狐は逃げる

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「お茶でいいか?」 「うん。ありがと」  そう言って明るく笑う昴は、殺風景な自分の部屋にはなんだかマッチしない。この面白みのない部屋に人を招いたのは何年ぶりだろうか。  流れで自分の家に招いてしまったが、冷静になると、とんでもないことをしてしまったなと思う。  バリアをしっかりと張らなければならないのに。よりにもよって家という一番デリケートな敷地に招いてしまった。  自分らしくないミスだ。  それもこれも全部友のせいだ。  そう思わないとやってられない。本当は今も気を抜けば怒りと悲しみが全身から爆発してしまいそうだ。  そう考えると昴が居るのはありがたいのかもしれない。昴が居ることで、自分の感情をどうにか抑えることができている。  一転二転する自分の思考に、思わずため息が溢れ出る。 「一人暮らしにしては広い部屋だね」  ソファに横並びで座ったところで、昴が関心したように言う。  11畳ほどのリビングと6畳ほどの寝室のある我が家はたしか一人で住むには広すぎる。  就職に合わせて、元々二人で住む想定で借りた部屋なので当然である。  家賃もそれなりにするが、これといった趣味もないので意外とどうにかなっている。  就職すると引っ越しする時間を確保するのがなかなか難しい。だから別れた現在もこの無駄に広い部屋に住んでいるのだ。  そう心の中で言い訳してみるものの、本当はわかっていた。  結局、今も捨てきれていないのだ。  友との思い出が詰まったこの部屋を手放す勇気を持ち合わせていないのだ。   「ほんと、無駄に広いよね」  春樹は自嘲めいた笑いを浮かべる。 「いいじゃん。俺の部屋なんて妹と弟の部屋の隣だから、うるさくって仕方ないよ。ベッド置いたらそれだけでほとんどスペース埋まるし」 「賑やかそうでいいじゃん」    昴に妹と弟がいることも、実家暮らしであることも、ここで初めて知る。そういった基本プロフィールすら自分達は知らない。  そんな事実が、あくまで2人が身体だけの関係であることを証明している。   「なんもよくないよ。俺も早く一人暮らししたい」 「今は親の脛かじれるだけかじっとけよ。金も時間も、学生のうちは自分のために使え」  言ってから、説教じみているなと思った。どの口がそんな偉そうなことを言うのだろう。  金も時間も、1人の男に費やしていた人間が言う言葉ではない。  いや、違うか。だからこそ忠告できるのかもしれない。  自分のようにはなってはいけないと。 「またガキだなって思ったでしょ……」  昴は拗ねた子供のように悔しそうに唇を尖らせ呟く。子供というより、飼い主に構ってもらえない犬といった例えの方が近いかもしれない。  まったく、昴と居ると調子が狂う。  この感情はなんなのだろう。  昴はチャラチャラしてるし、まさに今の大学生といった雰囲気の男だ。でも、周りの若者より、生きるのが上手い感じもする。察しがいいし、適応能力が高いように思う。  それなのに、頭を撫でてやりたくなるような、可愛さと情けなさも持ち合わせている。大人のようでもあり、子供のようでもある。  自分には手に余る人間だ。  そう思いつつも、目の前で項垂れている頭を思わず撫でてしまう。ふわふわの猫っ毛が、手をくすぐる。 「ほら、子供扱いしてる……。絶対早く一人暮らししてやる……」  顔を歪めそう言った昴に、思わず小さく笑ってしまう。 「別に慌てることないって。学生なら実家暮らし組も多いだろ」 「でも、誠も黒澤も一人暮らしだし。まぁ、あいつらは半同棲って感じか」 「へー……」  言い直した昴の言葉に、少し驚く。  あの陽太が同棲か。  黒澤 陽太。  自分が大学3年生の時に出会った少年だ。元々陽太の姉と知り合いで、黒澤家に行った際、話の流れでゲイだとカムアウトした。  自分のセクシュアリティにコンプレックスを持っていた陽太は、春樹に尊敬の眼差しを向けた。  ──春樹さんみたいになりたい。  ある日言った陽太の言葉に、悪い気はしなかった。  春樹は、偉そうに陽太に色々と教えた。今思うと、お節介にもほどがある。  でも、陽太と居る時間は心地よかった。恋愛感情ではない。  友人、それも何か違う気がする。  家族であり、同志である。そんなとこだろうか。  そして、そんな関係を壊したのは春樹だった。  友に捨てられ少し経った頃、春樹は陽太を押し倒したのだ。セックスが上手くできないという陽太に、教えてやるという名目で身体の関係を迫ったのだ。  思えば、この頃は誰でもよかったのだろう。  いや、でも陽太に関しては違うかもしれない。