える。 そんな中密かに生み出されたのが、裏オークション。 まったく大人というのは鼻が利くらしい。 その日から私達は商品となった。 「みんな~!元気でね!!また会いに来るから!!」 力いっぱい手を振るメアリーは、叶うはずのない約束を叫び馬車へと乗り込んだ。 見送りに出た子供たちの顔には、大まかに3パターンの表情が並んだ。 泣き顔、羨まし顔…そして、悲しそうな顔である。 私は馬車に乗り込むその時まで、大人達の顔をしっかりとこの目に焼き付けた。 何が出来るというわけではない。 ただ、この悔しさを胸に刻むためだ。 馬車が走り出して数分が経つ頃には、もはや孤児院は豆粒大となっていた。 身を乗り出して手を振り続けたメアリーは、涙の浮いた青い瞳を私に向けた。 「ルイス、ずっと一緒よ。何があっても…。」 まるで誓いの言葉のようなそれは、今でもこの胸を締め付けてやまない。 私達を買ったのは、名門貴族モントゥール侯爵。 彼には愛娘フランという、大層引っ込み思案な娘がいた。 家族以外の接触を固く拒み、舞踏会はおろか外出すら嫌がるという筋金入りだ。 困り果てた侯爵は、なんとか娘の関心を外に向けさせようと、同い年位で且つ外聞を気にしなくてもいい私達に白羽の矢を立てたのだという。 「良いですね、下賤の。フランお嬢様を外にお連れするのです。」 始め優しく微笑んでいた侯爵の使いは、孤児院が見えなくなるや否や、私達を馬車から引きずり下ろした。 そして立ったまま説明を受け、自分たちに課された使命を刻んだのである。 「待ってください!私達は…家族として迎えられたのではないのですか?」 悲痛なメアリーの問いかけは、鼻で笑われ一蹴された。 今から思えば…これが一連の事件を起こすきっかけだったのかもしれない。 「メアリー!…ああ、血が!大丈夫?」 無事出港した船に揺られ、私達は一途モントゥール侯爵邸を目指していた。 なんでも、外聞をいたく気にする侯爵の指示により、“可哀想な私達は侯爵邸に着く前に攫われ殺された”というシナリオが必要なのだとか。 「大丈夫よ、ルイス。こんな怪我なんともないわ。」 月明りに照らされたメアリーはにっこりと微笑むと、赤く腫れた腕で豪快に血を拭った。 「大丈夫、ルイスは私が守るわ。」 ああ、メアリーは変わった…変わってしまった。 鋭く虚空を睨む彼女の瞳を見つめ、私は思わず視線を逸らした。 「…ついてきなさい。」 港で待っていた使いに連れられ、とうとう侯爵邸に辿り着いたのは、夜も更けた頃のことであった。 「ご主人様は既にお休みになっておられます。お前たちは、そこに。」 そう示されたのは、立派な…馬小屋だった。 「明日、下男が迎えに来ます。」 バタリと重たい扉の閉まる音と共に、辺りは暗闇に包まれた。 聞こえてくるのは生き物の息遣いと、自分の心臓の音だけ。 まるでこの世にたった1人取り残されたような、そんな恐怖心が背中を駆け上がった。 心臓は我がもの顔で暴れ回り、肺は…どうやら仕事を忘れたらしい。 吸っても吸っても酸素が入ってこない。 チカチカと目の奥が点滅し、どこか他人事のような危機感を覚えたその時、声が聞こえた。 「ルイス!大丈夫、私がいるわ!落ち着いて。」 途端、急速に流れ込んできた酸素に私はむせた。 そして感じたあたたかな体温。 ふわりと鼻を掠める匂い。 「大丈夫…もう大丈夫よ。」 早朝、約束通り下男らしき男が無言で迎えに来た。 そして案内されたのは、徹底的に隠された見えない通路だったのである。 緻密に作り込まれたそれは、一度通っただけでは到底覚えきれるものではなく、恐らく侯爵家の避難経路も兼ねているのだろうと思われた。 私達は半ば関心している間に、件の侯爵とのご対面と相成ったのである。 「やぁ、初めまして。君達の役割は理解できているのかな?」 初対面の印象は優しそうな人だった。 涼しげな声色に、キラキラと輝く金髪、伏せられた目元に刻まれた笑い皺。 彼はどこか、神父に似た雰囲気を持っていた。 しかしその印象も直ぐに覆ることとなる。 「…ああ、返事は不要だよ。元より君たちの意志など、ここでは何の意味も持たないからね。」 手元の書類に視線を落としながら、一方的に進められる会話。 本当に私達には興味がないのだと、今更ながら思い知らされた気分だった。 「後の指示は彼に従ってくれたまえ。…そうそう、もう会うことはないだろうから言っておくがね、君たちの代わりなど幾らでもいるのだよ。精々肝に銘じて努力したまえ。」 温かくも冷たくもない、ただ事実だけを淡々と告げるその声音は、はっきりと私達の運命を突きつけるものだった。 侯爵の書斎を離れ、次に連れてこられたのはフランの部屋の前だった。 「お嬢様には、新しい下女が入ったとお伝えします。 まずは私がお声がけし、お嬢様の許可が下りたら1人ずつ入出するように。」 使いの男ブルドンの指示に黙って頷き、私達は息を殺してその時を待った。 「おはようございます、フランお嬢様。ブルドンでございます。」 静かに入室したブルドンの背を見送り、私達はお互いの緊張した顔を見合わせ小さく笑った。 数分後、無言で戻って来たブルドンに促されメアリーが入室し、入れ替わりで私もフランとの対面が叶った。 そこには…朝日に照らされた天使がいた。 肌はどこまでも白く透き通り、日差しを受けた金髪はまるで小麦畑のように波打ち、私を映す瞳は大海原のごとく澄んだ青色をしていた。 「天使ひゃ…」 噛んだ。 あまりの美しさに気が動転し、口も動転したらしい。 私はあまりの恥ずかしさに慌てて頭を下げると、くるりと背を向けた。 「ま、待って!」 すると、か細くも涼しげな声が背後から聞こえた。 「貴方、お名前は…?」 部屋を退出し重厚な扉を静かに閉めると、私は堪らずズルズルとしゃがみ込んだ。 「どうしたのルイス!」 メアリーは素っ頓狂な声を上げ、心配そうに顔を覗き込んできた。 無理もない。 私の顔は、鏡で見るまでもなく血の気が引いていたのだ。 「あー…緊張したぁ…。あんなに綺麗な子初めて見たよ。」 それは心の底から出た感想だった。 出会う場所さえ違えば、危うく天に召されたのかと思う程だったのだ。 メアリーも同意見だったらしく、激しく頷いて見せた。 その時再び扉が開かれ、また険しい顔をしたブルドンが戻って来た。 「何をしている、立ちなさい。」 先程までの優しい表情から一転、威圧感を備えた目で射抜かれた私達は、慌てて立ち上がった。 「時間が惜しい。移動しながら聞くように。」 そうサクサクと歩き出したブルドンの後に続き、知らされたのは思いがけない事だった。 曰く、フランお嬢様が私達を気に入ったらしい。 そして始まったフランとの関係作りは、大方の予想通り一筋縄ではいかなかった。 まず私達に慣れてもらおうと、ブルドン抜きで会ってみることにしたのだ。 すると驚くべきことに、彼女は失神したのである。 その衝撃たるや…子供ながらに感じた、未知との遭遇であった。 「やっぱり、ブルドン様を間に挟んだ方がいいね。」 こうしてブルドンを介したやり取りが始まった。 しかしこの方法では、当然ながら会話に時差が生じる。 また幾ら面白い話でも伝えるのはブルドンだ。 どうしても精度は数段…いや数十段は落ちた。 「…ということがあったのだとか、いや違いますね。ありませんでした。」 「どっち!?」 これでは益々状況の悪化は免れない。 そこで、せめてどちらかとだけでも会話が成立することを焦点に試行錯誤を始めた。 「お嬢様~、これはメアリーでしょうか?ルイスでしょうか~?」 顔を見せれば失神の恐れがあるため、初手は扉越しという方法を取ったみたのだ。 すると思いの他受けが良く、初めて笑い声を聞くことに成功した。 「でもこのままじゃ、いつまで経っても人前には出られないでしょ?」 そうなのだ。 ここで最大にして最難関の壁、対面という壁にぶち当たってしまった。 更に今の方法を下手に続けてしまえば、誰に会う必要なく会話が成立するという考えを植え付けてしまいかねない。 一度逃げ道を知ってしまえば、それは長く彼女を苦しめることになる。 ではどうする? 私達は早くも、八方塞がりとなった。 「よし!顔を隠そう!」 余りにも突飛なその考えは、メアリー考案の元すぐさま試されることになった。 やり方は至ってシンプル、メアリーは己の顔を端切れで覆い隠し、フランの前に立ったのである。 「…何をしているの?」 意外な事に、おっかなびっくり状態ではあるものの警戒した反応は見られなかった。 このことから、フランが苦手意識を向ける部分を絞り込むことに成功したのである。 それからというもの、フランの部屋からは時折笑い声が響くようになった。 しかしその光景はある種異様なものであった。 コロコロと笑うフランと、対するは仮面のような布をまとった二人組。 しかしそれもいつかは限界を迎える。 「このまま被り続けても、お嬢様の成長には繋がらないわ。」 そう、私達に課された使命はフランを外に出すこと。 外には仮面を付けている人などいないのだ。 「かと言って、突然仮面を取ったら…また失神しちゃうんじゃない?」 「それじゃあ…お嬢様自身に外してもらいましょう。」 それはある日のこと。 いつも通りフランの部屋へと赴いた私達は、終始無言で彼女の世話を焼いた。 「ど、どうしたの2人とも?何か怒っているの?」 途端、顔を曇らせたフランは今にも泣きだしそうな顔で尋ねた。 フランの為とは言え、私は胸のつぶれるような思いだった。 「…私が悪いの?ごめんなさい、何がいけなかったのか教えて?」 とうとう彼女の頬には涙が筋を作り、私達の後ろを付いて回っていた足が止まった。 「どうして何も言ってくれないの?もう…嫌いになった?」 それでも無言を貫く私達に、フランは悲しそうに目を伏せた。 「何か言ってくれないと分からないじゃない。顔も見えないのだから…!」 その瞬間、メアリーは仮面の下でニヤリと笑った。 その言葉を待っていたのだ。 「お嬢様、私達の顔見えませんよね?」 唐突に話し始めたメアリーは、驚いて目を瞬くフランをじっと見つめた。 「私が今どんな顔をしているのか分かりますか?」 聞かなくても分かることを敢えて言わせる。 そうすることで、自分の言葉で状況を把握させるのだ。 「分からないわ!分かるはずないじゃない!」 「そうですか。ではこれは?…これは?…これは?」 次々に表情を変えてみせるが、当然それは仮面の内でのこと。 次第にフランの顔は悲しみから怒りに変わっていった。 「メアリーいい加減にして!私を馬鹿にしているの?! 幾ら表情を変えても仮面が邪魔で分からないわよ!」 「では、仮面を外してもいいですね?」 「構わないから、早くしなさい!」 こうして、とうとうフランは大いなる一歩を踏み出したのであった。 「…メアリー大変!お嬢様が真っ青だわ!」 「お嬢様呼吸を!呼吸をしてください!…お嬢様―!」 あれから早1年。 未だ若干のぎこちなさは残るものの、すっかり気心知れた仲を構築することに成功していた。 それは偏に、メアリーの功績によるところが大きい。 正直…私はほぼ悲観的だった。 もう無理だ、そう思ったのも一度や二度ではない。 しかし彼女は諦めなかった。 ほとんど会話らしい会話にならなかった初期の頃から、小気味よく弾むようになった現在まで、彼女が披露した話は幾千、幾万にも及んだ。 まさに、メアリーこそがフランを更生させた功労者なのである。 「ねぇ、メアリーにルイス!今日は何をして遊びましょうか?」 今日もまた、フラン専属の下女である私達は、彼女の起床と共に部屋を訪れていた。 「そうですね…今日はとても良い天気なので、お庭のお散歩はいかがでしょう?」 メアリーはフランと会話をしつつ手際よく身支度を整え、私はその間にベッドメイキングを終える。 今や身に染みた下女の仕事である。 「あ!そうだ!」 フランが脱ぎ散らしたドレスを手に取った瞬間、何やら楽しそうな声が聞こえた。 きっと、また何かいたずらでも思いついたのだろう。 フランは誰の影響からか、すっかりいたずらっ子に成長してしまっていたのだ。 やれやれ、そう肩を竦め作業の続きに取り掛かる。 「まったく困ったお姫様ですよ、っと。」 作業が粗方片付いた頃、珍しく2人の姿はまだ見られなかった。 私は首を傾げ、何かあったのかと洗面所に声を掛けた。 「メアリー?どうしたの?」 洗面所からは返答はおろか物音ひとつせず、私は嫌に鼓動が早まるのを感じた。 「メアリー!返事して!お嬢様?どうなさったのです?」 胸が嫌な音を立てる。 なんだ、何が起きているんだ。 私は慌ててドアノブをひねり、力いっぱい引き寄せた。 「おじょうさ…」 そこには、フランお嬢様が2人いたのである。 「フッ…アハハハハ!」 驚き固まる私を見て、片方のフランが腹を抱えて笑い出した。 「やだもぉー!ルイスったら、なんて顔をしているの!」 すると、もう片方のフランも笑い出した。 「ねぇ!やっぱり私達似ていると思っていたのよ!大成功ねメアリー!」 2人のフランは手を取り合って喜んでいるが、完全に置いてけぼりの私は只々2人の顔を交互に見るばかりだった。 「え…待って、どういうことなの?」 未だ状況が上手く掴めない私は、再び2人のフランに大爆笑され、やっと片方のフランがズルリとかつらを取った。 「私よ、メアリー!」 「メ、メアリー!」 …それからである。 味を占めたフランは、度々メアリーと入れ替わっては私を驚かすようになった。 これが後に、悲劇の引き金となろうとも知らずに。 それは、暖かな日差し降り注ぐある日のこと。 「お前たち…旦那様がお呼びです。すぐ支度なさい。」 いつにも増して険しい顔したブルドンは、米神をピクピクと震わせていた。 「やぁ、元気だったかね?」 初対面時と打って変わり、友好的な笑みを浮かべた侯爵は、両手を広げ私達を迎え入れた。 「おや、君。どうしたんだね?…そんなに緊張しなくていいんだよ。」 侯爵はクスクスと笑いつつも、その目は抜け目なく私達を観察しているのが分かった。 私は未だ血の気の引いた顔で黙って頭を下げる。 侯爵の許しが無い限り、発言してはならないからだ。 「ふん、まぁ良かろう。さて、今回君達を呼んだのは他でもない。 フランの誕生祭のことだ。」 名門貴族モントゥール侯爵が娘フラン。 彼女の誕生祭というのは、言わば将来の人脈作りに直結する大切な催しである。 大人たちはもちろん、その次世代ですら失敗の許されない大切な社交場。 そこにきて、フランの引っ込み思案である。 今まで、幾度となく開催を見送られてきたレア中のレアな催し。 参加者は必死の形相で駆けつけることは、想像に難くない。 「私は今回の誕生祭で美しく成長したフランを見せたいのだ。」 さながら、溺愛する娘の晴れ舞台を心待ちにする父親のようであった。 だがその内心、既に皮算用が働いているであろうことも見て取れた。 貴族の家に生まれた宿命なのだろうか。 「ということで、君達が成すべきことはもう分かるね。…フランの誕生祭を成功させるのだ。」 侯爵の部屋を辞し、私達はなぜか付いてくるブルドンと共にフランの部屋へと戻った。 「お嬢様、ルイスです。只今戻りました。」 4回ノックを繰り返し部屋へと入ると、彼女は静かに窓からの景色を眺めていた。 