狐と狸の出会い

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 目を開けるともう見慣れた天井が視界に飛びこむ。春樹とセフレになって早一ヶ月。初回で来たホテルの常連になりつつある。 「お、起きたか」  朝から落ち着いた声でそう言うバスローブ姿の春樹は、窓辺の椅子に腰掛け、コーヒーを飲みながらパソコンをいじっている。今日は土曜だというのに仕事をしているのだろうか。  春樹はいつもこうだ。自分より先に起きていて、寝起きの顔を見たことがない。寝起きに限らず、春樹のだらしのない所というか、素の姿を見たことがない。  砕けた話し方になったし、多少の仲は縮まった……と思う。  でも、自分の前での春樹はいつも美しい。その姿に惹かれているのも事実だが、苛立っているのもまた事実だった。  頑丈すぎる心の扉を自分には開けることができないのかと思うと、むしゃくしゃして堪らなくなる。別に恋人になりたいわけではない。でも、せめて、友人としては気を許して欲しいと思うのは贅沢なのだろうか。  そんなことを考えていると、思わず口からため息がこぼれる。 「おい、人のこと無視しといて、なにため息ついてんだよ」 「あ、ごめん。無意識」 「なに、疲れてんの? 別に無理して毎週会わなくてもいいんだからな」  ──会わないなんて冗談じゃない! 毎週金曜、この日が最近の唯一の楽しみなのに。    春樹に、そう言おうと口を開く。 「……まぁ、これ以上忙しくなったら考えるね」  ──あれ……?    近頃このようなおかしな事態が頻繁に起きている。  これまでは、正直者の自分が勝手に喋り出していた。デリカシーのないことでもなんでも。頭より先に口が動いていた。  それなのに、最近は逆の事態が発生しているのだ。気づくと思っていることと正反対の言葉を発している。  自分も春樹に触発されて少しは大人になったのだろうか? 気を使えるようになったのだろうか?  いや、でも昨日は誠に下世話な質問をして、デリカシーがないと怒られたばかりだ。家族にも毎日のように言われているし。  そういえば、よく考えてみると、この不思議な現象が起こるのは春樹の前だけだ。やはり、春樹の大人な対応に感化されているのだろうか。  でも、それも、何か違う気もする。  春樹と出会ってから自分の中にもう1人の自分が居るような感覚がある。自分のことのはずなのにわからない。そんなことが増えた。 「おい、ほんとに大丈夫か? 今日様子おかしいぞ。もう出る?」  また、あれこれと考えてしまっていた昴に、春樹がやや呆れた表情で尋ねる。チェックアウトの時間まではまだ1時間ほどあるのに、このままでは早めに出る流れになってしまう。それは避けたいので、昴は慌てて頭を稼働させる。 「大丈夫だってば。まだ寝ぼけてるだけ。てか、春樹さんも仕事忙しいんじゃないの? そっちこそ、無理して会わなくていいからね」  また勝手に口が動いた。会わなくていいなんて1ミリも思っていないのに。 「いや、俺は平気。むしろ、金曜が最近の唯一の楽しみだから」  春樹は視線をパソコンに向けたまま、なんでもないことのようにそう言った。不意打ちの言葉に、昴の体温は急速に上昇していく。  この楽しみとは自分と会うことではなく、性行為のことを指しているのだろう。そうとはわかっているのに熱が一向に引かない。  返事のない昴を不審に思ったのか、春樹がこちらを見る。 「え、なにその反応……」  顔を赤くし俯く昴の様子に、春樹が驚いた様子でそう言った。また春樹の仮面の下の新たな表情を発見する。でも、今は嬉しさより恥ずかしさが勝っている。 「ちょ、気にしないで。これは誤作動だから」 「待って、それはギャップすぎて……」  春樹は言葉を中断させると、肩を震わせ笑い出した。  これはたぶん本気のやつだ。  自分の前で見せた初めての本当の笑顔。こんなに嬉しくない初めてはあるだろうか。 「笑わないでよ! 春樹さんらしくないこと言うからじゃん!」 「俺らしいってなんだよ……ふっ! やばい、ツボった。意外と可愛いね、昴くん」 「……むちゃくちゃバカにするじゃん」  春樹は、まだ肩を震わせ笑っている。  何度目かの敗北感がまた、昴を襲う。 「バカにしてないって。そのギャップめちゃくちゃいいと思うよ。久々に笑ったよ。ありがとね」  春樹の言葉に、先程以上に身体が熱を持ち出す。  昴は「ありがとう」という言葉にひどく弱い。言われ慣れていないせいか、感謝の気持ちを告げられると、喜びより羞恥の方が勝るのだ。   「それ、禁止」 「それって?」 「ありがとう禁止令」  この禁止令を出したのは誠と黒澤に続き、春樹が3人目だ。 「なにそれ」  春樹が静かに笑う。なぜだか、今日の春樹の仮面は薄いらしい。人の不幸は蜜の味というやつだろうか。不幸というほどでもないが、自分がひどく恥ずかしい目に遭っているのは事実である。 