自分には本気にならない、でも乱暴にはしない。そんな確信にも似た予感があった。  だから、最低なことにセフレになることを提案したのだ。  陽太はその提案を受け入れた。記憶の中の陽太は本気で誰かを好きになれないタイプだった。  友に似たタイプとも言えるかもしれない。博愛主義者で、来るもの拒まず。顔も芸能人レベルで整っているので、相手に困ることはなかったのだろう。 「あの陽太が同棲ね……」  自分の感情を確かめるように呟く。  本当に変わったんだなと思う。人は恋をすると変わるというのは本当だと思う。  陽太は本当の恋を知って、自分に素直に生きられるようになったのだろう。話を聞く限り、陽太のパートナーである誠くんも同じように思う。  ふと、自分の場合はどうだろうと思った。友のことを本気で愛して、どう変わっただろうか。  人と居ると眠れなくなった。  自分が恋愛には向いてないことを知った。  女性には敵わないことを知った。  それなのに男しか好きになれない自分が嫌になった。  散々だなと思う。人は恋をすると変わるというのは、たしかに事実だと思う。でも、それはなにも良い変化だけとは限らないのだ。  時には人を弱く、脆くもするのだ。  不思議と喉が詰まる感じがして、春樹は目の前にある麦茶を流し込んだ。  ヒヤリと冷たい液体は喉元を、ただ無意味に通り過ぎる。 「また、変な顔してる」  昴に指摘され、眉間に皺が寄っていることに気づく。 「変な顔って失礼だな」  慌てて取ってつけたような笑顔を浮かべる。  そんな春樹の様子に、今度は昴が眉間に皺を寄せる。  なんだその顔はと言おうとした瞬間、昴の顔が近づいてくる。  そして、あっという間に唇を奪われる。  突然のことに、唖然とすることしかできない。  昴はそんな春樹を抱き締めると、耳元で苦しそうに言う。 「ねぇ、しよ」 「は……? しよって、まだ昼間だぞ。てか、昨日もしただろ」 「お願い。今したい。春樹さんを抱きたい」  昴の扇情的な表情に、心臓がドクンと音を立てる。  何も言わない春樹の態度を了承と取ったのか、昴の手がするりと服の中に侵入してくる。首筋に何度も軽く口付けながら、胸の中を弄られると、次第に身体に熱がこもってくる。   「んっ」  胸の突起に触れられ、思わず甘ったるい声が漏れる。身体に力が入らなくなり、ソファの肘掛けにもたれかかるような体勢になる。  昴は春樹のシャツを捲ると、胸元に舌を這わせる。普段はしない行動に、思わず身体がピクんっと跳ねる。 「なっ、やめろ」  昴は春樹の抗議を全く聞き入れない。愛おしそうに、熱心に舌を這わせる。  その姿に、言い知れない羞恥心が襲ってくる。  舌は次第に胸の突起へと進む。まるで飴玉を舐めるかのように、優しく丁寧に転がされると、次第に声が抑えられなくなっていく。 「あっ……んっ、す、すばる、やめっ……」  呼び捨てで名前を呼んでも、今日は言うことを聞く気配がない。  唯一の切り札を取り上げられ、もうお手上げだ。  こうなると、嬌声を上げないように努めるしかない。春樹は強く唇を噛み締める。   「春樹さん、血出ちゃうよ。唇噛まないで」  昴は顔を上げ、春樹の唇をひと撫でする。そんな昴に、春樹は首を横に振る。  昴は小さくため息をつくと、春樹のズボンに手をかけ、あっという間に下着まで奪い去られる。  そして、顕になった春樹の雄に、昴はそっと唇を近づける。まさかと思う頃にはもう遅く、そのまま口に含まれた。  あまりの衝撃に、噛み締めていた唇に徐々に力が入らなくなってくる。昴はこれまた丁寧に、優しく、熱心に、春樹の雄に舌を這わせ続ける。  今日の昴は本当におかしい。  春樹がフェラチオをすることは何度かあった。しかし、されるのは初めてだ。  春樹がひどく嫌がるからである。自分は尽くすことは好きだが、尽くされるのは苦手だ。フェラチオは行為的にも視覚的にも、尽くされてる感じがするので、することは好きでもされることは苦手なのだ。  しかし、初めての感覚に、春樹は抵抗する力も湧かないほどの快感を得ていた。とうとう噛み締めていた唇が開く。 「あっ……んっ……ぁ」  漏れ出た自分の甘ったるい声に耳を塞ぎたくなる。 「あっ……!」  先端をグッと押し込むように舐められた瞬間、身体が大きく跳ねる。  春樹から放たれたものを昴は当然のように嚥下する。 「春樹さん……かわいい」  顔を上げた昴はそう呟き、涙目の春樹を撫でる。  ああ、本当になんなんだ、この状況は。  おかしい。おかしすぎる。  これはダメだ。このままでは取り繕えなくなってしまいそうだ。自分がリードしなければならないのに。主導権を握られてはならないのに。  焦る春樹の唇に、昴が触れるだけのキスをする。