地獄裁判

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二  灼け爛れた赤い空をよぎる巨大な影。数枚の黒い羽根が、ひらひら舞い散る中、切ない悲鳴が長く尾を引いて落ちてゆく。狂気に満ちた凄まじい哄笑。紅蓮の炎が渦を巻いて、真っ黒な地面のあちこちから間歇泉の如く一気に吹き上がった。旋風伴い、無数の火柱を掻い潜る巨大な影は、体の二倍はある翼を勇ましく広げ、宮殿の前にふわりと舞い降りる。象よりも大きな体を持つ、漆黒の猛禽。瞳は赤銅色で、鉤の形に曲った嘴からは、絶えず細い炎が立ち昇る。  巨大な怪鳥の背中から焦土に飛び降りたのは、緋の袴を履いて、腰に太刀を帯びた獄卒。両手によく撓る鞭と手綱とを持っている。彼に続いてもう一人、ひょっこり顔を覗かせた。こっちは若い人間の男だ。この地獄にあって、死人ではない。肌の色で分かる。  男は猛禽の背中からぎこちなく飛び降りて、そのまま獄卒の背に跨った。  何丈あるか知れぬ獄卒と比べると矮小に見えるが、人の中では背が高い方だろう。六尺二寸、それくらいか。黒の衣冠束帯に身を包み、手に扇を持っている。歳は知れなかった。瑞々しい肌を持つ一方、鼻の下の髭は厳めしく、眼差しは若者のそれとは思えぬほど鋭い。  獄卒に背負われたままで王宮の門を潜る男。潜ってすぐのところに、褌を付けただけの裸の獄卒がふたり、駕籠を担いで待っていた。男は獄卒の背の上を這って駕籠の中に入り、ほっと一息吐く。駕籠は、ゆるやかに走り出した。鳥のように速いのに、駕籠はちっとも揺れない。大叫喚地獄に降りてから、男は一度も地に足を付けていなかった。生きた人を地獄の焦土に触れさせるわけにはいかないのだろう。男に対する獄卒どもの振る舞いは、その風貌からは想像できないほど丁重を極めていた。  駕籠は瞬く間に王宮の中に入り、いくつもの角を曲った後に、広間のようなところで、ひたりと止まった。ゆっくりと駕籠が地面に置かれ、中から男がひょっこりと出てくる。王宮の中にさえ入ってしまえば、地に足を付けても大丈夫のようだ。よろよろと、なおも体をぐらつかせている男。周囲があまりに広獏としていて、戸惑いを覚えているらしい。  そこへ足早に姿を現したのは、双眸を三日月の如くひん曲げ、口を大きく開けて、鋸のように並ぶ牙をぎらめかせた、閻魔大王だった。亡者を鬼一口に丸呑みする獄卒と同じ、凄まじい表情。しかし男は別段動じた風を見せなかった。これが閻魔王なりの破顔だと、重々了解しているようである。顔にうっすらと微笑みを浮かべて、近付いてくる閻魔王の顔を見上げていた。たけ十丈の閻魔王からすれば、六尺の男など、豆粒のようなものだ。閻魔王は膝を折り、掌を差し出した。男は躊躇なく閻魔王の掌に登り、腰を落ちつける。 「遅参の段、御免なれ。姪の小町のところへ遊びに行っていて、つい時を忘れもうした」  そう言って、静かに頭を下げた。練れた物腰と物言い。それでいて胸を張り、威風堂々たる自信にも満ち満ちている。しっとりと耳に優しく響く低い声で、厳めしい顔に反して朗らかだった。謝辞を述べているにも拘わらず、悪びれた様子はない。  ぶんぶんと、男の頭上遥か彼方で風を切る音がする。頭を上げると、閻魔大王が金色の冠と、炎の如く朱に輝く蓬髪とを左右に忙しく振っていた。その振動が右手にも伝わって、まるで地鳴りにでも遭ったかの如く、男の体は激しく揺さぶられている。  思わず身体をぐらつかせる男。それを感触で知ったのか、閻魔王は首を止めて男を見降ろし、謝られるな――と答えた。辺りを憚らぬ銅鑼声、千の雷が降り鳴るより迫力がある。 「野狂の篁様とも思えませぬ。無理を言って、わざわざ来てもらったのです。それだけで有難いというもの。よく来てくだすったと儂の方から礼を言わねばならぬくらいで――」  ほんに、忝いことです――そう言って今度は自分が頭を下げようとする。篁と呼ばれた男は、それを慌てて押し留めた。閻魔王が頭を下げようと体を傾ければ、その掌に乗っている自分も転がり落ちかねない。