地獄裁判

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三  小野篁――。人世は彼に従三位・参議という官位を与え、また官人、学者、歌人という肩書きと、小野小町を姪に持つ血縁を与えている。しかし、それだけで、彼という人物の全てを知ったということにはならない。篁には公史には記録し難い、裏の顔があった。  説話や巷談の類は、不思議なことを語り継いでいる。曰く小野篁は、地獄裁判の補佐役である――と。彼は必要に応じて真夜中、死の六道に赴き、冥府通いの井戸を潜って冥府に向かい、閻魔庁の裁きの場で閻魔王を助けることを第二の仕事としているのであった。  あまりに突拍子のない話である。事実無根の説話だと、言ってしまえばそれまでだ。  しかし篁は、『令義解』の編纂に関与するほど等法理に明るく、文才「天下無双」だと薨伝に唄われた男である。一方反骨精神にも富み、「野狂」と呼ばれていたところなど、常人とは聊か異なった性質の男でもあったらしい。叡智だけでなく、浮世の理を知る者を参考人として閻魔王が求めたのだとしたら、白羽の矢を立てるに最も相応しいのは、小野篁であっただろう。  それはさておき、小野篁は今、説話が語るままに閻魔王宮へと降り立って、裁きの場に設けられた末席に慎ましく腰をおろしている。傍らに、腕組みし難しい顔で胡坐をかいている泰山府君。背後には、血塗られた錫状を構えた獄卒が、ずらりと一列に並んでいる。  眼前には、金の玉案にどっしりと構えた閻魔大王。手の笏で、ひたすら頭をぺちぺちと叩いている。閻魔王の左右で、彼を守る――というよりも、彼の苛立ちから他の者たちを守ろうとしている司命尊と司録尊。いつもなら司命尊が携えている閻魔帳は、玉案の上に広げられている。開かれた頁には、何も書かれていない。  一同は無言で、玉案の前に跪く一人の亡者を見下ろしている。むろん、あの女である。胸の前で手を合わせ、首を少し擡げて、閻魔王の後ろから顔を覗かせている篁を不思議そうに見返していた。真珠のように濡れた目には、解けた髪が、はらりとかかっている。  篁は胸を騒がせた。女の瞳の中に深淵にも似た、一寸の光も射さぬ虚無を見た気がして。 「――」  気まずさを紛らわすように、篁は女から、女の傍らに置いてある大鏡に視線を移した。大きさは五丈くらい。燃え盛る業火を象った黄金の鏡枠に、眩く銀色に輝く水晶の鏡が、嵌め籠めてある。鏡枠の炎は装飾ながら命を持ち、めらめらと金泥のうねりを上げていた。鏡脚には鳥の足が使われ、漆黒の鱗と疣に覆われている。指の爪は一つ一つが翡翠の勾玉、焦土を引っ掻く度にカチカチと音を鳴らした。  これこそが、亡者を裁く時に使われる浄玻璃の鏡である。普段は閻魔庁に付随する光明王院の中殿にあって、亡者を裁く時には裁きの場まで持ってくる。この鏡が映し出すのは、そこに映った亡者の生前の一挙手一投足である。亡者の中には強かな者もいて、少しでも罪を軽くしようと、閻魔王の前でありながら嘘八百を並べる者が儘にいるのである。だが、そんな嘘吐きもこの浄玻璃の鏡の前にすると、云とも寸とも言えなくなる。この鏡に映し出されることこそが、真実だからである。そこでは、人間の作りだす下手な誤魔化しなど何の意味も持たない。そうと知らずに嘘を吐いた者は、閻魔王の怒りを受け獄卒らの手で舌を引っこ抜かれることになる。  鏡は女の斜め後ろに置かれ、背後から女を映すように鏡面が向けられている。普段は、閻魔王側に鏡の背が来るようにして置き、鏡面に亡者の姿が映るようにする。閻魔王には鏡に映し出される亡者の生前の行いは見えず、亡者に付き添っている獄卒らが一部始終を報告するという形を取っているのである。