地獄裁判

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四  宜しくお願いします――獣の吠えるような声で獄卒がそう言った後、全身が風を感じた。目の前が眩く明滅し、鼻孔を業火の熱と黴臭い煤が走り抜ける。別段の苦しさも覚えずに、ふっと途切れる意識。次に気が付いた時には既に、丹波のとある山麓に、篁は立っていた。  緑色の木漏れ日が眩しい。樹冠の端から覗く秋初め空の、瑞々しい輝きも目に痛かった。 日は天の頂を掴んでいる。一歩また一歩と、注意深く山道に足を踏みいれながら、篁は考えた。自分が冥府通いの井戸に飛び込み、閻魔王宮へ向かったのは、月のない丑三つの頃である。となれば、半日ほどは経っているということになるだろう。人世と冥府とでは、時の流れに大きな差があって、いつも混乱させられるのだった。  草を踏み分け、周囲を見回す篁。青々とした草木が生い茂るだけで、風の音と虫の声の他は、何も聞こえてこない。燦然と輝く碧空に対し、地を流れる風は涼しく、仄かな秋の香りを運んでいた。心地好い場所だった。毒々しい藪蚊も、意地悪な蝿もいない。ここが風葬の地であるということを、つい忘れてしまいそうになるくらい、安らぎに満ちている。  周りに、棄て置かれたという女の躯はなかった。既に腐りきって、土と化したのだろう。肉体が無へと帰すまでの九相を見る羽目にならずに済んで良かったと、篁は胸を撫で下ろした。丸裸で棄て置かれたらしく、目を凝らしても衣の切れ端などは見つからなかった。  ここにいても、得るものは何もなさそうだ。篁はあっさりと山麓を後にして、村を探す。 足取りは確固として、迷いがなかった。閻魔王に頼んで設えてもらっておいた水干袴を履いている。衣冠のなりで山村をうろつくのは、野狂でもやり過ぎでだろう。野盗の類に目を付けられても面倒だ。  雑草に覆われた道なき道を、袴を裁いて歩む篁。山麓から最も近い村でさえ、一里彼方。緑塗れの景色を眺めているのにもすぐ厭いて、篁は足を急がせつつも想念に遊んだ。耳に響く虫の声がつらつらと薄れてゆき、それが途切れた頃に、よく練れた、穏やかな老人の声が聞こえてきた。篁は頭を擡げ、眩しそうに碧空を仰ぐ。  ――泰山様……。  ぽつりと漏らした呟きは涼風に流れ、瞬く間に消えてゆく。篁の脳裏には、冥府を発つ寸前まで一緒にいた泰山府君の、皺に塗れた柔和な顔が浮かんでいた。冥府帰りの井戸に行くため閻魔王が使わしてくれた火車に、役を終えた泰山府君も乗り合わせたのである。燃え盛る牛車の屋形の中で、篁と泰山府君は向かい合い、論じ合った。  初めは、とんでもない役を閻魔王に圧し付けられてしまった篁への、労いの言葉だった。それから一息を置いて今度は、さも突然に思い出したと言わんばかりの何気ない様子で、篁に問いかけたのだった。外で轟々と唸る炎に掻き消されそうなくらい、小さな声だった。  浄玻璃の鏡について、どれほどのことを知っているか――。泰山府君は、そう問うた。 「浄玻璃の鏡――ですか。……言われてみれば、よく知りませぬ」 「あれがどうして亡者の生前の一挙手一投足を映しだすのか、考えてみたことはないか」 「不思議といえば不思議ですが、人間である私には、この世の外の物はみな不思議なもの、わけのわからないものばかりなのです。だから浄玻璃の鏡だけを特別に考えてみたことはありません。人外の力によって、そうなるのだろうとしか――」 「尤もなことだ」  深く深く、何度も頷く泰山府君。篁はふと興味をそそられて、覚えず身を乗り出した。 「では泰山様は、浄玻璃の鏡の仕組みについて、やはり御存知なのでしょうな」 「むろんだ。あれはな、亡者の生前を映すのではない。心を映すのだ」 「こころ――ですか」  鸚鵡返しに呟く篁に、微笑んでみせる泰山府君。篁と二人きりだと、当たり前のように笑顔さえ浮かべている。初孫に教えを授けている時の老翁なら、こんな顔になるだろう。 