「お嬢様お待たせして申し訳ございません。」 私はいつものように、近くまで行くと足元にひざまずいた。 「直ぐにお召し物をお代えいたします。メアリー手伝ってちょうだい。」 そしてブルドンを振り返り、申し訳なさそうに頭を下げた。 「ブルドン様、お嬢様のお着換えの時間となります。ご退出願えますか?」 彼はしばし食い入るように私を見ると、おもむろに口を開いた。 「なぜ、入れ替わっている?」 その時、どこかで息を飲む音がした。 「…申し訳ございません。おっしゃっている意味が…」 ハクハクと浅い呼吸を繰り返しながら、なんとか言葉をひねり出す。 ダメだ、これでは認めているようなものではないか。 「ブルドン様、違います!何か勘違いなさっ…」 「私の指示よ。何か問題があって?」 その時、下女の口から聞こえたのはフランお嬢様の声だった。 「フ、フランお嬢様…!」 ブルドンは自分で指摘しておきながら、驚いたように叫んだ。 「ブルドン、あなたが言ったのよ?もっと外の世界を見るべきだと。 だからこうして下女の世界を見ているの。」 腰に手を当て堂々と対峙するフランは、かつて病弱な姫と揶揄された彼女ではなかった。 「もう一度言うわ。何か問題があって?」 「い、いえ!…しかし、旦那様まで騙すなど…少々お戯れが過ぎます。」 度肝を抜かれた様子のブルドンではあったが、そこは長年侯爵家に仕える者。 しっかりと釘を刺すのを忘れなかった。 「分かっているわ。…ごめんなさい。」 一転、しおらしく謝ったフランにブルドンは安堵の表情を浮かべたが、次の瞬間には厳しい表情に逆戻りした。 「メアリーにルイス、後で私の執務室に。」 ブルドンにこってり絞られた次の日。 私達は、やけに上機嫌なフランを前にあんぐりと口を開けていた。 「ふっふっふ…ここで諦める私ではなくってよ!2人共、続行よ☆」 それからというもの、フランの飽くなき研究が始まった。 「メアリー…脱ぎなさい!」 ある日のこと。 巻き尺を持ったフランは、仁王立ちで待っていた。 「まずは身体測定よ。身体の隅々まで測らなくてはね!」 そして顔を引きつらせたメアリーを脱がせ、真剣な顔で測定を終えた。 「なんということ!メアリー、貴方少し縮みなさい!」 どうやら、数㎝メアリーの方が大きかったらしい。 「…これからお嬢様の方が成長するかもしれませんよ?」 この世の終わりかのように絶叫するフランに、堪らず横から声を掛けると、鋭い視線が飛んできた。 「良いこと言うわねルイス!それだわ!!」 次の日、フランの食事は倍の量に増やされることになった。 だが、更に次の日には元に戻された。 「人間、程度というものがあってよ。」 遠くを見つめるフランの横顔には哀愁が漂っていた。 またある日のこと。 「自分を客観的に見る必要があるわ!」 そうして始まったのが、突撃聞き込み調査である。 「そこの貴方!率直な意見を聞かせて頂戴!私をどう思っているのかしら?」 手あたり次第捕まえては同じ質問をぶつけ、細かく集計を取る。 フランの計画では、一週間もすればまとまった意見が出るだろうと思われた。 ところが、ある時を境に徐々に避けられ始めたのである。 「どういうこと?」 綺麗な額に似つかわしくない皺を寄せ、フランは私達を睨みつけた。 「なぜ皆、私を避けるの?!」 実はこの時、使用人の間ではとある噂が囁かれていたのだ。 “フランお嬢様による使用人の選抜” そう、彼女が己の為に繰り返した質問は、見事深読みされる結果となったのである。 私達は顔を見合わせ、彼女にどう伝えるべきか悩んだ。 フランのことだ。 素直に言おうものなら、何かしら激しい反応が起こるに決まっている。 どうする? 無言の相談の末、ここは1つ彼にご登場願うこととなった。 「お嬢様、良いですか?これからのお立場を思えば、早い内からご自身を客観視したいというお考えは実に素晴らしいものです。しかし!それと同時に下々の考えもまた…」 永遠と続くかのようなブルドン先生の有難いお説教は、少々暴走気味だったフランを一気に沈静化した。 「メアリー、ルイス…作戦変更よ。」 しかし、未だ彼女の飽くなき探究心は消えていなかったのである。 更に数日が経ち、またしても私達はフランに驚かされることとなった。 「今日は街に行くわ。準備なさい。」 私は我が耳を疑った。 「お嬢様…今、街とおっしゃいました?」 「そうよ、何か問題でもあって?」 その瞬間、私達はがっしりと抱き合って涙を流していた。 「メアリー!聞いた?」 「ええルイス!しっかり聞いたわ!」 あんなに嫌がっていたフランが、外に出るくらいなら死ぬとまで豪語していたフランが、遂にそのベールを脱ぎ捨てたのである。 「…別に来たくないのなら構わないわよ。」 照れたようにそっぽを向く彼女に、私達は間髪入れずに叫んだ。 「喜んで!」 沢山の店が軒を連ねる賑やかな街並み。 往来を行き交う人々は皆忙しそうに歩みを進める。 「お嬢様、何をお探しですか?」 用心棒にがっちりと周りを囲まれたフランは、何やら細かく書き込まれた紙の束を手に、あちらの店こちらの店と渡り歩く。 「色々よ。…あ、そこも入るわ。」 次から次へと増えていく荷物は、およそ少女が好みそうな物ではなかった。 「薬草…ですか?」 「染色薬になるの。いつまでもカツラじゃ、メアリーが可哀想でしょう?」 難しい顔で1つ1つ吟味するフランは、顔を引きつらせたメアリーに微笑みかけた。 「帰ったら早速実験よ。楽しみにしておいてね。」 半日にも及んだ初めての街巡りは、フランにとって大満足の幕引きとなった。 「…お嬢様、もしかして今日のお出かけって…。」 「あら、言ってなかったかしら?第二のフラン作戦の大詰めよ!」 こうして、意気揚々と必要な道具を買い揃えたフランは、どこか遠い目をしたメアリーを引きつれ去って行ったのであった。 そして遂に…彼女の執念が実を結ぶ時がやって来たのである。 「準備はよろしくてメアリー?」 その日、空は厚い雲に覆われ、いつ降り出してもおかしくない空模様であった。 モントゥール侯爵邸前には次々と馬車が並び、出迎えられた客人達は一様に華やかな衣装を身にまとっていた。 私は屋敷の格子窓からそっと顔を覗かせ、感嘆のため息をついた。 「いいなぁ素敵なドレス。一度でいいから着てみたいな。」 次から次へと眼下を流れていく鮮やかなドレスの数々。 天候の悪さを差し引いても、それはとても華やいで見えた。 「ドレスなんてただ重いだけよ。何がいいの?」 うっとりと見つめる私をよそに、つまらなさそうな声が横から聞こえた。 「そ、それは…!お嬢様は着慣れているからそう思うんです! 下女の身分でドレスなんて、夢のまた夢なんですから…。」 ふんと鼻を鳴らしたフラン扮するメアリーは、またつまらなそうに肩肘を立てた。 「つまらないわ…折角メアリーと交代したのに。これじゃあ、ただ上から見ているだけじゃない!」 時は遡ること、3時間前。 いつものようにフランを起こしに行った私達は、まさかの提案を受けることとなる。 「メアリー、今日の誕生祭はあなたが行きなさい!」 「は…?」 起きがけの冗談…にしては、フランの目はキラキラとそれはもう輝いていた。 「何を言ってるんですか。今日の主役はお嬢様なんですよ?」 只でさえ今日は朝から大忙しで、お嬢様の冗談に付き合っていられる余裕などない。 「…はいはい、そのお話はまた今度聞きますから。さぁ、身支度しましょうね。」 それはメアリーとて同じこと、仕事は山のように控えているのだ。 しかし暴君フランは、そんな事お構いなしにこう言ったのである。 「勘違いしないで、これは命令よ。」 薄紅色の小さな唇をニヤリと持ち上げ、暴君は怪しく微笑んだ。 「仕方ないですよ。 下女は姿を見せてはならないと、旦那様にきつく言われてるんですから。」 先程から何度この会話を繰り返しただろうか。 まんまと厄介役から逃れたフランではあったが、少々計算違いだったらしい。 ぷっくりと膨らませた横顔が可愛くて、私は小さく笑った。 「ここからでも十分楽しめますよ。そうだ!お話をしましょう。」 「おめでとうございますフラン様!」 「まぁ!なんてお美しいのかしら…!」 「お身体が弱いと伺っておりましたが、その後いかがですの?」 「フラン様、こちら私の息子でございまして…」 「フラン様!是非仲良くしてくださいな!」 次から次へと押し寄せる大人、大人、大人…。 そのどれにも見え隠れする打算、見栄、自慢。 ああ、フランの生きている世界はこれか。 フランに扮したメアリーは、にっこりと微笑みつつも内心、反吐が出そうな心地であった。 なんて醜い世界なのだろう。 「フランお嬢様。」 終始、影のように寄り添っていたブルドンが囁いた。 「少し…お休みになられては。」 さすがはブルドン、抜け目なくお嬢様の変化を察知しているものだ。 「ええ、そうするわ。」 メアリーは少し熱を持ち始めた首筋に手を当て、ブルドンが差し出した手を取った。 「お嬢様、ダメですって!戻りましょうよ!」 脇目も振らず突き進むフランに片手を取られ、私は必死に叫んでいた。 「静かになさいルイス。見つかったらどうするの!」 ピッタリと壁に張り付き、廊下の先を確認していたフランは怖い顔で窘めた。 数分前。 とうとう我慢の限界を迎えたフランに押し切られ、私は引きずられるようにして部屋を出ていたのである。 「お嬢様、本当に本当にお願いしますよ。見つかったら何をされるか…!」 この屋敷に来てからというもの、下女という扱いを嫌という程味わってきた。 日常的に繰り返される暴力、意図的に抜かれるご飯…挙げ出したらきりのない仕打ちの数々。 しかし、それが下女という現実なのだ。 だからこそ私は必死だった。 この何も知らないお嬢様に何かあってからでは遅い。 「そうだ!お話をいたしましょう! メアリーほど達者ではありませんが、私もいくつか持ちネタがございまして…」 頼む止まってくれ! 私の必死な叫びは、最後まで彼女に届くことはなかった。 ブルドンに促され、静かに横たわったベッドはしっとりと柔らかだった。 普段は整える側だからか、その感触には感動を覚える程であった。 「少々熱がございますね。…申し訳ございません、気付くのが遅れました。」 いつになく優しい声色に、さり気なく前髪を撫でつけた手の温もり。 それは、忘れかけていた懐かしい神父の顔を呼び起こした。 「少し眠れば良くなるわ。」 メアリーは薄ら滲んだ涙を隠すように寝返りをうった。 「かしこまりました、ゆっくりお休みくださいませ。」 ふわりと添えられた手の感触はどこまでも優しく、彼女はゆっくりと夢の世界へと旅立った。 それは不思議な夢だった。 いたずらっ子のような笑みを浮かべたフランが、私に花束を差し出しているのだ。 その花束は5種類の花によって作られ、その内の1本はやけに大きく瑞々しく見えた。 私が小首を傾げると、フランはただ優しく微笑んだ。 そして言うのだ。 “私の子供たち。大切にしてね?” その夜、とうとう降り出した雨に紛れ、死神は1人の下女をひっそりと連れ去った。 「分かっているね、侯爵家の名に恥じぬよう…」 「もうお父様ったら、分かっておりますわ。」 この日、モントゥール侯爵の娘フランは、マリー王妃の侍女となるべく、長年住み慣れた家を巣立った。 フラン19歳のことである。 「何かあったら直ぐに知らせを寄越すのだよ?」 心配そうに眉を寄せた侯爵はすっかり年をとり、だいぶ丸みを帯びた。 「それも、分かっておりますわ。」 クスクスと笑うその顔は、年齢と共に更に美しく成長し、その目には知性の光が宿る。 「そうだね…、では行きなさい!」 涙を湛えた侯爵の指示を受け、フランを乗せた馬車はゆっくりと動き始めた。 「行ってまいります!」 窓から大きく身を乗り出し、フランは幼子のように大きく手を振る。 「フラン様!危険でございます!」 途端上がる制止の声に、フランはいたずらっ子のような目を向けた。 「あら、私が馬車から転げ落ちるとでも思って?」 眉根を寄せ、次なる言葉を探す相手を見やり、フランは盛大に噴き出した。 「無駄よ。お前が口で勝てたことがあったかしら?」 ぐっと詰まった顔を満足げに眺め、フランは心底愉快そうに笑った。 「約束よ、これから何があってもずっと一緒。いいわね…ルイス。」 ドンッ どこからともなく聞こえた鈍い何か。 まるで踊るように跳ねた小さな身体は、ゆっくりと私の手を離れた。 ドサッ 妙にくっきり聞こえた落下音と、視界に広がる赤い…。 誰かが金切り声を上げている。 ああ…私か。 「ルイス!」 はっと目を覚ました私は、視界いっぱいに映り込んだ見慣れた姿に安堵の息をつく。 「ああ、メ…フラン様。」 胸に手を当て、暴れまわる心臓を押さえつける。 「大丈夫ね?」 「大事ありません。」 毎度、うなされる度に繰り返される儀式。 私達だけが知る秘密。 「ルイス、見なさい。もう着くわ!」 すっと視界を外したフランが叫んだ。 華やかな街並み広がる王都、そしてひと際異彩を放つウォール宮殿が間近に迫っていた。 「モントゥール侯爵が娘、フランでございます。マリー王妃様、ご機嫌麗しゅう。」 宮殿に着いて直ぐのこと。 息つく暇もなく通された謁見室には、たおやかな笑みを浮かべた王妃マリーが待っていた。 「フラン、ご機嫌麗しゅう。長旅ご苦労でした。」 ゆったりと紡がれる言葉はまるで詩のように聞く者の耳を癒し、あふれる気品は後光のように王妃を彩っていた。 「紹介するわ、彼女はルイエール。」 透き通るような滑らかな肌に、たっぷりとしたブロンドの髪、キラキラと輝く青い瞳。 「フラン、ごきげんよう。」 はにかんだように微笑む甘い笑顔のルイエールは、文句なしの美人であった。 「ごきげんよう、ルイエール。」 フランもまた極上の笑みを浮かべ挨拶を返すと、2人からは感嘆の吐息が漏れた。 「神のご加護を、神の祝福を。」 王妃とルイエールは胸の前で手を組むと、囁くように祈りをささげた。 始めの1カ月、フランは持ち前の話術で宮殿内の情報収集に勤しんだ。 もちろん侍女としての仕事もこなしつつ、である。 「フラン様…少しお休みになられては?」 次から次へと宮殿を飛び回る彼女の話題は、娯楽に飢えた貴族たちの格好のネタとなる。 私が苦言を呈したのは、何も彼女の身体だけを心配したわけではない。 「心配いらないわ。それに…噂してくれた方が却ってやり易いものよ?」 そう無邪気に笑った顔は、昔から何ひとつ変わっていない。 「さぁーてと、今からルイエールの所にでもお邪魔しようかしら。」 見るからに動きづらそうなドレスをたくし上げ、風のように去って行ったフランを見送った私は、そっとため息をついた。 フランの様子がおかしくなったのは、宮殿の生活にも慣れ始めたある日のことであった。 以前の彼女であれば、誰がなんと言おうとお構いなしに出歩いていた。 ところが…最近は何事か深く考え込んでいるような、物憂げな表情を浮かべている事が多くなった。 「フラン様、どうなされたのです?」 堪らず訳を尋ねたところで、返ってくるのは困ったような笑顔だけ。 これには私達使用人も、大いに悩まされた。 対策を打とうにも、原因が分からないのでは対処の仕様がないからだ。 