地獄裁判

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六  碧空に赤みが差し、風に夜の気配が滲みだす黄昏の頃。篁は突然、漂泊の思いに駆られ、都の中を一人あてもなく彷徨った。季は、残暑も漸く過ぎていった秋半ばである。  茜色に染まる都の小路に、人影は少ない。世俗では黄昏を逢魔時と言って、小児を外に出すことを戒む。現世と幽世の狭間がなくなるこの時頃に平気で出歩くのは、篁のような人外の世界に慣れた者くらいだ。日に背を向けている顔は、真黒な影に塗り潰されており、すれ違う者の目には見えない。足元から伸びる本物の影法師は、大入道か何ぞのように、のっぺりと平べったい輪郭あでる。宙と地面の狭間も、この時分は曖昧になるのだろうか。影を足元に写した影法師が、都を歩いている。  目的もなく都を這いまわる足は、いつしか珍皇寺の方へと進んでいた。そこにあるのは冥府通いの井戸――今宵は遣いの獄卒が来ていないので、閻魔王宮まで赴く必要はない。それなのに自然と珍皇寺に足が向くのは、そこに心残りなものがあるからに他ならぬ。  あの一件から、随分と月日が流れたものだな――己の足が、珍皇寺に向いていることに気付いた時、篁は苦笑いと溜息交じりに、そんな呟きを漏らした。  真砂――さえの珍事から、早くも五年が経っていた。多くの出来事は、時の流れが解決してくれるものである。だが、この一件だけは篁の心の中に、しこりのようにいつまでも残り続けていて、まったく消える素振りを見せない。その理由――何故その一件ばかり、執拗に何度も思い返されるのか。既に分かっていた。  顛末が判然としないのだ。さえがどうなったか、彼は知らないでいるのである。  ちょうど五年前のあの日、篁は事の次第を閻魔王に報告し、加えて一言物申した。篁の言い分には一応は傾聴したものの、閻魔王は、その言い分の中に不要な情けを認めたため、随えぬとハッキリ言い渡した。篁はその後、何も言うことができず閻魔王宮を後にした。  あれほど辛辣な非難をされたのだ。篁の意見など、顧みられていないかも知れなかった。その一方で篁は、あの時閻魔王の瞳に確かに浮かんでいた哀切の色に、未練染みた希望を捨てきれないでいた。あれは閻魔王自身が危険だと言って憚らなかった情そのものだった。篁の思いを私情だと切り捨てておきながら、自分の中にも同じ思いがあることに気付いて、閻魔王は恐らく愕然としたはずである。それが裁決に、どう響いたのか――一縷の期待をかけるとするならば、その場所は、ここを置いて他になかった。  まあ尤も、期待したところで結末を聞く機会など、きっと来やしないのだろうが――。  苦々しげにそう呟くと、篁は目を閉じて頭を垂れ、深く息を吐く。一寸の間を置いて、次に顔を上げた時には、最前までとはまるで違って、すっかり気抜けした情けない表情が浮かんでいた。さえの一件について考えることを、ぴったり止めてしまったらしい。  どれほど考えても、結局そこに行き着くのだ。さえの身を幾ら案じたところで、篁には知る術がない。あの一件は、既に片の付いた過去のものだ。人世の一日で、何千人という亡者を相手にするのが、閻魔王の仕事。さえのことなど、とうに忘れているに相違ない。  閻魔王は、あの一件の後も、篁を幾度となく呼び出して知恵を借りている。その要件はいずれも、さえのこととは全く何の関係もない椿事への助け舟であった。あれから五年も経って、未だ打ち明けてくれないのだから、これから先も話してくれるとは到底思えない。閻魔王が教えないというならば、篁はそれに従う他ないのである。閻魔王の意志に反して詮索しようとすれば、それは定命の者が彼岸の理を必要以上に知ろうとする行為に繋がり、何かしらの咎めを受けることになる。「野狂」篁も、そこまで向こう見ずではなかった。  考えても無駄なことならば、考えぬが良い――。そういう結論に落ち着いて、篁は首を横に振る。毎度毎度、そう思って終わるのに、気付けばまた、ふとした瞬間に思い返してしまう。心というものは、思い通りに行かぬものだ。諦め切れていないのが恨めしかった。  幾つかの通りを曲った先を、百歩も歩けば珍皇寺手前、死の六道辻だ。ここまで来ると、人影どころか、あらゆる命の気配がなくなる。都からは既に外れ、眼前に広がるは鳥辺野――京の葬送地である。