狸は追いかける

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「春、コーヒーでいい? ご飯はなんか食べる? やっぱナポリタン?」  楽しそうに問いかけてくる友晴を無視し、春樹は近くの店員にホットコーヒーだけ頼む。 「昴と会ったってどういうことだよ。俺が聞きたいのはそのことだけ。お前と無駄話する気はない」 「そんな冷たいこと言うなよー。久しぶりに話すのに」 「お前……俺に何したか忘れたとは言わせないからな」    思わず拳を握り締め言う。  春樹は忘れたとことなど一度もなかった。  忘れたくても、忘れられなかった。  ──こいつは俺の心も時間も、使うだけ使って、いらなくなったから捨てたんだ。  友晴のせいで、春樹は人を容易に信用できなくなり、恋愛なんて恐ろしくてできなくなった。友晴は過去だけでなく、春樹の明るい未来すらも奪ったのだ。  それなのに、友晴はまるで何もなかったかのように、いつもの調子で春樹に接してくる。  沸々と湧き上がってくる感情が怒りなのか、悲しみなのかはもはや分からないし、そんなことはさして重要でもない。  とにかく、こいつとは関わらない。それだけの話だ。  でも、でももし、昴に何かするつもりなら見逃すことはできない。  明るくて純粋で、太陽のような男。  自分達のような、汚い大人が近寄ってはいけなかった男。  自分も友晴も、昴とは関わってはいけない人種だ。   「春、聞いて。俺先月離婚したんだ。もう、結婚とか子供とか考えなくていい。もう自由だ。春とまた一緒に居れるよ」 「……は?」  ──こいつは、何を言ってるんだ……?   友晴の言葉をうまく咀嚼することができず、春樹は放心する。  しかし、少しするとじわじわと苛立ちが湧き上がってくる。熱くて激しい感情が体の内側で、どんどんと膨らんでいく。   「お前、本気で戻れると思ってんのか? 俺がお前を許すと思ってんのか?」 「うん。春は優しいから」  友晴は何の迷いもなく、そう言い微笑む。  春樹は怒りから一転、恐怖から全身に鳥肌が立つのを感じた。  おかしい。何かがおかしい。  友晴はたしかに、自分を裏切ったし、捨てた。でも、あの頃にはまだ、思いやりというか人の心はあったと思う。  臆病者でごめんと涙を流し、頭を下げた友晴の姿が脳裏に浮かぶ。  友晴も当時は辛くて、しんどくて、それでも両親のために、結婚したのだと思う。それは、恋人としては最低な決断だし、同情の余地はないが、それでも息子としては正しい決断だったのだろう。  そして、その決断をし春樹を傷つけたことに、多少の罪悪感は持っていたのだと思う。  だからこそ、あの時涙を流したし、その後一切、春樹に連絡はしてこなかったのだろう。ほんの1週間前までは。  今の友晴からは反省の色が全く感じられない。全てを忘れ、やり直そうとしているようにすら感じる。  今の友晴には優しさや暖かさ、人としての弱さが皆無のように思えた。  恐ろしく理解し難い人間のように思えた。  同時に、さすがの春樹も、友晴に何かあったのかと、次第に心配になってきた。  いくら恨んでいても、憎んでいても、元友人であり元恋人なのだ。 「お前、どうしたんだよ……? おかしいぞ。前まではそんなんじゃなかっただろ……」 「春までそんなこと言うのかよ!」  瞬間、友晴が机を殴り、大きな声で叫んだ。  春樹は一瞬息が止まる。  怖くて、理解できなくて、友晴が友晴ではないようだった。  そこにはもう、自分の知っている友晴は居ないのだと分かった。 「あ……大きい声出してごめん。最近ちょっとバタバタしてて……疲れてるのかも」  友晴は今度は、人が変わったかのように微笑む。  しかし、その瞳は冷たいままだ。 「ねぇ、てかそのお前ってやめてよ。この前は友って呼んでくれたじゃん。また呼んでよ」  ──あれはびっくりして、ほぼ無意識に言ってしまっただけだ。  