病み上がりの聖王と、黒の羊飼い

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「どうか、僕の死を見とどけて欲しい。僕がどう生きて、どう苦しんで、どう死んでいったのかを、この世界を創った精霊王とやらに教えて欲しいんだ。どうせ、すべて読みはしないだろうけど……」  そう言った主人の言葉を思い出し、羊飼いのスィールはため息をついた。  彼の主の名前はキルッフ。月のように流れる銀髪が美しい、精霊教会を統べる聖王だ。  といっても彼はまだ成人を迎えたばかりの15の少年。  そんな彼は聖都アベルフラウにある精霊教会の聖堂ではなく、うらびれた山の森の屋敷にいた。もちろん彼に仕えるスィールも共にいる。  聖都にいる彼の影武者から、怪しい動きがあるとの報告はない。 30回目のリアンノン・プレデリの月は、不穏な空気を何ひとつ含むことなくゆったりと過ぎていく。 ちなみにリアンノン・プレデリの月は1年を指す暦のひとつだ。 この世界の暦は12年で一括りとされている。1年間にはそれぞれ、精霊教会の定めた聖人の名が冠され、それが一巡りすると新たな時代が始まるとされているのだ。 「今日は、鳥も鳴かないね……」  黒い天蓋の中でキルッフが笑う。細められたその眼が銀の月みたいだと思いながら、黒衣に身を包むスィールはペンを走らせた。  鉱石竜の鱗でできたペンは、動くたびに乳白色の輝きを周囲に投げかける。その陰影が長いことに気がついて、スィールは小さく息を吐いていた。  日が傾いている。夕刻が近い。 「今日はだいぶ長いお休みでしたね。聖王さま」 「うん。今日こそはあの世にいけると思ったよ」  幼い主人がいたずらっぽく笑う。  彼がいったことを羊毛紙に書きつけて、スィールはそれでは困るとキルッフに返した。 「あなたに亡くなられたら、私の仕事がなくなってしまいます」 「そうだね。君は、僕の死を見とどけるためにここにいるものね」  笑うキルッフの言葉に、スィールはペンの動きを止めていた。 「口の減らないガキだな」 「あ、敬語が飛んだ……」  少しばかり不機嫌なスィールの言葉を受けて、キルッフは笑みを深める。そんな彼の楽しそうな様子を見て、スィールはこんなことを言ってやった。 「聖都で何も起きてないって報告、あれは嘘ですから。影武者の弟君にこのままだとすべて持っていかれますよ」 「わかってるよ。ロブナイはよくやってくれているし、僕の双子の弟だから聖王を継いでも問題ないよ」  キルッフの能天気な言葉に、スィールは舌打ちしていた。この主は、実の弟が聖王の椅子を狙っていてもなんとも思わないらしい。  太古の昔、この世界は精霊たちを統べる精霊王によって創られた。そして、その精霊王を称え、人々を導くのが精霊教会の務めでありその頂点に立つ聖王の責務である。  彼はその責務を、あろうことか弟に丸投げしようとしているのだ。 「殺されるかもしれないのですよ」 「そのときは、そのときだよ。いつ死ぬかわからない聖王なんて、信者たちもいらないだろう」 「あなたは、自分というものが惜しくはないのですか?」 「人の役に立てない病持ちなのに、命など惜しくなるか」  スィールを見つめる銀の眼が剣呑な光を放つ。  これ以上は何も言わない方がいい。スィールは黙って、羊毛紙に彼の言葉をかきつける作業に戻った。 「ねえ、今日も鉱石竜は来なかったんだね」 「もう、鉱石竜は絶滅したでしょう? 最後の鉱石竜が360年ほど前に聖王に飼われていたという記憶なら残っておりますが……」 「言葉を喋る伝説の竜だろ? 聖女にして最高の羊飼いであるリアンノン・プレデリの弟子パーシヴァル。彼が、教会の公式記録に残る最後の鉱石竜だ」  羊飼い。その言葉に、スィールは動かしていたペンを止めていた。  スィールの属するこの職業は、人の生き様を記した回顧録を編むことだ。回顧録は、人々が生前の裁きを受けるときに精霊王の御前で読まれるとされている。  聖女とも称えられたリアンノン・プレデリの時代、その回顧録の出来は生まれた階層によって左右された。  貧しく階層の低い者の回顧録には使い古された羊毛紙が使われたという。そして、書かれる生涯の事柄についても最低限のことしか記載されなかった。   