0人が本棚に入れています
本棚に追加
老騎士の指から力が抜けるのを待って、マリウスは身を離した。
その腕を、鎧に包まれた胸の上に置いてやる。死に顔を見つめるふりをして、マリウスは暫し考えた。だが、考えてもしようがない。振り払うように立ち上がり、青年を振り返る。
「お客人、まずはあなた方に、安全な場所をお探ししたいのですが……」言いかけて気がつく。「お連れの方は?」
「伯爵に助力を請うた以上、一旦は彼の指揮に従うのが道理というものかと思いましたので」と、青年は違うことを答えた。「逃げろと言われるまま逃げて参りましたが、少し……後悔しています」
青い瞳は死んだ老騎士を見下ろしている。その眼は、しかし、森の湖畔のように凪いでいたのでマリウスは一瞬返答に迷った。結局口から出たのはお定まりの言葉である。
「彼は戦って死んだ。天国へと辿り着くことでしょう」
青年は小さく笑ったようだった。
「仰る通りです」
「ですので……お気に病まれず。あの、お連れの方は?」
「戦わず逃げさせたので、機嫌を損ねてしまったようです。付近の様子を見てくると言って、行ってしまいました」
節のある木の幹に体を預けて、青年は気怠げに溜息をつく。
なにかが決定的にずれていると、マリウスが確信したのはこのときである。出立までの間は伯爵と共にいるのを見かけるだけで、この青年と直接まともに会話をしたのはこれが初めてだった。そして既に、彼の何かがおかしいとマリウスは感じ始めていた。
「お連れ様一人で?」
「はい。いえ、もう、じきに戻ります」
言葉の通り、間を置かず山道の上から足音がマリウスの耳に届いた。
木々の間を抜けて少女が降りてきた。小柄な娘である。だが危なげのない、若鹿のような足取りであった。黒い髪をまるで村娘のように軽々しく結えて、それが獣の尾のように揺れるのがまた見事だった。
彼女はマリウスの姿を認めて足を止めた。
そして瞬時に腰を落として身構えたので、マリウスはぎょっとした。
美しい娘だった。だがその表情のない顔は、見ようによっては人形めいてもいた。そして同時に、それは、人間に鹿や鳥の表情を読み取ることができないのと同じではないかという印象も与えた。瞳には力があった。夜空のような色の瞳が、マリウスを真っ直ぐに睨み据えていた。
「イオ」青年が声をかけた。「さっきも一緒にいた僧兵どのだ。あやしげな者ではない」
「はい、マリウスと申します」狼狽のまま、どうにか儀礼的な姿勢をとる。
少女はマリウスからゆっくりと視線を剥がすと、そのまますばやく青年の傍らへ駆け寄った。そしてその耳元へ口を寄せるようにして、言う。
「あっち、森の向こうに、建物があった」
「おや」
青年は少女の駆け寄ってくる勢いを受け止めるようにして、その肩を抱く。
男女の素振りではない。マリウスにもそれは分かった。それは、教父が修道士たちの額を撫でるような、親が子を抱くような手つきだった。
青年が顔を上げ、少女もその視線を追って、瑠璃色と濃紺の二対の瞳がマリウスを見る。
「マリウスどの。この娘はイオ、僕はバルソロ」明らかに渾名の響きで青年は名乗った。「安全な場所とやらが、もしかしたら見つかったようですね?」
最初のコメントを投稿しよう!