心の中で返事をするが、声は出ない。  春樹は恐怖と絶望から放心状態だ。  目の前の理解できない人物への恐怖、そして、もうあの頃の友晴は居ないのだという絶望。  ここが外じゃなかったら、今すぐにでも叫び出したい。 「春。ねぇ、聞いてる? あ、そっか。春、前から人前でいちゃつくのは嫌いだったもんね。お客さんも少し増えてきたし、移動しよっか。俺、この辺に引っ越してきたんだよ。家おいでよ」  ──こいつは何を言っているんだ? 意味が分からない。さっきから何も話が通じない。  春樹は友晴の呼び出しに応じてしまったことに深く後悔した。  しかし、同時に、過去へ戻れても、昴の名前を出されたら、自分は何度も同じ選択をするのだろうとも思う。  多分、自分が思っているよりもずっと、昴の存在は大きくなっていた。だからこそ、離れなければ。  そして、友晴も昴から離さなければ。  昴のことを考えると、少しだけ恐怖が和らいでくる。 「……行かない。もう帰るよ。……昴は関係ない。それだけ言いにきた」 「ふーん。そんなにあの子のこと大切なんだ」   「お前が思っているような関係じゃないよ。ただの遊び相手の1人。俺ももう……昴とは会わないし、余計な問題起こしてほしくないだけ」  口に出すと、じくりと心臓が痛む。 「そうなの? じゃあ俺がもらおうかな。春も俺とは付き合ってくれないみたいだし」 「なっ……!? 何言ってんだよ! やめろよ!」    春樹は思わず席から立ち上がる。  これまでにないほどの恐怖を感じた。先ほどよりもずっと大きくて深い恐怖を感じたのだ。 「じゃあ春が俺の相手してくれる?」 「なぁ、本当に何があったんだよ。お前変だよ……」 「ねぇ、やっぱここじゃ話しにくいし、俺の家行こう? そしたら、もう昴くんのこと諦めるから。お願い……春」  その誘いに乗ってはいけないことは、当然分かっていた。  でも昴の名前を出されると無理だった。それに、一瞬辛そうな表情を浮かべた目の前の男に、昔の友晴が垣間見えたような気がした。  春樹は小さく頷くしかなかったのである。  友晴の家は本当にナポリタンの近くだった。歩いて20分といったところだろうか。  友晴が何かと話しかけてきたせいで酷く長く感じたので、もしかするともっと近かったかもしれない。  繁華街から少し離れたところの、ごく平凡なマンションの一室。本当に引っ越してきたばかりなのだろう。1DKの部屋の中にはそこかしこに段ボールが置かれている。 「散らかっててごめん。その辺適当に座ってて。今、飲み物出すね」  不安を感じつつも、春樹は言われた通り、ベッドとクローゼット、円卓しかない洋室に入り、座る。  円卓の横に置かれたゴミ箱には、缶チューハイの空き缶がたくさん入っていた。   「お待たせ。土曜だし、せっかくなら飲まない?」  そう言う友晴の手にも、同じ缶チューハイの缶が握られている。  心臓が嫌な音を立てる。 「……俺は良い」 「そっかぁ。じゃあ、お茶出すね」  友晴は春樹の前にお茶を置くと、自分は缶チューハイを開け、ごくごくと飲み出した。  春樹はお茶すら喉も通らず、この場から1秒でも早く抜け出したくて、話を切り出す。 「さっきの続きだけど、昴とはほんとに何でもないから」 「ははっ! 春、ずっと俺の連絡無視してたのに昴くんの名前出した瞬間来たじゃん。それで関係ないは無理があるって!」  何がおかしいのか全くわからないが、友晴は笑いながら続ける。 「もー。春は懲りないなー。昴くんって女の子もいけるでしょ。俺、雰囲気でなんとなくわかんだよ。やめときな。若いしどうせ女を選ぶよ」 「……そんなこと分かってるよ。だから、もう会わないって言ってんだろ。お前のおかげで、男には本気になっても意味ないって知ってるからな」  春樹は怒りを抑え、努めて冷静に言う。 「俺はもう、春を絶対裏切らないよ。一生春だけ。女は懲りた。孫の顔見せたから親ももう何も言わないだろうし」 「そんな言葉信じられるわけないだろ」  友晴と再会して唯一良かったことがある。