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狐は逃げる
神谷 春樹は物心ついた時からゲイだった。保育園の時には男性の先生にばかりなつき、小学生ではやたらと友人にくっつき、中学生では部活の先輩に釘付けになった。
でも、そのくらいの頃から、それが普通ではないことなのだと知った。本来なら隠すべきことであると知った。
そう、本来なら。
春樹はそうはしなかった。どうせ隠し通せないと思ったし、認めてくれる人とだけ仲良くすれば良いと思ったのだ。
その開き直った態度が功を奏し、高校生になる頃にはゲイと知った上で仲良くしてくれる奴が男女共に居た。
恋愛対象に見られないのが楽だからなのか、女子からは相談されることも多かった。春樹の恋もみんな応援してくれた。
だから勘違いしてしまったのだ。
男同士でも幸せになれるって。本気で愛し合えるって。
「お先失礼しまーす」
「お疲れ様です! 来週もよろしくお願いします!」
律儀な挨拶を返され、春樹はふと、自分の立場を再確認する。新卒でベンチャー企業に入社して6年。気づいたら後輩の数が上司の数を上回っていた。
若い会社なだけあり、学ぶことも多いが、ほとんどの社員が3年ほどで去っていく。
仕事の量と給料が比例していないのも大きいが、ここで吸収したものを大きな会社で活かしたいという理由で去っていく人が多い。
そんな人達を見るたびに、意識高いなーと春樹はいつも引いたところにいる。
仕事量は多いし、残業代も出ないし、別に楽しくないし、やめたいとも思う。
でもそれより、変化を恐れる気持ちの方が上回る。
ようは臆病なのだ。
挨拶ひとつでそんな自分を再確認し、思わずため息をつく。
今日が金曜日じゃなかったら、今頃、コンビニで酒を買い込み部屋で自己嫌悪に浸っていただろう。
金曜日。
平坦な日常の中で、少しだけ刺激的な日だ。いつもより少し早い心臓を落ち着かせるように、ゆったりとした足取りで駅へと向かう。
電車に乗り、3つ隣の駅の改札を出るとすぐに、目的の人物を見つける。
ふぅと小さく深呼吸した後、歩みを進める。
「おつかれ」
「春樹さん」
振り返り、柔らかい笑みを浮かべながら自分の名前を呼んだ青年は伊藤昴である。
癖毛を誤魔化すためにかけたという軽いパーマの明るい茶色の髪の毛は彼によく似合っている。
服装もいかにも大学生らしい。
黒いTシャツの裾からは白いインナーが少し見え、下は黒地にグレーのラインでチェック模様が描かれたダボッとしたズボンを履いている。
ベンチャーだが、営業はスーツという古臭い決まりのせいで陰気臭いスーツを纏う自分とは対照的だ。
そんな彼と春樹との関係はいわゆるセフレというやつである。
「なに、今日の服なんか変?」
上から下に視線を下ろした春樹に昴がやや不安そうに尋ねる。そんな昴の顔をじっくりと見つめてみる。
こうやって見ると、改めて整っている顔だなと思う。くっきりとした二重の瞳は縦にも横にも大きく、アイドルのような可愛らしい印象を持つ。対して、シュッとした顎、整えられた細い眉、薄い唇が全体的に引き締めた印象を与えている。
身長は高めの自分と同じくらいはあるが、シルエットの大きめの服装のせいか、威圧感は感じさせない。
可愛さとかっこよさを兼ね備えており、男女共にモテそうだ。
そう結論づけて分析を終えると「ねぇってば」と、昴のやや焦りの混じった声が聞こえ我に帰る。
「あ、ごめん。いや、やっぱイケメンだなって思って」
会社で身につけた営業スマイルで言う。
「ちょ、なに急に。やめて」
