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世界は自分を中心に動いている
(三)水田先生
精神病ということで、どうしても忘れられないのが水田先生のことである。この教師とは新任校で知り合った。何でも、一年前に統合失調症を発症し、長い間入院していた。同じ社会科の教師であったが、自分が病気であるという自覚はなかった。
一年前、授業中に様子がおかしくなり、病院へ運ばれた。
病院へ行く前になぜか職員室から出ようとしなかったので、社会科の教師達が居残って様子を見ていたらしい。
「らしい」と言ったのは、この頃には私はまだ教師になっていなかった。先生にどんな幻覚や妄想があるのか分からなかったが、何でも誰と話をするわけでもなく、急に暴れ始めたので、教頭や校長が無理矢理病院へ入れたそうである。
そして私が新任でやってきた頃に退院して教鞭を取り始めた。専門は世界史であったが、倫理に関して詳しく、その辺の大学教授くらいの知識は持っており、哲学書や宗教書をよく読んでいた。
どうも、ある不登校の生徒との関係がこじれて病気になってしまったらしいが、詳しいことは誰に聞いても教えてくれなかった。
この先生は真面目を絵に描いたような人であった。筋骨隆々としているが、眼鏡を架けていて、その奥から覗かせる瞳はいかにも精神疾患を患っていそうな神経質な目であった。
また、この先生は菜食主義を貫いており、動物に危害を加えることを極端に嫌っていた。
正にお釈迦様のような方であった。
水田先生とは、この期間はあまり話すことがなかった。しかし自分のクラスで掃除のやり直しを校長から命じられたことがあった。
校長は大の組合嫌いであり、掃除をせずに違法ストに参加した私が許せず、掃除のやり直しを命じられた時に、総務部であった水田先生が教室まで見に来たのである。
私がクラスのみんなに掃除のやり直しを命じると、クラスの連中からブーイングが起こった。
「なんでよ? 昨日きちんと掃除したよ」
活発な女子生徒が言った。
「学校の命令やから仕方ないんや」
そう私が答えると、みんなは嫌々掃除に取りかかった。その時である。水田先生が箒を持って教室に現れた。
「掃除できてないじゃろうが?」
故郷の広島弁丸出しで言った。
「私らきちんと掃除したのに」
先程の女生徒が憤懣やるかたないという感じで答えた。すると水田先生は、壊れた本棚を手に取って言った。
「これは何や? これで掃除ができたと言えるのか?」
そう言って壊れかけた本棚をバンバンと叩いて直していった。
先程の女生徒が「何よ? こんなことまでせんといかんの?」と言ったので、水田先生は「田岡! 何言うんじゃ?」と怒鳴った。
このことがあって、私は同じ大学出身の西尾先生に相談した。西尾先生は言った。
「水田先生は真面目やから少しでもゴミが落ちていると我慢できへんのや」
*
それから一年が経った。また水田先生の病気が再発したのである。
私ともう一人の国語科の若い先生が職員室に残っていた。なぜか水田先生もいた。校長や教頭もいた。そして校長命令で私も含め若い教師に「早く帰るように」という指示が出た。
私は水田先生に「鍵締めておきますね」と言ったが、水田先生はただ両手を上下に動かして口をモグモグさせるでけで何も答えなかった。
翌日、校長に付き添われて水田先生は再入院になった。
*
その後、私は三年生を持っている時に鬱病になった。そして4月に復帰すると同時に水田先生も戻ってきた。
社会科の新年度最初の飲み会が行われた。そこに水田先生もいたので、私は声をかけた。
「実は僕も一年近く鬱病で休んでいたのです」
「そうやったんですか。知らなかった」
それから水田先生とのお付き合いが始まった。
私の新任校は校則がやたらと厳しかった。例えば、教師がチャイムとともに校門を閉めて遅刻者は正座をさせていた。この正座について「体罰」だと騒ぐ教師がいたので、正座はなくなったが、遅刻者は別室に入れて一時間目を受けさせなかった。
また、自転車の並進は自転車を取り上げていた。
水田先生はこの校則にどうも不満があるようであった。
私は正座にも自転車の取り上げにも賛成していた。
よく「この学校は私には合わない」という教師がいるが、そうではなくて「自分を学校に合わせるのだ」と教育実習の時に担当教師より言われていたからだ。
しかし水田先生は自分の考えを押し通した。
ある日のことである。私と水田先生ともう一人の女教師が校門での遅刻指導にあたっていた。
チャイムが鳴った。私は校門を閉めた。その間にギリギリで校門に駆け込んできた男子生徒がいた。普通なら遅刻扱いである。しかし、水田先生がこの生徒を通してしまったのだ。
「いいから行きなさい」そう言って私と女教師を尻目に生徒を易々と通してしまった。そして水田先生は言った。
「どうしてこんな馬鹿なことをしなくちゃいけないんじゃ!」
後でなぜか私が生徒指導部の通学係の教師から叱られた。
「三人もいて何してたんや? 生徒が何人か滑り込んだそうやないか? 教頭はん弱っていたで」
通学係の教師が言った。
「いや、でも水田先生が---」
その後、水田先生と通学係の教師との間で論争が繰り広げられた。
「水田先生、どうして生徒を通したのですか?」