どうする…?どうしたら…! 日々刻々と過ぎていく時間の中で、私達は行き場のないヤキモキとした気持ちを抱えていた。 しかし、それは余りにもあっさりと終わりを告げるのである。 「みんな、私結婚いたしますの。」 ある晴れた日のこと。 フランは極上の笑みで、爆弾を投下した。 「あ、因みに子供もいましてよ!」 照れたように頬を染めたフランはそっと腹部に手を添え、可愛らしくウィンクする。 「忙しくなるわね。」 そしてその言葉通り、怒涛の日々が始まった。 フランのお相手モンテス侯爵。 彼は、家柄、容姿、知性そのどれをとっても優れた男であった。 何より特筆すべきは、その性格の良さである。 彼は、分け隔てなく差し伸べられる手を持っていたのだ。 「では!フラン様も侯爵のお人柄に惹かれたのですね!」 フランに影響され、話し好きの才能を開花させた使用人の1人が目を輝かせ尋ねた。 「実は…」 なんと2人の出会いは、初めて開催されたフラン誕生祭でのことだったらしい。 「私には欠片も記憶がないのだけど。」 あっけらかんと言い放つフランを尻目に、侯爵は大切な思い出を取り出すように頬を緩めた。 「フランはまるで、この世に舞い降りた天使のようだった。 吸い込まれるような青く澄んだ瞳に、光を受けて輝く金髪…。」 うっとりと語る侯爵はまさに恋する者のそれで、使用人一同胸の高鳴る思いであった。 「え、ということは…初恋が実ったってこと!?」 はっと顔を上げた使用人の1人が、その事実に声を上げた。 一気に視線が集まった侯爵は、恥ずかしそうにでもしっかりと頷いた。 「目の保養…。」 「我が人生に一片の悔いなし。」 ブツブツと呟く女性陣をよそに、どこかつまらそうな顔をしていたフランは、突然パッと立ち上がった。 「何か忘れていると思ったら、お父様への報告がまだだったわ。」 …その後、なんとも素っ気ない結婚報告を受け取ったモントゥール侯爵からは、悲しみの抗議文が届いたとかいないとか。 そして迎えた結婚式当日。 たくさんの参列者と晴天に見守られ、モンテス侯爵夫婦は永遠の愛を誓った。 そして時を同じくして、ルイエールは王の御子を出産したのである。 太陽神と例えられたフィリップ国王は、その実、多くの浮世を流す噂の多い人だった。 とは言え、王妃マリーとの仲も決して悪いわけではない。 王いわく、全てを愛している…それだけなのだ。 「ルイエールの話は聞いていて?」 晴れやかな結婚式から数日が経ち、宮殿内は専らルイエールの話題で持ちきりとなった。 それはもちろん王妃マリーの耳にもしっかりと届き、日に日にやつれていく彼女の姿は痛ましい限りであった。 「ええ、伺っておりますわマリー様。」 小さく囁いたフランもまた身重な身体であった。 侍女の立場とはいえ、本来ならば産休に入っているべき頃である。 それでも、フランは歯を食いしばって王妃マリーの側に居ることを望んだ。 「王妃様、殿方というのは気の多いものですわ。何ということはありません。 私は、王妃様が元気な御子を授かりますようお祈り申し上げます。」 そう柔らかく笑ったフランは、悲しそうに目を伏せる王妃マリーの手を握った。 「神のご加護を。」 それからしばらくして、宮殿内では第一寵姫ルイエールの名が囁かれるようになったのである。 「この子はクリスティーヌ、クリスティーヌよ。」 寒さが一段と厳しさを増した深夜、フランは第一子クリスティーヌを出産した。 しかしそれは、大変な難産の末のことであり、医師も青ざめる程のものだったという。 一時は母子共に危険な場面もあり、侯爵に宛てた手紙には出産の報告と同時に、万が一を考えた内容がおり込まれた。 私達もまた、一睡もせずにその時を待ち続けた。 そして…無事産声が聞こえた瞬間のことは、今でもはっきりと覚えている。 血の気の失せた真っ白な顔で力なく微笑むフランと、生を実感するように泣き叫ぶ赤子。 私はこの時決めたのだ。 何があろうともこの子を守ると。 それから数日後。 急いで駆けつけたモンテス侯爵は、大切な我が子を胸に涙ぐんでいた。 「なんて美しいんだ!ああフランありがとう、ありがとう。」 「はいはい。もう、分かりましたから。」 到着するや否や片時も離さず抱き続ける侯爵は、まさに子煩悩な父親そのままであった。 私はそんな侯爵の姿を遠目に、未来のクリスティーヌが受けるであろう暑苦しくも熱烈な父の愛に苦笑いを浮かべる。 「フラン様、お身体の方はいかがですか?」 「まだ本調子…とまではいかないけれど、だいぶ良くなってきたわ。」 何時間にも及ぶ難産の末、一時は母子共に危険な場面もあった。 その為、医師からはしばらくの間休養を命じられていたのである。 「かしこまりました。どうかゆっくり、お休みくださいませ。」 しかし、それからしばらくしたある日のこと。 神に見初められたクリスティーヌは、そのあまりにも短い生涯を閉じるのであった。 華やかな笑い声あふれる部屋。 そう表現されたフランの部屋は、火が消えたように暗く沈んでいた。 フランを始め、使用人は皆黒をまとい、小さな天使の冥福を祈った。 「フラン…。」 フランに訪れた不幸は王妃マリーの耳にも届くところとなり、連日王妃自ら足を運んではフランの横に寄り添う姿が見られた。 「王妃様、申し訳ございません私のために…。」 目元を紅く染めたフランは消え入りそうな声で囁くと、ハンカチを強く握りしめた。 「国王様の治世に不幸を添えてしまいました。…申し訳ございません。」 後から後から零れ落ちる涙は、やつれた頬を伝う。 マリーは悲し気に目を伏せていたが、その時しっかりとした眼差しでフランを見た。 「いいえフラン、それは違いましてよ。」 初めて聞く王妃マリーの強い口調は、一時フランの涙を止めた。 「国王様の治世は容易く揺らぐものではございません。 だから…貴方の悲しみを、謝る必要はないのです。」 そう、きっぱりと言い切ったマリーの瞳は涙で光っていた。 思わぬ客人が訪れたのは、小雨が降り注ぐ午後のことだった。 「フラン…折り入ってご相談したいことがありますの。」 胸の前で手を組み、儚げに瞳を揺らす可憐な女性。 国王第一寵姫ルイエール、その人であった。 「ええ、構いませんわ。どうぞ…?」 広くゆったりとしたソファーへと案内しながら、フランはさっと視線を飛ばす。 心得た使用人の1人が小さく頷き、そっと部屋の外へと忍び出る。 今や時の人となったルイエール。 彼女の一挙手一投足は、意図していようがいなかろうが、好奇の目に晒されていると言って間違いない。 残念ながら…彼女はそこまで頭の回る女性ではなかった。 「突然訪ねてきてごめんなさいね、フラン。」 ルイエールは、繊細な飾りがあしらわれた裾をいじりつつもごもごと言った。 「構いませんわ。 お医者様にも、誰かとお話していた方が回復は早いと言われておりますの。」 フランの胸にポッカリと空いた大きな穴。 それは早々埋まるものではない。 深く刻まれた悲しみは、行き場を失ったままなのだ。 ルイエールは悲しそうに目を伏せると、胸の前で組んだ手に力を込めた。 「神のご加護を…。」 震える声で囁かれた言葉は、敬虔な信者である彼女の優しさであった。 「ありがとうルイエール。ところで、今日はどうなさったの?」 そうフランが水を向けると、途端にルイエールの顔はぱっと赤らいだ。 「じ、実は…国王様とのことなの。」 その後、照れに照れまくった彼女の言葉を要約するとこうだ。 曰く、ルイエールは国王を深く愛している。 しかし敬虔な信者である彼女は、同時に罪の意識にも苛まれているのだと言う。 「マリー様のお気持ちを考えると…私は私は…なんと罪深いことを!ああ主よ!」 ルイエールは涙を浮かべ、天を仰いだ。 「なるほどねぇ。」 ふんふんと黙って聞いていたフランは、ここにきてやっと彼女の訪問意図を理解した。 このまま愛する国王の気持ちを独占したい、しかし敬虔な自分が邪魔をする。 しかし恋焦がれる気持ちを止められそうにない。 つまり…彼女は免罪符を欲しているのだ。 「ルイエール…貴方、心から国王様をお慕いしているのね?」 しばしの沈黙の末、フランは優しく問いかけた。 「ええ、ええ!それはもう…!国王様の愛さえあれば、私はそれだけで十分なの。」 ただひたすら真っ直ぐに、純粋なほど真っ直ぐに…。 フランには到底まねできないことだった。 だからこそ、この時フランはルイエールに賭けてみることにしたのだ。 愛という不確かなものは、立ちはだかる困難を超えていくのか。 「ルイエール、貴方が悩んでいるのは王妃様のことよね?」 フランはガラリと空気を変え、彼女を真っ向から見据えた。 「え、ええ。…マリー様、きっとお心を痛めておいでだわ。」 「その事なのだけど。見方を変えてみてはどうかしら?」 ルイエールはキョトンとした顔で小首を傾げた。 「確かに、マリー様は王妃である前に国王様の妻だわ。 その正当な妻を差し置いて、国王様の愛を受けようとするのは罪深いことでしょう。」 ルイエールはぎゅっと胸元を強く押さえ、何かに耐えるように身を固くした。 「でもね、思い出して頂戴。 王妃様が嫁がれて何年が経っているのかしら?そしてその間、御子はお生まれになって?」 その瞬間、弾かれたように顔を上げたルイエールは、その顔に驚きの色と薄らとした期待感をのぞかせた。 「貴方が国王様に愛されるということは、ひいてはこの国の未来を支えるということ。」 もはや隠し切れない喜びに打ち震えた彼女に、フランは最後の仕上げとばかりに笑みを深めた。 「貴方は王妃様に気を使う必要はないの。なぜなら、この国の為ですもの。」 こうして、無事免罪符を得たルイエールは鼻歌交じりに部屋を後にし、残されたフランは 何事か考え込むように天井を見上げた。 「そうよ、国王の御子は1人でも多い方が良いに決まっているわ。」 ボソリと呟かれた言葉と、低く響いた笑い声。 この時、誰が彼女を止められただろうか。 破滅へとひた走る彼女を…。 秋の気配が色濃く漂い始めたある日のこと。 フィリップ国王の母、アンヌの葬儀がしめやかに執り行われた。 良妻賢母と称えられた彼女の葬儀には、それは多くの参列者が列をなし、国中が悲しみに包まれた。 特に国王フィリップの悲しみはひと際強く、宮殿内はまるで火の消えたように暗く沈み込んでいた。 「フラン!私は…私は、どうして差し上げたらよろしいのかしら?!」 化粧が崩れるのもそのままに、ルイエールはボタボタと涙を流し訴えた。 あれ以来、ルイエールは事あるごとにフランの元を訪れるようになっていたのである。 それは相談という名の惚気であったり、只の世間話であったりと様々ではあった。 しかしその根底にあるのは、王妃マリーへの裏切りという、共犯者に対するそれであったのだろう。 勿論フランもその辺りのことは重々承知していた。 だからこうして話し相手にもなっているのだ。 「そうねぇ…、今はまだ静かに寄り添って差し上げたら良いのではなくて?」 フランは眉間に浅く皺を寄せ、無難とも言える提案をした。 すると、途端に彼女は大声で泣き始めたのである。 「もう既にしているわ!それでも…それでも!国王様のお顔は晴れないのよ!」 まるで子供のように泣きわめくルイエールは、彼女なりに何とかしようと動いたのだろう。 しかし自分ではどうすることも出来ないと、悟ってしまったのかもしれない。 フランは目の前でシクシクと泣く彼女を見て少し胸が痛んだ。 「ごめんなさいルイエール、もう泣かないで。 そうだわ!国王様の気が少しでも晴れるよう、お話をして差し上げるのはどうかしら?」 「お話…?」 「ええ!今の国王様のお心は、亡きお母様に捕らわれてしまっているの。 だったら、何か面白いお話でもして気を紛らわせて差し上げたら良いのよ。」 ルイエールの顔はその瞬間ぱっと輝いたが、次の瞬間には再び沈んだ。 「…無理よフラン。私には無理な相談だわ。」 確かに、ルイエールには無理な提案だったのかもしれない。 彼女は口下手なのだ。 国王との会話でも、ほとんど彼女はニコニコと頷いているだけだった。 しかし、それでいいのか。 「あら、諦めるのね?」 フランは敢えて突き放すように言った。 「だったら仕方ないわね。国王様のお心が癒えるのを待つしかないわ。」 そう冷たく言い放ったフランは、話は終わりとまでに席を立った。 「そんな!待ってフラン…!」 ルイエールは縋るように手を差し伸べたが、フランは見向きもしなかった。 「…わ、分かったわ!私やってみるわ…でも!お願いよ、どうか貴方も同席して頂戴!」 「じゃあ、宜しくお願いねフラン。」 「分かったわルイエール、任せておいて。」 こうして、ルイエールは愛する国王のため固い決断を下したのである。 一方フランは、去り行く彼女を視界に捉え胸の痛む思いであった。 「純真というのは時に罪なことね。まさか疑いもしないなんて。」 ルイエールに突き付けた提案。 それは、フランが国王に近づくための状況作りだったのである。 敢えて彼女の不得意な分野を提案し、同席を言い出すように持っていく。 本当に…笑ってしまうほど簡単に動いてくれた。 「かわいそうなルイエール。」 そっと囁かれた言葉は、去り行く彼女の耳に届くことはなかった。 迎えたある日の昼下がり。 「お初にお目にかかりますわ、陛下。」 国王フィリップとフランは初対面を果たしたのであった。 「良い、頭を上げよ。」 王の許可が下りるまで静かに待機していたフランは、ここで始めて顔を上げた。 力強く真っ黒な髪に、鋭さと優しさを併せ持った目元、しっかりと引き結ばれた口元からは少々気難しさを感じさせる、文句なしの男前である。 「この度は、光栄にもこの…」 「よい。そのような言葉は聞き飽きておる。」 王は不機嫌そうに眉根を寄せると、傍らに寄り添うルイエールの腰を抱き寄せた。 「…失礼いたしました。」 フランは特に気にした素振りを見せることもなく、にっこりと微笑みを浮かべた。 「そもそも、ルイエールがどうしてもと懇願するから許可したまでのこと。 でなければ、なぜお前のような小娘に会わねばならんのか。」 明らかな不愉快を全面に押し出し、近づく者を拒絶するかのような発言。 “似たような小娘の尻を追いかけている癖に” 内心の毒づきなどおくびにも出さず、フランは困ったように眉を寄せた。 「陛下のお心遣いには感謝の言葉もございません。 しかし、ルイエールのことはどうかお責めになりませんようお願い致します。 彼女はただ一心に、陛下のことを思っているだけなのです。」 ルイエールは王に腰を抱かれたまま、赤い顔をコクコクと動かして同意した。 「ふん、そんなことお前に言われなくとも分かっておるわ。」 王は用意された椅子にどさりと腰かけると、拗ねたような口調で言い放った。 その横顔はどこか幼さを感じさせ、フランはおやと思った。 今までの女遍歴から見るに、国王は可憐な少女タイプが好みなのだと思っていた。 決して出しゃばらず、献身的に国王を支えるような女性…まさにルイエールのような女性である。 ところが、今見せた横顔は幼く頼りないものであった。 もしかして、国王が本来求める女性像は“母親”なのではないだろうか。 実は…俺について来いタイプではなく、誰かに甘えていたいタイプなのではないか。 