「浅学の私には、どうも解し難いのですが――」 「貴殿も承知のはず。謀りや偽り、擬事の多い浮世。中でも人ほど信用ならぬものはない――と。もし衆生が嘘を吐かず、全てを在りのままに話すものだとしたら、あんな偽りを見抜く浄玻璃の鏡や閻魔帳などが使われる必要など、端からないということになる」 「それは……その通りです」  だが――と、泰山府君は身を乗り出して、いっそう声を窄めて言葉を続けた。 「そんな浮世にも、たった一つだけ確かなことがある。真実だと信じて良いものがある。それが心なのだ。あらゆる嘘も謀りも誤魔化しも、心を前にしては何の意味も持たぬ」 「……」 「悪事をなした後に、それをどんなに誤魔化そうとしても、また忘れ果てようとしても、心にだけは永久に刻みつけられている。心とは、所行を映し出す鏡だ。なしたこと全てを、決して忘れることはない。面白いだろう。他の全てから追随を逃れようと、己の心からは絶対に逃げられないようになっている。それが浮世に生きる衆生の定めなのだ」  分かるか――と尋ねる泰山府君に、篁は言葉を返せずして、曖昧に頷くばかりだった。説明そのものよりも、それを紡ぐ泰山府君の熱こもる様子に、戸惑いを覚えたのである。 「閻魔王が、どうしてこのことを、貴殿に説明しそびれたのかは解せぬが、浄玻璃の鏡の不思議を解き明かすのに、それの何たるかを知らぬままというのは、あまりに頼りない。儂の一存で、少しばかり冥府のからくりについて篁殿、貴殿に打ち明けたというわけだ」 「は、はぁ――」 「観心――浄玻璃の鏡は心を映す。それを忘れるな。閻魔王が貴殿に全てを託したのは、ほんに正しいことであった。人の心が分かる貴殿ならば、浄玻璃の鏡が、あの女子の心を読まなんだ理由も分かるはず。我らには出せない答えを、きっと見つけ出せる」  儂からも、頼みましたぞ――。泰山府君はそう言って、最後に再び微笑んだ。  その表情が、意味深に紡がれた言葉が、篁の脳にいつまでもこびり付いて、離れようとしないのだった。冥府帰りの井戸を通っている時も、頭の中はそのことでいっぱいだった。浮世に舞い戻って、これから一仕事せねばならぬという時になっても、まだこうしていつまでもあれこれと考え続けている。秋空を眺める余裕もないくらいだ。  もし泰山府君の言うことが、此度の件に深い関わりを持っているのだとしたら――。  あの不思議は、二通りの意味に解釈できるだろうと、篁は読んでいる。 一つは、女が全くの善人で、己が生前に一点も、後ろめたい部分がなかったのだという場合だ。こちらが正しいとすれば、非があるのは来迎を忘れた極楽側の遣いである。  もう一つは――生前の所行がどうであれ、それを女が全く認知していないという場合。即ち女があまりにも厚顔無恥で、生前に仕出かした罪を罪と認めていない場合。笑い話のようだが、浄玻璃の鏡が心を見透かす道具である以上、有り得ない話ではない。どちらがあり得るかと問われれば、篁が手を上げるのは後者の可能性であった。  人というのは元来、強かな生き物だからな――。  苦笑する篁。その足が不意に止まり、顔の上に手を翳して、眩しそうに前方を眺め見た。足を止めずに歩き続けた甲斐あって、気付けば村外れの辻に来ていたのである。ここから一町も歩けば、小さな家の並ぶ山村に行き着く。足元には、祠に祭られた道祖。道祖神は賽の神とも呼ばれ、現世と幽世の狭間に立つ神である。その意味では篁は未だ、この世に舞い戻って来てはいないということになる。ここを越えて村に入り、やっと人世に身を埋めることになるのだ。そう考えると、やけに気が急いた。好いている場所ではないのに、冥府から帰ると、いつもこうなる。旅先から故郷に舞い戻る寸前の、心細さにも似ていた。帰郷を阻むものは何もないはずなのに不安になり、早く家に着きたいと思ってしまう。  あってないような村の入り口。そこから先に一歩踏み込むと、何となく空気が変わったように思う。瑞々しい山香に混じる、俗っぽい人の臭気。  