眉間に皺を寄せながら昴が呟く。風が吹き、ふわふわとした猫っ毛が靡くと、シルバーのピアスが垣間見える。真っ赤な耳も。
春樹は思わず緩みそうになる頬を引き締める。
昴は未だに全貌が掴めない奴だ。いかにも大学生らしいチャラくて適当な奴かと思えば、こうやって急に純粋無垢な感じを出してくる。
まったく、扱いにくくて困る。
それなのに、なぜ関係を続けているのかといえば、セフレに求める2大条件を、昴が満たしているからだ。
2大条件とは顔が好みなことと、身体の相性が良いこと。実にシンプルだ。
まぁ、あとは無駄にプライベートに突っ込んでこない奴だと、なお良しってとこだ。
「時間もったいないし行こうよ」
昴は照れを誤魔化すかのように、春樹の手首を掴んで歩き出す。
その瞬間、心臓が嫌な音を立てる。心臓にぽたりと黒い雫が一滴落とされた音だ。雫は気を抜くとすぐに広がりシミを作ってしまうので、早めに対処しなければならない。
「わかったから。手は離せ」
「……なんで」
昴が子供のように拗ねた表情を浮かべる。
「なんでも。見られて困るのお前だろ」
「……別に隠してないし」
「昴」
諭すように名前を呼ぶと、昴は手を離す。
ちぇっと不服そうな声を上げているが、その表情はどこか嬉しそうだ。
昴からの要望に応え、最近は彼のことを呼び捨てにしている。まだ慣れていないのか、名前を呼ぶ度に、昴は耳を真っ赤にさせる。
──うーん……。調子狂うな。
昴はわかりやすい。
本人はうまく取り繕えてると思っているようだが、顔に全ての感情が出てしまっている。
言葉でなんと言おうと、表情が全てを語ってしまっているのだ。目は口ほどに物を言うというやつか。
そんな昴を見ていると、複雑な気持ちになる。
なんとなく、自分のペースを崩されそうな、そんな恐れを感じる。同時に、そのまま変わらないで欲しいとも思う。自分のように嘘がうまい人間にはならないで欲しいと。
週末のネオン街はいつものように賑わっている。ここはいわゆるゲイタウンで、周りはお仲間で溢れている。多くがパートナーの肩や腰を抱き、性的な雰囲気を醸し出し歩いている。
楽しそうな彼らを横目に、春樹は昴と一定の距離を保ち、ホテルへと歩みを進めた。
情事後は身体の内側がどこかすっきりしたような不思議な解放感がある。そこでいつも溜まっていたことを実感する。
まぁ、でも身体的には負担が大きいのも確かで、腰から下半身にかけてはひどく重たくなる。
それは今日も同様で、春樹はシャワーを浴びながら腰をさすった。
初めて昴と寝た日、彼の動きはいかにも若者らしかった。すぐに挿入し、夢中になって腰を振っている様子は滑稽だけど、どこか可愛いくもあった。
年下の男と寝る時はいつも同じような感情だ。
しかし、最近の昴はなんというか……丁寧だ。嫌になるくらい前戯が長い。
そんなタイプには見えなかったのに。ここでも昴の二面性が垣間見える。今でも、挿入した後は若者らしく激しく腰を振る。だが、それまでは、まるで年上に抱かれているかと錯覚するほど、丁寧で優しい手つきなのだ。
そのギャップのせいで、時折、溜まらず声が漏れそうになるのが近頃の悩みだ。男の喘ぎ声など聞きたくないに決まっている。
先程までの情事を思い出し、身体が再び熱くなるのを感じる。
いつまでも消えない身体の熱を冷ますために、春樹は頭から冷たいシャワーを浴びた。
シャワールームから出ると、昴がベットの上に座りながら船を漕いでいた。
ベッドの前を通り、冷蔵庫を開けたところで、昴の上体がビクンッと揺れ、こちらを見る。
「……あ、おかえり」
そう言った昴の目は開ききっていない。
「眠いなら寝なよ」
「やだ……俺も飲む」
