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一
えらいことになった――。
そう呟いて、唇を噛み締める。平静を装おうと努めても、胸が熱くなって、喉の奥から唸りが込み上げてくる。それが歯の間を通り過ぎる時、火花を散らし、蒼炎となって立ち昇った。絶え間なく炎を吐き続ける渋面。傍目には、さぞかし恐ろしく見えるだろう。
厳めしいのは普段通り。しかし今は、苛立ちと戸惑いの色が添えられて、これまで数百数千……いや数万の長きに渡って、一度も見せたことのない表情になっている。
大焦熱の業火を映して、ぎろぎろ煌く金泥の玉案。そこに立てかけてある人頭幢の顔も、口を曲げて目を閉じている。目をひん剥き、引き出された亡者を口汚く断罪する、平生の元気はどこに行ったのか。人頭幢が何も言わぬ以上、何億年待っても事態は進展しない。
嫌な空気だった。とにかく居心地が悪い。鼻から熱気、口から青白い鬼火を吐き出し、憤怒の形相で玉案に頬杖をついている自分も気に食わなければ、そんな自分を背後から戦々恐々と窺っている、二人の文官の態度も気に食わない。
周囲で、やはり居た堪れなさそうな顔で畏まっているのは獄卒たち、こいつらの態度も気に食わない。逞しかったはずの筋骨を萎びさせ、項垂れる様は老婆のよう。眼をぎょろ付かせ、頻りに隣通し目配せしている。時折何か言いたそうに口を動かすが、逆様氷柱のような牙が、がちがち鳴るだけで言葉の一つも出てこない。
溜息一つ吐いた時、ごとりと音がした。獄卒のひとりが得物を落としたのだ。いつもは一々気にしない音なのに、今は気が張り詰めているせいか、やけに耳を殴りつけてくる。
どの鬼も、各々自慢の得物を携えている。殴り潰す棍棒、切り刻む段平、歯を抜く大鋏、焼き尽くす鉄錫状……。すっかり使い古され、錆だらけ。それと綾模様を織りなすようにして、どの得物にも、黒ずんだ血の跡がある。獄卒が落としたのは、特に血錆の跡甚だしい野太刀で、その汚れ具合に比して、主も荒ぶる獅子に似た、恐ろしく凶悪な顔付き――それなのに、今は己の失態を恥じ入るかのように、目に涙まで溜めている。実に気色悪い。
衆生が棲む閻浮堤の下、一万九千由旬にある大叫喚地獄。広さは縦横一万由旬、高さは二千七百由旬。八大地獄の第五番目で、殺生、盗み、邪淫、酒の売買、嘘吐きが落ちる。ここで亡者は八千年の時を過ごす。八千年と言っても、人世の八千年ではない。ざっくり換算してみると、人の世の八百年で化楽天の一日くらいで、その化楽天の八千年が、大叫喚地獄の一日に相当するから、六千八百二十一兆千二百億年くらいにはなるだろうか。
ここで亡者どもは、生前の罪を鬼に責め立てられ、惨死と再生を繰り返す。ここの攻め苦の苛烈さは、人世の坊主ごときに語り得るものではなかろう。焼け焦げた瘴気に塗れし地獄の門。血反吐混じりの断末魔が鼓膜を劈き、片時も鳴り止むことがない。
その叫びは、地獄門を潜ってすぐにある、閻魔王宮にも届いてくる。ふんだんに鏤めた黄金が業火の紅を浴びて、おどろおどろしく輝く。扉を開け放ち、中に入って二三歩で、岩窟に似た広間に行きあたる。奥に鎮座しているのが、今は殊に機嫌が悪そうな閻魔大王。血潮の紅に染めた道服を身に纏った、たけ十丈ばかりの巨体。鬼にも似た赤ら顔。金色の冠を目深に被って、叡智の皺を幾つも刻みこむ。皺は眉間のみならず、目尻周りにも並び、猛禽の面影を残す風貌でもあった。今は閉じられているが双眸は、ぎょろぎょろ動く団栗眼。視線は空から降り落ちる雷の如く鋭く、荒々しい。口からは、氷柱のような一対の牙。口の周りは、苔のような色をした髭に覆われている。毛が生えた手に笏、もう一方の手で頬杖をついている。様子、風貌は、地獄絵図にある閻魔王の姿と、大凡違うところはない。
