狸は追いかける

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「春樹さん、それあいつにやられたんでしょ」  ベッドの上で上半身を起こし頬を冷やす春樹に、昴は聞いたことがないほど低い声で言う。  ふらりと倒れた春樹を抱き止めた昴は、対して背格好の変わらない春樹をそのまま軽々と横向きに抱きかかえ、半ば強引に春樹から鍵を受け取り、ベッドへと運んだ。  春樹をベッドの上に降ろすと、すぐに洗面所に向かい濡らしたタオル片手に戻り、春樹の頬を優しく拭いた。ここまでは春樹が「おい」とか「なんでいんの」とか、どんなことを言っても、昴は無言を貫いていた。  そして、頬を充分に拭いたところで、昴は「保冷剤は」と一言不服そうに呟き、「冷凍庫に1、2個なら……」と、らしくもなくおどおどと言った春樹の言葉を聞くと、すぐさま取りに行き、タオルに包んだ保冷剤を手にベッドの縁に座り、春樹の頬に当てた。  春樹が「自分で冷やす」と保冷剤を受け取ったところで、昴はやっと、文章で話したのである。  が、声はまだ冷ややかで、視線もどこか厳しく、いつも知っている昴の様子ではない。 「あいつって……」 「秋山友晴」  昴の口から友のフルネームが飛び出し、春樹は目を白黒させる。 「春樹さん。そうなんでしょ。あいつにやられたんでしょ?」 「いや、まぁ……」  春樹は肯定とも否定とも取れない返事をしたつもりだったが、昴は確信したのだろう。  唇を噛み締めると、我慢ならないといった表情で言う。 「今すぐ警察に言おう」 「はっ!? ちょ、一旦落ち着け」 「落ち着けるわけないだろ!」  春樹の言葉に被せるように昴が叫んだ。 「春樹さんを……春樹さんを殴るなんて……許せない……!」  なぜか自分の方が痛そうな顔をしている昴に、春樹の心臓がギュッと縮む。  優しい男だなと思う。 「もう……解決したから大丈夫だよ」 「解決ってなに! まさか……あんなやつとより戻すって言わないよね!?」  俯いていた昴が、がばっと顔を上げ、驚いた表情で春樹を見る。 「俺、それだけは絶対許さないから!」  ──友……あいつどこまで話しやがったんだ……。  春樹は思わず、ため息をこぼし、頭を抱える。 「もう友と会う気はないよ……」 「……それ、ほんと?」  先程とは一転し、不安げな、でもどこか嬉しそうな表情を浮かべる昴に、春樹は思わず眦を下げる。  なんだか、以前の昴に戻ったような感じがしたからだ。表情に全ての感情が出てしまっている、嘘が上手いようで下手な昴に。 「ほんとだよ。もう、会わない。友とも約束した」  春樹がそう言うと、昴は眉間に皺を寄せ、今度はむっとした表情を浮かべる。  やはり、今日の昴は面白いくらいにわかりやすい。 「なにそれ。そんなの信じられない。そう言ってまたちょっかい出してきたらどうすんの。やっぱり警察に言っといた方がいい。ああいうのはストーカーになりやすいタイプだ」  友は昴に余程嫌われているらしい。春樹も友のことを長年恨んでいたが、この短期間で昴の友に対する嫌悪感も同等、いや、もはやそれ以上ではないかと思うほど膨らんでいるようだ。  ──いったい2人で何を話したんだ……。  聞きたいような、聞きたくないような質問を飲み込み、春樹はどうにかもう友は平気であることを伝えようとする。 「何話したのか知らないけど、友はもう大丈夫だよ。てか、元々そんな熱くなるタイプじゃないんだ。今は……まぁ、ちょっと家庭環境がごたついてて疲れてるみたいだけど。もう平気。俺が会おうって言わない限りは約束守ってくれる」  昴はまだ不服そうな表情を浮かべながらも、ひとまずコクリと小さく頷く。 「……じゃあ、もう……一生会おうって言わないでね」  唇を尖らせ言った昴の言葉に、春樹はもう我慢ならず、ぷっと吹き出してしまう。 「は!? 何笑ってんの! 俺真剣に言ってるんだけど!」 「ごめん、ごめん。なんか今日の昴子供っぽくて」  口に出すとまた笑えてきて、春樹はくつくつと喉を鳴らし笑う。  そんな春樹の様子に、昴は再び俯き耳を赤くする。  