秋初めの昼ということもあって、人の動きは活発だった。みすぼらしい山麓僻村のどこに、これほどの人間が隠されていたのだろうと呆れるくらい多くの人々が、通りを行き交いしては、言葉を投げかけている。朱雀大路を、そこを通る人の数はそのままにして、道幅だけを狭めたような――とにかく、初めて訪れた者の目には、驚きに映る騒々しさであった。  こいつは良い――と辺りを見回す篁。これほど人通りが多かったら、女のことについて情報を集めるのも容易い。人混みに紛れれば、村の者たちが余所者に対して抱く訝しさも薄れるはずである。  賑わいの中に身を埋めるようにして一町ほど歩き、自分に好奇の視線が行かなくなった頃合いを見計らって、擦れ違った一人の女に篁は声をかけた。垢じみた着物を纏い、頭に手拭を巻いた、あまり美しくない年増である。家は百姓らしく、手足にこびりついた泥を払おうともせず、背を曲げて歩いていた。そこを呼び止められて、女は物憂げに振り返り、篁の装いを胡散臭そうにじろじろと眺める。脂っこい視線が気味悪かった。あまり関わり合いになりたくない類の女だが、こうして声をかけたのは一重に口に注目したからである。 女の口は、鰐口のように大きかった。  暫しの沈黙の後、女は、何か――と言葉を返す。耳に不快に纏わり付く、濁声であった。 「御急ぎのところ誠に申し訳ないのだが、少しお尋ねしても宜しいか」  賤しい身なりの者に対しても、篁の物腰はさほど変わることはない。それが印象を良くしたのか、女は無骨な表情を幾らか和らげて、だから何か――と、再び問う。咳払い一つして、篁は息を吸った。何気なさを装った心算だったが、早まる鼓動は抑えられなかった。 「妙なことを訪ねる輩だと、そう思われるかも知れぬが大した意味はない。つい近頃――ここ十日ほどの間で、女……殊に、若い女子の死人が、村で出ませなんだか」 「……そんなことを聞いて、あんたいったい、どうする心算だい」  露骨に猜疑を含んだ眼差しを向けてくる女。それはそうだろうな――と篁は肩を竦めた。  答えに困るような問いではない。涼しい顔で、女の視線を真っ向から跳ね返してやる。 「恐ろしい顔をされるな。大した意味はないと申したはず。その人に用があるのは私ではなく、知り合いなのです。数年前、この辺りに遊びに来た時に一目惚れして言い交わした仲が一人いたそうで――。しかしここ数月ほど音沙汰がない。何か起こったのではないか、体のあまり丈夫そうでない人だから、事によると死んだのではないか……と無性に心配になり、飯も喉を通らぬ有様であった」  篁の説明を、女は黙って聞いていた。その目に淀む猜疑の色は、さして薄れてはいない。口を忙しく動かしながら篁は、逸る気を抑えるのに苦労した。あまりくだくだしく言葉を並べ過ぎて、弁解じみていてもいけないのだ。どこまでも何気ない風を装わねばならない。 「その男自身が赴くことができれば良かったのだが、商いの方にも、心を砕かねばならず、ここまで旅をするだけの暇がなかった。そこで彼と好を通じている私が、こうして赴いたというわけです。私は風来者で、幾度かこの辺りでも遊んでおりますから、まさに適役。妙なことを突然お尋ねしたが、こうした事情があるのです」 「変な役だね。でも、その知り合いとやらに、探す女の名を聞いてこなかったというのが、少々引っかかる。そんな大事なこと、忘れるかい」  疑り深い女だな――心中で悪態を吐きながらも、面には温厚そうな笑みを絶やさぬ篁。想定内の疑惑ではあったが、まさかこの無学な年増に、そこまで突っ込んで訊かれるとは思っていなかった。朴訥と見えて、意外に油断できないのが近頃の百姓である。 「もちろん聞いてはいるのですが――さっきから何人かにその名を出して訊いてみても、みな首を横に振るのです。そんな名前の女は村にはおらぬ――とね。そこで思い立った。その女、名を偽ってはおらぬかと。どうしてそのような真似に及んだかまでは、さすがに分かりませんが――」  女は片眉を上げて、ぎろりと目をひん剥いた。