上辺だけはさも平気そうな顔を見せつつも内心では冷や汗を流し、閻魔王が体を傾ける隙を与えないようにと、急ぎ気味に言った。 「いやいや私如き一介の人間に頭を下げるなど畏れ多いこと。地獄の威信に関わりますぞ。そのような振る舞いに及ばれなさるな。地獄の御役に立てるならば、それは私にとっても名誉なこと。有難いことなのですから」  最後の方は、宥め賺すような調子になってしまった――自分でもそう思っているだろう。とにかく、閻魔王の低頭だけは避けることができた。閻魔王はそれでも申し訳なさそうな表情を浮かべている。篁は一息の間を置いて、さらに言葉を続けた。がらりと声の調子を変え、可笑しげな様子を顔に含み、 「それにしても……先は驚きました。冥府通いの井戸から、死途の山麓まで降りてみると、いつも待っていてくれている火車がおらず、代わりに恐ろしい面をした鳥が、翼を広げて待ち構えていたのですから。道を間違えたかと胸も破けんばかりの不安に襲われました。背中に乗っていた獄卒が私を呼び止めなければ、尻尾を巻いて退散するところでしたぞ」 「――ああ、あれですか。素晴らしいでしょう」  篁の言葉に、ころりと態度を変える閻魔王。鼻を膨らませ胸を張り、得意満面である。 「あれは閻婆鳥といって、地獄で飼っている化鳥なのです。普段は阿鼻無間地獄で亡者を啄んでいるのですが、一刻も早く貴公をお連れしたいという思いから、借りてきたのです。何せ閻婆鳥の翼は、地獄最速と言われておりますからね。どうです、速かったでしょう」  篁は笑みを返した。が、その笑みには、聊かの疲れた感じもあった。 「確かに一瞬でした。全部で何億由旬とあるか知れぬ地獄を、刹那で渡るのだから凄い。しかし、あの鳥の背に乗って地獄を飛び回るのは中々の冒険でした。口から火は吹くし、翼の巻き起こす風で息ができないし、鳴き声は耳を劈くし、腥いし……」 「そうですか。興奮されたのですな。儂はこの通り、背丈が十丈もあるから、閻婆鳥には乗れないのですがね。羨ましいことです。そんなに愉しいものなのか。確かに獄卒などは、嬉々としてあれに乗り、地獄を駆け回っていますからね。帰りもあれに送らせましょう」  喜びと得意の色がありありと見える表情を見て、篁は小さく溜息を吐いた。この閻魔王、どうも人の言葉を、額通りに受け取り過ぎるきらいがある。それほど純粋なのだと言えば、聞こえが良い。悪く言えば単純である。その単純さが、本気で心配になることもある。 「いや、その話は後にしましょう。それよりも……何かが起こっているのでしょう。何せ、地獄最速の化鳥を遣わすくらいだから。この私ごときであっても、一刻も早く裁きの場に来させたかったということなのでしょう」 「さよう――さすがは篁殿。察しが早い」  問い掛けに答えたのは閻魔王ではなかった。少し皺枯れた弱弱しい声が、閻魔王の背後から虚ろに響く。篁が首を伸ばしてそちらを覗きこもうとするより先に、閻魔王がくるりと体の向きを変えた。振り落とさないためにか、ゆっくりとした動きだった。 「泰山様――」  姿を現したのは、二人の文官と一人の老人だった。司命尊と司録尊、そして泰山府君である。三人は横一列に肩を並べ、静々と歩いてきた。閻魔から十間ばかりのところで足を止めたが、その頃には篁は、後頭が背中にひっ付くほど首を傾けて彼らを見上げていた。首根っこがぎしぎしと軋む。 「よう、来てくだすった」  閻魔王には及ばずとも、司命尊も司録尊も、そして泰山府君も、七、八丈ほどはある。彼ら三人と閻魔王に取り囲まれると、人である篁の姿が、あまりにも小さい。人間が蟻を捕まえ、四人で見下ろしたなら、これとまったく同じ光景になるだろう。篁自身は四人に見下ろされることに慣れ切っているのか、姿勢こそ苦しそうだが戸惑いも物怖じもなく、閻魔王と会った時からの柔らかな微笑を湛えていた。  泰山府君の口も綻ぶ。それまでは皺の刻み痛々しく、無骨で厳めしい表情だったのが、僅かばかり口元を弛めただけで、印象がだいぶ朗らかになる。