その姿がさらに幼い子供のようで、春樹はまた口角を上げる。  先程まで自分が空っぽのような、人形のような感覚があったのが、まるで嘘みたいだ。  体から色々な感情が出てきて、ぽかぽかと暖かい。  しばらく、怪我をしたことすら忘れ、笑っていると、殴られた方の唇の端がプツッと切れ、小さな痛みが走る。 「……っ」  吐息を漏らした春樹に、俯いていた昴はパッと顔を上げ、春樹の頬に優しく触れる。 「切れちゃった?」  親指の先で軽く唇の横を触られ、春樹はピクリと肩を揺らす。  痛みからではなく、触れられたことへの喜びと羞恥心からである。 「明日までに腫れ治んなかったら、病院行こう」 「……いいよ。大袈裟だ」 「大袈裟じゃないよ。こんなに腫れてんだから。てか、他に怪我は?」 「ないよ」 「本当に? 嘘ついたら怒るからね」 「嘘じゃねぇよ……。てか、お前は何しに来たんだよ」  昴のペースで話が進み、思わず忘れかけていたが、そもそも、昴がここに居ること自体がおかしいのだ。  いったいいつから、何のために、春樹の家の前に居たんだろうか。 「それは……春樹さんが連絡しても無視するからじゃん……」  昴の言葉に、春樹はぎくりとする。  同時に、タイムリミットだなとも。  恐らく昴は友からほとんど事情を聞いているのだろう。それなら、わかってくれるはずだ。  春樹はもう、誰のことも愛しすぎたくないのだ。  適度な距離感を保てないなら、一緒には居られないのだ。 「まぁ、ちょっと忙しくてな……」 「嘘だ……俺なんかした? なんで急に避けんの」  不思議と昴の頭の上にぺしょりと下がった耳が見えた気がした。  そんな昴に思わず緩む気持ちを引き締め、春樹は冷静に、冷酷に話を進める。 「別になんも。……ただ、そろそろ飽きただけ。あんま一人のやつと長くやりたくないんだよ」  付け加えるように小さな声で「ごめんな」と呟くと、心臓が切り裂かれたかのように痛む。だけど、きっと昴の方が痛いだろう。春樹はただ、自分が楽になるために逃げているだけだ。  ずっと一緒いるのが、愛しすぎるのが怖くて、そうなる前に逃げているだけなのだ。  そうわかっていても、そんな自分が不甲斐なくても、それでも逃げてしまう。  そんな自分が春樹は死にたくなるほどに嫌いだ。 「なにそれ……」  ──そうだ昴。怒っていいんだ。こんな最低な大人は見限っていいんだ。  自嘲めいた笑顔を浮かべた春樹を、昴は正面から見つめる。  意を決したような表情の昴と視線が合い、春樹はやっと解放されるような、ついに何もかもを失うような、わけのわからない感覚に陥る。  昴は強い瞳で春樹を見つけたまま、口を開く。 「そんなの信じない」 「……は?」  想定外の昴の言葉に、春樹は声になる前の空気のような情けない声を漏らす。 「春樹さんの言葉はもう信じない」  辛辣な昴の言葉に、春樹の心臓がまた悲鳴を上げる。  昴はそんな春樹から視線を逸らさず続ける。 「そんな痛そうな顔してる人の言葉なんて信じないよ。ずっと、なんかに耐えてるような、そんな春樹さんに気づかないふりするのは、もうやめた」  昴の言葉に春樹は呆然とする。  これ以上は聞いてはいけない気がするのに、昴から視線を逸らすことができない。 「どうせ俺から離れようとしてるんだもん。それなら、うざがられるかもとか子供っぽいと思われるかもとか、そんなこと考えんのも馬鹿らしい」 「な、何言って──」 「逃げようとしてもいいよ。強がっても、嘘ついてもいいよ。俺はそれでも追いかけるし、甘やかすから」  昴は揺るぎない強い瞳で、芯が通ったはっきりとした声で言う。 「春樹さん、好きだよ。セフレとしてじゃない。人として、恋愛として、ずっと一緒に居たいっていう好きだよ」 「なっ……!」  心臓が大きな音を立て暴れる。それでも春樹は、なけなしの理性を奮い、傾いてしまいそうな心を全身で押さえ込み、頼むから大人しくしてくれと宥める。 「やめろよ。変な冗談言うなよ……」 「冗談じゃないよ。わかってるくせに。まぁ、いいけど。そういうとこに惹かれたのも事実だし。逃げられるほど燃える」  ──こいつは誰だ。  春樹は不意にそう思った。  