それは、自分がもう、友晴には一切恋心を持っていないということが分かったことだ。  友晴の存在はたしかにずっと春樹の心に居座っていた。忘れることなんて出来なかった。  それが報われない恋心だと、無意識的にそんな風に思ってしまっていたのだ。しかし、これは単なる傷跡だったのだ。深くつけられた、ただの痛くて恥ずかしい傷跡である。  友晴を見ても、なんの喜びもときめきもないこと、むしろ嫌悪感と恐怖感しかないことから、そのことにやっと気づくことができた。  そして、思い出した。本当の恋の痛みを。  片思いでも、報われなくても、相手を好きな痛みは、辛くてしんどくて、それでもどこか甘くて暖かい。  その痛みを感じる相手は、今は友晴ではない。 「春、信じて。俺なら絶対裏切らない。結婚して、女の醜さを再確認したんだ。子供ができて、親の束縛からも解放されたし。だから、もう本当に春だけだよ」  友晴の言わんとしてることがやっと、なんとなくだが、分かってきた。  結婚し、離婚したからこそ、もう女に戻ることはないと、そう言いたいのだろう。  しかし、そんな理屈が通るわけがない。それに、もし本当に、友晴が女に戻らないとしても、春樹だけのものになるとしても、今や全く嬉しくない。友晴への信用と好感度はそれほど地の底まで下がっているのだ。  それが分からないような男ではなかったのに。どちらかというと、周囲の反応に敏感で、人の気持ちが分かるやつだったのに。  また、怒りの中に悲しみが生まれてくる。 「今さら何言われても信じることは無理だよ。そもそも、もうお前のこと好きじゃない。一緒に居てもらう必要はない。お互い、もう忘れよう。関わらないようにしよう」  春樹はあくまで冷静に、祈るような気持ちでそう言った。  その瞬間、頭に強い衝撃を感じた。  友晴に押し倒され、頭を床にぶつけたのだ。  友晴は春樹の下半身にまたがり、両手を床に貼り付ける。  抵抗してみるものの、全く身動きが取れない。 「春も俺を裏切るのか? 1人で幸せになろうとしてるのか?」  目の前には今にも泣き出しそうな、友晴の顔がある。  その顔を見ているのが、なんだか辛くて、苦しくて、春樹は耐えきれず顔を背ける。  すると、あるものが視界に入ってきた。  春樹が押し倒された衝撃で倒れたのだろう。ゴミ箱が倒れ、ゴミが散乱していた。その中に、しわくちゃの1枚の写真があったのだ。  そこには、赤ちゃんを抱いた夏美と、友晴が写っていた。2人とも満面の笑みで、とても幸せそうだった。  かつて、大好きで愛していた友の姿がそこには写っていた。 「とも……。何があったんだよ? 幸せそうな家族じゃんか。なんで……なんでこんなことしてんだよ。なんで俺のとこなんか来たんだよ」  なんとなく、ここで名前を呼ばないといけない気がした。  そして、友と口に出してみると、もう限界だった。  苦しくて痛くて辛くて。  もう好きじゃなくても、どんなに辛い思い出だったとしても、それでもあの頃の友のことはちゃんと愛していたんだ。そんな友が死んでしまったような気がして、心臓が張り裂けそうだった。  自然と涙がこぼれた。 「幸せなんかじゃなかったよ。そんなの全部偽物だった」  友晴も写真の方に視線を向け、自嘲めいた笑顔を浮かべる。 「俺は、こいつらを食わすために、幸せにするために、必死に働いたんだ。なのに、あの女は俺と違う男を選んだ。結婚してからあなたは変わったってそんな訳の分からない理由で!」  友晴が苦しそうに叫ぶ。  そんな彼の姿に相変わらず恐怖を感じつつも、どこか安心もした。  昔の友晴の面影が残っているような気がしたからだ。  酒を飲み、春樹にだけ抑えていた感情を吐露していた友晴。  きっと目の前の友晴も同じなのだと思った。  こんなに怒りを持っているのに、きっと、夏美の前では何も言わなかったのだろう。  