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一
戸村義效が城代を務めるある横手城は高い丘の上に位置しており、家臣は皆、丘の麓にある小さな村に居住を構えている。その家臣の中に、梅津忠兵衛という名の若侍がいた。
月の明るい夜、夜番へ行こうと丘を登っていた。城への道は複雑に曲がりくねっている。その最後の曲がり角の先に、女がひとりで立っているのを見とめた。両手で赤ん坊を大切そうに抱え、俯いている。顔色が、月光の光を浴びているにしても不自然なほど青白い。城に行くときにしか使わぬ寂しい道に、こんな夜更けに女一人――忠兵衛は、すぐにこれはあやかしだと直感した。
忠兵衛は無言を貫こうと、女を傍目にぐんぐん歩いていった。
ところが女に名を呼ばれ、その足はピタリと止まってしまう。
女は哀願した。暫くでいいから、この赤子を抱いていてはくれないだろうか、と。忠兵衛は根が親切にできている上、女があまり切迫悲痛なので、求めに応じた。
戻るまで、子を抱き続けていてくれ――女はそう言って、丘を駆け下りていった。
赤子はとても小さく、寝息も微かで、とても儚いものに思えた。目鼻がぼんやりして、まるで生まれる前――母体で安らかに眠っている時のような、凹凸のない艷やかな顔だった。
もうすぐ交代の時間なのだが――と忠兵衛が些かの焦燥を感じ始めた、その時である。
抱いている子どもが、急に重くなった。
忠兵衛は驚いて、赤子を見た。姿形はそのまま、ただただ重くなっている。しまいには石地蔵くらいまで重くなって、とても抱え続けられたものではない。
妖怪の企みであったと歯噛みしたが、ここで恐れて投げ出しては、どんな仕返しを受けるか分からない。何より、あやかしとはいえ子どもの姿をしたものを地に投げ出すなど、とんでもないと、体中の筋がはち切れそうになるのを耐えながら、念仏を唱えた。
三度目の南無阿弥陀仏で、腕がふっと軽くなった。今度は一切の重みがなくなったように感じ、目を落とすと赤子の姿がなかった。どうしたことだと驚愕していると、さっきと同じ、風のような速さで女が帰ってきた。
女は、自分はこの地の氏神であると打ち明けた。氏子が難産であり、氏神の力を持ってしても救えない状態であった。そこで、出産の重みを忠兵衛に分け持ってもらったのだと。赤子の重みはそのまま、出産の困難であった。母体が死にかけていたところへ、忠兵衛が唱えた三度の南無阿弥陀仏が御仏の加護を呼び、ついに産門が開いた。
氏神は忠兵衛の勇気を讃え、侍が最も必要とする剛力を授けようと約束した。その力は、忠兵衛の血脈に代々受け継がれるであろう、と。その時より、忠兵衛は剛力を授かった。忠兵衛とその子孫は、生まれ持った勇気と優しさ、そして氏神印の剛力とを以て城に仕え、代々、栄えることとなった。
二
城の模擬天守を眺めながら、だらだらとした階段を上ってゆく。城自体は既に廃城となっているが、その跡には郷土資料館や展望台を兼ねる模擬天守閣、広々とした公園などがあって、昼間は散歩する親子連れや老夫婦などで、そこそこ賑わう。
階段の途中に、一人の女性が立っているのが見えた。十段ほど向こうにいる。年は僕より少し上で二十歳そこそこ。髪を上品に結わえた、ゾッとするほどの美人だが、道行く人は誰も見向きしない。体が触れ合うすれすれのところを通ったりして、その存在にまるで気を止めていないようだ。
しかし僕には見える。一度でも神様と繋がりを持てば、何世代経とうとその縁は消えない。
女性も、僕に気づいて微笑んだ。僕が軽く頭を下げると、その姿がふっと消える。立ち止まる僕の背中を風が吹いて、背中をちょんちょんと突かれた。振り返ると、さっきの女性だ。
「――久しいですね。忠兵衛殿のご子孫の方」
梅津功夫と言います。僕はそう言って、頭を下げた。
「氏神様――」
僕は呼びかけた。氏神様は、軽く首を傾げて、僕の言葉の続きを待っている。その仕草に、ちょっと心を高まらせながらも、僕は深々と息を吐いて言った。
「お願いがあって来ました。梅津家の呪いを、どうか解いてほしいのです」
三