その瞳の中に、気だるそうな淀みが滲む。そろそろ、話に飽きが来ているな……。篁は内心鼻を鳴らしつつ、女に微笑みかけた。 「――というわけで、少しでもその人の手掛かりとなるようなものを掴もうと、あちこち歩き回っているのですよ。お分かりいただけたでしょう。私の知り合いを哀れと思って、お尋ねしたことに、答えていただけませんか」  女は暫し考えた後、虱塗れの頭をがりがりと掻き毟って、そうさね――と呟いた。 「事情は何となく分かったが、まだ変なところはあるし、面倒事は嫌いな性分だからね。それに、この村で起こっていること全てを知っているわけでもない。あたしなんかより、竹斎のところへ行くと良い。あの爺さんなら何でも知っているだろう」 「竹斎殿――ですか。して、その方はいったい」  醫だよ――。女は鼻で嗤うと踵を返し、そのままさっさと歩き去っていった。後には、聊か不満げな顔付きの篁が一人、突っ立っている。長く時間を割いたわりには、それほど益になるようなことが聞けなかった。物事は何でも初めが肝心である。初っ端の手応えが芳しくなくて、心は波風立っていた。  それから一辰刻ほど経った後のことである。何人かから話を聞いた篁は、それほど苦労することなく、竹斎の家を探し当てることができた。村で一人か二人しかいない醫ということで竹斎は重宝されているらしく、村人の殆どは、彼の名と居所を覚えていたのである。  村の外れにある小さな家の軒下で、竹斎は秋風に袖を戦がせて涼んでいた。村に少ない醫だという割には随分と暇そうである。家が野中の一軒家の如く、村の外れにぽつねんと佇んでいるので、その姿は十間手前からでも容易く見つけられた。  にこにこと優しそうな顔に白髭を蓄えた、福禄寿のような老翁である。皺顔に髭というと泰山府君を思い出すが、あの道神のような厳めしさはこの翁にはなかった。根っからの善人であるということが、表情だけで分かる。篁は胸を撫で下ろしながら近付いていった。彼ならば何を尋ねても、答えてくれるに相違ない。  事情を話して、先に女に問うたことをここでも尋ねると、竹斎は顔を綻ばせて、それはご苦労なことですな――と、篁を労う言葉をかけた。それから頭を擡げ、秋の碧空を仰ぐ。   口を開くと、顎に垂れた白髭も揺れた。穏やかだが、どこか寂しそうな物言いである。 「幸いにも、儂が貴殿の役に立てそうですな。こう見えても、儂も醫。村の中で病人だの死人だのが出れば、おっとり刀で駆けつけるのが儂の枠目。ええと、十日ほど前であろう。忘れられるものか。その日死んだ、女のことを」  さえ、と呼ばれていた――。変わらぬ寂しげな口調で、竹斎は空の青に呟きを溶かした。 「さえ――ですか」 「親は真砂と付けたのだが、気に入らなんだらしくてな。自分では、さえと名乗っていた。百姓の家に生まれたが、心と面立ちの清らな子だった。鳶が鷹を生むとはこのことだと、村でも評判じゃった。年頃になり、都で男に見染められた。二年ほど前のことじゃ。男は、京の侍じゃった。さえは男に連れられ京に上った。村を発つ時に儂も見送ったが、美しい姿をしていた。牟子を垂れて、萩重の衣を纏っておったな。月毛の馬に乗って、弓太刀を帯びた男に口を取らせて静々と去っていった。ちょうど十八になったばかりだった」 「……」  竹斎の声からは、何とも言えぬ哀愁が漂って来る。それだけで、さえという娘に竹斎が、どれほど思い入れていたかが分かった。きっと、さえを娘か何ぞのように可愛がっていたのだろう。しかし彼はこれから、可愛がっていた娘の不幸について語ろうとしているのだ。生半可な心痛ではない。ここは竹斎が喋るに任せ、余計な相槌を差し挟まぬ方が良かろう。  篁は竹斎の横顔を眺めて頷いた。軒下を潜る風は涼しく、長く腰を落ち着けていても、さして疲れは感じない。 「一年半の後、秋の終わりに、さえは、夫と共に一度、村へ戻ってくると便りを出した。貴殿も知っておられるだろうが、都からこの村へは大江山を越えねば来られぬ。