回想、山道にて

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回想、山道にて

――主よ。  一歩足を踏み出すごとにマリウスは呟いた。 ――主よ、導き給え。  一歩、一歩、駆けるごとに足はくるぶしまで雪にめり込んだ。冷たく、重い。人を苛む、高地の雪だ。息を吸えば肺が冷える。剣を握った指先が痺れ始める。革と鉄の靴の中で、足先の感覚はとうに薄い。  いざとなれば客人達を護って逃げるよう、伯爵には命じられていた。  伯爵家の陣列はとうに散り散りになっていた。というよりも敗走だ、これは。剣戟の喧騒も既に、奥深い森の木立の背後に遠い。こんな季節の山越えとなったのは、雪のあとには“敵”の活動はごく少ないはずだったからだ。襲撃に備えた軍備とは、到底言えなかった。  マリウスは客人達の足跡を追っていた。マリウスの直接の雇い主である、伯爵の信頼厚い家臣が一人、彼らを守って先に戦線を離れていた。だが、足跡に混じる血の量からすると、彼が生きているかは既にあやしい。  雪の山道の、血みどろの足跡を追って這いずるように駆けていると、マリウスは次第に奇妙な心地を覚えた。  懐かしさだ。  十年ほど前にも、こうして山道を駆けた。そのとき血に塗れていたのは、まだ子供と言ってよい歳だったマリウス自身だったが。 ――主よ。  走りながらその言葉が浮かぶのは、おそらくはそのときの記憶のためだ。母の形見となった胸の十字を握りながら、ろくに意味も分かっていなかった祈りの言葉をただ唱え続けた。 ――主よ、救い給え。  結果として(たす)けられたからマリウスは今も生きている。遠くの地へ逃げ延びて、片手に十字架を、片手に剣を握って成長した。  マリウスが伯爵家に雇われた理由のひとつは、彼がこの高地の出身だからだった。伯爵家の騎士達よりは、はるかに身軽に山道を走れる。マリウスはそのために、どの陣幕においてもたびたび重宝された。このあたりの出身者はもう、そう多くは生きていないということもあって。  ましてや怪我人連れに、追いつけぬ道理はなかった。足跡の上の血が鮮烈な赤色に変わり、まもなく木々の向こうに、人影が見えた。  怪我人は既に歩くことをやめて木の根元に横たえられていた。傍らに膝をついていた金髪の青年が、マリウスの足音に振り返る。  件の「客人」の片割れであった。戦場の泥にまみれていても、その蒼い瞳には一向に翳りのない冷静さと理知の光があった――このようなときでさえむやみと目立つ男だ。 「僧兵どの」  マリウスに呼びかける青年の声に、怪我人も目を開けた。 「おう、マリウス、追ってきてくれたか」  マリウスにとっては戦場で顔馴染みの、白髭の騎士だった。伯爵家の軍にあっては将軍格の重臣である。その男が、先の襲撃の際に傍らの青年を守り、深手を負っていた。 「不覚でしたね、将軍」  マリウスはわざと軽口を叩いた。白い髭の奥から漏れる息は荒く、喋ろうとするごとに血がその口の端からどろりと溢れていた。長くないことはひと目でわかった。 「どうしますか?」  と、青年が尋ねた。マリウスは何かと思ったが、どうやら二人は話の途中だったらしかった。老騎士が首を振る。 「これも天命、我が命の定めというもの。マリウス、お二方を頼むぞ」  節だらけの木のような太い指が伸びてきてマリウスの肩を掴んだ。痛みのためか濁り始めている瞳が、マリウスを見る。  その瞳には無言の命令が浮かんでいた。マリウスは心得て、老人の傍に膝を折る。  彼の手を取り、その胸に十字を切る。死せる者への末期の秘蹟の祈りを、マリウスは唱えた。修道騎士団の一員として戦いの最前線に身を置いて数年、何度、何十回、何百回唱えても、この祈りばかりは、舌が絡れるような気持ちがする。  老境にあっても尚逞しく、いつも力強い剣を振るっていた腕は、今や冷たくなりつつあり、泥のように重かった。だが、最期にその拳にはぐっと強く力がこもり、マリウスの体を引き寄せた。血で固まった髭がマリウスの頬に寄せられ、老人は彼の耳元で囁いた。 「この二人は――」
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