本丸跡には秋田神社がある。本丸表門の機材を利用して再建されたのだそうだ。氏神様は日ごろここで暮らしているから、周囲のどんなことにも詳しい。
その氏神様に誘われて、僕は社の影に腰を下ろした。なるほど、ここなら人目につかない。「氏神様――ご存じの通り、僕は梅津忠兵衛の血を引く者です」
僕は言った。氏神様は、相槌代わりに微かに頷く。
「忠兵衛はかつて、氏神様の手伝いをして、その褒美に強力を賜りました。その力は代々受け継がれ、梅津家はその強力を以て城に仕えて、出世の道を歩み、郷土史にも名を残しました」
氏神様はまた頷いた。僕は大きく息を吸って、
「そこで氏神様にお願いがあります。どうか、この強力を僕らから失くしてほしいのです」
「――」
氏神様は何も言わなかったが、愛らしい瞳が水を吸ったように大きく膨らむのを僕は見た。
「どうか、僕らをこの剛力の血から解放してほしいのです」
「それは、なにゆえ――」
氏神様が呟く。喜怒哀楽の感情は読み取れなんだが、意外そうではあった。僕は膝を乗り出して、
「氏神様、かつて仰られたそうですね。侍が最も必要とするのは剛力と豪胆――忠兵衛は豪胆な男だった。だから剛力を与え、その力は子孫代々に伝わることになるだろうと」
氏神様は頷く。それなんですよ――と、僕は言った。
「侍が必要としていたのは、豪胆と剛力だった。でもね、今、世の中が随分前から、侍を必要としていないんです」
「――」
きょとん、というのはこうした顔を言うのだろう。氏神様は、きょとんとした。その顔を見て、逆に僕の方が面食らった。まさか、気づいていなかったのだろうか。
「何百年も前に、廃刀令やら何やらがあって、侍って身分自体がなくなってしまったんです」
「――」
「侍がいない世の中になって随分経つというのに、梅津の家は持て余すほどの剛力が代々受け継がれています。その連鎖を、ここで断ち切ってほしいのです。侍には必要であった剛力を――今はもう、誰も求めていないのですよ」
言ってしまった――そんな思いが、僕の胸にすとんと落ちた。
神様相手に、随分な口のきき方だと自分でも思う。氏神様は怒るだろうか、あるいは、悲しまれるのだろうか。無礼な僕に、何らかの仕打ちを与えるのだろうか。
言いたいことはわかります、と氏神様は言って微笑み返す。表情の上では、怒っていない。
「しかし――そうは言っても、剛力自体はいつの世にも求められるのではありませんか」
「確かに、それが役立つ時もあります。ただ――忠兵衛の時からそうでしたが、氏神様が与えてくださった力が、予想以上に強すぎるんです。見てください、これ」
僕は傍らの石を二つ三つ掴んで握った。軽く握っただけなのに、バキッと音がして石が全部粉々になった。それを地面にぱらぱら振り撒くと、氏神様はパチパチ手を叩いた。
「さすがは忠兵衛殿のご子孫。普通の人にはできないことですね」
普通じゃなくてもできちゃダメなんですよッ――僕は情けなくなって叫んだ。
「この力があるせいで、日常生活レベルで大変なんです。歯を磨こうと思ったら歯ブラシが折れる、朝ごはんを食べようと思ったら箸が折れる、着替えようと思ったら服がちぎれる。
触れるもの全てが、僕には軟すぎる。何をするにしても、とにかく繊細に優しく扱わないといけない。それがすっごくストレスなんです」
氏神様は初めて寂しそうな顔をして僕を見た。つんと心を刺す後ろめたさを無視して、僕は言った。
「友だちと遊んでいても、絞め殺さないようにいつも気を張らないといけない。可愛がり方がわからないから、ペットも飼えない。車に乗るより走る方が速いけど、高速には乗れないから遠出できない。当然、彼女なんてできた試しがない」
「そこまで――そこまで力を発露しているのですか、忠兵衛度の血縁は」
僕は首を横に振った。そうだ。これが――梅津家に伝わる呪いが、平等公平に全員に降りかかるなら我慢もできる。何が辛いって、僕の父も祖父も、僕より極端な剛力ではなかった。僕一人だけが、これほど恐ろしい怪力の持ち主なのだ。
そのことを言うとう氏神様は頷いて、縁の坩堝ですね――と妙なことを言った。詳しく聞くと、どうやら氏神が与えた力には適正があり、個人で発現の度合いが違うようなのだという。そして何世代かに一人、その力ととんでもなく縁が深い器が誕生する。それが僕なのだと。