そして……その大江山こそは、古来より鬼賊の棲む魔窟として、恐れ忌まれてきた場所であった」 「……」 「そんなところへ夜半に足を踏み入れたことこそ、愚かの極みだった。侍であった夫は、腕に自信があったのだろう。一人でなら行けたのかも知れぬが、さえを連れていては到底、無理な話だった。深泥池のたんのう丸という盗賊がいてな、奴に付け込まれてしまった。道連れを装った野盗に、夫は弓を奪われて木に縛り付けられ、さえは凌辱された」 「辱められ……たんのう丸とやらに命を奪われてしまったと、そういうことなのですか」  真相が分かりかけてくると待つことにじれったくなって、思わず口を開いてしまうのが、篁の悪い癖である。さえを慕っていた者とっては、恐ろしく残酷であろう問いかけだった。しかし竹斎は、さしたる痛痒も見せず首を振り、嘆息一つの後に、再び言葉を紡ぎ始める。 「鬼童丸や酒呑童子は、犯した後に女を喰う。だが、たんのう丸は一介の盗賊に過ぎぬ。奴の目当ては夫の持っていた武具であり、さえの体は、序でに味わったというだけだった。さえに一度、肉慾のありったけをぶつけた後は、二人をそのままにして、去っていった。 「殺しはしなかった――と」 「さえも夫も永らえた。尤も、それがさえにとって幸せだったかは、儂にも分からぬ」  次第に元気をなくしていく声を励まして、竹斎はその後のことを長々と話して聞かせた。 たんのう丸が去った後、さえは掠り傷だらけになった体を起こし、木に縛り付けられていた夫を助けた。それから夫の腕に縋り、芋虫のような鈍さでよろよろと、山を下りた。たんのう丸は馬まで奪って行ったから、村に戻るには歩いて行くしかなかったのである。 「あちこちから血を流して村に戻ってきた二人を見て、さえの親は吃驚仰天した。さえは産女のように、腰から下を血に染めていてな。母親は卒倒したそうだ。即座に儂が呼ばれ、儂は二人と母親の手当てをしながら、何があったのかと問うた。答えたのは夫の方だった。さえは村に至る辻の手前で意識を失っていたのだ。夫は沈鬱な声で、一部始終を語った。それを聞いた時の哀しみ、苦しみはいかほどであったろう。鉛をたっぷり飲みこんだかのように、胸がずんと重くなったのだ」 「……」 「後になってみれば、その時の心痛などは、取るに足らぬものであった。村に着いてから四日の後、さえは目覚めた。このまま一生、目が覚めずに、何も言わずに死んでしまうのではないかと、気が気でなかったから、さえが目を開いた時には儂も心からホッとした」  それなのに――。ここで竹斎は言葉を切って、唇を噛み締めた。ふっと訪れた沈黙に、それまでは、竹斎の鬢の辺りと空とを眺め比べていた篁は、思わず彼の横顔に視線を注ぐ。  竹斎の顔は、苦渋に歪んでいた。俯き加減の首を更に倒して、傍に座っている篁に顔を見られまいとしているかのようだが、その努力は無駄だった。篁には、竹斎の瞼が震えている様や、頬が張り詰めている様まで、ありありと見えていたのである。心痛のうちにも、今までは何とか言葉を紡いで来られた。しかし、ここで頂を削ってしまったらしかった。  これ以上、彼から聞き出すことは酷だろうか――。背中を震わせる老翁を見て、慮る篁。 しかし、篁が言葉をかけようとするより先に、竹斎はおもむろに顔を上げ、空を仰いだ。そして顎の白髭を戦慄かせ、もどかしいほどに掠れがちな、聞き取り辛い声で話を続ける。 「天命なんてものがあるのかは知らぬが、あるとしたらそれは、さえに対してどこまでも過酷なものだった。目が覚めたさえは、すっかり心を失くしていた。気が触れていたのだ。瞳に映ろう翳りは虚無のそれで、何らの光も宿らせることはない。三つ四つの子どもと、同じくらいの知恵しかなかった。いや言葉もろくに使えなんだことを思い返すと、もっと下――赤子ほどの、知恵しか持っていなかったのかも知れぬ」 「心が――失せた……。