対して、富裕層で階級が高いものは、財産とその地位によって豪奢な回顧録を作ることが出来たというのだ。  そんな現状を変えたのが、約360年前に生きたとされるリアンノン・プレデリだ。  彼女は、貧しい人々の生涯を生き生きと回顧録に書き記した。 それだけではない。彼女は教会によって弾圧されていた異教徒や、異民族たちの言葉や価値観を何よりも尊重した。  教会によって失われていた異民族の言葉を復活させ、彼らの言葉で彼らの人生を綴る。  そうして、彼女の作った数多の回顧録は今の時代に失われた文化の言葉や価値観を伝えているのだ。 「今でこそ、回顧録は階級も貧富の差も関係なく、故人を尊重したものとして制作されなければならないとされている。でも、当時はそれすらも金と身分がなければ保証されなかった。嫌な時代だよね」 キルッフが体を起こす。  纏っているガウンから見える彼の胸元は白く、静脈すらも浮き出てきそうなほどだ。その薄い胸元を見るたびに、スィールは首元に刃物を突き付けられているような感覚を覚える。 「僕の死を看取れ。さもなくば、君の目の前で僕は死んでやる」  彼の細い体を見るたびに、その脅し文句を思い出す。  12の頃に出会った彼はそう言って、スィールの目の前で尖塔から飛び降りたことがある。  命は助かったが、それ以来スィールは彼の側を離れられなくなった。離れれば、キルッフはその命をもってそれを止めようとする。  そうなることが何よりも怖かったし、この幼い主の狂気にスィールはある種の恐れすら抱いていたのだ。 「ねえ、あそこに連れて行って欲しい。鉱石竜が、パーシヴァルがみたい」  無邪気な声をかけられ、スィールは我に返る。  彼の主は人懐っこそうな笑顔を浮かべて、スィールに抱きついてきた。 「君は僕の羊飼いだ。君は僕のすべてを見とどける必要があるだろう?」 「駄目です。今日もだるくて、こんな夕刻まで寝ていたのだから。あそこにつく頃には、夜になってしまいますよ」 「そうだね。人の足であるけば真夜中になる。でも、人の足でなければ……」 「私に人でなくなれと?」 「僕をこんな体にしたのはどこの誰だ?」  鋭いキルッフの言葉に、スィールは目を見開いていた。 「お前を人にしたのは誰だ? 闇から救ったのは誰だ? 命を救ったのは――」 「わかりました。我が主……」  そっとキルッフの体を引き離して、スィールは彼を天蓋に座らせていた。寝台の縁に両手を置いて、スィールの主は満足そうに笑ってみせる。 「そう。お前はそうやって僕に仕えていればいいんだ。未来永劫ね。生まれ変わっても僕はお前を放しはしないよ」  キルッフの言葉に、スィールは己の運命を突きつけられる。彼が尖塔から飛び降りたその日に、自分の命運は決まっていた。  病に侵されたこの主の行く末を見守るのがスィールの役目なのだ。ただ、その日が来る日を不思議とスィールは想像できない。 自分はずっとこの主人に縛られたまま生涯を過ごすのではないか。そうスィールは当り前のように考えるようになっていた。 「ほら、僕をあの場所に連れて行って」  蠱惑的な主人の声が聞こえる。 「わかりました。仰せのままに」  そっとキルッフの細い体を横抱きにして、スィールは寝室を後にする。 「そう。お前はそれでいいんだよ。そして未来永劫、僕のものだ」  キルッフの言葉が耳朶に響き渡る。 「そうですね。そうかもしれません」   スィールはそっと眼を瞑り、彼にそう返したのだった。  キルッフが聖王になったのは、わずか10歳の頃だった。  同じ聖王であった父が不審な死を遂げ、長兄であった彼がその後を継ぐことになったのだ。  キルッフはそれが、父の愛人であった母の仕業だとわかっていた。そして、血を分けた弟が、自分が聖王になったことを羨ましがっていることにも気づいていた。  まあ、家族なんてそんなものだろう。謀略渦巻く聖王家に生まれた彼はそう思っていたのだ。  でも、彼はとある回顧録を読んでしまう。  リアンノン・プレデリが綴ったある聖王の生涯は、幸福に満ち溢れたものだった。  リアンノンを妻にした彼は、彼女に先立たれながらも精霊教会を改革する。  それは、妻であるリアンノンの望みであった、異民族や異教徒への弾圧をやめるというものだった。  