狐は逃げる

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 暑くも寒くもない心地よい春の日。外では、暖かい風が吹き、満開の桜の花びらがふわふわと踊っている。  そんな高校3年生の春の日に、春樹は秋山 友晴(あきやま ともはる)と出会った。  仲良くなったきっかけはとてもシンプルだったように思う。  クラス替えの初日。黒板には名前順で決められた座席表が貼られている。春樹は自分の名前を見つけ、思わず眉を顰める。 ──うわ、1番前じゃん。  教室に入って手前から2列目の1番前。出席番号7番。それが今年の自分の番号のようだ。  思い足取りで自席へ向かうと、右隣にはすでに人が座っていた。教室に入って手前から1列目の1番前。出席番号1番の人物である。  1番は春樹に気づき、こちらを見る。艶のある黒髪は毛先を遊ばせつつ、耳元で切り揃えられ、校則を遵守しながらも堅い印象を与えない。切れ長な澄んだ瞳、スッと芯の通った鼻、尖った顎が彼の淡麗な容姿を形成している。  思わず観察してしまっていた春樹に、1番は屈託のない笑顔を浮かべる。 「あ、隣の人? えと、神谷くんかな?」  1番は前の黒板で名前を確認し、よろしくと明るく言う。仕方なく自分も黒板で1番の名前を確認する。 「よろしく秋山くん」  作り笑いでそう言うと、1番はクスッと小さく笑った。  随分綺麗に笑うんだなと、そんな風に思った。 「なんか苗字でくん付けって違和感すごいね。やめよやめよ。俺のことは、(とも)って呼んで。みんなからそう呼ばれてるんだ」  どこまでも爽やかな笑顔で彼は言う。 「おけ。俺のことはなんでも適当に。下の名前は春樹」 「春樹か。じゃあ、(はる)って呼ぶね」  そう言われて、一瞬えっと声がこぼれそうになる。あだ名なんてあったことがない。  だが、断るのもめんどくさく、まぁ良いかと春樹は容認した。  この時から、春という名前は友専用の自分のあだ名になった。それが、嬉しく感じてしまう、そんな痛い子共だったのだ。  友と仲良くなるのにそう時間はかからなかった。席が隣だから休み時間の度にたわいもない話をしたし、昼も一緒に食べるようになった。  名は体を表すというように、友は本当に友達が多い奴だった。  自然と春樹もその輪の中に入るようになったが、そうなってくると自分の噂を知っている奴が多々現れる。 「春樹、お前ゲイってマジなの?」 「そうだけど、なんか悪い?」  認めてくれる奴とだけ仲良くすればいい、この頃はそう思っていた。 「いや、悪くはないけど……」  堂々たる春樹の態度に相手は大抵、不可解な表情を浮かべる。その度、場の空気は悪くなる。  そんな雰囲気を変えてくれるのはいつも友だった。 「いやー、でもありがたいよね。こんなイケメン、ゲイじゃなかったらクラスの女子みんな取られちゃうよ」  友は冗談っぽく笑いながら言う。すると、周りはたしかにと笑い、どうでもいい会話に戻る。  人によってはデリカシーがないと感じるかもしれない発言だが、春樹にとってはこれ以上ない満点の返しだった。  自分と違うからと馬鹿にされるのもムカつくし、だからといって同情するかのように庇われるのもムカつく。  そんな春樹の気持ちを知ってか知らずか、友はいつも中立の立場だった。  そんな友に惹かれるのは必然だったように思う。  でも、春樹は自分の気持ちを伝えるつもりはなかった。友が女しか好きにならないのは知っていたし、この関係が壊れるのが怖かった。  目指すなら親友だ。結婚式で友人代表を任せてもらえるような、そんな友達の中での特別になりたいと思った。  そんな祈りのおかげか、友とは高校を卒業しても週に一度は会う程の仲になった。お互い何でも言える、そんな関係だったように思う。  もちろん、自分の恋心を除いて。  そんな関係が壊れてしまったのは大学4年生の春のことだ。 「くそっ!」  春樹の部屋で缶ビールを煽った友は、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。  友は酔うと少し口が悪くなる。だから、基本的には飲む量をセーブしていた。  でも、春樹の部屋で宅飲みする時はいつもベロンベロンになるまで飲んで、溜まりに溜まった愚痴をこぼす。  これは春樹の前でしか見せない姿。そう思うと、この上ない幸せを感じた。この時はそれほど友に心酔していたのだ。 「また彼女となんかあったのか?」 「浮気だよ浮気。なんで女ってあんな浮気ばっかすんの。普通逆じゃないのかよ」  友は誰にでも平等だった。常に気を配り、どんな問いかけにも模範解答を導き出す、そんな奴だった。  それは彼女という立場からすると、複雑なのだろう。特別扱いして欲しい。嫉妬して欲しい。そんな思いからか、友の彼女の多くが浮気をした。