つまり、さえという娘の心の糸が、そこで絶えてしまったと」 「知り合いには気の毒な話だな」  知り合いに頼まれて遥々探し求めた娘の消息が、斯様な無惨なものであったということ、そして、それを京で待つ知り合いに伝えなければならないのだということの二つを思って、意気阻喪してしまったのだろう――。篁の呟きに籠った虚ろな響きを、竹斎はそのように解釈したらしい。同情に耳を塞がれているからか、その虚ろの深奥で確かに奔っていた、才智の閃きについては、ちっとも気付いていない様子であった。 「さえの心が壊れてしまった以上それまでのような暮らしはできぬ。夫は、さえを実家に押しつけると、逃げるように一人で村を後にした。さえを狂わす原因の片翼を担っておきながら、虫の良い奴だと、その男を憎まぬ者はなかった。その頃は、村の者たちはさえの味方だった。全てを失い、子どものように、何かに縋らなければ生きてゆけぬ娘を憐れみ、面倒を見てやった。だが、人の同情ほど早く薄れゆくものはない」 「……」 「一月二月……いつまで経っても子どものままのさえを、村の者たちは次第に疎むようになった。さえは、一人では何もできなかった。何かしてやったところで見返りが来るわけではなかった。益なしと知るや否や、人はさえのことを鬱陶しく思うようになり、救いの手を差し伸べなくなった。酷い話だろう。しかし、こんな僻村では、自身が生きることも大変なのだ。何といっても、さえが他人であることには間違いなかった。哀れだったのは、村人たちのみならず、唯一の救いであった親にさえ見離されようとしていたことだった」  竹斎の話は、まだまだ続きそうだ。もう知りたいことは聞き得ている。にも拘わらず、篁が腰を上げようとしないのは何故か――。不思議なことに、篁自身にも分からなかった。気付けば、竹斎の話に引き込まれている自分がいる。哀切に満ちた老翁の声が耳を震わす感触に、心を傾けている自分がいる。何とも奇妙で――そして、危険な感覚だと悟った。 「愛娘が京に貰われていくこととて、親にとっては嬉しい半面、寂しいことであったのに、その娘が盗賊のため心を殺され、二度と帰らなくなったというのだから、絶望のどん底に沈んで当然のことであった。その歎きは次第に、醜く捻じ曲がった思いに姿を変えてゆく。堪え切れない失意にぶち当たった時、人は己が正気を保つために敢えて心を卑屈に歪めることがある。そうすることで辛い現から逃げ、胸を貫く悲痛を少しでも和らげたいのだ」  貴殿には、分かるだろうか――。そう尋ねかける竹斎に、篁は曖昧な首の振り方をした。  閻魔王たちとの付き合いを通して、人の持つ矮小な部分を嫌というほど知ってきたから。  時にはそのせいで、自分が人であることを疎ましく思った。だから竹斎の言うことは、改めて説明されるまでもなく、重々に分かっているはずだった。ただ、その分かっていることを受け止める心持が、今までと全く違っていることに、迷いを隠し切れなかった。  人の弱さを見知る時、大抵は苦々しい気持ちが先にあった。これが人間の性か――と、厭世の念に埋もれること甚だしかった。しかし、今は違う。今は何故だか酷く寂しくて、やるせなかった。自然と顔が曇った。 「さえの両親が、悲嘆から怨憎へと心を変えたのは、三月ほどを経た後であった。この頃、さえを襲った凶事の極みが、むっくりと頭を擡げたのだ。たんのう丸に凌辱されて、奴の子を宿していた。元々ほっそりとした女だったから、腹が膨れるのも早かったのだ」 「それは……」  言葉を失う篁を余所に、竹斎は静々と言葉を紡ぐ。胸に蟠る悲しみを乗り越えたのか、喉を詰まらせることもなければ、歯噛みもしなかった。至って穏やかな物言いで、淡々とした声で、まるで昔話でも物語るかのようにして、耳に堪えぬ残酷な言葉を紡いでゆく。 「心が砕かれただけでなく、体まで弱っていた。産の苦しみに耐えられるはずがなかった。辛くも助かった命だが、十月が過ぎればあえなく消えゆく。そうと分かった途端、両親の心はついに、逃げることを選んだのだ。さえを厄介な荷物だと感じ始めた。