「もうこの話終わりね」 「え、なんで。もっと昴くんのギャップ知りたいけど」 「俺は春樹さんのギャップの方が知りたい。真面目なサラリーマンに見えて実はエロいってことしか知らないんだけど」 「充分じゃん」  ──どこがだよ。本心なんてちっとも見せてくれないくせに。  何度会っても、春樹の輪郭はぼやけたままだ。  少しは焦ったり、照れたり、怒ったりしてみろ。  自分に対してなのか、春樹に対してなのかわからないが、無性に苛立つ。  それなのに、離れられないのはなぜなのだろう。触れたいと思うのはなぜなのだろう。 「ねぇ、もう1回しよ」  今度は正直者の自分が勝手に言った。自分の中には、もう1人どころか数人の知らない自分が居るのかもしれない。  自分のことなのに、何をしでかすかわからない不思議な恐怖感がある。 「は? あと30分くらいしかないじゃん」 「じゃあキスだけ」  返事も聞かず、春樹の唇を塞いだ。  セックス中以外でキスをしたのは初めてだった。 「ねぇ、たまにはご飯食べて行こうよ」  いつもはホテルの前で解散だが、なんだか今日は離れ難かった。だからなんとなく駅の方まで一緒に歩きながら、ダメ元で聞いてみる。 「は? 今日ほんと変だな」 「変じゃないって。ずっと思ってたし。いいじゃん、ちょっとだけ。そんな長居しないから」 「なんかその辺に居るナンパ野郎みたいだな」 「え、春樹さんナンパされんの!? どこで!?」 「……気にするとこ、そこじゃないだろ」  春樹が呆れた表情で言う。なんだか今日の春樹の表情は、ずっと柔らかい気がする。ほんの少し、少しだけだけど心の扉に隙間を開けられた気がして、心がじわりと暖かくなる。 「昴……?」  急に名前を呼ばれ、後ろを振り返る。  そこには誠と黒澤が居た。 「誠、黒澤! なに、ラブラブデート中ですか?」 「……なっ!? 昴! すぐそうやって茶化すのよくないぞ!」  誠はすっかり反抗期だ。当初の控えめな誠はどこへいったのやら。そう思うものの、幸せそうでよかったねと、親心のような不思議な思いもある。 「へいへい。誠くんはすぐ赤くなって可愛いですね」 「なっ、すば」 「昴くん、誠にかわいいとか言わないで」  黒澤が誠を庇うように割って入ってくる。本当に過保護な奴で困る。  今度はどういじってやろうかと思考を巡らせていると、後ろに居た春樹がぷっと吹き出した。 「陽太……おまえ余裕なさすぎだろ!」  そう言って、春樹は大きな口を開けて笑い出した。  見たことのない笑顔。  顔をくしゃくしゃにして、綺麗じゃない笑顔。    ──おい、なんだよ、その顔。  そんな春樹を、黒澤は「バカにすんな!」と言いながら悔しそうに睨みつけている。こんな黒澤を見るのも初めてだ。  そこには2人だけの独特の空気が流れているようだった。  その様子に、心臓を絞られてるような不快感を感じた。もやもやしたドス黒い何かが全身を埋め尽くしてるような感覚。  ほんの少しでも春樹の仮面を剥がせたと思った自分がバカみたいだ。黒澤はこんなに一瞬で仮面を取っ払ったのに。いや、むしろ春樹の仮面なんて見たことがないのかもしれない。そう思うと、心に膿が溜まっていく。  この空気感は2人が長い時間を共に過ごしたことで形成されたもので、家族みたいな関係性なのだろう。  そうとはわかってはいるが、心の靄は晴れない。 「昴……? なんか顔色悪いけど大丈夫……?」  誠が心配そうな表情で尋ねてくる。誠はこの2人を見てなんとも思わないのだろうか。  やはり、付き合うと信頼関係が生まれてくるものなのだろうか。  それに比べ、自分と春樹には身体の繋がりしかない。だからこそ、不安でしょうがない。  そもそも春樹は相手に困らないだろうし、紹介なんて必要なかったのではないか。それでも断らなかったのは、黒澤のため?  昴に興味があったからではなく、黒澤のお願いだから断らなかっただけでは?  なんの根拠もない疑いがふつふつと浮かび上がってくる。  でも、黒澤の誠への思いは知っている。あの2人は引き裂けるような関係ではないことを知っている。  だから、黒澤とどうこうとかを心配しているわけではない。ただ、自分が春樹にとってモブな存在であることを実感し、落胆を隠せない。 「大丈夫か?」 「昴くん、平気?」  春樹と黒澤が、心配そうにこちらを見る。その優しさが、むしろ辛かった。情けない自分を再確認してしまう。 「なんでもないよ。昨日春樹さんとちょっと盛り上がりすぎたみたい」  そう道化て言うと、誠は顔を真っ赤にし、黒澤は春樹の頭を軽く叩いた。春樹はくすくすと笑っている。  自分を偽るのがすっかり上手くなったようだ。場が和んで安心する。  それなのに、心臓を抉られたような不快な痛みは、一向に消える気配がなかった。
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