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――(しゅ)よ。  マリウスは震える指で十字を切ろうとし、しかし両手は剣で塞がっていることを思い出した。  半ば崩れた煉瓦の壁を、ゆっくりと撫で上げるように、鱗に覆われた尾が這う。天井近くの闇の中に、さらに深く黒い影がある。影の中に炎の舌が、ちろり、ちろりと揺らめく。いまにも、その火は三人を焼き尽くすかもしれない。だが。  だが、いま、彼はおぞましい言葉を口にしなければならなかった。 「外法(げほう)じゃあないか……」  絞り出したマリウスの言葉に、青年が振り返る。黄金の髪が燈篭(ランプ)の火に煌めく。 「そうですよ」  と、彼は言った。  マリウスの前に並び立った二人。その容姿には似たところはひとつもなく、けれどもぴったりと寄り添えばなぜか鏡写しのように分かち難く見えた。  一人は金の巻毛の青年である。片手に提げた燈篭を天井へ向けて掲げる仕草は、このような中にあっても落ち着き払っている。  もう一人は黒髪の少女である。豊かな美しい黒髪は今は血に塗れて乱れ、腰の長剣に伸びる手も赤黒く染まっている。彼女のうすい胸に空いた穴から溢れた血だった。  だが少女には、手傷を気に留める様子も痛みを庇う素振りもなかった。野の獣のように隙のない所作で身をかがめ、床に落ちた短剣を拾うと、それを青年に手渡す。  それはさっき青年が投じた短剣だ。  雷光を発して敵を退けた武器であった。  それを、目もやらずに受け取って、青年は手の中で弄んだ。笑うように細められた目はマリウスを見ている。瑠璃色の瞳は、今は遠い都の大聖堂のステンドグラスをマリウスに思い起こさせた。鮮やかな、天上の空の光の色だ。 「そうですよ」と青年は繰り返した。「月並みな言葉ですが、僕はどんなことでもします。外法だって使う。この子のためなら」  闇の中から、煉瓦の壁を引っ掻く悍ましい音が響いた。伸びてきた巨大な爪は、壁に掛かった十字の祭具を掴む。マリウスが身構えるより早く、しかし青年が彼を制した。 「あなたは下がっていてください」 「まさか!おれはこれでも、あなた方の護衛です」 「僧兵(モンク)のあなたがこのうえ、僕たちと一緒に戦えますか?」  マリウスは瞬間、言葉に詰まる。  二人は答えを待たなかった。少女が一歩前に出て長剣を構える。  青年は言い、少女は答えた。 「戦い(たま)え、わが主君(あるじ)よ」 「承知した、わが造物主(あるじ)」  暗転。  燈篭の灯を、青年が掻き消したのだ、と気がついたのは数瞬後である。一瞬、周囲は闇に包まれる。剣戟の音がする。崩された背後の壁から注ぐ星灯りに目が再び慣れるまで暫しの間、マリウスは動けなかった。彼の身を竦ませる恐怖は、しかしいまや、闇の中の巨大な爪でも炎でもない。  すぐ隣にいるはずの青年であった。  この男は忌むべき外法使いであり、そして――狂人に違いなかった。
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