昴は子供のように言うと、春樹の持っているビールをじっと見つめる。しかし、やはりその目は今にも閉じてしまいそうだ。
「今日はやめとけ。ほら、とりあえず横になれって」
「……春樹さんも寝なよ」
「この一本だけ飲んだら寝るよ。金曜の夜くらい飲ませろよ」
「……わかった」
なぜか悔しそうな表情を浮かべた後、昴は上体を倒した。そして、5分も経たない内に眠りに落ちる。
いつもはどこか気を張っている昴だが、寝ている時は子供のようなあどけない表情をしている。
すぅすぅと寝息を立てる昴を見ていると、自然と笑みがこぼれる。
ビールを飲みながら、この寝顔を見るのが最近のマイブームだ。
10分ほどで缶が空くと、ホテルに備え付けてあるポットに電源を入れる。その間に髪を乾かす。備え付けのインスタントコーヒーにお湯を入れると、カバンから社用のPCを出し、仕事を始める。そして、そのまま朝を迎える。
これがホテルでのルーティンだ。
春樹は決してホテルでは眠らない。というより人と一緒には眠れないのだ。
不眠症というわけではない。1人の時は問題なく眠れる。
人といる時だけどうしても眠れないのだ。
原因ははっきりしている。
まだ、本気の恋ができていた頃の話。
起きたら隣で寝ていたはずの恋人が居なかった。
その恋人は次に会った時には、女性と付き合っていた。そいつは元々ノンケだった。
それからは、起きたら居なくなってるのではないか。そんな恐怖心から人といるときは眠れなくなったのだ。
別に、トラウマというほどのことではない。ただ、恋だの愛だのは、くだらないと思うには、十分すぎる出来事だった。
「……春樹さん今日も早い」
朝を迎え、洗面所で顔を洗っていると、昴が瞼を擦りながらやってくる。
「おはよ」
「おはよー」
昴はそう言いながら、顔を拭いていた春樹を後ろから抱きしめる。
寝起きの昴はいつもこうだ。まだ意識が覚醒しきっていないのか、大きい体で子供のように甘えてくる。
「ほら、お前も顔洗え」
猫っ毛をわしゃわしゃと撫でながら言う。
こんな風に子供扱いした時、昴はいつも寂しげな表情になる。
わかっていてもそうするのは、勘違いさせないようにだ。自分は昴に恋愛感情は持っていないと、そうわからせるためだ。
昴には、本気になることはないと自分なりに態度や行動、言葉でもはっきり伝えている。
それなのに、もしかすると昴は自分のことを好きなのではないか、そんな自惚れをふと、感じることがある。
それは決して喜ばしいことではない。
男も女も両方いける奴が最後に選ぶのはどうせ女だ。
家庭を持ちたいと思うのは当たり前のことだし、否定するつもりはない。というか、それが正しいのだ。
昴への好感度は会う度に増していく。それは恋愛的な意味ではなく、人としての好感度の話だ。
だからこそ、幸せになってほしい。女もいけるなら普通に家庭を持ってほしい。
昴はきっと良い父親になる。
でも、それはなにもすぐの話ではないだろう。きっと、結婚なんてまだまだ先の話だ。
だったら、それまでは付き合えば良いのかもしれない。
でも、いつか捨てられるとわかっていて付き合えるほど春樹は強くないのだ。
昴の前ではかっこいい大人を演じている。いや、昴の前に限ったことではない。会社でも、家族の前でも、もう1人の自分を完璧に作り上げている。
だけど、本当の自分はとてもちっぽけで弱くて脆い。
身体だけの軽い付き合いか、一生離れたくないと思ってしまうほどの重い愛か。
春樹にはそのどちらかしかできない。
ちょうどいい愛し方ができないのだ。
心臓がチクリと痛み、昴の腕の中からそっと離れ、部屋へと戻る。
