黄昏の顔

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一  ホコリだらけの天板の上に、そっと指を走らせた。白い線が走る。最後に何かメッセージでも残そうかと思ったが、何も出てこなかった。遠くを走る電車の音が、やけに大きく聞こえるのは、周りに誰もいないからだろう。僕もそろそろ行かなければならない。頭ではそう分かっていても、足はこの教室に釘付けのままだった。  二十五年前、小学四年生の僕がいた学校が、明日にはなくなる。老朽化が酷く、地震が起こったときなどに崩落の危険さえあるので、学校の夏休みを利用して取り壊すのだそうだ。学校自体は二年前から新校舎に移っている。取り壊し跡にはハンドコートを設置する案が出て、予算不足のためにたち消えになって、そこからは何も進んでいないらしい。  そうしたことを、五年ぶりに帰省した実家で聞いた。大した驚きも感慨もなく、当たり前のこととして受け入れた。小学校時代の記憶なんて、聞かれでもしないと思い出さない。そのくらい遠い、記憶の彼方のことだ。それなのに、今こうして旧校舎を訪れ、警備員の目を盗んで立入禁止のロープをくぐり、昔から一箇所だけ鍵がゆるいところがあって簡単に侵入できた窓を開けて、ひとり教室の中に立っている。何が僕をそうさせるのか――。自分でもよくわからないけれど、きっと、夕日のせいだろう。  ここにいた頃は、胸元まであった窓の下側のサッシ。今は腰までしかない。  それでも、ここから見える空の広さは、あの頃からちっとも変わらない。  学校は坂の途中に立っていて、窓が面している側は段々坂の上りの先にある。だからこっちから見ると、下り坂に沿って家並みが段々と下っていくように見え、ぽっかりと大きな空間ができるのだ。僕が今いる三階の四年生教室の窓から見る景色は、あの頃に比してある程度の身長と分別が付いた今となっても、なにかこう、胸をぐっと打つようなものがあった。  二つの目だけじゃ全貌を捉えられないほど広いのに、手を伸ばせばすぐ届きそうなところにある空。それが一面、真っ赤に染まる。ほんとうに、燃え上がるような鮮やかな緋の光。それに幻惑されて思わず目を上方に向けると、紫に伸びる一条の線があって、そこから先は星が瞬く藍に塗りつぶされている。昼の終わりと、夜の始まりが出会う境――。それが見えるのは、ほんの一瞬だ。その一瞬をすぎると、空は夜に染まる。  ――あのときも、こうして夕日を、眺めていたんだったな。  思わず呟いた。それと時を合わせて、背後の机が、かたりと音を立てた気がした。ハッとして振り返っても誰もいないし、人の気配もない。僕はしばらくの間、じっとその机を見ていた。遠い遠い過去の記憶の奥深くから、その机に纏わる過去を解きほぐすように。僕の隣にいた誰かとの、そして夕日との物語を、掘り出すかのように――。 二  二十五年も前のことなんて、ほとんど覚えていない。  けれども、それでも覚えているものがあるとするなら、それは黄昏の記憶だ。  あの日の夕暮れは、あの日にこの教室で二人いた一瞬だけは、まだ思い出せる。  夏休みに入る直前だった。僕はその日、なぜだか日が暮れるまで教室にいた。  先生に叱られて残されたわけでもないし、友達と一緒に残って遊んでいたわけでもない。ただただ、そこにいた。その前後の経緯は、まるで思い出せない。  何をしていたか、きっと、柄にもなく夕日を眺めていたのだと思う。そんなセンチな感性の持ち主ではなかったけれど、子どもって二年に一回くらい、そういう気分になったりするものだ。  何をするでもなく、机に座って顔を横に向け、窓の外の緋に染まる広漠を眺めていると、不意に傍らの机が、かたりと音を立てた。  夕日に心奪われていたからだろう。大した驚きもなくゆっくり振り返ると、僕の席の横に一人の女子が座っていた。夏休み前の席替えで初めて隣同士になったが、それ以前から、それなりに話をして、そこそこ知っているはずの女子だった。  しかし、名前はまったく思い出せない。  覚えているのは、肩まである髪が、黒く艷やかであったこと。