そして、その聖王の回顧録を書いたのは、竜であるはずの羊飼いパーシヴァル。  彼はリアンノン・プレデリの回顧録も綴り、彼女の人生がどのようなものだったのかを後代の人々に伝えている。 「それからだよ。僕が、竜に興味を抱くようになったのは」  目的の場所に降り立ったとき、キルッフはそういってスィールに笑いかけた。  スィールは何が彼をそこまで竜に傾倒させるのか知らない。そして、どうして彼が自分に執着するのかも。  そして彼らは、目的の場所を見つめる。 そこは竜の墓場と呼ばれる鉱石竜たちの死に場所だった。  美しい乳白色に輝く竜の遺骸。それは、竜白石と呼ばれ高値で取引される。  絶滅した鉱石竜の遺骸は貴重であり、ここは聖教会の聖所として大切に保管されていた。 「これが、パーシヴァルの母親の遺骸なんですよね」 「そう。ここに住む風の民たちに神と崇められていた竜だよ。母親の墓参りのために、パーシヴァルはここに来るはずなだけど……」 「この様子だと、来そうにもありませんね」 「だね。死ぬ前にもう1匹竜を見たかったんだけどな……」 「竜はあなたに病を施した張本人でしょうに……」 「パーシヴァルは違うよ。僕を、病をした竜とはね……」  竜狂病。それが、キルッフが患っている病の名前だ。  薬で発症は抑えられているものの、この病にかかったものは我を忘れ人々に襲いかかるという。名のとおり感染源は病を患っている竜だ。その竜に噛まれ、キルッフは竜狂病になった。  ぎりっと、スィールは奥歯を噛む。 「今ごろ、お前が悔しがっても遅いだろ」  スィールの顔を見上げながら、キルッフは寂しそうな笑みを浮かべる。 「早くパーシヴァルに会いたいな」  青い惑星の浮かぶ夜空を見上げキルッフはそう言った。スィールは惑星を見上げて思う。  月の向こう側にある惑星は月に1度、夜空に姿を現す。そこは竜たちの故郷と伝えられているが、スィールはその惑星を身近に感じることはできない。  では、パーシヴァルはどうなのかとスィールは考える。彼はこの惑星を見るとき郷愁に囚われるのだろうか。 「来た……」  キルッフが小さく声をはっする。  瞬間、夜空が大きな影に覆われた。驚いてキルッフとスィールは空を仰ぐ。  そこに、乳白色に輝く巨大な竜がいた。  小山ほどもあろうかという巨体を優美に揺らしながら、竜は玻璃の眼で2人を見つめている。  優しげなその眼に見つめられ、スィールはなぜか懐かしい気持ちを抱いていた。 「パーシヴァル。思い出を永遠にする竜……」  うっとりと眼を細め、キルッフが両手を掲げる。 「君は僕を生かすかい? それとも……」  パーシヴァルの眼が悲しげに細められる。彼は悲しげに嘶くと、そっと閉じた眼から涙を零したのだ。  ぱしゃりと、その大粒の涙はキルッフの体にかかる。 「聖王さま!」  スィールは驚いてキルッフを抱き寄せていた。塩辛い水で濡れた彼の体はぬめってはいたが、それ以外変わったところはない。 「パーシヴァルが泣いた? どうして」 「病だ……。君は私がかかっていたのと、同じ病に侵されているね」  その瞬間、スィールの頭に澄んだ男の声が響き渡った。驚いた彼があたりを見回しても、自分とキルッフ以外に人はいない。  スィールは上空の巨大な竜を見上げる。 「大丈夫。きっと彼は癒えるよ。ずっとずっと私が彼に話しかけていたんだ。来るのが遅くなってすまない」  また、頭の中で声がする。 「僕の回顧録をあなたは書いてくれますか?」  その声に応えるように、キルッフがパーシヴァルに話しかけた。パーシヴァルはそっと頭を振ってキルッフに言う。 「君にはもう立派な羊飼いがいるじゃないか。後のことは彼に任せるよ。でも、彼が君の回顧録を書き終えたら、彼を開放するんだ。君と彼とは、共に歩めるものではないからね」 「それでも、僕はスィールと一緒にいたい……」  キルッフがふり絞るように声をはっする。スィールはその言葉に驚きて、彼をじっと見つめていた。 「たとえ生きる時が違っても、彼はずっと僕の臣下だ……」 「彼がそれを望むといのだけれど。でも、絆は束縛でもあるのだよ……」  そっと玻璃の眼を伏せて、パーシヴァルは上空へとあがっていく。 大きな彼の羽音は次第に聞こえなくなり、あたりには明るい惑星の光が戻っていた。 「絆は呪縛……」  そっとスィールはパーシヴァルの言葉を口にする。 