後ろに控えるは文官姿の司命尊と司録尊。彼らは閻魔帳を読み、記録し、引き出された亡者が、どの地獄に落ちるのかを決める際の証言をなす。彼らから少し離れたところで、大王に背を向けて座っているのは泰山府君。陰陽師の信仰篤い神である。普段は太山庁にいて、閻魔王が亡者を裁く際には、こうしてやって来る。裁判補佐のようなものだ。
もう一人、補佐席が用意されてあるが、今は姿がない。少し遅れているのかも知れぬ。
閻魔王、司命尊司録尊、泰山府君。彼ら冥府裁判官の目は、揃って猜疑の色に彩られている。そして猜疑は一様に、玉案の前に跪いて手を合わせている、一人の女に向けられているのだった。むろん、死人である。まだ若い。十五、六といったところか。長髪と切れ長の目が優しい。死人の性で顔が青白いことを除けば、良い器量だ。閻魔王の前に出ても、物怖じせず首を傾げている。度胸の方も、人並み外れたものがあるらしい。
ごくごく当たり前の死人である。何も珍しいことはない。それでいて地獄の裁判官らの注目を一身に集めている。女自身も訝しく思っているようであった。首を傾げているのは、そのためだろう。
良い面の皮だ――と閻魔王は毒吐いた。苛々はそろそろ、我慢の頂を削り取りそうだ。
こうなってくると、何もかもが煩わしい。閻魔王は、思わず歯噛みして、窓の外を見た。
外で永久に続けられている、地獄の呵責。いつもなら、微風の囁きほどにしか聞こえてこない亡者どもの断末魔が喧しかった。真夏の蝉のような、心を苛立たせる騒音である。
一辰刻になろうか、この女が現れて。この地獄裁判が停止してしまって。
その間、みな一様に居心地の悪さに尻をむずむずさせながら、いつこの緊張が解けるのだろうと、空気を求めるように喘いでいるしかなかった。下手なことを口走って、閻魔の怒りを買うのが怖くて、閻魔王と、座っている女とを、交互に見比べるばかりだったのだ。
何でこんな女のために――というのが、この場に集う者たちに、共通した思いだった。
もっとマシなもののために悩みたい――誰の顔にも、そのような不満が浮かんでいる。彼ら六道の巷に立つ存在にとって、人ひとりなどその程度の扱いでしかない。
鐡の扉が軋んだ。何者かの足音が近付いてきた。
渋面を僅かに和らげ、猫背気味だった背を伸ばす閻魔王。背後に控える文官らも足音のする方に熱い視線を注ぐ。腕組みして一人関せずといった佇まいを貫いてきた泰山府君でさえ、首を捩じらせて、裁きの場の玄関口に鋭い視線を送っていた。
間を置かずして現れたのは、ひとりの獄卒。この場に居並ぶ獄卒たちより百か二百歳は若々しい顔。新米の使い走りなのだろう。背負っている鉞も、血に塗れていない。
ぜいぜいと荒い息を吐きながら、女より三歩ほど前に出て畏まり、篁様が参られましたと告げる。耳を劈く、きんきんと甲高い声である。
沈黙は破られた。閻魔王は、髭を撫でつつおもむろに立ち上がり、文官を従えて裁きの場を後にする。残された死人の女と数人の獄卒ら。まだ状況が飲み込めていない彼らは、頭の上にはてなを浮かべながら、間抜けた表情で顔を見合すばかりだった。
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