そう考えると、この余りにも憔悴した様子も納得である。 なるほど、大好きなママを亡くした僕ってことね。 フランの顔には笑みが広がった。 作戦変更である。 「そ、それで…あのえーと、つまり…」 泳ぎに泳ぎまくったルイエールの目が、先程から何度も助けを求める。 フランは素知らぬ顔でティーカップを持ち上げると、ちらりと王の横顔を盗み見た。 そろそろ頃合いかしら。 「ルイエール、素敵なお話ね。是非続きを伺いたいものだわ。」 フランはにっこりと微笑むと、もはや何の話か分からなくなっていた話を切り上げさせた。 「そんな…!よして頂戴フランたら! 自分でも何を言っているのか、てんで分からなくなっていたくらいよ。」 照れたように頬を染めたルイエールは、まさしく皆の意見を言い当てた。 「国王様はいかがでした?」 敢えて水を向けた国王は、明らかに狼狽した様子で視線を泳がせる。 実はルイエールの話が終わるや否や、安堵のため息をついていたのをフランは見逃さなかったのだ。 途端、ルイエールの瞳は期待に輝き、キラキラとした眼差しを向ける。 フランは内心ニヤニヤと2人の構図を眺め、今後の展開を予想した。 恐らく、国王は大変な苦労の末、こう言うのだろう。 “また聞かせてくれ” 「また…聞かせてくれ。」 絞り出すように紡がれたその言葉は、ルイエールを歓喜させ、フランを笑いの渦へと誘うのであった。 楽しくも有意義な時間はあっという間に経ち、国王はまた公務へと戻る時間となった。 「国王様、あの…少しはご気分が晴れましたでしょうか?」 モジモジと恥ずかしそうなルイネールは、ぼんやりと遠くを見やる国王の手を握った。 「…ああ、とても楽しかった。」 ポツリと零れるように聞こえたその言葉は、彼の本音のように思えた。 きっとルイネールにもそれが伝わったのだろう。 ぱぁーっと彼女の顔が輝き、嬉しそうに国王に寄り添った。 「ではまたこのような場を設けましょう! そうだ、国王様!フランはもっとお話がお上手なんですのよ。」 思わぬタイミングで登場した我が名に、フランはとりあえず微笑みを浮かべた。 「次は、フランのお話も聞いてくださいまし。」 そうルイエールは邪気の無い顔でフランを振り返り、へらりと笑った。 「ね?フランも国王様に聞いて頂きたいわよね?」 恐らく、いや確実にルイエールのお腹には何もない。 彼女は戦略を張り巡らすといった事から最も縁遠いタイプだ。 だからこそ、国王第一寵姫になれたのかもしれない。 とは言え、これは渡りに船。 有難くこの機会を活かすとしましょう。 「ええ、もちろんよルイエール。もし国王様のご許可を頂けるのならば、是非。」 言葉はルイエールに、極上の笑みは国王に。 こうして、なんとも有意義な初対面は幕を閉じたのであった。 次なる機会は意外にも早く、その二日後に訪れた。 ただ、想定外なこともまた同時に起きていたのだが。 「フランー!私、どうしたらいいの…!」 例にも漏れず泣きついて来たルイエールは、涙ながらに事の次第を語った。 それによると、どうやら何の気なしに触ったブローチが実は形見の品で、しかも運悪く欠けてしまったというのだ。 何をやっているのだ、この娘は。 フランは呆れて、眩暈を覚える程だった。 「何をやっているの、まったく…。」 エグエグと大粒の涙を流すルイエールは、もちろん悪気がなかったことは分かっている。 しかし、それだけで許される程この世界は甘くない。 「それで?国王様は何とおっしゃっているの?」 「それが…何も、何もおっしゃらなくて。あああフラン!私は…」 ルイエールは再び声を上げて泣きだした。 泣きたいのはこっちである。 これにはさすがのフランも頭を悩ませた。 最悪、ルイエールを使った接触路線は白紙に戻る可能性が出てきたのだ。 フランは深くため息をつくと、どうにか糸口は見つからないものかと思考を巡らせる。 そこで気になったのが、国王が何も言及していないという点だった。 怒りのあまり言葉を失ったのか。 はたまた、何か考えがあるのか…。 しかし幾ら考えを巡らせたところで、そこは彼のみぞ知る事実。 ならば…。 フランは、未だ泣くだけの馬鹿な娘を睨みつけた。 「ルイエール、いい加減泣き止みなさい。泣いたところで何か解決して? それよりもやるべき事をするのです。」 「やるべき…こと?」 「もう一度、国王様にお会いするの。そして誠心誠意謝るのです。 後は、私がなんとか致しますわ。」 「10分だ。」 開始早々、鋭い視線と共に放たれたタイムリミット。 フランは、たらりと流れ落ちた冷汗を尻目に微笑を浮かべた。 「国王様、まずは貴重なお時間を頂戴し誠にありがとうございます。」 まず切り出した様子見の言葉は、鼻で笑われ一蹴。 予想通りの反応だ。 横に控えたルイエールは大きく肩をビクつかせたが、今は構っている暇はない。 「早速ではございますが、先の件でルイエールから申し上げたいことがございます。 ルイエール、こちらへ。」 既にすすり泣きを始めていた彼女は、フルフルと首を振り、怯えたようにフランを見た。 「ルイエール?こちらへ。」 少し語気を強め再度呼びかけるも、彼女はまったく動こうとしない。 「ルイエ…」 「ご、ごめんなさ…私、私…!」 そして、まさかの逃走を図ったのである。 脱兎の如く駆け出したルイエールに、成す術無く見送るフランと国王。 なんだこれ。なんだこれ…! 唖然と見つめる先では、とうとう角を曲がり、完全に彼女の姿は見えなくなっていた。 「もういいか?」 呆けたように見つめるフランの耳に、無慈悲な声が届いた。 「お、お待ちくださいませ国王様!まだお約束の10分は経っておりませんわ。」 慌てて引き留めたフランではあったが、あの馬鹿娘のせいで計画は白紙も同然。 どうする、どうする! 計画を立て直そうにも、焦りが邪魔をして上手くいかない。 ええい、ままよ! フランは小さく咳ばらいをすると、何事もなかったように微笑んだ。 「大変失礼いたしました。ルイエールには後程きつく言っておきますわ。 その代わりと言ってはなんですが、少し私とお話をいたしませんか?」 王は怪訝な表情を浮かべたが、先を促すように顎を引いてみせた。 「ありがとうございます。実は私、気になっていたことがありますの。 なぜ国王様はルイエールをお叱りにならなかったのか。」 チラリと伺った王の顔には、これと言った感情はのぞいておらず、フランは話を続けた。 「聞けば、亡きお母様の形見の品だったというではありませんか。 当然、激高して然るべき状況ですわ。でも何故か、そうはなさらなかった。…なぜです?」 国王は黙って聞いていたが、フランの問いかけには片眉を動かしただけだった。 「お答えは頂けないと…構いませんわ。 では、私の考えを聞いてくださいませ。それは…嘘だから、ですわ。」 その瞬間、初めて国王の顔に変化が現れた。 「ほう、嘘か。…なぜそう思った?」 「もし私が国王様の立場だったら、と考えてみましたの。 そしたら、気に入った相手が何を求めているのか、それを知りたいと思いました。 つまり…国王様はルイエールをお試しになったのですわ。」 始めは小さく、しかし徐々に大きくなる笑い声。 そしてついには涙を流して笑った国王は、目尻に浮かんだ雫を弾いた。 「まさか…逃亡を図るとは夢にも思わなかったがな。 ああそうだ、私は試した。母の形見だと聞いたら、どんな顔をするのか見たかった。」 まだ薄ら笑いを含んだ言葉ではあったが、語られるその横顔に笑みはなかった。 「ルイエールは、試すまでもなく心から私を思っている。そう…分かっていたはずなのだがな。問題があったのは、どうやら私の方らしい。」 その姿は、どこにでもいる1人の男性でしかなかった。 私達は何か、見えない何かを、彼に押し付けているだけなのかもしれない。 「…10分だ。」 国王は懐から金の時計を取り出すと、笑って告げた。 「フラン、君と話せて良かった。君さえ良ければ、また話し相手になってくれるか。」 「ええ、勿論ですわ国王様。」 ゆっくりと去って行く彼の後ろ姿は、なぜかとても小さく儚く見えた。 そしてなぜだろうか。 この時、涙があふれて仕方がなかった。 “ルイエール嬢、第一寵姫解任” 宮殿内を駆け巡ったこの衝撃的な話題は、暇を持て余した貴族たちの格好のネタとして面白がられ、多くの議論を呼んだ。 曰く、王妃マリーの陰謀だ。 曰く、新たな寵姫候補との熾烈な攻防の結果だ。 そのどれもが無邪気な憶測であり、只の暇つぶし。 誰も真剣に取り合う者など居なかった。…王妃マリーを除いて。 「フラン、今宮殿内で話題になっているお話は聞いていて?」 ある日のこと。 青ざめたマリーに呼び出されたフランは、その思いつめた顔に嫌な想像を働かせた。 「え、ええ。聞いておりますわ。しかしあれは…!」 「分かっているわ。ただの噂、ただの噂なのは重々承知しているの。 それでも…もしかしたらって、そう思ったら居ても立っても居られなくて。」 元々、王妃マリーという人は悪意とは縁遠い人だった。 ルイエールが王の御子を出産した際には心のこもった祝いの品を送り、第一寵姫になった時も、彼女の魅力が伝わった結果だと宣う人である。 今回の一件も、噂話と一蹴出来るはずがなかったのだ。 「王妃様…どうなさるおつもりですか?」 恐る恐る尋ねたフランに、王妃はきっぱりと言い切った。 「私、ルイエールに会いに行きます。そして謝って参りますわ。」 第一寵姫を解かれたルイエールは、失意の底に沈んだ。 しかし、フランの元を縋るような真似だけはしなかった。 さすがの彼女も、原因に心当たりがあったからだろうか。 そして1人悩みに悩んだ末、とうとう宮殿を去る決意をしたのである。 「確か、カーメル修道院に入られたのでしたね?」 最後に会いに来た、見違えるようにやつれた彼女の姿を思い出し、フランは尋ねた。 「ええ、あそこは特に敬虔な方が集まる神聖な修道院です。 私も…もしここを出ることになれば、行きたいと思っている場所ですわ。」 ルイメール同様、敬虔な信者であるマリーは遠くを見つめ言った。 それからしばらくして、王妃マリーは本当にルイエールに会いに行った。 「行ってくるわねフラン。」 固く決意の籠った目元はキリリと釣り上がり、たおやかな笑みを浮かべていた人物とは思えない面持ちである。 もはや…何も言うまい。 フランは余計な言葉を一切封じ、遠ざかっていく馬車を見送った。 王妃マリーの外出に伴い、フランは久しぶりに暇なひと時を得た。 「何をしようかしら。何かいい案はあって?」 使用人に話を振るも、彼らは暇ではない。 一応考える素振りは見せるものの、それは何か作業の片手間でのこと。 「ごめんなさい、自分で考えるわ。」 フランは懐かしくも甘い痛みに眉を寄せ、その場を逃げるように席を立った。 「フラン様、今から給仕場へ用がございます。宜しければご一緒頂けないでしょうか?」 そう声を掛けてきたのは、誰よりもフランを知っているルイスだった。 「ええ、ええ!行きたいわ!」 「では参りましょう。」 ルイスは片肘を差し出し、茶目っ気を含んだ笑みを向ける。 これは2人だけに伝わる合図。 “遊ぼう”の意味だった。 フランは目を大きく見開き、薄らと光る目元を和らげ片肘を打ち付けた。 「まずは給仕場へ向かいます。」 ルイスは大きなバスケットを肩にかけると、先導して歩き出した。 「昔とはまるで逆ね。いつだって私の後ろをついて来ていたのに。」 クスクスと笑ったフランだったが、不意にその顔に影が差した。 「お互い…随分と遠い所まで来たものね。」 フランの呟きは、まるで乾いた土地に降り注ぐ雨のように、ルイスの深層深くまで浸透した。 「ええ…本当に。」 彼女に背を向けていて良かった。 ルイスは頬を滑り落ちていく雫をそのままに、しばし無言のまま歩みを進めた。 「おやルイス、おはようさん。今日はお前さんが担当かい?」 「おはようございます、マダムシェルル。」 様々な音が鳴り響く給仕場には、それは多くの女たちが詰めていた。 それもそのはず、宮殿内で出される一切の食事を取り仕切る場所だからである。 「ちょいと待っときな。お前さんとこはー…」 そうシャルルが奥に引っ込んだ隙に、フランは物陰から顔を出した。 「とても大きな所なのね。」 物珍しそうに目を輝かせるフランは、鼻腔を突く芳ばしい香りに鼻をひくつかせた。 「まぁ!これはパンの香りね!私、パンがこの世で一番好きだわ。」 嬉しそうに頬を緩める彼女を見て、ルイスもまた微笑む。 知っている。次に好きなのは、甘さを控えたパウンドケーキなことも。 ルイスの目には、いつかの幼い子供たちの姿が見えた。 彼女たちは汚れた服の裾でさっとバンの欠片を拭くと、大急ぎで口に放り込んだ。 そして、見合わせたその顔には満面の笑みが広がる。 美味しかった。 今では考えられないが、薄らとカビの生えた廃棄寸前のパンだったのだ。 それでも、彼女と食べたあのパンが、ルイスにとってはかけがえのないパンだった。 「ルイスはもう覚えていなかもしれないけれど。 私は今でも、カビの生えたあのパンが一番好きだわ。ふふふ、おかしいでしょ?」 いいえ、私もです。 ルイスは緩く首を振ると、彼女に微笑みを返す。 あの頃から環境は驚くほど変わってしまった。 それでも…この命果てるその時まで一緒だ、約束だから。 給仕場を出た2人は、仲良く手を繋いで来た道を戻っていた。 「ありがとうルイス、良い気晴らしになったわ。」 ふんわりと微笑んだフランがそう言った時、彼女の部屋の前に1人の男性の姿が見えた。 「どなたかしら…?」 直立不動。まさしくその言葉が当てはまるような、一糸乱れる立ち姿。 向けられた横顔からは、神経質そうなピリピリとした威圧感があふれ、どこかブルドンのような印象を抱かせる人だった。 フランとルイスは顔を見合わせ、首を傾げつつも彼に近寄った。 「ごきげんよう。」 フランの声に反応した彼は、なんとアント公爵だったのだ。 「ああ、君がフラン嬢ですね。我が兄王から話は聞いているよ。」 「兄王から貴方の話を聞いた時は、何かの間違いかと思いましたよ。 いえね?こう言ってはアレですが、兄は少々アレなものですから…」 第一印象の神経質さから一転、アント公爵はよくしゃべった。 しかもそれは、多分に隠語を使った実に回りくどいものだったのである。 「まぁアント様ったら、お話がお上手でございますのね。」 さすがのフランも思わず皮肉が飛び出し、慌てて取り繕う場面も見られたほどである。 「もっとお話を伺いたいところですが…本日はどうなさったのです?」 言外に、とっとと用件を言え、そう意志を乗せ尋ねる。 「ああ!これは失礼、私としたことが!この前も同じようにアレしたも…」 「アント様ったら!焦らしておいでなのかしら?」 またしても脱線しかけた話を引き戻し、フランは苛立ちを笑顔で押し隠す。 「まさか。私は兄と違い、駆け引きの下手な男ですよ。そうそう!兄が君に会いたがっていた。」 それを早く言え!! 思わず立ち上がりかけたフランだったが、相手はアント公爵である。 簡単に詳細を話すわけがない。 「そう駆け引きと言えば!その昔、アレな女性がいましてね。私はアレだったもので…」 それから1時間。 