浄玻璃の鏡は、亡者が生前にしでかした所行を暴き出すだけでなく、生前の一切合財を見せつけることで、亡者自身に後悔させ、反省を促す役割をも担っている。  それなのに今は、女に自分の姿が見えないよう、そして閻魔王や小野篁、泰山府君らに鏡面が見えるような位置に配置されている。だから女に代わって、普段は直に見ることができない閻魔王や篁たちが、女の生前の一切の行いを目の当たりにする――はずなのだ。  それが、何故かできない。 閻魔王が先に言った通り、そこには今、何も映ってはいない。  何度見返しても同じである。目の迷いなどではない。鏡面にあるのはただ、女の後姿だ。それは今現在の女の姿に過ぎない。映っている女の周囲は、鏡の銀泥で塗り潰されている。だから浄玻璃の鏡は、前に置かれた女の姿を見止めてはいるのだ。この鏡は、それ自身に命があり、亡者を見定める眼を持っている。  浄玻璃の鏡は女がいることを知っている。にも拘わらず、どれほど待っても女の生前を浮かばせようとしない。仕事熱心で、これまで一度たりとも、亡者の過去に誤った情報や勘違いの憶測などを混在させず、真実だけを伝えてきた。地獄裁判の立役者に他ならない浄玻璃の鏡――それが何故、この女を前に据えると、役目を果たさなくなるのだろう。  一同の困惑の原因はここにある。女の後にも次々続く亡者ども全てに対して、浄玻璃の鏡が何も映さないというなら、ただ単に調子が悪いというだけのこと。数千年も閻魔庁で亡者の罪を暴いてきたのだから、寄る年波に抗えず眠り扱けてしまうことだってあろう。  ところが、この女を前に据えた時にだけ仕事をしないということになると、これは俄然、納得がいかなくなってくる。裁きの場に向かう前に、そっと司録尊が教えてくれたのだが、いつまで経っても埒が明かぬことに業を煮やした閻魔王は、一先ず女を隅に置いておいて後ろで並んでいる亡者どもを先に裁いた。その時は浄玻璃の鏡も仕事をして、玉案の前に曳き据えられた亡者ども一人一人の生前の振る舞いを、一つも違えることなく映し出してみせたようなのだ。司命尊の持つ閻魔帳を参照すれば、浄玻璃鏡が映しだす光景が真実のものであるか否かはすぐ分かる。女のこともあったので閻魔王は司命尊に、特別注意して、鏡の映す光景と、閻魔帳の記述を照合するよう命じていた。  司命尊が確認に確認を重ねた結果、それらの亡者どもに対しては、浄玻璃の鏡もいつも通り真っ当な仕事をしていると分かった。疑わしい点は欠片もない。壊れているわけでもなければ、疲れているわけでもないのだ。――が、それならそれで、いよいよ分からない。  閻魔王の戸惑いも苛立ちも……そして不安も、至極尤もなことであろう、と、小野篁は同情を禁じ得なかった。分けの分からないことに対して無性に腹が立ったり、鼻がつんと沁みたりするのは、人間でも鬼神でも同じなのだ。  地獄裁判の場は、篁が現れる前と大して変わり映えしていない。閻魔王と二人の文官も、苦虫を噛み潰したような顔で浄玻璃の鏡を睨めているばかり。誰も裁きの場に圧し掛かり続ける気まずい沈黙を破ろうとはしてくれない。泰山府君は、いかなる時でも神色泰然とした男だから、篁とは違いこの程度の気まずさには何の痛痒も感じないのだろう。従って、彼が口火を切ってくれるなんて期待をかけても、まず無意味である。篁は溜息を吐いた。  結局いつも、この中では最も立場が低い己が、事ある毎に気まずい思いをするのだ――。  閻魔王も泰山府君も、人間だからという理由で、篁を見縊ったことなど、今の今まで、一度たりともない。彼らは、いついかなる時でも、丁寧で柔らかな物腰で接してくれる。