どんな理不尽な要求も最終的には、大人しく受け入れたのだろう。  まるで、友晴に別れを告げられた時の、春樹のように。 「春……。春は俺の味方だよな? あいつらが全部悪いよな?」  友晴が縋るように言う。  春樹は今度は逃げずに、しっかりと友晴と視線を合わせる。 「友。俺は敵でも味方でもないよ。もう関わりたくないんだ。友もたしかに辛かったのかもしれない。でも、友は似たようなことを俺にしたんだよ? 突然、別れを切り出されて、俺だって──」  その瞬間、頬に衝撃を感じた。  唇の端から、温かいものが流れる。殴られたのだと理解するまで、数秒かかった。 「違う! 俺は夏美とは違う! あいつは俺から息子まで奪ったんだ! 知らない男と幸せそうな家庭を作ったんだ! 何が会いたい時には会わせてやるだ! 本当の父親は俺なのに……!」  ──そうだよな。友、お前はそういう奴だったよな。  友晴は子供のこともちゃんと愛していたのだ。最初はたしかに、親の期待に応えるためという理由だったのかもしれない。  でも、途中からは夏美のことも、子供のこともちゃんと愛していたのだ。  友晴はそれが初めてだったのかもしれない。初めて誰かのことを本気で愛しく思ったのかもしれない。  それまでは、もちろん春樹も含め、誰かのことを本気で愛したことはなかったのだろう。  そして、そんな相手に裏切られ、自分でも処理できないほどの苦しみと悲しみと怒りを感じているのだろう。  春樹の手を解放し、両手で頭を抱えながら、内側に溜まった感情を吐露する友晴を見ていると、そんな風に思った。  そこからは、ほぼ無意識だったように思う。  頬の痛みも、怒りも、悲しみも忘れ、春樹は友晴を優しく抱きしめた。  これが正解かはわからない。いや、多分間違いだろう。  それでも、目の前の男が、初めての感情に戸惑う子供のように思えて、体が勝手に動いてしまった。 「はる……?」 「友、お前は夏美のことも子供のことも愛してたんだよな」 「ちが──」 「そうだよ。何年も一緒に居た俺がそう言ってんだから、絶対そうなんだよ。愛してたからこそ、裏切られて、痛くて悲しいんだろ? でも、愛してるからこそ言えなかったんだよな。受け入れるしかなかったんだよな。俺もそうだったから……」  その言葉に、友晴が我に帰ったように、身を離し、春樹の顔を見つめる。  そして、自分が何をしたのかを自覚したのだろう。過去の過ちも、現在の過ちも、自覚したのだろう。跨っていた春樹の体から降りると、ついに顔を歪め、瞳から涙をこぼした。 「春、ごめん……俺、ごめん、ごめん」  起き上がった春樹の腫れた頬を見て、友晴が壊れたおもちゃのようにひたすら、ごめんを繰り返す。 「好きな人に自分を曝け出すのって怖いよな。好きだからこそ、愛してるからこそ、嫌なことも全部受け入れようとしちゃうよな。その方が楽だから。でも、きっと、それじゃダメなんだよ。俺も友も、別れたくないならちゃんと言うべきだったんだ。もう遅いけど……」 「俺と春との関係も、もう遅い……? 手遅れ……? 俺、やっぱり春のことが──」 「遅い。もう無理だよ」  春樹はキッパリと、強い瞳で言う。  春樹と友晴では幸せになれないと、いつか共倒れすると、そんな確信がある。  多分、友にはこういう時に、ちゃんと話を聞いて、ダメなとこは叱ってくれる人が合っているのだ。臆病者でなんでも受け入れてしまうような奴は、ダメなのだ。 「そうだよな。あんなことしといて何言ってんだって話だよな」  そう言った友晴は、もう春樹の知っている友晴の姿をしていた。 「俺、謝りたかっただけなんだ。ナポリタン行ったのも、春にもし会えたら、あの日のことについて改めて謝りたくて。それだけだったんだ」 「うん」  少しずつ自分の気持ちを整理しながら話す友晴を、春樹は急かすことなく、ゆっくりと聞いた。 「でも、春が知らない子と一緒にナポリタンに居るのを見て、変な気持ちになったんだ。そこは俺の場所だったのにって。