「スィールはやっぱり自由になりたい?」  キルッフの声がして、スィールは彼の顔を見下ろしていた。彼は不安げな顔を浮かべて、スィールの腕をぎゅっと掴んでいる。 「聖王さま。こうされては、帰れません」 「わかってるよ……」  キルッフはスィールの腕から手を放していた。スィールはそっと彼から距離をとり、目を瞑る。  スィールの体が青黒い光に包まれる。その光が何度か明滅を繰り返しやんでいくと、そこには漆黒の竜がいた。 「スィール……」  キルッフはうっとりとその竜の名を呼んで、両手を広げる。スィールが頭を下すと、彼はその両手でスィールの頭を抱き寄せた。 「やっぱり、スィールはこの姿のときが1番奇麗だよ。ずっとずっと、僕の側にいてね」  うっとりとしたキルッフの声にスィールは金の眼を細める。  キルッフは竜狂病を患い暴走していた自分を止め、命を救ってくれた恩人だ。だが、それと引き換えにスィールに傷つけられたキルッフは病に侵された。  病の癒えたスィールにキエッフは選択を求めたのだ。自分の命の終わりを見とどけるのか。それとも聖王を害した害獣として処分されるのか。  でも、処分されることを望んだスィールをキルッフは許さなかった。 「お前はずっと僕の羊飼いで僕だけの竜だ。ずっとずっと……。お前が生きる限り、お前の中で僕は生き続けるんだから……」 「聖王さま……」 「だから、死ぬなんて絶対に許さないからね。スィール……。お前は僕のために生き続けるんだ……」  凛としたキルッフの言葉が耳に心地よく響き渡る。 「はい。心得ております。我が主……」  そう、スィールは愛しい主に返していた。  スィールはそっとしゃがみ込み、キルッフに背中に乗るよう促す。キルッフは嬉しそうに鞍のついたその背中に飛び乗ると、スィールに大声で命令した。 「さあ、僕らの屋敷へ帰ろう。パーシヴァルにも会ったし、弟をそろそろ影武者から解放してあげないとね」  その声にスィールは嘶き、黒曜石を想わせる翼を翻していた。羽音とともに、スィールの体は上昇し、空に輝く惑星を覆い隠す。  羽音がすっかり聞こえなくなると、あたりは再び静寂に包まれていた。  そして数日後、聖都に戻った2人に信じられないことが起きていた。 「病が、癒えております……」  そう震える声でスィールが医師の診断をキルッフに伝える。祭服に身を包んだキルッフは、あんぐりと口を開けてスィールを見つめていた。 「いや、気分がやけにいいとは思っていたけれど、竜には人を癒す力もあるのか?」 「いえ、そのような力を同胞が持っているとは聞いたことがありません。年を経た竜ならあるいは神秘の力を持っているやもしれませんが……」 「そうだな。この新大陸の竜が狩りつくされてもう、360年以上になるのか」 「竜狂病の流行を抑えるのには、それしかなかったと私は父から聞き及んでおります」 「病を止めるために、竜を虐殺した人をお前たちは恨んでないのか?」 「もう、300年以上も昔の話ですよ……。私はまだ生まれてすらもいない」  キルッフの言葉に、スィールは苦笑していた。 「それもそうだな。お前は僕の竜なんだ。人である僕を恨んでちゃ困る」  キルッフもまたスィールの言葉に苦笑する。彼は渋面を作ると、スィールにこう尋ねていた。 「どうして、パーシヴァルは僕を生かしたと思う?」 「さあ、それはパーシヴァルにしかわかりませんよ」 「また、彼にあったら答えを聞けるかな?」 「会えるといいですね」   そう言って、スィールはキルッフに微笑みかける。  スィールはあの日、パーシヴァルが自分だけに語りかけた言葉を思い出していた。 「君は彼の永遠になれるかい? それは、とても苦しくて孤独な生き方だよ」  パーシヴァルもまたリアンノンを想い、彼女のいない時を生きてきたのだろうか。 「スィール? どうかした」 「いえ、なんでもありません」  自分を不思議そうに見つめるキルッフにスィールは言葉を返す。  その長い時間を自分が耐えられるかどうかはわからない。 それでも、この愛らしい主のために生き続けようとスィールは心の中で誓いを立てるのだった。 (終)
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