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人生は長い。自らが歩いてきたこの道を辿って行くと、そう思う。
先へ行く事は、痛みを伴った。歩けば歩くほどに、僕を否定する声は大きくなっていく。その声は昔から聞こえていたはずなのに、どうしてだろう。一歩足を進めるごとに、僕の感覚は鋭くなっていく。鋭くなった感覚は、痛みに支配される。僕の事が大嫌いな声たちは、僕の痛みとなって僕を殺そうとする。もうこれ以上、僕はこの痛みに耐えられない。そうして、歩き続ける事ができなくなった。
だから僕は旅に出た。過去を求めて。進むべき道から引き返すと、僕を苦しめていた痛覚は鈍くなっていった。僕は僕が生まれたその瞬間まで、旅をする。何も知らなかったあの頃へ。そしてそのまま、僕は生まれる事を、やめるんだ。
人生を遡る旅は楽しかった。おかしな話だ。僕は僕を、やめようとしているというのに。かつて見た景色のすべてが美しくて、哀しかった。
そんな話を、僕は旅の果てに辿り着いた部屋で語っていた。その部屋に居たのは、設計士だった。僕を創ったこの設計士に、僕は僕の存在を消してほしいと頼んだ。何故消えたいのだと設計士に聞かれたから、先のような話をしたのだった。
設計士は僕の話をうんうんと頷いて聞きながら、しかし目は合わせず、宙に浮ぶ螺旋の細部を繋ぎ合わせていく。何億年も同じ仕事をしていると豪語していた癖に、その手つきは辿々しい。
「あんた、本当に設計士か。そんなに不器用なら、僕みたいな奴が生まれてくるのも理解できるよ」
嫌味ったらしく言ってやった。僕をこんな風に創りやがって。
「俺はただ、脈々と受け継がれてきた命を繋ぐだけだから」
螺旋と睨めっこしている設計士は、僕と目を合わせないまま言った。
「生みの親に対して、消えたいだなんてよく言えたな。まぁ、お前さんが自分の命をどうしようと好きにすればいいさ。ただ俺は、創ってきた命に責任なんて持てないんだよ」
設計士は僕によく見えるように螺旋を動かした。
「こいつは、今まで生きてきた命の結晶だ。俺はその結晶を繋ぎ合わせて、ほんの少し手を加えて繋げているだけだ。命には良いものも悪いものも、温かいものも冷たいものも複雑に絡み合ってる。受け継いだそれらをどう生かすかは、それを受け継いだ者次第だ」
僕は宙に浮ぶ螺旋を見つめた。自分を構成するものは、ただ受け継がれてきたもの。変える事のできないもの。それは確かに僕を生み出したもので、僕を構成するものだ。だが、それは僕の人生を構成するものではない。命を受け継いだ僕が歩く道には、多くの分かれ道があった。それらを選択してきたのは、僕の意思だった。
僕に与えられた感覚をどう使うのかも、僕の自由だ。鋭くなった感覚を、僕は痛みへ集中させていた。痛みは避ける事ができないが、痛みだけを感じる必要はない。鋭い感覚は、心地良いものを感じるために使ってもいいのだ。僕は設計士に聞いた。
「その螺旋は、まだ完成しないのか?」
「いや、もうそろそろ…」
そう言うと設計士は、螺旋に触れた。ぐるぐると廻り始めた螺旋は、呼吸を始めた。
「そうか。じゃあ、僕はもう行くよ。邪魔して悪かったな」
僕は部屋を出た。これから生まれる新しい命に、自分のような欠陥品を見せるのは悪い気がした。さて、これからどうしようか。
おい、という声が聞こえたので振り返ると、設計士が扉から顔を出していた。
「お前さんが感じた痛みは、忘れるなよ。遺伝子ってのは、そういうものの積み重ねでもあるんだ。それが命の材料になるって事がどういう意味か、よく考えてみるんだな。あとは好きにしろ。じゃあな」
前を向こうとは思えなかった。痛みは忘れたいから。ただ、あの設計士が言ったような命の積み重ねの果てが、あの部屋で見た美しい螺旋なのだとしたら。それが、僕なのだとしたら。
少し考えて、僕は歩き始めた。
消える前に、寄り道くらいしてみてもいいのかなと思った。
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