傍にいると良い香りがしたこと。肌が白かったこと。鈴がなるような、綺麗な声だったということ。  そして、ちょっと変わった話をする子だったということ。  夕日を見ていたの? ――何も言えないでいる僕に、彼女はそう言った。  僕が頷くと、その子は席を立って、窓のサッシに手をかけた。僕もおもむろに立ち上がり、その子の横に並んだ。風が吹いて彼女の髪を揺らし、彼女の香りをかき混ぜた。  きれいだね。どっちから先にそう言ったのか、よく覚えていない。  暫くの間、そうやって二人して夕日を見ていた。――いや、ほんの一瞬だったか? いつもならすぐに沈んでしまう夕日が、そのときはずっと、赤々と輝いていた気がする。時間がぎゅっと凝縮された、凄まじい密度の一瞬間を二人すごしていたのかもしれない。 「ねえ――知ってる?」  鈴鳴る声が、僕の耳を擽った。僕は顔を前に向けたまま、適当に相槌を打った。 「夕日ってさ、きれいなだけじゃないんだよ。ほんとうは、ちょっと怖いの」 「怖い……って、なにが?」 「夕暮れのことをたそがれっていうでしょ?」 「そうなの?」  そうなのっ、と彼女は強めに言って、少し笑った。 「たそがれってね、あの人はだれ? って意味があるんだって」  “誰ぞ彼”――後になって知った黄昏の別の名。当時の僕は、きょとんとした顔をして、 「どういうこと?」  と聞き返しただけだった。彼女は声に微笑みを入り混じらせたまま、 「夕日の光ってね、すっごくまぶしいでしょう。その光が顔にあたると、顔がぎらぎらして、見えなくなるんだって。だから道で人とすれ違っても、それが誰かわからないことがあるんだって、お母さんが言ってた」 「へえ……」  特に何の感慨も込めずに呟いた。彼女の言葉で、僕の心に触れたものは何もなかった。夕日の逆光? 人の顔が消える? 実感がわかないことばかりで、自分から遠い遠いところの話としか思えない。 「だからさ、夕日って怖いかもしれないよ」  この子はどうして、こんな話を僕にしてくるのだろう。  ふと、そんな疑問が湧いた。  それが、一抹の不安を呼び寄せた。  小さな不安は、凝縮された時間と密度の中で、あっという間に膨れ上がった。  背中に冷水をかけられたようにヒヤッとして、夏の暑さを少しも感じなくなった。 「赤い光が塗りつぶすの。その人の顔を。こんなに近くにいるのに、分からない。その人がだれなのか。なにを思って、なにを考えているのか――」  僕の体が、弾かれたように躍動した。その勢いのまま、彼女に向き直った。  彼女は僕を見ていた。いつから見ていた? ――それは分からない。  その顔は、夕日の光をまともに受けて赤白く輝いていた。眩しさに、僕は目を瞬かせた。  しかしどれほど瞬きしても、目を細めてみても、本来あるべき場所にそれらがなかった。その子の顔は、卵のような、あるいは何も映し出さない鏡のような、なめらかな、艷やかな、丸い虚空でしかなかったのだ。  だから僕は、彼女の顔が思い出せない。  その恐ろしい“無”が、僕の心に永遠に刻まれた。その印象が、全てを支配した。 「それでね、あのね、わたしね……」  虚無は僕に対して、なおも話しかけているようだった。が、僕は答えなかった。それからどうしたか、ほとんど覚えていない。たぶん、逃げるようにその場を去って、藍に染まりつつある空に追い立てられながら家に帰ったのだろう。  翌日から夏休みで、僕とその子との繋がりは一旦途切れた。お互いに住む家を知っているほどの深い仲ではなかったから、学校がなければ会わない。それが僕にとっては、唯一の安心だった。家に閉じこもっていれば、あの子の“虚無”にも、それを誘う夕日にも会わなくて済む。その年の夏休み、僕は両親が驚くくらい大人しい子どもだっただろう。決められてもいないのに日が暮れるまでに必ず帰ってきて、家中の鍵という鍵、カーテンというカーテンを全て閉めるのだ。そうして、誰がなんと言おうと絶対に窓の近くには寄らないのだった。  夏休みが終わる頃になって、学校に行きたくないと駄々をこね始めた。すこぶる健康なのに、体調不良を装ったりした。