黄昏を過ぎてから、このような場所に足を踏み入れるなど、いよいよ以て人外の者のなす業である。篁は臆することなく、六道辻へ向けて一歩を踏み出す。  その時であった。篁は不意に、背後を誰かが横切る気配を感じた。  振り返る。目向く先は、辛うじてまだ家々の並ぶ寂しげな小路。逢魔時とは言え、人の暮らす場所。帰るのが遅くなった商人なり、旅から戻った夫なりが出歩いていたとしても、気に咎めることではない。にも拘わらず振り返ったのは、背後を通り過ぎて行った誰かの視線を感じたからであり、またその視線が、随分と下の方から届いてくると感じたからであった。犬や猫にしては大き過ぎるし、大人では小さ過ぎる。子どもだとすれば、それは人の子であろうか。小児を外に出すことを戒める黄昏である。殊に今日の夕暮れは赤々として美しく、何とも言えず妖しい。稚い子どもを一人で出歩かせて良い暮れ模様ではない。  胸騒ぎに急かされるようにして、背後の暗がりに目を光らす篁。沈みかけた半円の夕陽、その眩さに目を細めながら、舐めるようにじっくり見てゆくと、右側の家の軒下に隠れるようにして、こちらを窺っている小さな影が目に入った。訝しんだ通り、子どもらしい。  なおも目を凝らすと、その子が童髪の女の子であるということも、次第に分かってくる。瞳の大きな、愛らしい顔立ちで、黄昏の日を浴びて輝く、熟れた両頬がいじらしかった。着物はあまり上等とは言えないが、粗末とも見えない。極貧の子ではないだろう。むろん貴族の家の子であるはずもない。平平凡凡とした町家の子どもだろう。手足がふっくらとしているところをみると、喰うものには困っていないらしい。  聊か小首を傾げた様子で、その子も篁の顔を見つめていた。逆光のせいなのだろうか。何を考えているのかも、何を思ってそこに突っ立っているのかも、その表情から読み取ることはできなかった。溌剌とした可愛らしい顔立ちとは真逆に、顔色は静々としていて、妙に大人びた印象を与える。深々更けゆく秋の夜風の侘しさと、響き合う佇まいであった。  知らない顔である。こんなところに知り合いはいない。だが、どうしたことであろうか。篁にはその子の風貌が、湛えている雰囲気が、どこか懐かしいものであるように思われてならなかった。殊に眼差しには、はっきりとした覚えがあった。真珠のように濡れた瞳の様子は、逆光が眩い中でも不思議と目に付いた。表情と同じ、子どもとは思えぬ物静かな色をしている。あまりにも無垢で淀みがない。じっと見つめていると、深淵の如き翳りの中に、呑みこまれていきそうな、そんな薄ら寒ささえ覚えるほどだった。  その目は――その目が湛える虚無は、もしや……。  目を見開き、何か言葉を紡ごうとする篁。が、それよりも先に遠くの方から、人を呼ぶ声が響いてきた。そして、二度、三度と秋の夜風を騒がすその声が、篁の耳にはすっかり耳慣れてしまった、とある思い出深い女の名を呼んでいるように聞こえたのである。  視線が途切れた。眼前に突っ立っていた子どもが瞬きしたのだ。再び開かれた目から、虚無の色は綺麗に掻き消えていた。後に残るのは年相応の朴訥で、あどけない輝き――。  童女は踵を返して、篁に背を向けた。そして何も言わず、一目散に走ってゆく。裸足がひたひたと地面を滑る音が、乾いた風に乗って篁の耳に気忙しく響いた。  一人ぽつねんと残された篁は、どうとも形容し難い、曖昧な表情で、子どもの消えた方――そしてその奥、最後の光芒を投げかけながら、地の向こうに溶け込んでゆく、夕日を無言で見つめていた。長年温め続けていた未練が、こうも容易く瓦解してしまったことにすっかり気が抜けて、喜びも悲しみも湧いてこない様子である。時折、眉間に苦々しげな皺を寄せているのは、頭の片隅に、閻魔王の得意そうな顔でも思い描いているのだろうか。  淡光の中に佇む篁。彼の纏う服の裾を柔らかく捲り上げ、風は珍皇寺――彼岸の方へと駆けてゆく。幽世と現世の狭間を跨いで立つ一人の影法師は、涼しい風に陽炎の如く体を揺らし、いつまでも、いつまでも、さえの走っていった此岸の方を見つめていた。鈴虫の声が周りから響いてきて、全てを包み込む。優しい唄に合わせて、空には星が瞬き始めた。 (了)
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