昴は今時の若者らしくて、時に犬っぽくて、たまに大人っぽくて。  でも、今の昴からは男らしさを、雄々しさを感じる。  どちらかというと、常に自分が主導権を握っていたと思う。昴のギャップにやられる時もあったが、基本は可愛いなと、若いなと、そう思いながら昴を翻弄していたと、そんな自覚がある。  それなのに、今の昴にはなんだか、敵わない気がした。 「春樹さん、俺、もう嘘つくのやめる。元々そんなの向いてないんだ。カッコつけるのも大人ぶるのもやめる。ちゃんと正面から春樹さんと向き合う」  心臓が痛くて、呼吸が上手くできなくて、脳みそをかき混ぜられたかのように頭がくらくらする。  昴への想いの風船が、自分の意思とは関係なくどんどんと膨らんでいくのが、怖くて怖くて仕方ない。風船が破裂してしまったら、自分はどうなってしまうのか。  予測できないことは酷く怖いことだ。 「やめろよ……」 「やめない」 「頼む……もうやめてくれ……」 「ごめん。でも、まだ頑張らせてほしい」  昴が一言話すごとに、風船がどんどん空気を吸い込んでいく。春樹はもう恐怖感を隠すことができない。 「やだ……怖い。お前は怖い」 「なんで。何が怖いの?」 「……離れなくなりそうで怖い」  覇気のない声で春樹が言うと、昴は強く、それでも優しく、抱きしめてくる。 「……春樹さん……離れないでよ。ずっと一緒に居ようよ」 「それなら……友達がいい」 「どうして」 「友達の方が長く居られる。恋人は……嫌だ。別れがある関係は怖いんだ……」  春樹を抱きしめる昴の力が、ぐっと強まる。 「なんで、なんで別れる前提で考えるの。俺は、あいつとは違うよ」 「やめとけよ。女と付き合えるならそっちの方がいいんだ。家族作れるんなら作った方がいいんだ。男同士なんて……遊びだけの方がいいんだよ」  春樹は自分に言い聞かせるように言う。昴のためにも、その方がいいと、言い訳をするように。  そんな春樹にさすがに呆れたのか、昴は抱きしめていた腕を解き、春樹から身を離した。  やっと見限ってくれたか、そう思ったと同時に強く両手で肩を掴まれる。   「いい加減にしろよ!」  昴の悲痛な叫びに、春樹は思わず下を向いていた顔を上げる。  きっと今の自分は酷く情けない顔をしているだろう。   「男とか女とか、結婚とか子供とかどうでもいいんだよ! 俺は春樹さんが好きなんだよ! 男だからでもゲイだからでもない! 神谷春樹が好きなんだよ……!」  昴の両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。蛍光灯に照らされた涙はキラキラと光っていて、とても綺麗だ。こんな綺麗なものがあるのかと、春樹の心が柔らかく、優しいもので締め付けられる。  苦しいのに、暖かくて、不思議な安堵感があるのはなぜだろう。  年下で、自分よりも考え方も行動も子供っぽい昴に、身を預けてしまいたくなるのはなぜだろう。  もういいのかと、愛されたいと思ってしまうのはなぜだろう。  鼻の奥が痛み、喉元に熱いものが込み上げてくる。昴の前ではカッコよくいたいと、大人でいたいと、そう思ってた。  でも、今はそんな気持ちを捨てるべきなのかもしれない。見限って欲しいなら己の黒くてどろどろした、女々しくて情けない内側を全て出してしまえばいいのだ。  春樹は体内のストッパーと顔につけられた仮面を自らの意思で外す。  すると、勝手に涙がポロポロとこぼれてくる。それを拭うこともせず、垂れ流したまま、感情のままに話す。 「俺はお前が思ってるような人間じゃない。大人でもカッコよくもない。……ただ怖がりで卑怯な人間なんだ。人が好きなのに怖い。誰かと深い仲になるのが何よりも怖い……」 「俺、別に春樹さんを大人っぽいともカッコいいとも思ったことないよ」  昴の言葉に、春樹は目を見張る。  そんな春樹を他所に、昴は「いや、まぁ思ったことはあるんだけど……」と付け足す。 「でも、そこに惹かれたわけじゃない。むしろ、たまに見せる子供っぽい笑顔とか、ムッとした表情とか、そういうのに惹かれたんだ。もっと春樹さんの内側を見たいってそう思ってるんだよ。