が、両親は許してくれなかった。母親がPTAに入っていて、頻繁に学校に来るから、僕の交友関係については把握していた。それゆえ人間関係のトラブルでないことは明らかだったろうし、あの日のことについては、怖くて誰にも話していなかったし、打ち明けていたとしても、信じてはくれなかっただろう。むしろ、学校に行きたくない口実を無理やり作っていると勘違いされ、もっと怒られたかもしれない。  行きたくはなかったけれど、サボる勇気もなかった。心底怯えながら校門をくぐった。話しかけられたらどうしようと、教室に入るまでは息もまともに吐けなかった。冷や汗を流し、目をつむりながら椅子に座った。そうしてゆっくりと目を開けて、横目で隣を見た。  横は空席だった。誰も座っていない。僕は深々と息を吐いた。  始業ぎりぎりまで渋っていたから、遅刻でもしない限り現れることはない。僕はそこで、まず安堵することができた。  担任の先生が入ってきた。少し寂しそうな顔だった。  挨拶の後、担任は僕らを着席させて言った。僕の横の席の子は、両親の都合により急遽、この町を離れなければならなくなったということ。全ては夏休みの間に取り決まったことで、僕らには知らせる時間的余裕もなかったこと。その子は元気だが、僕らとの別れを、とてもとても寂しがっていること……。  驚きに湧き、何人かの残念そうな声や嘆息が混淆する中で、僕は何とも形容できない気持ちに頭が浸されていた。彼女は、顔だけじゃない。その全てを、僕の前から消し去ったのだった。  卒業までいなかったので、アルバムにも顔写真は残っていない。だから僕の記憶に映る彼女の顔は、どんな時も、黒くたゆたう髪を肩まで垂らした、赤白い虚無でしかない。目も鼻も口も眉も産毛も、表面上の凹凸すらない、なだらかな平面でしかないのだ。 三  それから二十五年。あの年の夏のことで、もう覚えていることはなにもない。  だがこの場所に立っていると、とりとめもないことであっても色々と浮かんでくる。  黄昏の魔術――彼女の表情が消えたあれは、幻惑だったのだろうか。  きっと、そうなのだろう。あの場の雰囲気に心が乱され、彼女の言葉通りのものが見えてしまっていたのだろう。思い返せば、あの時の僕の心は異常だったのだ。女子と二人きりで、夕暮れの教室……日常とは違う空間に身をおいていたことは、確かなのだ。  あそこで、彼女は何を伝えたかったのだろう。町を離れなければならないと、既に知っていたのだろうか。知っていたとしたら、僕に何を伝えたかったのだろう。僕だけに、何を言いたかったのだろう。  どれほど追いかけても、答えが見つかることはない。僕は背を向けてしまった。夕日の魔力に負けて。昼と夜の境に迷い込んだ者だけが見る、美しく妖しく、底知れない一瞬の夢幻……。  黄昏を、大禍時とも言う。あるいは、逢魔時とも。後になって、知ったことだ。  あの時、僕の心の中にあったのは恐怖だけだった。子供の日常から切り離された一時の中で、見えるもの全てが鮮やかで、毒々しくて。そのひとときの中に留まり過ぎれば、二度と戻ってこれなくなるような気がして。  ――夕日に顔を奪われた彼女のように。  小さな音を立てた机には、何の別状もない。これも気のせいか。いや、あるいは、あの不思議な時間への誘いだったのか。その奥には、凝縮された時間の中で、変わらぬあの子が待っているのかも知れない。そして僕は今度こそ、彼女の素顔を見るのかも知れない。  だが、僕はもうそこには行けない。  あの一瞬間に見えた幻は、あの時の僕だけのものだ。感じた恐怖も、揺れ動いた心も、未だ耳に残る鈴のような声も、あの時の僕だけのものだ。  正しく時間が流れるこの場所では、黄昏を過ぎて空に闇が立ち込めつつある。天頂には星が瞬き、電車到着のアナウンスが響いてくる。  窓に背を向けた。  何も得られなかった過去を後に残して、僕はその場を去る。懐かしい、というにはあまりに時が経ちすぎてしまった、彼女の席の傍を通って。   (了)
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