狐と狸の出会い

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 誠と黒澤と別れると、しばし沈黙が流れる。そんな沈黙を破ったのは珍しく春樹だった。春樹がいつもよりやや明るい声で言う。 「腹減ったし、とりあえずどっか入る?」 「……え、あ、うん」  驚きで一瞬言葉に詰まってしまった。乗り気じゃなかった春樹からそんな提案が出るのは意外だ。  先程まで重たかった心臓が、少しだけ軽くなりふわりと浮き上がるのを感じた。  駅前の商店街から一本逸れた道を歩いていると、ある喫茶店を見つけた。  レンガ造りの壁には、黒い格子模様のガラス窓が取り付けられている。木造の扉の前には、黒い板に白で店の名前とコーヒーカップが描かれているシンプルな看板が置かれている。  レトロな雰囲気を醸し出す外観に、自然と吸い込まれていくような不思議な魅力を感じた。 「この店入ろうよ」  昴は決定事項のように言ってみせた。 「あー……」 「もっとガッツリ食べれるとことかの方がよかった?」 「……いや、大丈夫。ここにしよう」  珍しく言い淀んだ春樹が気になったが、この喫茶店の不思議な魅力に勝てず、扉を開けた。  店内はカウンター席とソファ席があり、インテリアは茶色で統一され、落ち着く雰囲気だ。メニューを見ると、これまたレトロな感じでどれも美味しそうだ。 「決めた」  春樹がメニューを見て1分も経たないうちに呟く。 「え、はや! 何にするの?」 「アイスコーヒーとカルボナーラ」 「ふーん……」  途端にクリームソーダにばかり目がいってしまっていた自分が恥ずかしくなった。春樹の前だと、どうでもいいことでも気になってしまう。ガキだと思われたくなくて必死なのである。 「俺も同じにしよ」  ──ほんとはクリームソーダとオムライスが食べたいけど。  くだらない意地を張る自分に自分でバカだなとツッコミたくなった。   「ねぇ陽太って誠くんの前だといつもあんな感じ?」  注文を終えると、春樹は黒澤の下の名前を出し、楽しそうに聞いてきた。  その問いかけで、春樹の珍しい行動の動機が紐解けていく。違和感が納得に変わっていく。  そういうことかと、理解すると同時に、薄くなっていた心の靄が再び昴の心臓を黒く包んでいく。 「そうだよ。誠のことになるといっつもあんな感じ」 「うわっまじか。くそ面白いな」  春樹の砕けた表情も言葉遣いも初めて見る。新たな一面を見れて嬉しいはずなのに、心臓がまた、ずしんと重くなっていく。  この心臓の重さ、喉に突っかかる不快感はなんなのだろう。  「てか、昴くんがあの2人のキューピットってほんと?」  春樹は昴の暗い感情にまるで気づかず、楽しそうに問いかけてくる。  いつもは怖いくらい察しがいいくせに。黒澤のことになると、春樹は普通の人になるようだ。  ドロリと濁った感情が静かに膨れ上がっていく。 「そうだけど。でも、別に俺だけのおかげってわけではないよ」 「なにそれ。詳しく聞かせて」  無邪気に言う春樹の姿に、汚くて醜い感情がどんどん喉元にせり上がってくる。  そしてたまらず溢れ出す。 「……そんな知りたいなら俺じゃなくて黒澤に聞きなよ」 「え?」 「俺と居る時に黒澤の話ばっかしないで」  ああ、まただ。  自分で言っているはずなのに、どこか遠く離れたところで聞いているような、そんな感覚だ。口が勝手に動くのだ。  ふと、このセリフはどこかで聞いたことがある気がした。  記憶をたどると、1年ほど前に別れた彼女との会話が頭の中に再生される。  ──昴、私と居て楽しいと思ってる?  長い髪をくるくると巻き、この日のために買ったという花柄のワンピースを見に纏った彼女が、泣きそうな表情で問いかけてくる。  ──どうしたの? 思ってるに決まってんじゃん。  ──じゃあ、どうしてそんな話ばっかするの!  ──え?  ──私といる時に他の女の子の話なんてしないでよ!  とうとう大きな瞳から涙をこぼした彼女に、昴は思わずため息をついてしまいそうになった。  めんどくさい。  そう思った。でも同時に、この子は本当に自分のことが好きなんだなと感心もした。  自分にはわからない感情だと、そんなふうに遠くから彼女を眺めていた。  でも、今なら、彼女の気持ちが手に取るようにわかる。  なるほど。たしかにこれは泣きたくなる。  相手に対するイラつきというより、自分に対する嫌悪感がひどい。こんな女々しいこと言いたくないのに。それなのに、言ってしまったことへの酷い後悔と羞恥心。  同時に、この感情を受け止めてほしいという神頼みにも似た思い。  これは、しんどい。  こんな思いを彼女はしていたのか。   「ごめん、昴くんもしかして陽太のこと苦手だった……?」  的外れな心配をつぶやく春樹に、乾いた笑いが込み上げる。 「ちがうよ。ごめん……変なこと言った。気にしないで。ちょうど来たし食べよ」  タイミングよく目の前に置かれた料理に救われた。  パスタをくるくるとフォークに巻き付けながら、思考を巡らせる。  ──いったい、いつから後戻りできないほど本気になってしまっていたのだろう。  春樹と知り合ってまだ、1ヶ月と少しだ。それなのにどうしてここまで惹かれているのかは、自分でもわからない。  いつからなんてないのかもしれない。もしくは最初からかも。  理由もタイミングもわからない。なのに好きという気持ちは一度自覚すると、確固たるものになる。  不確かで不安定。  それなのに圧倒的な存在感を放って自分の心を支配するもの。  それが恋というものなのかもしれない。  「恋なんて気づいたら勝手に落ちているものですよ」なにかのテレビ番組で聞いた言葉が、今は違和感なく理解できる。  そして、恋をしてみたいなんて思っていた自分はバカだったなと思う。過去の自分に言ってやりたい。  人を好きになるってしんどいよって。  ふと、春樹と会うのはもうやめにしようかと思った。  この慣れない感情から逃げてしまいたいと思った。  でも、きっとそんなことは、できないだろうことも容易に想像できる。  春樹といると苦しくてしんどくて、イライラする。それなのに、離れられないバカな自分を自分で嘲笑いたくなる。  本気の恋とはキラキラしていて、感動的なものだと思っていた。それがいかに、ガキっぽい思考だったのかを痛感する。  実際は本気の恋なんて苦しくてしんどくて、不毛である。 「このカルボナーラうまいね」  昴はすっかり得意になった作り笑いを浮かべ、春樹に言った。  喉につっかかる不快な塊を流し込みたくて、アイスコーヒーを一口飲む。  それは泣きたくなるほど苦かった。
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