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淡恋
橘 DoDo
街は、異様な青の光を帯びていた。淡い切れかけた電飾の光のせいなのか、月光の寂しげな灯のせいなのか、それはとても綺麗であった。私は、小説家として、『綺麗』という言葉を滅多に使わない。しかし、それは綺麗だという言葉以外には、叙述の使用がなかった。
櫻子は、甃の線を踏まないように、雛のように小さく歩きながら、三歩歩くたびに後ろを振り向き、花のように咲った。私も彼女の少し後ろから、その愛らしい姿を見つめては、ふふふ、と秘めやかに笑った。彼女の灰色の外套がひらひらと如月の風を揺らす様は、この魔法のような淡い光よりも殊更綺麗であった。もし、この光景が美術館の絵画で飾られていたならば、私は惜しげもなく、小町に恋をした深草少将のように、何度も通ったことだろう。
私は、モナリザの絵のような、ちいさな彼女の肩を持ち、黄色い光で賑わっている雑貨店へと彼女を誘った。
伝統的な髪飾り、幾何学模様の手巾、ハイカラなサングラスが、私たちの興を躍らせた。私と彼女の趣向は、合わせればピタリと合う絵札のように、一寸の狂いもなく重なっていた。私が手に取ろうとするたびに、彼女の手が何度も重なり、幸福とはこのようなことを言うのではないかしら? と生まれてはじめて、仕合わせに邂逅した。
「どの髪飾りが、私に似合って?」彼女は、艶かしく質問した。
「君は、白い画用紙のような女性だよ。どんな色だって君に似合う」
戯けた私の答に、彼女は天真爛漫な笑顔を見せて、丹赤色の二輪の薔薇が咲いた簪を選んだ。私は、入り口の大きな鏡の前に彼女を招き、ゆっくりと彼女の髪に簪を固定した。
「ありがとう」と答える代わりに、彼女は私の頬に二度、口づけをしたので、私は面映さのあまり、薔薇の花のように、頬を紅く染めた。
店を出てからの私たちは、会話に花を咲かせていた。櫻子の言葉の一つ一つが、舞台女優の台詞のように、街の至る所まで谺していた。私は、観客席の前列で、それを独占する優越感を持ちながら、時折私自身も舞台俳優へと変貌を遂げた。
「月の光、、」と私が言うと、彼女はドビュッシーの音楽をその小さな紅い唇から優雅に奏でては、私にまた謎かけをするのであった。
「月光」彼女の目は、殆ど潤んでいた。
私も彼女も、叶わぬ恋の終わりを弾いたベートーヴェンの逸話を知っていたからだ。私が彼女の精神的部分に至るまで、愛した理由が、そこにはあった。彼女の精神は、私自身であり、また彼女の運命は、私の運命でもあったのだ。私たちは、いつか終わりが来るであろう果てしない演奏のレクイエムに、私たちの淡い恋を映しながら、瞬間的な・幻想的な・二度とは味わうことのできないであろう舞台を演じながら、涙を流した。
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