僕はイライラと頭を掻き毟りながら言った。
「この力のせいで、僕の家系は体力仕事しかできませんでした。土木工事、自衛隊、プロレスラー、ボディビルダー……僕の祖父も父も、それぞれの分野で頭角を現し、トップに上り詰めた」
「素晴らしいことではないですか。しかし、それは私の力ではありません。与えられたものを専念に磨いた父殿や祖父殿こそ、真の誉れです」
「とんでもない。僕は、IT関係の職に就きたいのです。それなのに、僕の指先はキーボードどころか、机まで貫いてしまうのです」
もう泣きたい気分だった。氏神様は憂いに顔を浸している。漸く、僕の言いたいことが伝わったのだろう。僕は身を乗り出して言った。
「氏神様、どうかお願いです。この呪いを解いてください。この強すぎる力を、僕から消してください」
氏神様は顔を上げた。そうして、僕を真っ直ぐに見た。
「それは――できません」
えっ……と間抜けな呟きを返す僕。氏神様大きく息を吸って、はっきりと言った。
「貴方は、忠兵衛殿以降の数世代の縁が凝り固まって生まれた、真の剛力――数千年に一度いるかいないかの大器です。その器を失うわけにはいきません」
愕然――そんな言葉ではとても形容できないほどの衝撃に打ちのめされ、僕は口を閉じることさえできなかった。だらりと開いた口からは、声にならない音が漏れ出ていた。氏神様の言葉が頭の中で何度も反芻され、それ自体がまるで呪詛のように僕を追い込んでくのだった。
功夫殿、とこの時初めて名前を呼ばれた。冷ややかで、厳しい声だった。
「貴方は、氏神であるこの私から授かった力を、なんと心得ますか」
「――え」
氏神様は大きく目を見開いている。その眼差しは鋭く、僕の胸を射貫くようだった。
「私は忠兵衛殿に力を授けた。その身代を栄えさせるための力を。忠兵衛殿はそれを上手に使い、家を栄えさせた。今、貴方が、自分の力に振り回されつつも衣装中の不自由なく暮らしていけるのは、忠兵衛殿からの代々の繁栄があったからこそ――違いますか」
「それは――」
僕はごくりと生唾を飲み込み、沈黙した。確かにそれはそうだ。生まれてこの方、この力による不自由は感じたことがあっても、それ以外のことで全く困った経験はない。幼少の頃から僕は独りでいたことがなく、危ないことをしそうになったら必ず誰かが止めてくれていた。
そうでしょう――と、氏神様はむくれた顔。
「力を制することができぬなら、もっと強くなって抑え込めば良い。周りのものを破壊することを恐れるなら、そうならないように今よりも加減を覚えれば良い。それができないのは――ひとえに、貴方が未熟だからではないですか」
貴方が、弱いからではないですか――。氏神様は、僕にはっきりとそう言った。
「――」
僕は言い返せなかった。氏神様は幼子を叱る母親のように、
「力が制御できないのは、貴方の心が弱いからです。私が授けた力は呪いとは違う。力を授けたからこそ、力の持つ意味を誰よりも知っています。その力が貴方に受け継がれた意味も」
氏神様は立ち上がった。そうして話は済んだという顔で、今度は僕に笑んでみせた。
「貴方の力が示す道は、貴方の望みとは違うかもしれない。どちらを選ぶかは貴方が決めること。そして――どちらを選ぶにしても、今よりもっと強くあらねばなりませぬ。まことの強さを得た貴方がこの世をどう変えていくか……私はそれを、楽しみに見ています」
旋毛風が吹いた。思わず手で目を守る。気付いた時には、氏神様の姿はなかった。
ぽつねんと一人取り残さ、僕はぼうっと突っ立っていた。頭の中には氏神様の言葉が何度も何度も繰り返されている。牛が反芻するように、僕はその言葉を頭の中で噛み潰し、溜息を吐いた。
本当の強さ――それを得た僕が、世の中を変える――。
僕は空を見上げた。そしてすぐに、頭をガシガシ掻いて言った。
――いや、フィジカルな強さは関係ないよなァ……。
(了)
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