閻魔王の前では、そっぽを向いて無愛想な感じだったが、彼はただ単に感情を面に現すのが苦手なだけなのだろう。泰山府君の言葉に、篁はゆっくりと頷いた。 「長らく顔を合わす機会がなかったが、平穏無事なようで安心したぞ。少しばかり目元に皺が増えたな。まあ、心配するほどのことではあるまい。定命の者は、誰でもそうなる」 「十年ぶり――ほどでしょうか。こちらには何度か顔を出しており、閻魔王とも司命殿や司録殿とも、親交を深めておるのですが。泰山様は、普段は御自分の庁の方におられますから。つい御目にかかる機会がなくて、気付けばこれほどの歳月を経てしまいましたな。無常の浪には、やはり逆らえませぬ。泰山様にとっては十年など、一呼吸にもならぬ短時。私めには、それ相応の時の流れに御座いますから――」  泰山府君は、ぐふぐふと唸り声のような音を喉から響かせて言った。 「何を申されるか。高々十年もの年月、見てくれに聊かの変わりはあっても、貴公には、屁でもない時流れであろう。その面立ちからも、物言いからも、佇まいからも、若々しい気魄が、漲っているのを感じる。その分では、あと五、六十年は耄碌せずに生きていける。命を司る儂が押す太鼓判じゃ。安心して精進なされるが良い」 「はぁ――有難い仰せに御座います。それにしても、ほんに久方ぶりですな。再会を喜び合いたい半面、聊かの戸惑いも拭えませぬ。泰山様と私め……地獄の補佐役が二人同時に召集されたのだ。一筋縄ではいかぬ、厄介なことが持ち上がっているということですな」  仰る通りに御座います――。篁の言葉に、傍らから口を挟みこんだのは司命尊である。いつまでも旧交を温め続けている二人の様子が、少々じれったくなってきたらしかった。顔だけは穏やかだが、頻りに髭を撫でているところに、微かな苛立ちが垣間見えている。  司録の言葉に、閻魔王も神妙な顔をして頷いた。彼もそろそろ本題を切り出したかったらしく、頬や眉間の辺りが僅かに強張っていた。篁は、泰山府君から司録と閻魔に視線を移し、二人の顔を代わる代わる見比べて小首を傾げる。顔から微笑が消えて、鋭い知恵の光が差した。立ち上がって、ぴんと背を伸ばす。  閻魔王――と、篁は呼びかけた。その声には、最前までの人懐っこさなど、欠片もない。 「どうやら、随分と難儀しておられるようですな」  厳かな表情で頷く閻魔王。背後の泰山府君も、気付けば顔から微笑を消していた。 「旧交を温めたいという貴公の御気持ちも察することができますが、暫し先の楽しみに。すぐさま、事に当たらねばなりませぬぞ。貴公を大急ぎで呼び寄せたのもそのため。儂ら三人だけの知恵では、どうしても光明が開けなんだ。どうしても貴公の力が必要だと思い知ったのです。叡智だけでなく、浮世の理にも通じておられる貴公の力こそが――」 「……」  篁はやや目を見開き、閻魔王の顔をまじまじと見つめていた。普段は寡黙で、採決を言い渡す時の他に殆ど感情を面に出さないはずの閻魔王が、汲めども尽きぬ水の如く言葉を並べたてるのに驚きを隠せなかったのである。篁の動揺を余所に、閻魔王の口はよく動く。その双眸に、必死の色がかぎろうのを篁は見た。心が、ぞくりと粟立つ。 「窮地などという安っぽい言葉は使いたくないのですが、他に言いようもないのだから、仕方ありません。地獄の危機です。しかもそれは、たった一人の女の手によって生まれた、前代未聞の、世にも馬鹿馬鹿しい危難なのです。儂も長く閻魔王をやって来て、こんなに下らないことで頭を抱えたのは、初めてですよ。すっかり、参ってしまいました」 「それで、結局――何が起こったというのですか」  浄玻璃の鏡ですよ――と言いながら、閻魔王は奥にある見事な大鏡を指さした。 「浄玻璃の鏡が、何も映し出さないのです」 「――はあ」  間抜けた呟きを返す篁。事の重大さが、まだまだ分からないらしかった。
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