それは友が好きだからこその行動なのだろうが、そんな言い訳は通用しない。  友は次第に、女を信用できなくなっていた。そしてある日、言ったのだ。 「春が女の子だったら良かったのに。いつでも駆けつけてくれて、俺の相談に乗ってくれるし。俺のことを大切に思ってくれてるって実感できる。だから、春が彼女だったら安心」  ほろ酔いの友は微笑みながらそう言った。  その時、今ならいけるのでは、そんな馬鹿なことを思ってしまったのだ。 「別に男でも良いじゃん。俺、友のこと絶対裏切らないよ。男がいけるか不安なら試してみるだけでも良いし」  友は一瞬目を見開き驚いた表情を浮かべたが、数秒後には熱っぽい表情に変わった。視線が交わると、それが互いの合意のサインとなり、春樹は床に押し倒された。  それまで、友だと思って、何人もの男に抱かれてきた。   本物に抱かれる日が来るなんて想像もしていなくて、最中は歓喜で溺れそうだった。幸せで幸せで、今なら死んでも良いと、そんなことまで思った。  ヒラヒラと桜が舞う季節、春樹は初めて友と繋がり、恋人になった。  その後も、馬鹿みたいなことで笑い合ったし、良い友人でもあった。でも、夜になると身体を繋げ、深く愛し合った。  大学を卒業し、互いに社会人になっても、その関係が変わることはなかった。  一生離れることはないと、春樹は本気でそんな風に思っていた。  24歳の6月。高校の時の仲間の1人が結婚した。友と2人で結婚式に行き、友人の門出を心から祝福した。  友の様子がおかしくなったのはこの辺りからだったように思う。  元々ほぼ同棲のような形だったので、会う頻度自体は変わらなかった。ただ、身体を繋げる回数は減った。そういう雰囲気になると、友はあからさまに距離を取ってきた。  そんなはずがないと思いながらも、春樹の心には得体の知れない重たい何かが芽生えてきていた。  不安、恐怖、焦り。それらがないまぜになったような、気持ちの悪い物体。  それは徐々に大きくなっていったが、春樹は必死に気づかないふりをした。 「明日さ、夏美(なつみ)と会ってくるわ」  東京では珍しく雪がチラチラと降っていた冬の日。友がそう言った。  夏美。友の元カノの1人だ。 「は? なんで?」 「いや、たまたま営業先で会ってさ。飯行くだけだよ。取引先の会社でもあるし、仕事の話するだけ。一応確認は取っておこうって思って」  笑顔でそう言った友に、胸の中の物体はもう限界まで大きくなっていた。それでも、友を信じよう。信じたい。そう思った。 「いいよ。行って来な。その代わり、帰ってきたら抱いて」  祈るような気持ちでそう言うと、友は眉を顰め、困ったような表情を浮かべた。  友の正直な反応に、心臓が握りつぶされる。それでもこの条件は譲ることがでなかった。 「うん。わかったよ」  友はどこか寂しげに微笑んだ。    次の日は、仕事が一切手につかなかった。もしかしたら捨てられるのでは、そんな不安でいっぱいだった。帰宅してからも友の訪問を留守番中の子供のように、そわそわしながら待っていた。  ガチャリと扉が開き、友の顔を見ると、安堵で崩れ落ちそうだった。  その日の夜、友は約束通り抱いてくれた。  今までで1番優しかったように思う。  情事後、久しぶりだったからか身体は酷く疲れ、すぐに眠気が襲ってきた。対照的に、心は飛んでいきそうなほど軽く、春樹は満ち足りた気持ちで意識を手放した。  スマホのアラームが鳴り、重たい身体を起こす。おはようと声をかけようと隣を見ると、そこには誰も居なかった。  ただ1人分のスペースがあるだけ。  急激に体温が下がっていく。慌てて寝室を飛び出して、リビングへと向かう。  部屋の中には友の姿も、友の荷物も見当たらなかった。まるで元々なかったかのように。  冬は嫌いだ。寒いのが苦手だから。  この日の朝は特に寒くて、春樹はうずくまって自分の身体を抱きしめた。  それでも寒くて寒くて、震えが止まることはなかった。  友が電話に出たのはその1週間後のことだった。どうしてかと、春樹が一言そう尋ねると、友からはごめん、ただそれだけが返ってきた。  そんな答えでは納得できるはずがなく、春樹は無理やり会う約束を取り付けた。会わないなら友の会社に行くと、そんな脅しをかけた。  自分でも持ちきれないほどの重すぎる愛だった。  待ち合わせたのは2人の行きつけの喫茶店だ。混雑することはなく、ゆっくりと時間が進む感じが良いよね、友がそんな風に言っていた店だ。  先に店につき、座っていると、カランカランと乾いた音が鳴る。  音と共に入ってきた人物が視界に入り、眩暈がした。いっそ倒れてしまえればどれほど楽だっただろう。  そこには、友と夏美、2人の姿があった。 「ごめん」  友は席に座った途端、そう呟く。 「何がごめんなの」 「別れて欲しい」 「その女のせい?」  