そして、柔らかく笑う。 「なんか拭くものもってくるね。タオルって洗面所?」    そんな昴の問いかけに、思わず「へ」とだらしない声が出る。  当然、行為は続行するものだと思っていたからである。 「なに? 続きしたかった?」  昴がニヤリと笑う。 「いや、違うけど……」   「けど?」 「これじゃ、俺が気持ち良くなっただけだろ……お前なんも良いことないじゃん……」  ぼそりと春樹がそう言うと、昴は大きなため息をつく。 「あのね、春樹さん。俺、別に自分が気持ち良くなりたいってだけでやってるわけじゃないからね? 春樹さんが気持ち良くなってくれると俺も嬉しいの。だから、今日はもう満足」  昴の言葉に、春樹はポカンとしてしまう。何を言っていいのかわからず、「タオルは洗面所」と一つ前の話題に答える。  そんな春樹に、昴は苦笑いしながらも洗面所へと向かう。  春樹は体勢を直し、下着を履いた。  そうすると、ほんの少しだけ冷静になれた。そして思考が巡る。  非常にまずい。  このままでは落ちる。  伊藤昴に落ちてしまう。  そう思った。  先程までは友への不快な感情でいっぱいだったのに、今は頭の中で昴の言葉がリフレインして、昴のことしか考えられない。  このままでは、また自分でも持ちきれないほどの重い感情が生まれてしまう。  そうなってからでは遅い。昴はダメだ。  バイは絶対にダメだ。  自分を厳しく叱咤する。 「ほい、濡れタオル。シャワー浴びる?」   「いや、いい……」 「おっけー。てか春樹さんってタバコ吸うんだね。知らなかった」  急に何かと思ったが、すぐに理解する。洗面所に置いてあったものを見つけたのだろう。  春樹は疲れた時にだけ、タバコを吸う。ただ、頻度としては非常に少なく、本当にストレスが溜まったときだけだ。  多分、今日は久しぶりに吸う日になるだろう。 「たまに吸うだけだよ」 「ふーん。俺も吸ってみよっかな」  昴は冗談混じりにそう言った。  たった一言。本当に軽くそう言った。  それなのに、春樹は頭をハンマーで殴られたかのような衝撃を受けた。  全身が強張っていくのを感じる。 「なに……言ってんだ……やめろ! 今まで吸ってこなかったんなら、吸うな!」  思わず大きな声で叫んだ。異常な春樹の様子に、さすがに昴も驚いている。  自分でも驚いた。  なんだろう。  怖かったのだと思う。  ほんの少しでも、自分が昴に何か悪い影響を与えているのかと思うと心底怖かった。  肺を黒くするだけのタバコを、昴が自分をきっかけに吸うかもしれない。そう思うと怖くて怖くて仕方なかった。  友をこちらの世界に引き摺り込んでしまった時と、同じような怖さを感じたのだ。 「じょ、冗談だよ。吸わないから」  困惑しつつも、昴が宥めるように言う。  そんな昴の言葉は右から左に通り抜けていく。 「なぁ、お前、俺のこと好きなの? 違うよな? 身体だけの関係って約束したよな?」  自分でも支離滅裂なことを言っているのがわかる。前後のつながりがなさすぎる。  それでも、聞かずにはいられなかった。 「……好きだよ」  その一言に心臓がドクンと大きな音を立てる。 「人として。大丈夫。恋愛感情ではないよ」  昴はそう続けると、苦しそうな笑顔を浮かべた。  それが作り笑いだとすぐにわかった。昴が嘘をついていることは明白だった。  最初の昴の印象は歯に衣着せぬ言い方をする子だなと、そんなものだった。  いつからこんな作り笑いができるようになったのだろうか。自分のせいだろうか。  自惚れるな。自分にそんな影響力はないだろう。  そう思うと同時に、やはり自分が悪い影響を与えているのではないかと思ってしまう。  そう思うと、怖くて怖くて仕方ない。 「春樹さん、大丈夫? 具合悪い?」  昴が心配そうに覗き込む。 「ごめん……今日はもう帰って」 「……うん、わかった。薬とかは平気? 帰る前になんか買ってこようか?」  どこまでも優しいなと思う。  汚してはいけないなと思う。 「大丈夫。寝不足なだけ」  そう言うと昴は「ならいいけど」と言って、素早く身支度を整える。 「お大事に。また連絡する」  その言葉に、春樹は曖昧に微笑んだ。  昴が出て行くと、部屋の中がひどく静まり返る。  顔を洗おうと、洗面所に向かう。  タバコの箱が視界に入ってきた。  たまにしか吸わないタバコの箱は縒れており、ひどく汚く見えた。  まるで、自分のように見えた。  タバコの箱を手に取り、ビニール袋で包んだ。  汚い汚いと思いながら何重にも包んで、ゴミ箱へと投げ捨てた。
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