憎くて憎くて仕方ない邪魔者がいなくなるのだと思うように心を無理やり捻じ曲げた。全力で、さえを憎もうとした。疎もうとした。そして一月ほどの後には、その心が真に摩り替った」 「事情はどうあれ、自分の娘を憎む……。そのようなことが――在り得るのでしょうか」  呟いた後すぐに、愚問であったと自らを恥じた。人の心の情けなさならば恐らく、この老翁よりも遥かに通じているはずなのだ。竹斎も、聊か苛立った表情を見せていた。 「貴殿に戯れを語る必要など、どこにある。真のことだ。両親は、さえを心から憎んで、疎ましがるようになった。それからの数月は、さえにとっても両親にとっても地獄の日々だった。折檻の生傷が絶えず、一時は儂が無理を言って、さえを預かったくらいだった」  そして十日前、とうとう死んだ――。竹斎は最後の一声を絞り出し、眉間に皺を寄せた。 「産の苦しみによってではない。村外れの池で溺れ死んでいた。姿が見えなくなってから、三日の後に、ようやく見つかったのだ。亡骸は一応両親によって引き取られたが、一切の菩提を弔わず、すぐさま山へ棄てに行った。少しでも哀れと思えば、せっかく殺してきた悲しみが舞い戻り、今度こそ耐えられなくなると知っていたのだ」  貴殿の知己には返す返すも、御気の毒なことじゃ――。そう結んで、竹斎は嘆息した。 一息の間を置いて、篁は躊躇いがちに口を開く。涼風が吹き、二人を微かに揺らした。いつからだろう。篁の目は空ばかり眺めいて、竹斎の顔を見ようとはしないのである。 「村外れの、池に溺れて……」 「その頃のさえは、分別のない子どもだった。何の考えも持たず、ふらふらと遊びに出て、そのまま溺れたのかも知れぬ。悪党にかどわかされたかも知れぬ。或いは……さえの心が、壊れ切ってはいなかったのではとも考えた。さえの心が崩れたのも、辛い現を受け止められなかったが故の、逃避ではなかったかと思ったからだ。分別がすっかり失せたわけではなくて、ふとした時に、昔の心が戻っていたのかも知れぬ。あの日も、さえは昔に戻っていたのかも知れぬ。そして孤独な境遇と苛烈な仕打ちに堪えかね、自ら命を断ったのかも知れぬ。引き上げられた時、さえの躯が薄ら微笑んでおったのを見た」  それは違う――。  篁は心の中で、そう呟いた。亡き人を偲ぶ感傷に竹斎は浸り過ぎている。篁もどういうわけだか、胸の中に暗い気持ちを抱いて入るが、竹斎ほどそれに目を塞がれてはいない。さえの心は終ぞ戻らなかったのだ。理由はあまりに単純である。死ぬ間際のさえの中に、少しでも心が生きていたなら、浄玻璃の鏡が、あんな不具合を起こすことはなかったろう。  むろん篁には、そのことを竹斎に打ち明けて、彼の間違いを正す心算はなかった。今の彼に打ち明けるには、あまりに辛い事実であった。言ったところで、首を傾げられるだけなのは、分かり切っている。  知っても苦しいし、知らなくても苦しい。ただ全てが明るみに出ぬうちは、救いがある。  篁は息を吐き、傍らから聞こえてくる竹斎の、疲れが滲んだ皺枯れ声に耳を傾けた。 「今じゃあ、さえのことを偲ぶ者はおらぬ。親は今でも頑なに、娘のことを憎んでいよう。悲しみが癒えるまでに何年もかかる。その間ずっと、現から目を背け続けなければならぬ。その気持ちは儂にも分かる。重々分かっているのだ……。だが儂はやはり、居た堪れない気持ちを抑えることができなかった。誰にも顧みられず、ただ疎ましい思い出として忘れ去れようとしているさえが、不憫でならなかったのだ。故に、儂は村外れに移り住んだ。孤独のままに冥府へ旅立った哀れなさえのことを、せめては儂一人だけでも思い返して、懐かしんで、来世の幸せを願ってやろうと、そう思ったのだ」  冥府のさえに気持ちが届けばな――。冗談めかしたこの言葉が、彼の最も切実な願いであるように、篁には思えた。背後の家の中を潜り抜けた風に、仄かに線香の匂いがした。
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