我慢に我慢を重ねたフランは、やっとのことで詳細を得ることに成功したのであった。 闇がその勢力を増す新月のこと。 女はひっそりと窓辺に佇んでいた。 辺りはしんと静まり返り、もはや起きている人間がいないことを知らせる。 そこに、ひたひたと歩み寄る1つの足音があった。 「眠れないの?」 女は声の主を確かめるように振り向くと、ふっと笑って見せた。 「眠りたくないの。」 足音はそのまま進むと、女の横にもう1つ影が並んだ。 「ねぇ…本当にやるの?」 影は怯えるように女を見上げる。 「やるわ、だって私…約束したもの。彼女との約束は絶対よ。」 クスクスと漏れ出た笑い声はしばらくの間続き、しんと静まり返った部屋にこだました。 「私は何をすればいい?」 先程までの怯えた様子から一転、影は決意の感じられる固い声で尋ねた。 「貴方には是非ともやって欲しい事があるの。」 そう笑みを深めた女は、たっぷりと間を置いたのち囁くように言った。 「子育てよ。…大切にね?」 迎えた再開の日。 「お久しぶりですわ、陛下。」 お気に入りのドレスに身を包み、笑顔を武装したフランは、国王フィリップを出迎えた。 「久しいなフラン。大事ないか?」 用意された椅子にどかりと腰かけた国王は、気さくな笑みを浮かべる。 まったく、初対面とはえらい違いである。 「ええ。陛下もお変わりないようで安心いたしましたわ。」 フランも国王の前に腰かけ、2人はひと時の間見つめ合った。 「あ、ああそうだ。 君の好みに合うかは分からないが、他国の菓子を取り寄せた。」 ほんのり頬を染めた国王は従者に合図し、机には可愛らしくも繊細な砂糖菓子が並んだ。 「まぁ可愛らしい!」 薄紙の上に乗せられたそれらは触ってしまえばホロホロと崩れてしまいそうで、この世界を暗示するかのようだった。 「まるでこの世界のようね。」 知らず呟かれた言葉は、幸いにも王の耳に届くことはなかった。 「どうだ?美味いか?」 ワクワクと瞳を輝かせ、フランの反応を待つ王はまさに子供のようだった。 「ええ、大変美味しゅうございます。陛下が私の為に用意してくださったからですわね。」 微笑みを浮かべ、母親のように褒めてやると、王は殊更嬉しそうに笑った。 「まだまだ沢山ある。好きなだけ食べるといい!」 それからというもの、国王は二日と開けずフランに会いに来た。 その様子はまるで母親に会いに来た子供のようで、使用人一同影で眉を顰める有様だった。 ある日のこと。 それはそれは、快晴に恵まれた日のことである。 いつものように甘える国王を膝枕し、ふと窓の外を眺めた時のことだった。 「フラン!今日は天気が良い。散歩でも行かぬか?」 国王は子供のように元気よく提案した。 フランは、ほんの少し考えるような素振りを見せると微笑みを浮かべた。 「ええ、陛下。私、ちょうど薔薇園に行きたいと思ったところでしたの。」 「そうか!では行こう、直ぐ行こう!」 王は勢いよく跳ね起きると、勇み足でフランの手を引っ張った。 「まぁ。」 突然引っ張られたフランはクスクスと笑い、国王は照れたように頭を掻く。 「恐れ入ります、フラン様。」 その時、すっと現れたルイスがフランの耳元に口を寄せた。 それは、フランの夫モンテス侯爵の到着を知らせるものだった。 「どうした?」 キョトンとした顔の国王は無邪気に尋ねたが、フランはただ首を振っただけだった。 「まぁ!なんて美しいのかしら。」 宮殿が誇る広大なバラ園を訪れた2人は、仲睦まじい様子で寄り添っていた。 「その昔、おじい様がおばあ様の為に作らせたそうだ。」 国王はまるで自分の事のように胸を張って言うと、途端に真剣な面持ちで振り返った。 「フラン、私はなんと愚かなことをしていたのだろうか。 君という美しい薔薇がこんな近くに咲いていたのに、私は盲目にも気づけずにいた。 まだ間に合うだろうか?私にその麗しい花弁を向けてくれるだろうか?」 そっと持ち上げたフランの手にキスを1つ落とし、彼はじっと返事を待った。 フランは国王の瞳に映った自分をじっと見つめ、そして小さく頷いた。 「ああフラン!君を心から愛すると誓おう!」 と、その時。 背後から騒々しい足音が聞こえた。 「フラン!こ、これは一体…どういうことだ!」 顔を真っ赤に染め上げたモンテス侯爵、その人であった。 「あなた…!」 フランは血の気が引いたように青ざめ、顔を両手で覆い隠した。 「説明しろと言っているのだ!…国王、まさか貴方!」 怒りに身を震わせた侯爵は、掴みかからんばかりの勢いで国王に詰め寄った。 その瞬間、待機していた衛兵にいとも簡単に取り押さえられてしまったのである。 「立場を弁えよ。」 頭上高くから振り下ろされた絶対王者の冷酷な声。 それは、残酷な現実をまざまざと見せつけるものだった。 地面に組み敷かれた侯爵は、凄まじい形相で国王を睨み上げると、声にならない叫びを上げた。 「投獄しろ。」 数日後。 解放されたモンテス侯爵を待っていたのは、国外追放命令であった。 更に追い打ちをかけるように、フランからは離婚届けが請求され、王の指示の元もはや拒否権は認められなかった。 そうして全てが終わった頃、彼の元には承諾金として多額の金だけが残った。 一方、晴れて独身となったフランは、国王第一寵姫を拝命するのである。 そして後にこれが、歴史に名を残す悪女の誕生の瞬間であった。 第一寵姫就任の披露宴は、その年一番の規模で行われた。 フランは、眩いばかりの衣装に身を包み、その日一日で国費が倍になったと噂される程であった。 その席には当然王妃マリーの姿もあり、軽はずみに話しかけるフランの姿は、多くの貴族に眉を顰められるものであった。 しかし当の本人は何一つ気にした素振りを見せることもなく、あっけらかんと笑う姿が度々見受けられたという。 「フラン様、王妃様より言伝を授かってございます。」 「ごめんなさいね。私、いま手が塞がっておりますの。」 ここはフランに与えられた絢爛豪華な一室。 片時も離れていたくないという、国王たっての希望により、急遽あつらえられた部屋である。 「…恐れながら。前回も、前々回もお受け取りになっていないようですが。」 王妃付きの従者だろうか。 純朴そうな顔に皺を寄せ、彼は小さく苦言を呈した。 フランは国王の頭を撫でていた手を止め、途端に顔色を変えると瞬時に泣き真似を始めた。 「ええ、そうね…貴方の言う通りだわ。ああ、私はなんて悪い女なのでしょう。 こんな悪い女、国王様に嫌われてしまうわ…!」 その途端、すぐさま跳ね起きた国王は必死にフランを慰め、その後、青ざめた従者に厳しい処分を言い渡した。 「フラン、私の愛しい人。これで君を傷つける者はいなくなった。」 その言葉通り、従者は駆けつけた衛兵によって連れ去られ、一部始終を見守った使用人たちは、青ざめた様子で互いに顔を見合わせた。 披露宴から数週間が経った頃、宮殿内では第一寵姫ご懐妊の一報が広まった。 その知らせは瞬時に王の耳にも届き、彼は更に足繁く通うようになる。 「ああフラン、身体はどうだ?大事ないか?」 「ええ、良好ですわ。陛下がお近くに居てくださるからですわね。」 何度繰り返されたであろうか。 5分おきに、いや毎分ごとに繰り返される同じ会話。 使用人たちは粛々と己の仕事をこなし、彼らの世界を壊すような愚か者はいない。 フランの機嫌を損ねるわけにはいかないからである。 「失礼いたします。王妃様よりお祝いの品が届いてございます。」 そう従者が持って来たのは、柔らかな生地のショールであった。 マリーらしい、フランの身体を気遣った品であった。 「良かったではないか、フラン!」 王は使用人が広げたショールを手に取ると、そう微笑みかけた。 しかしフランは違った。 ショールを見るや否や、悲しそうに目を伏せたのである。 「ど、どうしたフラン!?」 とうとう涙が一滴、フランの頬を滑り落ちた。 「実は…このショールの色。 私の娘クリスティーヌを包んでいた布の色と同じですの。」 クリスティーヌはフランが初めて授かった子であり、幼くしてその生涯を終えた子供であった。 「王妃様はきっと…私に嫌がらせをしておいでなのですわ。 このお腹の子もクリスティーヌと同じように…。」 その瞬間、国王は力任せにショールを引き裂いた。 「なんと下劣な女だ。腹いせのつもりか!」 激高した王は、まだ腹の虫がおさまらないとばかりに、近くの椅子を蹴り飛ばした。 途端上がる短い悲鳴。 「お止めくださいませ、国王様!フラン様に当たったらどうなさるおつもりですか!」 ルイスはフランを守るように駆け寄ると、厳しく非難した。 「…すまない。」 はっと我に返った王は、はらはらと涙を流すフランを抱きしめた。 「私に任せておけ。必ずやこの報いを受けさせてやる。」 その後、王妃マリーの部屋からは激高した国王の声が漏れ聞こえ、宮殿内は騒然となった。 幾つもの憶測が飛び交う中、国王は実質的な絶縁宣言を発表したのである。 こうして、国王の中にあった王妃への情は木っ端微塵に砕かれ、彼女はもはやお飾りの妻へと成り下がったのであった。 「…人間というのは、なんと単純な生き物なのかしらね?」 夜も深まったある日のこと。 フランは、夜風に当たりながら傍らに立つルイスへと話しかけた。 「例の件ですか。」 風に煽られ、ふわりとたなびいた若草色のショールを目の端に捉え、ルイスは囁いた。 「ふふふ。 王妃様が下さったあのショールは、王家御用達の職人が手掛けた物だったわ。 お祝いの品として、これ以上ない程の物ね。」 あの日、王妃から送られたショールは、絹で織り込まれた上質な白いショールだった。 「赤子を包む布なんて、大体が白色なのにね?」 クスクスと楽しそうに笑っていたフランだが、次の瞬間恐ろしい程の無表情となった。 「…邪魔者は早々に片づけなくてはね。」 秋も深まったある日の夕方、フランは王の娘ルイを出産した。 はじめ自発呼吸の見られなかったルイは、医師たちの懸命な処置の甲斐あって、無事元気な産声を上げた。 「フラン!よくぞ、生んでくれた!」 駆けつけた王はしっかりとフランを抱きしめ、次いで恐る恐るルイを抱えた。 「まぁ。そんなに緊張なさらなくても。」 フランの言葉通り、ルイを抱えた手はプルプルと小刻みに震え、その顔は見たことが無いほど強張っていた。 「しかし…もし落としでもしたら…!」 「国王様、宜しければ私が。」 そこにすっと現れたルイスが手を差し出すと、王はホッとしたようにルイを託した。 「…フラン、私の愛しい人。体調が戻ったらまた薔薇を見に行こう。」 翌年、フランは王の息子オーギュストを産んだ。 そしてこの頃からである。 彼女の態度は露骨に変化していくのであった。 「何をするの!」 ある日の昼下がり。 宮殿内に響き渡ったその声は、行き交う人々の足を止めた。 「も、申し訳ございません!フラン様!」 見ると、1人の侍女が青ざめた様子で立ち尽くしている。 「貴方どう責任を取るおつもり?」 対するフランは、不遜な態度でヒラヒラと手を振っていた。 「この手袋は国王様直々に選んでくださったものですの。 貴方が触れていいものじゃなくってよ!」 どうやら、新しく入った侍女は軽はずみにもフランの持ち物に触れたらしい。 「貴方、もう来なくていいわ。」 ふいっと顔を背けたフランは、今にも泣きだしそうな侍女にあっさりと解雇宣告を下した。 「これで何人目かしら。」 所変わって、フランの部屋へと戻った使用人たちはヒソヒソと内緒話をしていた。 「今日の子で20人…かしらね?」 ここ最近、フランは以前にも増して気分のムラが激しくなっていた。 ある時は、宝石商や仕立て屋など、多くの商人を呼びつけては気前よく大金をばら撒いたかと思うと、またある時は所構わず使用人たちを怒鳴りつける場面が見られた。 「今や、フラン様に逆らえる人などいないからだわ。」 そう…今や次期国王候補の母親となったフランは、まるで女王のように振舞うようになっていたのである。 「王妃様のお立場を考えると…おいたわしや。」 「シッ!ここで王妃様の名前は禁句だって言ったでしょう!」 それは、ある日の晩餐会でのことだった。 フランは王妃マリーに対し、“無知なお人好し”と表現したのである。 すると、なんと国王は激怒したのだ。 これにはフランも相当なショックを受けた。 もはや、“お飾りの王妃”とまでその地位を追いやったはずが、そうではなかったのだ。 …それ以来、王妃の名は禁句となったのである。 「ところで、フラン様はどちらにお出かけになったのかしら?」 「あなたご存じないの?…例のアレよ。占いよ!」 始まりはよくある話だった。 とある令嬢が、長年抱え続けた恋心を成就させた。 そんな何処にでも転がってそうな噂話は、暇を持て余した貴族たちの口の端に乗り、酔狂な紳士がその真相を確かめに行ったのである。 するとどうだろう。 なんと、長年悩まされ続けた不眠が解消したと言うのだ。 それからである。 宮殿内は空前の占いブームとなったのであった。 「ごきげんよう、マダムララ。今日もいいかしら?」 「もちろんですわ、フラン様。」 ゆったりと腰かけたフランの元に現れた黒ずくめの女性。 彼女こそ、空前の占いブームを巻き起こした張本人であった。 「本日はどういったご相談でしょう?」 そう切り出したララは、重たそうな鞄から大きな水晶玉を取り出した。 「決まっているじゃない、国王様のことよ。 実は…オーギュストを産んで以来、国王様の夜伽がなくて。」 不安そうに話すフランは、だいぶ肉付きの良くなった腰回りに手を当てた。 「先日も、あんなに毛嫌いしておいでだった王妃様を擁護されていたの。 ああマダムララ…国王様はもう、私のことなど愛してくださらないのかしら?」 思わず涙ぐんだフランを前に、ララは真剣な面持ちで水晶に手をかざした。 「分かりましたわ。少し国王様のお心を見てみましょう…。」 そしてブツブツと何事か呟くと、カッと目を見開いた。 「見える…見えますわ! フラン様、国王様は決してお心変わりなさったわけではございません! ただ…、ああ何ということ!」 突然、ララは両手で顔を覆い隠した。 「何!何が見えたというの?!」 フランは先を急かすように問いかけた。 「…フラン様。お気を確かに、お聞きくださいませ。 国王様は、国王様は…夜伽に飽きておいでのようです。」 その瞬間、フランはショックのあまり呼吸を忘れるほどであった。 しかし続く言葉が彼女を正常に戻した。 「しかしご安心くださいませ。…私、こんな事もあろうかと秘薬を用意してございます。」 すっとララが差し出したのは、小瓶に入った液体だった。 「これをほんの少し飲むだけで、たちまち気持ちは高揚することでしょう。」 フランの手にポンと乗せられたそれは、鈍く怪しい光を湛えていた。 「しかし…秘薬ゆえ、それなりに…」 「頂くわ!」 間髪入れず叫んだフランは、その胸にしっかりと小瓶を抱きしめた。 「お買い上げ、誠にありがとうございます。」 それからというもの、フランは事あるごとにララを呼び出した。 そして立て続けに妊娠を繰り返し、第五子を出産する頃には、見る影も無いほど肥大化したのである。 ここ最近、市内を中心に各地で騒がれ始めたとある事件があった。 