それどころか、人間である篁のことを、自分たちと殆ど対等に見ているようでさえある。  彼らの振る舞いのお陰で篁は一度も、閻魔王宮にて人間という生まれを疎んじるような、そんな窮屈な思いは覚えずにやってこられた。だが、彼らの心尽くしを前にしても時折、自分一人だけ住む世界を違えているという自負で、心が騒いだり落ち込んだりすることがあるのだった。それは彼が人間であるが故の特有な不快――僻みと言ってしまって良い、好ましからざる負の感情であろう。  人世の理では、何かと新参者や余所者があれこれ気兼ねするものである。地獄における篁の立場も、ちょうどそれと同じだった。閻魔王たちに才覚を認められているとは言え、閻魔王らが、篁を遥かに超える力を持つ、鬼神道神の類であるということには変わりない。そのような引け目が、時に篁をどやし、焦らし、振り回し、疲れさせて喜ぶのであった。  馬鹿馬鹿しいと、篁自身でも分かっている。それでも、ついつい気を使ってしまうのは、彼が人間だからであり、それを止めろという方が無理な話である。笑い上戸に泣き上戸、色情狂い、なくて七癖あって四十八癖……人の悪癖は、止めようと思って止められるものではない。それが、人間という生き物の泣き所である。そのことを篁は、閻魔王ら人外の存在との交流を通じて、嫌と言うほど知っていた。  閑話休題――結局下っ端の自分が動くしかないのだと悟って嘆息した篁、頭を掻き回しながら、大きな咳払いを一つした。その音が、岩窟造りの裁きの場にわんわんと反響する。  ハッとして頬杖を突いていた玉案から身を起こし、篁を振り返る閻魔王。泰山府君は、腕組みをして虚空に顔を向けたまま、瞳だけをぎょろりと動かして篁を見た。鋭い視線を幾つも受けて、篁は面映ゆさを覚える。  やれやれと言った調子で口火を切る。緊張の糸が切れたのか、声は疲れ気味だった。 「難儀なことです。馬鹿馬鹿しいし不可解だ。この人の時にだけ鏡が使えなくなるとは」  閻魔王は憮然たる様子で頷いた。満を持して口火を切った篁の言葉が、存外に平凡な、ただの感想であったことに聊かの失望を感じたらしい。それでも首を左右に振って顔から落胆の色を飛ばし、ほんとうにそうなのです――と、眉間に皺を寄せて言葉を返す。 「困っているのは、儂らだけではありません。あまり厳しいことを言っては可哀想ですが、今や冥府全体が、この女のために頭を抱えさせられているのです。貴公も御存知の通り、ここに至るまでには、気の遠くなるような長い道と無数の関所が待ち構えていますから」  篁は閻魔王から目を逸らし、玉案の向こうに跪く女を見た。閻魔王の愚痴に、女がどのような顔をするか気になったのだ。女は手を合わせたままで、ぼんやりと篁の顔に視線を返している。真珠のように濡れた瞳には、相変わらず、どんよりとした虚無が見える。  篁は眉を顰めた。女は欠片ほどの反応も見せない。閻魔王の言葉など、聞こえていないかのように。もちろんそんなはずはない。十丈の鬼神が喋るのだから、囁き声であっても、十里先まで響き渡るはずである。  やはり奇妙な女だ――篁は心の中でそう呟いて、閻魔王の顔と言葉に、意識を戻した。篁に促されるようにして口を開いた閻魔王は、この不思議な女がここに至るまでに起こしてきた面倒とやらを、一つ一つ論っていた。人は死んでから、奪魂鬼、奪精鬼、奪魄鬼と呼ばれる三人の獄卒に連れられ、死途の山や三途の川など、辛く険しい難所を潜り抜けて、裁きの場へと赴かなくてはならない。この女も十日ほど前に死んだ後、三人の獄卒に連れられて閻魔王の待つ王宮へと赴いた。まず待ち構えるのは、八百里もあるという死途の山。ここには番人がいないからか何の問題も起きなかった。