そう言って、夏美に冷たい視線を向けると、彼女は身体を小さくする。こういう姿を見て、男は守ってあげたいとそう思うのだろう。  自分も彼女くらい小さい身体だったら、もう少し長く付き合えただろうか。そんなどうしようもないことを考える。 「夏美のせいじゃないんだ。俺がただ、一方的に好きになっただけ」  心臓に穴が空いたのかと錯覚するほどの激痛が走る。  夏美はそんな友の発言を必死に否定する。 「待って、春くん違うの」  お前がその名前で呼ぶな、そう言いかけそうになるが、拳を握りしめ耐える。 「私、親に早く結婚しろって口うるさく言われてて……。そのことを相談したら友も同じ状況で……。だから」 「だから結婚するってか?」  春樹が冷たく問いかけると、夏美は焦ったような表情を浮かべる。そんな夏美の背中を友が落ち着かせるように撫でる。心臓の穴がどんどん大きくなっていく。 「すぐにってわけじゃないんだ。でもゆくゆくはできれば良いと思ってる」  友はそう言うと、今度はどこか覇気のない声で、臆病者でごめん。そう言った。  その言葉で理解する。  友は子供が好きだ。家族番組なんかを見てよく笑っていた。そして、親のことを尊敬している。期待に応えたいと、そう思っている。  友は誰よりも人の機微に敏感で、優しい奴だ。例外は春樹に対してだけ。酔って愚痴を言うのも、喧嘩をするのも春樹にだけだ。  多分、友は誰よりも弱いのだ。だからこそ嫌われるのを恐れ、人に気を遣い、期待に応えたいと強く思うのだろう。  そんな彼が、男と付き合うなんて初めから不可能だったのである。  結婚して家庭を持つ。それは彼にとっては必ず果たさなければならない義務なのだ。男と付き合って、子供も結婚もできないなんて、そんなことは許されないのだ。  それで幸せになれるのは春樹だけだ。 「わかった。幸せになれよ」  心臓の穴に必死に空気を詰め込み、なんとかそう言った。友は目に涙を浮かべ、もう一度ごめんと呟いた。  そんな友に、春樹は怒りや悲しみを通り越して、もう何も感じなかった。  わかったことは2つ。  両方いけるやつが最終的に選ぶのは女であるということ。  そして、本気で人を愛することは大きなリスクを孕んでおり、自分には向いていないということ。  ただ、それだけだ。 「……さん……樹さん……春樹さん!」 「え」  何度も名前を呼ばれ、過去から現代へと戻ってくる。しかし、目の前には過去の人間であるはずの友が居る。  なんでこんな所に居るんだ。結婚して、地方に行ったと風の噂で聞いていたのに。  嫌な思い出と、目の前の理解できない現状とがぐちゃぐちゃに混ざり、酷く頭が痛む。   「春樹さん顔色悪いよ。大丈夫? この人知り合い?」  昴が心配そうな表情で覗き込んでくる。不思議と、少しだけ痛みが和らぐ。 「別に」  春樹が冷たくそう呟くと、友はショックを受けたかのような表情を浮かべる。 「……あの、春、俺」 「帰る」  友が話し出す前に、春樹は席を立ち、店を飛び出した。今すぐにでも叫び出したい衝動を必死に抑えながら、拳を強く握りしめ歩く。  ──ふざけんな。今更なんのつもりだ。俺がどんな気持ちで、お前と別れたと思ってるんだ。  もうなくなったと思っていた怒りと悲しみが一気に腹の底から押し上がってくる。自分でも処理できないほどの激しい感情に戸惑う。 「春樹さん!」  後ろから小走りする音と自分の名前を呼ぶ声が聞こえるが、無視して早歩きで進む。 「春樹さんってば!」  それでも音はどんどん近づき、ついに手首を掴まれる。 「……なに」  肩で息をする昴に、目も合わせずぶっきらぼうに言葉を投げる。 「なにって……。どう見ても様子おかしいじゃん。あの人と何かあったの?」 「お前には関係ない」  冷たくそう言うと、昴が沈痛な表情を浮かべる。そんな昴を見ると、不思議と自分の胸もチクリと痛んだ。 「ごめん。言い方悪かった。でも、今日は帰らして。また来週な」  無理やり口角を上げて言う。作り笑いは得意なのだ。  昴の前ではカッコいい余裕のある大人で居たい。弱いところなんて見られたくない。  春樹は昴に背を向け歩き出す。  次の瞬間、全身が暖かいものに包み込まれる。  いつもより強く、痛いくらいに抱きしめられる。 「そんな顔の人、帰せるわけないじゃん。言いたくないなら何も言わなくて良いよ。でも、今の春樹さんを一人にしたくない」  昴の言葉に、鼻がツンと痛み、目元が熱くなる。久しぶりの感覚だ。  昴からはいつも、お日様のような暖かい匂いがする。その匂いと、馴染んだ体温に、次第に強張っていた身体が弛緩していく。   「ありがと」  春樹は声が震えないように、小さい声で呟いた。
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