だから、ごめんだけど……今、俺の前で泣いてくれて、すごい嬉しい」  昴は微笑み春樹の涙を優しく拭う。  ストッパーも仮面もない無防備な春樹は、そんな昴の様子に、顔をくしゃりと歪め、子供のようにしゃくり上げる。  そんな春樹を見て、昴がまた嬉しそうに笑い、優しく抱きしめる。 「春樹さん。俺はどんな春樹さんでも好きだよ」 「こんな……いい歳して……ぐしゃぐしゃに泣いてるやつのどこがいいんだよ……」 「めちゃくちゃ可愛いけど。いや、もちろん笑っても欲しいよ? でも泣いても怒っても、子供っぽくても、どんな春樹さんも好き。もっと色んな春樹さんを見せて欲しい」  ──もうダメかもしれない。覚悟を決めるしかないのかもしれない。  春樹はさらに大粒の涙を流しながらそんな風に思う。  今だって、こんなに愛の言葉を言われたって、怖いものは怖い。  昴を疑っているわけではない。でも、人の心は変わるものだ。それは男女関係なく、人間とはそういうものなのだ。  そして、必ず別れも来る。もし、もし、奇跡的にずっと一緒に過ごせたとしても、命に限りがあるのは変えようのないことだ。  だから、好きになればなるほど、別れが怖い。  でも、そんな怖さ以上に、昴への愛しさを感じる。永遠じゃなくても、できるだけ長く、彼に愛され、彼を愛したいとそんな風に思う。  怖さだけではなく、幸福にも似た暖かさや、勇気が湧いてくるのを感じる。 「……俺は……重いぞ。うまく愛せない。重いか軽いか、どっちかしかできない……。そんで……俺はもう……昴を軽い方では愛せないと……思う」  酷く情けないことを言っていると自覚している。鼻声なのがさらに情けなさを際立てているだろう。  すると自分のものではない鼻を啜る音が聞こえてくる。そして、右肩に熱いものを感じる。  春樹の肩に顔をうずめていた昴が再び涙を流している。 「……どうしよ。嬉しい。重い愛ちょうだいよ。もう、俺だけにして……春樹さん……愛してる」  昴はそう言うと、さらに涙を流し、大きな音で鼻を啜る。  春樹もまた、泣きじゃくる。  成人している男2人が子供のように泣いている様子は、側から見たら地獄絵図だろう。  それなのに、春樹は、全身に、心に、溢れんばかりの幸福感を感じていた。    共に水分が出きったところで、昴がやや気恥ずかしそうに顔を上げ、春樹を見つめる。  昴の瞼は腫れ、耳は真っ赤で、男らしさとはかけ離れた顔をしている。  そして、恐らく春樹も負けないくらい情けなく、寄れた顔をしているだろう。  そんなことが酷くおかしくて、幸せで、春樹は思わず眦を下げる。  そして、吸い寄せられるように昴の唇に、自分の唇を近づける。  しかし、あと数センチのところで、2人の唇の間に、昴の手が割り込んだきた。  春樹は思わず、眉根を寄せる。 「おい、なんでだよ。雰囲気的にキスの流れだっただろ」 「いや、うん、そうだったんだけど、俺もめちゃくちゃ、今すぐにでもしたいんだけども……」  「じゃあ、しろよ」  春樹がはっきりとした声でそう言うと、昴は頭を抱え悶える。  ──せっかく、こっちが心決めたのに……。    春樹が内心落胆していると、昴がどこか緊張した面持ちで、春樹をじっと見つめる。 「ちゃんと、本気だからこそ、順序しっかりしたくて……」  昴は頬を赤らめそう言うと、小さく深呼吸した後、言葉を続ける。 「春樹さん、俺と付き合ってください」  昴の想定外の言葉に、春樹はポカンとした表情を浮かべてしまう。  そして、数秒後には耐えきれず笑いが込み上げてくる。 「ふっ……! 真面目かよ!」  大口を開け笑う春樹に、昴がなぜか心底嬉しそうな、でもどこか泣きそうな複雑な表情を浮かべる。しかし、すぐに唇を尖らせ、いつものいじけたような表情になる。 「笑ってないで、返事は?」 「よろしくお願いします」  そう言うと同時に、唇を重ねた春樹に、昴は耳を真っ赤にし、目を見開く。  そんな昴が可愛くて、愛しくて、春樹はまた大きく口を開けて笑った。
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