窓から見える朝の空には、今にも雨を降らせそうな厚い雲が浮かんでいる。明かりのついていない部屋は、差し込む光もなく、暗く淀んでいた。
「ねぇ、今日もあのカフェ行こうよ」
ホテルを出てすぐに、昴が言う。
「ナポリタンのこと?」
純喫茶ナポリタン。老夫婦が営む、隠れた名店だ。
「そうそう。てか、ナポリタンが看板メニューだからって、すごい安易な店名だよね」
昴が放った何気ない言葉に、ドクンと心臓が音を立てる。
心臓を握りしめられたような苦しさを感じる。同時に、過去の記憶の一欠片が頭の中で煌めく。
──はる、ナポリタン美味しい? 俺にも一口ちょうだい。
春樹はフォークにパスタを巻きつけ、彼の口元へと運ぶ。
──うまっ! やっぱナポリタンが正解だったかー。
──まぁ、店の名前にしてるくらいだし。
──にしても、看板メニューがナポリタンだからって店の名前にするのは安易だよな。
そう言った彼に「たしかに」と春樹も同意し、大して面白くもないのにしばらく笑い合った。
甘くて痛い、忘れたい記憶の一欠片。
まだこんなことを思い出して、心を痛める自分に嫌気が差す。
そんな春樹を他所に、昴は頭を抱えながら唸る。
「うわ、てかなんでこの前カルボナーラにしちゃったんだろ。普通に考えたらナポリタンだよなー」
悔しそうに言った昴に、春樹は、ほぼ無意識に呟く。
「あそこのナポリタンはうまいよ」
「あれ、春樹さんこの前行ったのが初めてじゃなかったんだ。春樹さんもこの前カルボナーラ食べてたよね?」
「あ、うん。まぁ、大分前の話だよ」
「ふーん。じゃあ、今日こそナポリタン食べよっと」
まだ了承していないのに、昴は勝手にナポリタンへと歩みを進める。
──まぁ、腹も減ってるしいいか。
そう言い訳をし、昴についていく。
でも本当は、苦い思い出を上書きしたい、そんな卑しい思いがそこにはあったのだ。
店に入ると、2人は迷わずナポリタンを頼んだ。周囲を見渡すと、店内には春樹たちを含め3組ほどしか客が居ない。
休日でも混雑しないこの店の雰囲気はとても落ち着く。
しばらく来れていなかったが、やはり好きな店だなと思う。
注文して10分ほどでナポリタンが到着した。フォークに巻き付け一口食べると、昔ながらのやや甘めのケチャップの味と、ピーマンの苦さ、ベーコンのしょっぱさがバランスよく口の中に広がる。
いくらでも食べれそうな味だ。
「なにこれ。うっま」
そう言って部活帰りの学生のようにモリモリと食べる昴に、思わず吹き出しそうになる。
「もっと味わって食べろよ」
「こういうのは熱々の内に一気に食べるのが美味いんだって」
「まぁ、それもそうだな」
春樹も同意すると、しばらく無言でナポリタンを食べた。
昴よりやや後に、春樹が完食した時、静かな店内にカランカランと乾いた音が鳴った。
それは店の扉につけられたベルの音で、来客の合図だ。その音が懐かしくて、春樹はなんとなく扉に視線を向けた。
その瞬間、息が止まりそうになる。
そしてそれは、相手も同じようだった。
「はる……?」
「……とも」
頭の中で、ガンガンと大きな音が鳴り響く。心臓は破裂しそうな勢いで動いている。
全身から血の気が引いていくのを感じる。
昴の前ではかっこいい大人でいたいのに。
弱くて脆い自分が、徐々に身体を支配していく感じがする。
──嫌だ。戻りたくない。あの頃の弱くてバカで、なんでも上手くいくと思っていた自分には戻りたくない。
そう思うのに、まるでタイムリープしたかのように過去の記憶が鮮明に蘇っていく。
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