なんでも、被害者は一様に顔を歪め、苦しみ抜いた末に死を迎えているのだとか。 検死の結果、浮かび上がった凶器は毒薬。 それも相当な精度で作り込まれた代物らしく、被害者の体内からは検出が難しいという特徴を持っていた。 「まぁ…なんと恐ろしい。」 ここ宮殿内でも、その話題はすぐさま人々の関心を惹いた。 「私、恐ろしくて恐ろしくて…警備を増やしてしまいましたわ!」 「まぁ!そちらも?…実は私も。」 それは何も貴族だけではなかった。 使用人から始まり果ては衛兵に至るまで、皆一様に不安な顔をしていたのである。 そんな折、国王は久しぶりにフランの部屋を訪れていた。 第五子マリアンヌを出産したからである。 「陛下!来てくださったのですね!」 心底嬉しそうに顔を綻ばせるフランとは対照的に、国王は口数も少なく事務的な礼を言うに留めた。 「国王様、どうぞおかけ下さいませ。」 気を利かしたルイスが王に椅子を進めるも、彼はそれを拒否し頑なに座ろうとしなかった。 彼の身体全体から漂う拒否感は、もはや拭いようのないものとなっていたのである。 それでもフランは必死に話しかけた。 傍から見る者が何とも言えない顔になろうとも、それは必死に話しかけた。 しかし… 「これで失礼する。」 冷たく放たれたその一言が、何よりの証拠だった。 「フラン様!どうか、御子様たちに…少しでいいのでお話を!」 長女ルイを始め、5人の母となったフランではあったが、その子育てには全くと言っていい程関心を示さなかった。 「不要だわ。」 いつものようにそう素っ気なく返されたルイスは、まん丸の瞳で見上げる子供たちを前に、成す術も無く立ち尽くした。 「そんな!フランさ…」 「ルイス!私たちはルイスと遊びたいの!」 唐突とも言えるタイミングで割って入った長女ルイは、ルイスの裾を強く掴んだ。 「お母様はお忙しいの。わがままを言ってはいけないわ。」 そろそろ状況の理解も進んできたルイである。 彼女なりに…答えを出してしまったのかもしれない。 とは言え、まだ幼い子供だ。 その顔には隠し切れない寂しさが見て取れた。 「ルイ様。」 思わず強く抱きしめたルイスは、鼻をくすぐる甘い香りに涙がこぼれた。 「ルイス!早く!」 すっかり腕白少年へと成長したオーギュストは、母親譲りのブロンドをなびかせ駆け出した。 「オーギュスト様、危のうございます!」 ルイスは必死な形相で追いかけるも、それがまた面白いのかオーギュストは更に逃げ回る。 「ルイ様、皆様をお願いします。」 しっかり者へと成長したルイに弟たちを任せ、ルイスはケタケタと笑う少年を捕まえるべく全速力で走った。 走って走って…やっと捕まえた頃には、そこは宮殿から離れた薔薇園の前であった。 「広いですね…私、初めて見ました。」 呆けたように見つめるルイスの横で、オーギュストは彼女の裾を掴んだ。 「ルイス、あれ。」 そう指さした先には、一輪の花に手を添える国王の姿があった。 「まぁ国王様ですね!」 これは天の計らいかもしれない。 そう、ルイスは思った。 母親の愛情に飢えた子供達に、せめて父親の愛情だけでも。 ルイスは、オーギュストの手を引き走り出そうとした。 その途端、思いの他強い力がルイスを止めた。 「待って。」 短く発せられた言葉は、強烈な意思を伝える。 「見て。」 そして、ルイスは見てしまったのだ。 手折った一輪の花を差し出す国王と、頬を薔薇色に染めた1人の令嬢の姿を。 「オーギュスト様!行きましょう!」 ルイスは慌てて踵を返した。 何ということだ、あんまりではないか。 込み上げてくる涙は後から後から頬を伝い、漏れ出る嗚咽は唇を噛んで耐える。 「オーギュスト様、あれは何かの間違いでございます。 何か…そう、何か事情あっての事でございましょう!」 まるで、自分に言い聞かせるが如く早口でまくし立てるルイスに、オーギュストは黙って手を引かれた。 でもきっと、彼は子供ながらに察してしまったのだろう。 そうでなければ、ルイスを引き止めるような真似をするだろうか。 「ルイス泣かないで、僕は大丈夫だよ。」 ああ、また。 また身勝手な大人の事情で、子供に要らぬ気遣いをさせてしまった。 ルイスは溢れる涙をそのままに、強く強く彼を抱きしめた。 「この先何があっても、ルイスはオーギュスト様の味方でございます。」 だからどうか…。 続く言葉は心の内に押し込め、柔らかくもあたたかな体温を感じた。 それから間もなくして、宮殿内ではとある噂がまことしやかに囁かれるようになった。 「ねぇ、貴方ご存じ?例のアレ。」 「例の…ああ!驕りの女神失墜か、というあれね。」 なんでも、とある紳士がふらりと立ち寄った薔薇園でのことだった。 そこには黄金に輝く巻き髪を天高く結い上げた女性と、彼女に優しく笑いかける国王の姿があったと言うのだ。 「黄金の巻き髪を天高くだなんて…そんなヘアスタイルの方いらっしゃるの?」 「まぁ所詮は噂話ですもの。」 そう、只の噂話…。 暇を持て余した貴族たちが面白おかしく語ったもの。 しかし、事態は急展開を迎えるのである。 「なんですって!?」 その日、寝台に横たわったフランは悲痛な叫び声を上げた。 第五子マリアンヌを出産してからというもの、彼女の体調は優れない日が続いていたのだ。 度重なる出産に加齢、そして増える一方の体重がそれに拍車をかけていたのだろう。 そんな折に届いた一本の知らせ。 “国王様、ファンジュ嬢を第一寵姫に任命” ショックだった。 分かってはいたが…言葉1つ与えられないのか。 「すぐに支度を。ファンジュ嬢に会いに行くわ!」 急ぎ身なりを整え訪問したファンジュの部屋は、思いの他こじんまりとした一室であった。 「まぁフラン様~!ようこそお出で下さいました~!」 フワフワと独特の口調で迎え入れたファンジュは、輝く金髪を頭上高くまとめていた。 「突然押しかけてしまってごめんなさいね。」 思ってもいない事を口にしつつ、フランはなんとも質素な部屋の作りに首を傾げる。 「申し訳ございません。本来ならば、私の方から伺うべきところなのですが…。」 フランの不躾な視線に気が付いたファンジュは恥ずかしそうに目を伏せると、そっと腹部に手を添えた。 「貴方…まさか!」 驚愕に目を見開くフランとは対照的に、ほんのりと頬を染めたファンジュはコクリと頷いた。 久しぶりに呼び出されたララは、フランの姿を視界に入れるや否や、ひくりと口元を震わせた。 「まぁ…大層お変わりになって。」 「そうかしら?自分では特に変わったようには感じないけれど。」 嘘だった。 明らかに自分が肥大化しているのは痛いほど感じていた。 そしてその際たる原因は、国王だった。 彼の顔が、声が、空気が…フランを拒絶している。 分かっている。自分でも痛い程分かっている。 「今日は1つ、頼みがあってよ。」 そうフランが持ちかけた内容は驚くべきものであった。 「…ご冗談を。」 ララは微笑みを浮かべようとして失敗した。 「冗談ではないわ。…こんな事、貴方にしか頼めないの。ララ、どうか頼まれて頂戴。」 フランの瞳は覚悟を決めた者のそれだった。 「…少し、考えさせてくださいませ。」 そうして、一旦は持ち帰ったララだったが、後日正式に承諾の意を伝えた。 「本当に…宜しいのですね?」 最終確認を行ったララの声は震え、その瞳は激しく揺れていた。 「ええ、お願い。」 片やフランは、まるでランチの誘いを受けるかのように軽やかであった。 ファンジュ嬢が御子を宿しているかもしれないという話題は、瞬く間に宮殿内を駆け巡った。 それは同時に、“驕りの女神”と揶揄されるフランとの対比でもあった。 「ファンジュ様、ふっくらとされてきたわね。」 「ええ本当に。きっと元気な男児がお生まれになるのだわ。」 「ふふふ。…“女神様”の大きなお腹からは、いつになったらお生まれになるのかしらね?」 そう仄暗い笑みと共に交わされる会話は、往々にして本人の耳へと届くものである。 フランの情緒不安定さは、日増しに酷くなっていった。 「フラン様!お止めくださいませ!」 響き渡る悲鳴、耳をつんざくような破壊音。 彼女は突然、目の前にあったローテーブルを窓の外に放ったのである。 幸い、怪我人は出なかったものの、辺りは騒然となった。 「お止めください!」 尚も持ち上げようとするフランに、ルイスは慌てて飛びついた。 「放しなさい!放せ!」 揉み合う2人は駆けつけた衛兵によって引き離され、なんとかその場は収まったものの、この一件はフランの醜聞を広めるきっかけとなった。 そしてこの頃からである。 フランは夜な夜な、亡霊のような足取りで何処かへと出かけるようになったのだ。 「ルイス!何をしているの、早く!」 「ルイ様、お待ちくださいませ。」 春の日差し降り注ぐ麗らかなある日。 ルイスはルイと2人、冒険の旅へと出ていた。 「良いかルイスよ!ここは戦場、気を抜くな!」 昨晩、ルイの枕元で読み聞かせた物語をいたく気に入った彼女は、捕らわれの姫を救う若き戦士ルイとなっているのだ。 「ルイ様、ご覧ください!あそこに何やら怪しげな茂みがございます!」 ルイスもまた存外乗り気で相手してくれるため、ルイは殊の外嬉しそうだった。 「良くやったルイス。私に続けー!」 そしてルイは勢いよく茂みへと突進したのである。 その途端、聞こえたルイの悲鳴。 「ルイ様!」 慌てて追いかけたルイスの目には、驚いた顔で尻もちをつくルイの姿が映った。 「ルイ様!お怪我で…も…」 そして気が付いた。 彼女が見上げる先には、国王がいたのだ。 「ここで何をしている。」 久しぶりに間近で聞いた王の声は、別人のように冷たく尖っていた。 「申し訳ございません。」 ルイスはすぐさまルイを背に隠し、深く頭を下げた。 「答えろ。ここで何をしている。」 質問ではなく、もはや詰問だ。 「はい。ルイ様と午後の散歩に出ておりましたところ、こちらに迷い込んでしまいました。」 ルイスは震える声で、しかし目線は逸らさずに王を見上げた。 「ルイだと?」 王はピクリと眉を震わせると、突然ルイに歩み寄った。 「何を…!」 そして、彼女の頭に手を置いたのである。 「そうか…大きくなったな。」 その時、ルイスの脳裏を掠めたのは、強張った笑みで赤子のルイを見下ろす王の横顔だった。 「…今度、良かったら遊びに来るといい。」 それは思わぬ言葉だった。 ルイは勿論、ルイスまでもが目を大きく見開いた。 そして、どうやら彼自身も同じだったらしい。 「無理にとは言わない。」 まるで取り繕うようにそう付け足すと、逃げるように去って行ったのである。 「ルイス、私…お父様に会いに行こうと思うの。」 宮殿へと戻る道すがら、ずっと黙っていたルイはポツリと呟いた。 「でもそれは、お父様のためじゃないわ。私自身のためよ。」 真っ直ぐ前を見据えた少女は、身勝手な大人たちのせいでまた一つ、成長を早めてしまったらしい。 ルイスはぐっと口元を引き締めると、努めて明るく同意した。 まるでなんてことないように…。 その余りにも衝撃的な知らせは、瞬時に宮殿内を駆け巡った。 “ファンジュ嬢、死亡” 国王第一寵姫となった彼女は、それまでの質素な部屋から一転、国王の隣室を与えられるようになった。 しかし初めての出産を控えた彼女は、急激な環境の変化に日々不安を口にするようになり、見兼ねた医師の紹介でとある令嬢が紹介された。 令嬢は、以前から話の上手さには定評があり、機知に富んだ話題に触れることで不安が解消されることを見込んだのである。 すると既に面識があったことが発覚し、彼女たちは急速に仲を深めていった。 ある日のこと、令嬢はファンジュ嬢と仲違いしたと周囲にこぼすようになった。 その言葉通り、まるで姉妹のような仲睦まじさが度々目撃されていた彼女たちは、ここ最近連れ立った姿を見せていなかったのである。 周囲は面白おかしく彼女たちの仲を詮索したが、双方やんわりと言葉を濁すだけで、真相は闇の中となった。 そんな中起きた件の事件は、宮殿内の人々を震え上がらせた。 なんと、ファンジュ嬢の死因は毒殺だったのである。 宮殿内が不穏な空気に包まれる中、ルイは父王フィリップの元を訪れていた。 とは言え、件の毒殺事件を深刻に捉えた国王は、その真相究明のため諮問会議に向けた準備の真っ最中だったのである。 「どうぞ、こちらでございます。」 慌ただしく人の行き交う書斎へと案内されたルイは、不安と興味の入り混じった目でキョロキョロと辺りを見渡し、付き添いとして同行したルイスに軽く注意を受けた。 「ルイ様!」 小さく舌を出したルイはそこで、初めて国王フィリップの仕事姿を目の当たりにした。 沢山の人に囲まれ、次から次へと差し出される巻物に目を通しては、息つく暇もなく指示を出す。 それは、今までルイが抱いていた父親に対する印象とはかけ離れたものであった。 「すまない。今は少し立て込んでいてな。」 くたびれた様子の王と対面したのは、それから少し経ってからのことだった。 その顔には薄らと隈ができ、こぼれるため息が彼の疲労具合を思わせた。 「いいえ、お父様。本日はお招き頂き誠にありがとうございます。」 ルイは柔らかな笑みを浮かべ、王の疲労を労うかのように微笑んだ。 その姿はまるで、かつての母フランのようで、王はしばし言葉もなく固まった。 「…お父様?」 ルイが小首を傾げると、王は何でもないとばかりに首を振り、改めて娘の成長に目を向けた。 「大きくなったな。…いくつになった?」 王の中のルイは、未だ赤子のまま少しも成長しておらず、それは同時に、彼がそれだけの 間関りを持とうとしなかったことを表していた。 「…もうすぐ6歳になりますわ。」 ルイの顔には一瞬複雑な表情が浮かんだが、彼女は努めて笑顔を振りまいた。 きっと無意識下で、感情を抑制する癖がついてしまっているのだろう。 ルイスは居ても立っても居られず、失礼を承知で口を挟んだ。 「国王様!恐れながら、来週ルイ様はお誕生日を迎えられます!」 それは、下手したら親子間に土足で踏み入るような発言であった。 もしかしたらルイは、王に知られたくなかったのかもしれない。 それでも止まらなかった。 これ以上、罪のない子供たちに我慢を重ねて欲しくなかったのだ。 「どうかお祝いの言葉を…」 「ルイス!お黙りなさい!」 その瞬間、ルイは未だかつて無いほど鋭く叫んだ。 「私はそんなこと望んでないわ!」 それは明らかな拒絶だった。 まだ年派のいかない幼子が抱くにしては、余りにも重く寂しい感情であった。 言葉を失った大人たちは、この時初めて事の重大さに気が付いたのである。 そしてそれは同時に、もはや取り返しのつかない溝でもあった。 「お父様、この際はっきりと申し上げておきます。」 重苦しい空気が漂う中、ルイはしっかりとした眼差しで父親を見据えた。 「私は、今更あなたと仲良しごっこを望んでいるわけではございません。」 思わず息を飲んだルイスは、続く言葉で失神するかと思った。 「私が望むことはただ一つ、ここにおりますルイスを私のお母様として頂きたいのです。」 「な、何を言って…!」 もはや気が動転し過ぎて、脳が理解することを拒んだ。 「もちろん、事実は変わりません。私に流れる血筋は王家のものです。 