女は言葉少なで、歩けと命じれば素直にどこまでも歩いた。ほっそりとした外見に反し、丈夫な足だった。  死途の山を越えると三途の川に出る。三人の獄卒は、ここで少し休憩しようと言って、川の手前に腰をおろし、女を傍に坐らせると、叢に朽ち置かれた五輪塔に凭れかかって、骨造りの煙管片手に他愛もない雑談を始めた。四半時ばかりそうして足の疲れも癒えた頃、そろそろ行こうかと立ち上がり、そこで漸く女がいつの間にか姿を消しているとことに、気が付いたのである。飛び上がるほど驚いた。死途の山を越えたところまで来て、よもや逃げ出す人間がいようとは、夢にも思わなかったから。  三途川の河原は俗に賽の河原とも呼ばれ、あちこちにまだできあがっていない積み石が点在する、荒漠たる寂原である。そこに目を走らせて、獄卒三人は殆ど同時にあんぐりと、だらしなく口を開けた。ええぇ……という間抜けた声が、覚えず喉の奥から漏れた。  賽の河原は、親よりも先に死んだ子どもらが行く場所である。そこで子どもらは獄卒の指示の下、永遠に終わることのない石積みをやらされるのだが、三人の前から姿を消した女は、そんな子どもらの中に混じって、一緒にわいわい遊んでいた。賽の河原の見張りを任されている獄卒が飯を食いに行ったか仕事をさぼったかして河原におらず、女は誰にも咎められることなく、子どもたちに近付いて行けたのだった。もちろん見張り役の獄卒は、後で閻魔王の怒りを受けて降格させられ、鶏地獄の糞掃除役に就いている。  慌てて女を連れ戻し、何を考えているのかと叱りつける獄卒。が、女はきょとんとした顔で不思議そうに三人を見上げるばかりだった。何故に怒られているのか、それさえ分からぬらしく、憤怒に塗れた獄卒の形相を恐れる気配が欠片も見られなかった。その様子に、獄卒たちの方が面喰らわされたほどである。  獄卒らは顔を見合わせ、やれやれと首を振った。言いたいことは山ほどある。それでも、とにかく先へ急ごうということで意見が一致したのである。三途川の渡し守に預ければ、それで彼らの仕事は終わりだ。この得体の知れない亡者と早く離れたくて、足が急いだ。  それだと言うのに――渡し場でもまた面倒が巻き起こった。  三途の川を渡るには、六文銭が要る。その六文銭を女が持っていたことは、死途の山を超える時に、三対の目で確認していた。それなのに、銭を出すよう渡し守に催促されても、女は不思議そうに小首を傾げるばかり、いつの間にやら六文銭は女の懐から忽然と消えていたのだ。旅路の途中でなくなったとなれば、これまた獄卒の過失になる。  さすがに死途の山まで戻る気力はなかった。辺りを探ってみると何のことはない。賽の河原で、石積みをさぼって未だ遊んでいる子どもらの手に、それは握られていたのである。玩具か何かの代わりにと、くれたやったらしかった。  ホッと胸を撫で下ろす獄卒。六文銭は、あの通り子どもが持っているから、子どもらを地蔵菩薩が迎えに来る時に、六文銭だけ置いていってもらえば良いと渡し守に掛け合い、無理やり船に乗せてもらった。渡し守は獄卒より身分が低い。承諾するしかなかった。  ここで女は獄卒に分かれて、三途の川を渡ることになった。数人の亡者と共に舟の艫に乗りこんだ女は、三途川の流れにゆらりゆらりと体を揺らしながら、獄卒に向かって手を振った。どこまでも図太い胆っ玉の女だと、呆れを通り越して笑うしかなかった。――。 「色々と含むところはあったのですが、とにかく、この女は無事に三途の川を渡ることができた。舟の上では、どんよりとした水面を見つめていて、至極大人しかったそうです」  長々と続く閻魔王の話を、篁は無言で聞いていた。