……どの口が言ってんだって話だよな。でも、その光景がずっと頭から離れなくて、またナポリタンに行ったら、昴くんに会ったんだ」  昴と友が出会ったのはどうも偶然だったらしい。というか、昴が1人でも行くほど、ナポリタンを気に入っていたことに驚いた。 「昴くんと話してたらさ、なんかもう眩しくって……。逆に自分の汚い感情がどんどん溢れてきちゃって止まんなかった。そっからはもう自分が話してんのに自分じゃない感覚だった。昴くんと別れた後も、もう感情が抑えられなくて、春に聞いてほしくて……」 「友。分かったから」  血が出そうなほど、唇を強く噛み締める友晴を、春樹はたまらず止める。  これは優しさなんかではない。ただ、自分が苦しくて、見ていたくなかっただけだ。 「春、本当にごめん。自分勝手で春を裏切ったことも。八つ当たりしたことも。……殴ったことも。謝って許されるようなことではないのは分かってるけど……ごめん」 「もう良いから。でも、友を完全に許すことはできないし、もう友と会うこともできない。お互いのことは忘れよう。それだけが、俺が友に望むこと」  とにかく感情を抑え、春樹がそう言うと、友晴は静かに頷いた。   「じゃあ、俺、帰るな」 「待って、怪我の治療だけでも──」  立ちあがろうとした春樹の手首を、友晴が掴む。その瞬間、全身にぞくっとした不快感が走り、春樹は反射的に、強く弾いた。  春樹の手は体温をなくし、小刻みに震えている。 「ご、ごめん。お前に触られるの……怖い」 「……そうだよね。ごめん。もう引き止めない」  顔を歪め、俯いた友晴に、心臓が抉られるように痛む。  この痛みはずっと消えることはないだろう。共に生きていくしかないのだろう。  春樹はもう何も言わず、玄関へと向かい、扉を開けた。  最後にもう一度、友晴の苦しそうな「ごめん」という言葉が聞こえた。  ──ばいばい。友。本当に好きだったよ。愛してたよ。  過去の最愛の人物に心の中で別れを告げ、春樹は扉を閉めた。  やけに大きく聞こえた扉のバタンと閉まる音が、2人の関係性に本当に終止符を打ったように思えた。  すっきりしたような、それでも何か大切なものを失ってしまったような、そんな空白感と共に、春樹は家へと向かう。  頬の痛みも忘れ、駅までただひたすらに歩みを進め、電車に乗る。  数駅隣の最寄り駅に着くと、また機械的に歩みを進める。まるで自分が人形にでもなったかのように、頭の中も心の中も真っ白で、何も考えられない。  そんな春樹が感情を取り戻したのは家の扉の前についた瞬間だった。  目の前の人物を見た途端、様々な感情が一気に押し寄せてきた。  頬の痛みもぶり返し、感覚を取り戻す。 「春樹さん!? どうしたの……その怪我!」  昴が焦った表情で駆け寄ってくる。  ──そうか。お前は簡単には受け入れないんだな。俺が拒絶しても、抗ってくれるんだな。  友晴との一件で、思っているよりもストレスが溜まっていたのだろう。昴を見ると一気に体の緊張が解け、体に力が入らなくなった。  倒れそうになる春樹を、昴が抱き止める。 「春樹さん!? 大丈夫!?」    子供のように高い昴の体温に、凝り固まった心が溶かされていく。  本当はもうとっくに気づいているんだ。    ──多分、俺と昴は両思いだ。  でも、本気になるのが怖くて、互いに本心を隠し、自分を、相手を、騙し続けていた。  似たもの同士の自分たちは、まるで磁石のマイナス極同士のように、近づいてもくっつくことはない。  春樹はそれを受け入れて、諦めようとしていた。  でも、昴は違うのかもしれない。それならば、自分がプラス極になろうと、そんなことを思っているのかもしれない。    ──この男から、どう逃げようか。    昴の腕の中で、安堵感を感じながらも、春樹はそんな考えを巡らせていた。  
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