しかし、お父様のお力があれば、養子縁組することなど造作もないはず。」 まるで大人のような口ぶりで話すルイは、何処でその知識を得たのか甚だ疑問であった。 「もし、お父様が私たちに何かしら思う所があるのならば、どうかこの願い聞き届けてくださいませ。」 そう、ルイは深々と頭を下げたのである。 「…可能ではあるが、条件がある。そう言ったらどうする?」 王はしばしの沈黙の末、感情の読み取れない声色で尋ねた。 ルイはぐっと上目遣いに王を睨むと、一呼吸置き微笑を浮かべた。 「その条件とは何でしょうか?」 「養子縁組というのは言葉で言うのは容易いが、その実複雑な制度だ。 その上、私の血を引く者が一介の使用人に縁組するとなると、それなりに理由がいる。」 それは至極当然のことだった。 それ程までに王家の血筋というのは、重たいものなのだ。 「…フランお母様が、何らかの理由で宮殿を追われたとしたら?」 それは、耳を疑うような言葉だった。 国王を始め、聞き耳を立てていた使用人たちですら、一時呼吸を忘れるほどであった。 「ルイ様!滅多なことを口にするものではありません!」 瞬時に𠮟りつけたルイスだったが、ルイは動じることなく国王を見つめた。 「お父様、どうなんですの?」 王は突如として、得体の知れないものと対峙しているような気分に陥った。 この娘はなんだ。 何を言っている…? 「あ、ああ。そうなれば、可能ではあるが…。」 可能ではある、しかし…。 ルイは満足したように1つ頷くと、にっこりと微笑んだ。 「本日は貴重なお時間を頂きまして、本当にありがとうございました。 大変参考になりましたわ!」 そしてさっと立ち上がると、もはや用済みとばかりに見向きもせず歩き始めた。 「お、おいルイ!」 王は慌てて娘を呼び止めたが、振り向いた彼女の顔を見た瞬間、頭が真っ白になった。 なんて、なんて似ているんだ。 微笑を浮かべたルイは母フランそっくりだったのである。 人々を震撼させた毒殺事件は、とある密告者によってその全貌が明らかとなった。 首謀者マダムララ。 彼女は占い師という仮面の元、顧客の要望によって毒薬の販売に手を染めていたのだった。 更には、夜な夜な自宅に顧客を招いては怪しげなミサを執り行い、その儀式には生贄として多くの胎児の血が使われたという。 警察の調べによると、延べ350人を超える顧客名簿には多くの有名貴族が名を連ね、各所からの圧力によって公表は差し控えられることとなった。 奇しくも太陽神と例えられた国王フィリップの治世において、これほどまでの大事件は大きな醜聞となり、多くの有力者が関与していたことも影響してか、更なる追及は見送られた。 そしてこの一連の騒動は、首謀者マダムララの火刑によって全て闇へと葬り去られたのである。 あれから一月が経ち、ルイを始め5人の子供たちは、正式にルイスと養子縁組を行った。 更に驚くべきことに、国王は何かと理由を付けては、子供たちの元へと足繁く通ってくるようになったのである。 「お父様、あなた暇なんですの? こんな所で油売ってる暇があったら、もっと国のために働けですわ!」 国王に要求を突き付けて以来、ルイは益々容赦なく接するようになった。 「ルイ!陛下に対してなんて口の利き方ですか!」 「私は気にしていない。むしろルイが話しかけてくれるなんて、この胸のときめき…これが父性というやつか。」 だいぶ母親らしい態度になってきたものの、たまに元に戻るルイスと、何やらようやく父親としての役割に目覚めたらしい国王との奇妙なやり取りは、この所よく見られる光景となった。 危惧されていた、母親が変わることによる子供たちへの影響も、今のところ見られない。 むしろホッとしたように見受けられるのは気のせいだろうか。 何はともあれ、子供たちの笑顔にルイスは胸を撫で下ろす思いであった。 満足そうに手を振り去って行く国王を見送り、入れ替わりで現れたアント公爵を出迎えたルイスは微笑みを浮かべた。 「…アント公爵様。本当に、本当に…ありがとうございました。」 「なーに私はただ、可愛い姪たちの願いをアレしただけのこと。」 それはあの日。 驚きの要求を突き付けたルイを問い詰めた日のことである。 「ルイ様!何をお考えですか!」 ルイスは、怒るべきなのか悲しむべきなのか…もはや訳の分からないまま半狂乱で叫んだ。 「静かになさいルイス。はしたないわ。」 一方ルイは至って冷静に、運ばれてきた紅茶にそっと口を付けた。 「し、しかし…!」 「貴方が言いたいことは分かっているわ。順を追って説明するから、まずはお座りなさい。」 チラリと向けられた視線が椅子を指し、ルイスは渋々腰を下ろした。 「まず始めに、ルイスが一番気にしているであろう事を言っておくわね。 この計画は私たち5人の総意よ。」 その瞬間、ルイスは自分の身体からふっと力が抜けるのを感じた。 そう、ルイスにとっての最大の気掛かりはこれだったのだ。 また身勝手な大人たちによって、振り回されているのではないか。 本当に彼女たちが望んだことなのか。 …しかしそれはどうやら杞憂だったらしい。 向けられた穏やかな瞳がそれを物語っている。 「安心した?じゃあ続きね。」 そうして語られた内容は、およそ子供が考え出したとは思えないものだった。 「ルイ様お一人で…?」 思わず尋ねたルイスに、軽やかな笑い声が返ってきた。 「馬鹿言わないで頂戴、そんなわけないでしょ。」 「あ、ああそうですよね!失礼しました。」 それはある日のこと。 ルイの部屋へと届けられた一冊の絵本がきっかけだった。 どうやら手作りらしいそれは、可愛らしい女の子が主人公のものだった。 女の子は高い身分に生まれながらも、両親からの愛情を知らずに成長した。 しかし女の子は負けなかった。 持ち前の頭脳を活用し、身近な人の助けを受け、無事育ててくれた優しい女性と幸せに暮らしていくのである。 これにはルイも大層驚いた。 まさに、自分の事を描いたかのような物語だったからである。 更に驚くことに、絵本にはちょっとした細工が施されていたのだ。 「ちょうど、女の子が話しているみたいに空欄の吹き出しが描かれていたの。」 「まぁ!それは素敵な遊び心ですね!」 そう、まるで“ルイの考えを書き込む為に”作られたかのようだったのだ。 それ以来、絵本はルイのお気に入りの一冊となった。 「え…?本当ですか?私、その絵本に心当たり無いですけど。」 毎日のように本の読み聞かせを行っているルイスだが、その絵本に関しては触った記憶さえなかったのである。 そんな変わり種の絵本、ルイスならば確実に目を通していたことだろう。 「当り前じゃない。誰にも見せないようにしていたもの。」 ルイは半ば呆れた様子で返事を寄越すと、また一口紅茶を口に運んだ。 自分の考えも書き込める絵本。 それは言わば、世界でたった一つの自分だけの絵本なのだ。 おいそれと見せるわけがない。 ルイスは納得したように頷くと、話の続きを促した。 何度も何度も絵本を手に取っている内に、それがやけに分厚いことに気が付いた。 調べてみると、それは絵本全体ではなく、ある特定のページだけにある特徴だと分かった。 これは何か秘密がある。 そう感づいたルイは、思い切って該当箇所にペーパーナイフを当ててみた。 思った通り、そこには折り畳まれた新たなページが隠されていたのだ。 「なんだかワクワクしますね!」 流石フランの娘である。 ルイの語り口調は、聞く者の感情を心地よく揺さぶる。 「ええ。私も夢中になったわ。」 優雅に紅茶を持ち上げたルイは、大人顔負けの笑みを浮かべた。 折り畳まれたページには、新たな言葉が隠されていた。 そしてその先には、疑問符を浮かべた女の子の姿が描かれていたのである。 「そこには何て書かれていたのです?」 期待に瞳を輝かせたルイスが尋ねると、ルイは微笑んだ。 「そのページには、“妹が出来た”そう書かれていたの。」 妹が出来た…? 予想だにしなかったそれは、ルイスの腕に鳥肌を立たせた。 そこには何者かの意志が介在する。 「ルイ様!その絵本、今どちらにありますか?」 気が付くと、ルイスは切羽詰まった様子で叫んでいた。 始めから怪しいと思っていたのだ。 主人公の女の子が余りにも類似し過ぎている。 これはもはや、ルイをモデルにしているとしか思えない。 焦るルイスを尻目に、ルイはやけに冷静であった。 「ルイス、座って頂戴。まだお話は終わっていないわ。」 「しかしルイ様!これは…」 今にも走り出しそうなルイスを見上げ、ルイは心底楽しそうに笑った。 「落ち着きなさいルイス。あの絵本はもうないわ、無くなってしまったの。」 「無くなった…?」 目を見開いたルイスに、ルイは母親そっくりの笑みで答えた。 「もう役目を終えたみたい。なんて言ったかしら?…そうそう、証拠隠滅ってやつね。」 初めて絵本を手に取った時からルイには分かっていた。 これは何者かが遠回しに指示を出している、ということに。 ただ、それが誰なのか、そして目的は何なのか…それが分からないままだった。 そんなある日、ルイは気が付いた。 自分以外触っていないはずの絵本が動いている。 そこでピンと来た。 随所に設けられた空欄、あれは、表向き自分の考えを書き込める遊び心だった。 しかし実際は、何物かがルイの動きを把握する為の手段だったのだ。 その日からルイは観察を始めた。 誰があの絵本を寄越したのか、その目的は何なのか。 そこで浮かび上がったのが…母フランだったのである。 彼女は昔から、ルイを始めどの子供とも関りを持とうとしなかった。 それは、幼くして亡くしたクリスティーヌが影響しての事…そう聞かされていた。 しかしルイには納得がいかなかった。 なぜなら、時折感じる彼女からの視線は愛おしさに溢れていたからである。 そこで考えた。 なぜ彼女は関りを持とうとしなかったのか。 その答えは…“ルイスのため”ではないだろうか。 そう考えると実に辻褄が合った。 フランが子供たちの手を突っぱねる時、必ずと言っていい程そばにはルイスがいた。 そしてルイスが身を挺して守れば守る程、子供たちはルイスに懐き、フランよりもルイスを求めるようになった。 それは同時に、ルイスの中でも変化を与えた。 何があってもこの子達を守るという、母性である。 そう…絵本を介してまで成し遂げたかったフランの目的はただ一つ。 ルイスに、子供達を託したかったのではないか。 「少しは落ち着いたかしら?」 ルイ自ら入れた紅茶を一口飲んだルイスは、小さく頷いた。 「じゃあお話の続きね。さっきも言ったように絵本はもうないわ。 だから証拠は何一つないのだけど…私は、私の意志で動いたことに間違いはないわ。」 それはつまり、何者かの意志は介在していたと、そう認めているように聞こえた。 「何者なのです…。」 戸惑いを含んだルイスを見つめ、ルイはふふふと笑った。 「内緒よ、そう約束したの。」 そう、約束したのだ。 絵本の送り主がフランだと気付き、その目的にも見当がついたルイは、ある日彼女を待ち伏せることにした。 案の定、ルイの部屋へと現れたフランは凍り付いたように固まった。 「探し物はこれね?」 すっと差し出した絵本に視線を落とした彼女は、ふっと諦めたように微笑んだ。 「いつから?…いいえ。どこまで気付いているの?」 「お母様の目的までと言ったところね。私達をルイスに託すつもりなのでしょう?」 その返答は、フランを大層驚かせたらしい。 大きく目を見開いた後、それは楽しそうに笑った。 「さすが陛下の御子だわ。…大正解、大変よく出来ました。」 奇しくも、物心ついてから初めて受けた母親からの誉め言葉だった。 「その様子だと、やり方も分かっていて?」 フランは試すような視線を向けたが、ルイは器用に片眉を上げると肩を竦めた。 「そう。では口頭で伝えるからしっかり聞きなさい。まずはアント公爵の指示を仰ぐの。」 「…叔父様?なぜ叔父様の名前が出るの?」 思わぬ人物の名に、ルイは素直に驚いた。 しかしフランからはただ微笑みが返ってくるだけだった。 「いいわね?公爵には既に話が通っているから、貴方はただ会いに行けばいいの。」 「ちょっと待ってお母様!質問に答えて!」 尚も食い下がるルイに、フランは冷たい視線を向けた。 「ルイ、私の目的は分かっているわね?貴方はこれから実の母親に捨てられるの。 縋るべき相手を間違えているわ。」 フランはルイが持っていた絵本を奪い取ると、ヒラヒラと振って見せた。 「これは頂いていくわ。…分かっているとは思うけど、この事はルイスには内緒よ。いいわね?」 そうして、彼女は一度も振り返ることなく去って行った。 後日、アント公爵の元を訪れたルイは、国王に突き付けた内容を知ったのである。 「叔父様、教えてくださいませ!なぜお母様は叔父様を紹介なさったの?」 一通り話が終わった頃、ルイは堪らず尋ねた。 「ルイにもいつか分かる時が来ます。大人にはアレする時があるのです。 ところでルイ、絵本はどうしました?」 答えになっていない返答に眉根を寄せつつ、ルイは律儀に答えた。 「…お母様が持って行ってしまいましたわ。あれには色々と書き込んでおりましたのに…。」 そう残念がるルイとは対照的に、公爵はふと考え込むように黙り込んだ。 「そうですか。アレも、なんだかんだ親…か。」 ルイは首を傾げ続く説明を待ったが、公爵はただ優しく微笑むだけだった。 フランとの会話部分は丸々伏せ、それ以外の説明を終えたルイは、じっとルイスの反応を待った。 この計画の大前提であるルイスとの養子縁組、ここを断られてしまったら元も子もない。 ルイは内心冷汗を浮かべながら、ルイスの反応を待った。 「ちょ、ちょっと整理させてください!」 しばし考え込むように唸っていたルイスは、そう叫んだ。 「えーと、まずルイ様御兄弟は私を母親にとお考えです。 その発端となったのが謎の絵本で、アント公爵様のご協力を得て国王様に直訴なさった。」 ちらりと伺ったルイは、間違いないとばかりに頷いた。 「その国王様への直訴の件ですが、ルイ様はこうおっしゃいました。 “フラン様が何らかの理由で宮殿を追われたとしたら?”と。 ここの説明をお願いできますか。」 ことフランに関して、ルイスはある種異様なまでの反応を見せる。 それは自分の身をなげうってでもフランを救おうとする、どこか母性に通ずるものだ。 ルイは早い段階からこの思想に気付いてはいたが、その理由にまで思い当たるはずもなく、ただそういう教育を受けてきたのだろうと思っていた。 しかし、今回ルイスの目を見て確信した。 そんな生半可なものではない。 これはもはや…執着だ。 ゴクリと自分の喉が鳴ったのを遠く感じ、ルイはアント公爵との会話を思い出していた。 「ルイ、アレは恐らくこう言うはずです。 “王家の血を引く者が一介の使用人に縁組するとなると、それなりに理由がいる”とね。」 敢えてなのか何なのか、公爵は楽しそうに笑った。 「しかしこれは事実。私達に流れるこの血脈は、それだけアレなのです。 しかし問題はない、すかさずこう返すのです。 “お母様が何らかの理由で宮殿を追われたとしたら?”とね。」 ルイは思わず息を飲んだ。 「叔父様!それはどういうことですの?お母様の身に何が起きるというの!?」 