要点だけを掻い摘んで話してくれているはずなのに、中々終わる素振りを見せない。気を抜くと欠伸が漏れそうになる。篁は目を瞬かせて、閻魔王の言葉に集中しようと努めた。些細なことも見逃すわけにはいかぬ。閻魔王が紡ぐ、ふとした言葉の隅に、解決の糸口が隠されているかも知れないのだから。  三途の川を越えた先にある衣領樹は、関所の一つである。そこには、脱衣婆と懸衣翁と呼ばれるふたりの門番がいる。川を渡ってきた亡者は、ここで脱衣婆に服を剥ぎ取られる。剥ぎ取られた服は懸衣翁が衣領樹の枝にかける。この時の枝の撓り具合で、亡者が生前に犯した罪の軽重が、事前にある程度分かるようになっている。  女もここで死装束を脱がされた。死装束は懸衣翁の手によって、頭上の枝にかけられる。 「ここでまた妙なことが起こりました。衣領樹の枝が、ちっとも撓らなかったのです」 「枝が――撓らない」 「悪い言い方ですが、ここに来るのは脛に何かしらの傷を持つ者ばかりです。善人なら、死んだ瞬間に極楽浄土から迎えが来ますからね。衣領樹にかけられた衣が撓らないなど、今までなかったこと。脱衣婆も懸衣翁も、わけが分からないという顔をしていましたよ」 「なるほど――」  篁は顎を擦った。不思議の大筋が、漸く分かってくる。馬鹿馬鹿しい――というよりは、とてつもなく地味で、閻魔王ら冥府の支配者が挙って大騒ぎする類のものではないような気がする。しかしこれ、考えようによっては前代未聞の窮地に立たされていると言っても、言い過ぎではなかろう。  眠気は嘘のように消えた。女に目をやる。女が他の亡者とは違い、死装束を纏ったままでいることには、ここに入った時から訝しく思っていた。裁きの場に引き出される亡者は、男女関係なく褌か腰巻だけと決められている。枝が撓らないことに戸惑った脱衣婆と懸衣翁が、取り敢えず衣を着たままで閻魔王宮まで行けと命じたのだろう。老獪なふたりの翁鬼が女一人に手古摺っている様を想像して、篁は苦笑した。 「女を衣領樹から追い遣ると同時に、懸衣翁は遣いを寄こしてくれました。奇妙な亡者が一人そっちに行ったから、泰山府君と篁殿を呼んで充分に審議したが宜しい――と。儂は当初、それほど懸衣翁の言葉を重く見ていたわけではなかった。近場にいる泰山府君は、ともかくとして、この世に身を置いておられる篁殿まで呼び寄せる必要を感じなかった。しかし女を浄玻璃の鏡で映した時に、懸衣翁の言葉に従わなかったことを、後悔しました。冥府を束ねるにはまだまだ未熟なのでしょう」 「衣領樹の枝も撓らず、浄玻璃の鏡にも罪業が映らぬ。閻魔帳にも記録がない。つまり、女の生前の罪を確かめるものは、今のところ一切ない。そうなると、一つの不安が生じてくるわけですね。ほんとうは極楽に行くはずだった亡者を、間違えて地獄まで連れてきてしまったのではないか……と」  そうです、ほんにそうなのです――閻魔王は首が軋むくらい激しく、頭を縦に振った。 篁は、フム……と低く唸り声を上げて、眉を顰める。どうかされたかと問う、泰山府君。 「凡そのことは分かったのですが……。仮に女が極楽に行くはずだったとして、ここまで来たことが冥府の落ち度に繋がりましょうか。さっき閻魔王自身が仰っていた。善人なら、死ぬ寸前に来迎がある――と。来迎なく、ここまで来たというならば、それは極楽浄土の阿弥陀如来が、迎えに行くのを忘れていたということ。落ち度は極楽にあるでしょうに」 「確かに、そうなのかも知れません。しかし、それを確かめる術は、もはやないのです」 「何故です。女を一度、極楽まで送ってやれば良いでしょう。それで全部はっきりする」  それほど単純ではないのですよ――。閻魔王は苛々した様子で、首を横に振って答えた。 「真偽のほどはともかく、女はここまで来てしまったのですよ。極楽に送ることも無理な話ではないが、そのためには女が本当に清廉潔白なのかどうか見定めなければならない。極楽に送っておいて実は極悪人でした――では、取り返しが付かないのです。地獄の落ち度になるというだけではない。極楽浄土は一切の不浄を許さぬ世界です。そんなところに悪人を放り込んだが最後、極楽の全てのものが、俗気に塗れることになる」 「……」 「むろん、罪のない亡者を地獄に落とすこととて、同じくらいに取り返しの付かぬ大失敗、絶対に、あってはならぬことです。人世の政とは違い地獄裁判は、どんなに小さな綻びもあってはならないのです。その間違いによって善人が地獄に落ち、悪人が極楽に行くなどという事態に陥れば、浮世に唯一残された正道まで汚れかねない。善悪の根幹が砕ければ、様々な障りが方々に及ぶことになりましょう」  滾々と熱く語り出した閻魔王にたじろいだのか、篁はすぐ言葉を返そうとはしなかった。暫時の間隙を置いて頭に手をやり、三度の咳払いの後に、なるほど……と呟く。 「私の考えは拙速に過ぎたようだ。確かに、そんなことで上手く行くならば泰山様や私の出る幕ではない。……それで閻魔王はこの珍奇な自体を、どう治めようと考えておられるのですか。お手上げだと仰っていても、何かしら思うところはあるのでしょう」  そのことなのですがね――と、閻魔王は体ごと篁に向き直り、膝を乗り出した。篁が今吐いた言葉を、閻魔王は内心、首を長くして待っていたらしいのだ。閻魔王の顔にさっと走る緊張の色。思わず居住まいを正す篁と、小さな目をふっと開く泰山府君。 「篁殿が来られる前に、泰山様と額を寄せて話し合って、一つの意見を纏め上げました。前代未聞の珍奇――その大本にいるのは、ここに跪いている人間の女です。ならば儂らのように、距離を置いて人世を眺めている者より、その中で息を吸い、直に人の性を生きておられる篁様――貴殿の方が様々なことに通じられているはず。そこで申し訳ないのだが、この件は貴殿に一任しようではないかということで、我々は意見を一致させたのです」 「へ――。私に、ですか」  憮然たる面持ちで、閻魔王の有無を言わせぬ懇願の眼差しを、跳ね返す篁。憮然としたのは思いがけない閻魔王の言葉に驚きを隠せなかったからであり、策なしなどと言っていた割にはしっかり考えているじゃないかという、呆れと滑稽を感じたからでもあった。 「気負う必要はありません。一任すると言っても、貴殿に全てを丸投げしてしまうということではない。我々がなすべきは、女が聖人か悪人かを見極めることであり、そのために女の生前を調べなくてはならぬ。その役をお願いしたいということです。役鬼を送っても良いのですが、奴らは浮世に出ると必ずと言って良いほど厄介事を引き起こす。それよか、思慮分別があり、世の理に明るい篁殿が適役だと、そう考えた次第で――」  そこまで閻魔王が言ったところで、篁は右手を翳して彼の口を止めた。放っておけば、いつまでくどくど喋り続けるか、分かったものではない。篁は、早くも腰を浮かせていた。  やるべきことがハッキリと分かると、俄然、謹厳な面持ちになるのが、篁の癖である。最後にもう一度、女の顔をじっくりと眺めてから立ち上がると、痺れた足を優しく叩く。 「そのひとの国元はもう抑えてあるのでしょう」 「骸があったのは丹波です。そこが国元でしょう。獄卒に送らせますので、できるだけ、急ぎ調べては下さらんか。あまり長く女を止め置くことも、問題になりますから――」
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