ほとんど悲鳴に近いこの質問には、さすがの公爵も顔を曇らせた。 「…ルイ、申し訳ないが言えないのです。アレしてしまっていてね。 ただ、そうだな。これだけはアレしておこう。彼女は遠い昔の約束を果たしに行くのだそうだ。」 「遠い昔の…約束…?」 果たしてこれで良かったのだろうか。 ルイにはもはや何が正解なのか分からなかった。 ただ今のルイに出来ることは、公爵が言った言葉をそのまま伝えることだけだ。 祈るような気持ちでルイスを見たその時、彼女の瞳からは一粒の涙が零れ落ちた。 「ルイス…?」 「あんな一方的な約束、誰も覚えているはずがないじゃない。そもそも、いるはずがないでしょ。…ほんと馬鹿な子。」 クシャクシャな顔で泣き笑いを浮かべるルイスは、その後しばらく涙を流し続けた。 灰色の雲が厚く覆い、人々の記憶から忘れさられたような港町。 女は1人、静かに船を待っていた。 するとそこに、帽子を目深に被った身なりのいい紳士が歩み寄った。 「ごきげんようマダム。今日は少しアレだな。」 紳士は視線を海に投げたまま話しかけた。 「ごきげんよう。…お見送りは不要と申し上げたはずですが?」 クスクスと笑った女は、紳士と同じように海を見つめた。 「どうしても、最後にアレしておきたかったのだ。…感謝する。」 紳士の声は少し震えているようだった。 「お礼を言われるような事は何もしておりませんわ。…ただ少し、彼女と仲良くなっただけですもの。」 女は口元に手を当て上品に微笑んだ。 「そうか、そうだったな。そのことだが…何か最後に、彼女は言っていなかったか?」 女はチラリと視線を向けたが、すぐに向き直った。 「貴方が望むようなことは何も。それに私たちは仲違いしたのですわ。 …その時、彼女が誰を思っていったのか、私には想像もつきません。」 ふっと張り詰めていた空気が和らいだような、そんな気配がした。 紳士は小声で何事か囁くと、不意に灰色の空を見上げた。 「安らかに眠れ…。」 「私の方からもお礼を申し上げなくては。」 しばしの沈黙の後、女は小さく口角を上げた。 「貴方がいなければ確実にこの計画は頓挫しておりました。心よりお礼申し上げますわ。」 「なに、私はただ成すべきことをアレしたに過ぎない。 しかし…本当に良かったのか?その…。」 紳士は何か言いたそうに口を開いたが、続く言葉出てこなかった。 「ふふふ。この前もはっきり申し上げたではありませんか。 でも…そうですわね。1つ、物語を聞いてくださらない?」 そうして女の口から語られた話は、ある幼い少女が経験した壮絶な物語だった。 「何ということだ! それじゃあその少女は、ご令嬢と入れ替わってしまったということか!」 「ええ。そして少女は友の為、一緒に罪を被ることにしたのですわ。」 「一緒に…?どういうことだ?」 「ご令嬢が命を落とした時、側には友がおりました。 そして友は必死に止めたのだそうです。…これ以上行っては危ない、危険だと。」 「そうだろう、そうだろうとも。だが、そのご令嬢は歩みを止めなかった。 だから命を落とするはめになった…これのどこに罪があるというのだ。」 「始めに申し上げた通り、下女となった少女たちは劣悪な環境に置かれました。 理不尽な暴力は日常茶飯事。そんな状況下にあれば、自ずと人目を避けて行動すると思いませんか?」 「まあ、そうだろうな。私だったらそうする。」 「そう…だからおかしいのですわ。きっと、屋敷の誰よりも逃げ道を知り尽くしていたはずの彼女が側にいて、どうしてご令嬢は命を落としたのでしょう。」 「確かに言われてみればそうだな。うん?いや、まさかそれじゃあ…!」 「ええ、恐らくそう仕向けたのでしょうね。」 轟々と巻き上がる黒煙と地響きのような爆音が辺りに響き渡った。 「もう間もなくですわね。」 女はすっと視線を滑らせると、鈍色に淀む海を眺めた。 「…少女は友の罪を一緒に被ると決めた日、もう1つ決めた事がありました。 それは、必ず子供を産むということ。」 「子供を?」 紳士は徐々に近づいてくる船に視線を向けた。 「ええ。そしていつの日か、友に子供を託す事を考えたのです。」 「それはなぜだ?」 徐々に大きくなる轟音は、女の囁き声をかき消してしまった。 「…すまない、もう一度言ってくれないか!」 紳士は女の側にグッと寄ると、少し声を張り上げた。 と、その時一陣の風が吹き抜けた。 その風は、紳士のシルクハットをいとも簡単に奪い取ってしまったのだ。 女はクスクスと笑うと、羽織っていたショールを紳士に差し出した。 「お返しいたしますわ…陛下。」 「…お前のことだ、既に気付いていたのだろう?」 苦笑いを浮かべ振り返った国王は、渡された若草色のショールに視線を落とした。 「今だから言うが、お前にはこの色は似合わぬ。」 「まぁ、ふふふ…実は私も好きではありませんでしたの。」 お互い顔を見合わせ微笑んだ2人は、どちらからともなく視線を外した。 「私は勘違いをしていたのだな。 てっきり、ルイスの為にあの子たちを託していくのだとばかり思っていた。 しかし…違うのだろう?」 王は、俯き加減に海を眺める彼女の横顔に言った。 「陛下、ルイは私にとても良く似ている…そう思いませんこと?」 「うん?ああ、そうだな。しかしそれがど…」 その瞬間、彼は目を見開いた。 「私、友達思いなんですの。」 そして彼女はすくっと立ち上がった。 「時間ですわ。どうかお身体を大切に…あの子たちの事、よろしくお願いいたします。 どうか…大切にね?」 そうして彼女はゆっくりと去って行った。 船が遠くかすみ、もはや肉眼では見えなくなった頃。 王は若草色のショールに視線を落とした。 彼女は、フランは…ルイスに復讐したのだ。 自分そっくりな顔の子供を育てさせることで、いつまでもいつまでも忘れさせない。 決して忘れる事を許さない、あの日の償いを。 「友達思いか…。」 きっと彼女は大好きだったのだ、かつて仕えたご令嬢のことも…。 吹きすさぶ冷たい風に身を晒し、女は遠く視線を彷徨わせた。 「フランお嬢様、私がしたことは間違っていたのでしょうか?」 あの日、べっとりと返り血を浴びたルイスはまるで幽霊のように現れた。 そしてポツリポツリと零した言葉は、およそ理解できるものではなかった。 しかし何度も繰り返された言葉があった。 “ごめんなさい” “許して” 私には、どうしてもルイスを責めることは出来なかった。 なぜなら、私もまた描いてしまったからだ。 ルイスと2人、あの苦しい生活から抜け出せる道を。 「ふふふ…アント公爵様にも悪い事をしてしまったわね。」 彼には、マダムララから受け取った媚薬を横流ししていたのだった。 その当時、彼は密かに思いを寄せる女性がいた。 ファンジュ嬢である。 その眩いばかりの金髪、溌剌としたその笑みに彼はすぐに恋に落ちてしまったのだ。 しかし恋の駆け引きに疎い彼は、その相談を私にしていた。 そして運命のあの日、彼はファンジュ嬢を薔薇園に誘い出した。 しかしそこで待っていたのは、優しく微笑みかける国王の姿。 …実は、同時に国王の相談にも乗っていたのである。 国王の興味が離れた事にいち早く気が付いた私は、度々彼を問いただした。 そして協力することを条件に、彼から身を引いたのである。 しかしこの時、思わぬことが起きた。 ファンジュ嬢が妊娠したのである。 父親はどっちなのか、私には判断がつかなかった。 それは国王とアント公爵も同様だったらしい。 しかしファンジュ嬢が頑なに国王の御子であると言い張るため、一度は疑いの目を収めた。 それでも一度生まれた疑惑は、彼らの中で燻り続けた。 その疑惑が確信に変わったのは、医師の紹介でファンジュ嬢と接触した時のことである。 彼女は罪の意識を共有するようにこう言ったのだ。 “本当に国王の御子であれば良かったのに” そこからの記憶はおぼろげにしか覚えていない。 気が付くと、私は1人船を待っていた。 「まるであの砂糖菓子のように、私も触ったら溶けてしまえばいいのに…。」 そう呟いた彼女の瞳は、どこまでも空虚であった。 「はーい皆さん、集まってください!」 その日、孤児院では新しいシスターが初勤務を迎えていた。 「今日から皆さんと一緒に過ごす、シスターメアリーです。」 先輩シスターに紹介されたシスターメアリーは、輝くような笑みを浮かべた。 「みんなーこんにちはー!」 一斉に返ってくる返事に、彼女は更に微笑みを増した。 「皆は何をして遊ぶのが好きなのかな?たーくさん、教えてね!」 その途端、気の早い何人かの子供は我先にと話し始める。 「ふふふ。待って待って!順番にゆっくりと聞くからね。」 困ったように、でも心底楽しそうに笑ったシスターメアリーは、その言葉通りしっかりと子供たちの話に耳を傾けた。 彼女が来てからというもの、この孤児院には変化が現れ始めた。 まず経営状況の大幅な見直しである。 今まで形だけであった経営会議は見直され、古参の神父シスターの意見だけでなく、広く意見交換が出来るように匿名制が用いられた。 その結果、今までは相手の顔色を伺った中身のない意見から、真に迫る意見に生まれ変わったのである。 それは同時に、皆が見て見ぬ振りをしてきた闇にも触れることとなった。 「本日の議題は、裏オークション。これの真偽について話し合いましょう。」 いつの間にやら議長役にはシスターメアリーの姿が見られ、口の上手さを武器にサクサクと話し合いを進めていく。 「倫理的に良くない事は分かっている。しかし…その他多くを救うのであれば、これは必要な犠牲なのではないか?」 古参の神父は、頑なに裏オークション撤廃の動きに反対の姿勢を見せた。 「私も同意見です。仮に取り止めた所で、残った子供たちはどうします? 飢え死にを待つだけではないですか。」 同じく古参のシスターもまた神父に続いた。 「しかし!私達がここで食い止めなくては、いつまでもこの惨状は変わりません。 大人たちの食い物にして良いのですか?!」 撤廃を声高に叫ぶ若き神父は、唾を飛ばす勢いで噛みついた。 「な、なんだね君!それじゃあまるで、私達が私腹を肥やすが為に子供達を犠牲にしているとでも言いたいのかね!失敬だぞ!」 古参神父は禿頭を真っ赤に染め怒った。 「事実そうではありませんか!神父様…私知っておりますのよ。」 この瞬間、会議室内の誰もが風向きの変化を感じた。 「賭博、なさってますよね?」 そう、彼には重大な悪癖があったのだ。 いつの頃からか、もはや彼にも思い出せない程前から、その味を知ってしまった。 「違う!私ではない!そうだ、このシスターだってこの前!」 「なな何をおっしゃるのです神父様!それは貴方が穴場を教えると言うから…」 こうして、巣くった病魔の摘発に成功したのである。 しかし依然問題は解決したわけではない。 「私前から思っておりましが、孤児院の許容量と子供たちの数が釣り合っておりませんわ。」 それはなんとも初歩的な改善点であった。 常時50人を抱え続けるこの孤児院は、そもそも多すぎたのである。 「なんということだ…!」 驚くべきことに、彼らの多くはここに来て初めて思い至ったようであった。 「では、何人ぐらいが適正なのでしょう?」 これには散々頭を悩ませることとなった。 孤児院は、その抱えた人数に応じて国から援助を受け取っている。 それはつまり、人数が減るということは与えられる金額もまた減るということ。 「只でさえ金策に頭を悩ませているのに、更に減ってしまったら…。」 待ち受ける未来に希望の光は見えなかった。 「私に考えがありましてよ。」 そう、シスターメアリーは言った。 彼女は時々、不思議なほど気品あふれる令嬢のような立ち振る舞いを見せる。 「折角、こんなにも多くの神父やシスターがいるのです。各々出稼ぎに参りましょう。」 これには相当な衝撃を与えたらしい。 彼らは皆一様に口をあんぐり開けて固まった。 神父やシスターとなった者は、生活の全てを主に捧げる喜びを持った者。 そんな彼らに、他所でも働けと言ったのである。 当然、彼らは烈火のごとく怒り狂った。 しかしシスターメアリーは平然と受け止め、そしてまるで女神のような微笑みを浮かべたのである。 「あら、それはおかしいのではなくて? だって、主は分け隔てなく愛を注いでくださるのに、仕える私たちが選り好みしているのですもの。」 「し、しかし…シスターというのは主に仕える者。一時でも離れるわけにはいきません!」 まだまだ幼さを残したシスターは、皆の意見を代表するように叫んだ。 「それはつまり、もし一時でも離れてしまったら、主は私たちをお見捨てになるということかしら?」 その瞬間、シスターは目を引ん剝いて叫んだ。 「まさか!シスターメアリー、あなた主を冒涜なさるの!」 「落ち着いて、そんなわけないじゃない。」 コロコロと鈴が鳴るように笑ったシスターメアリーは、鼻息荒く睨みつける彼女に優しく微笑んだ。 「主は、私たちを慈しんでくださっています。それは、いついかなる時でも同じこと。」 その言葉は、彼らの心に深く沁み込んでいった。 「それにこれは子供たちのため。 主がお救いになるそのお役に立つことに、何を悩む必要があるのかしら。」 そこには、もはや怒りに任せ口々に罵っていた彼らはいなかった。 「さぁ立ち上がるのです。いつでもその御心の側に。」 こうして多くの神父とシスターは、出稼ぎに出ることとなった。 同時に孤児院の運営はシフト制を導入し、持ち回りで子供たちの世話をすることになった。 すると、子供達にも変化が見られるようになったのである。 「シスターメアリー、もっとお仕事のお話して!」 今まで、毎日のように見ていた神父やシスターが交代で現われるようになり、子供たちの興味は外に向かうようになったのである。 彼らは外で何をやっているのか。 仕事というものは何なのか。 ここを出たらどうなるのか。 子供たちの興味は無尽蔵にあふれ、徐々に、しかし着実に彼らの将来に向けて準備を始めているのだ。 それは思わぬ副産物だと言えた。 シスターメアリーにとって、変わるべきはいつだって大人達だと思っていた。 しかし、そうではなかったのだ。 「本当に…子供たちはいつだって私のちっぽけな想像を超えていくのね。」 脳裏を掠めた子供たちの姿。 それはもはや触れることの出来ない、儚くも美しい幻。 「あ!シスターが絵本持っている!」 最近、孤児院に仲間入りした腕白な少年が元気に叫んだ。 「ふふふ…これはね、とーっても大切なお守りなの。」 「お守り?」 純粋無垢な瞳を大きく見開き、キョトンと見上げるその姿はいつかのあの子のよう。 「そうよ。この絵本を見ているとね、シスターは何だって出来ちゃうの!」 彼女は大きな力こぶを作り、まん丸な瞳に映った自分を見た。 すっかり体型も元に戻り、原因不明の体調不良も何事もなかったかのように姿を消した。 あれは一種の呪いだったのかもしれない。 「それじゃあ、シスターは魔法使いだね!」 彼女の真似をして力こぶを作った少年は、それだけ言うと直ぐに走りだした。 きっと興味が他に移ったのだろう。 「魔法使い…か。」 1人残された彼女は、ポツリと呟いた。
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