「その前にあなたはどうしてこんな係をやっているのですか?」
「そりゃ、仕事だからです」
「こんな仕事をしていて、あなたは矛盾を感じないのですか? あなたが高校生時代にもこんなに校則が厳しかったですか?」
「いや、これほどではなかったと思いますが、この学校にいるからこの学校の規則に従うのは当たり前でしょう?」
「それは学校が間違っているのじゃ」
「じゃあ、先生は何のためにこの学校に雇われたのですか? 何のために給料を貰っているのですか?」
そう言ったかと思いきや、水田先生は教頭の方へツカツカと歩いて行った。
「教頭先生はどうしてこんな校則を守らせているのですか?」
唐突に尋ねられた教頭は一瞬ドギマギしながら答えた。
「この学校にはこの学校の校則があるのです。それを守らせるのは教師の勤めじゃないですか?」
水田先生は憤懣やるかたないと言った表情で職員室を出て行った。
この水田先生は必ず自分で弁当をこしらえてきて食べていた。また、運転免許を持ってなかったので、学校の近くの下宿から自転車で通勤していた。この自転車についても厳しい校則があった。すなわち、自転車の並進は通学許可証を取り上げて自転車をチェーンで括り付けていたのである。
*
そんな折、近隣校で事件が起こった。遅刻しそうになった女生徒が、先生が閉めた校門に頭を挟まれて死亡するという事件であった。「校門圧死事件」として全国的な話題になった。
すぐに臨時の職員会議が開かれた。そこで水田先生は発言をした。
「私は生徒を圧死させて刑務所へ行くのは嫌です。もしも同じような事件があったら校長先生が代わりに刑務所へ行ってくれるのですか?」
至極真っ当な意見だと私は思ったが、校長の反応は違っていた。
「校門指導は引き続き行います」
「ちょっと待って下さいよ。じゃあ、同じような事件が起こったら誰が刑務所へ行くのですか?」
一呼吸おいて校長が言った。
「水田君、退場してもらいます」
水田先生は納得がいかなかったようである。
「どうして退場なんですか?」
「校長命令や。退場!」
こうして一旦は会議室を出た水田先生であったが、暫くするとまた舞い戻ってきた。
「君、退場と言ったはずですよ」
「何が退場だ! 馬鹿野郎!」
こうして校門に関してはこの学校は閉めることに決まった。
私は、この教師と考えは違っていたが、仲は良かった。下宿へ遊びに行ったこともある。
下宿へ行くと、水田先生は翌日のお弁当を作っていた。そして言った。
「この学校の先生は可哀想や。弁当の一つも作ってくれずに食堂の弁当を食べている」
実際に当時は独身であった私も食堂の弁当を食べていた。
その後、水田先生は一枚のレコードを持って来た。どうも宗教色のするようなレコードであった。
「このレコード聞いてみるか?」
「はい」
水田先生はレコードを置いて針を乗せた。間もなく、男の声が聞こえてきた。そしてレコードの男は言った。
「治った、治った、治った!」
おもむろに水田先生は言った。
「病気でもないのに『治った』なんて変だよね」
そう、精神病の水田先生には病覚がなかったのだ。ここが神経症との大きな違いである。
ところで、この水田先生は「地球は自分を中心に回っている」と考えていたのだろうか?
これは一面では事実であり、また一面では事実に反していた。
水田先生は環境問題なんかに興味があり、自転車の並進なんかは環境問題から考えると取るに足らないことだと考えていたのだ。大多数の教師が自家用車で通勤してくるので、自転車通勤の水田先生に取っては当然と言えば当然の結論であった。
しかし、自転車の並進は明らかに道路交通法違反なのである。しかし水田先生は「法律が何だ!」と言い放っていた。時々自分も自転車で帰るので、わざと生徒の自転車と並進していたようである。
ここで私が考えていたことは「学校が自分に合わないではなくて、自分を学校に合わせる」ということであった。高い給料を貰っているのだからそれが当然であろう。
水田先生は様々な職を転々として後、教員試験を受けたら一番で通ったらしい。面接も麦藁帽子を被って行ってである。
こんな教師は聞いたことがなかった。
そしてある日のことである。国語の年輩の教師で自我肥大化症候群という言葉がそのまま通用するような、常に威張っていて嫌な教師がいたが、この教師と水田先生は喧嘩になった。喧嘩の理由は定かではなかったが、その中でこの国語教師が「き○がいは黙っとけ」と言い放ったそうである。その上、水田先生を叩くという暴挙に出た。
たまたまこの時に居合わせた養護教諭が水田先生を止めに入った。そしてそれが水田先生の怒りの火に油を注ぐ結果となった。
「○○先生(養護教諭の名)、昨日喧嘩の仲裁に入って俺を止めたでしょう? どうして内田先生も一緒に止めなかったのですか? 彼はき○がいは黙っとけなんて言って、その上に暴力をふるったのですよ。あんたのような人を『犬』って言うんだ!」
この後、水田先生は職員室の私の机上へよく来るようになった。そして私のこれからの教師生活を暗示するかのようなことを言った。
先生は突然私の机までやってきて、机に指で文字を書いた。
「私ねえ、こう思っているのですよ」そう言って書いた言葉が「この世は地獄」であった。水田先生独特のペシミズムである。
また、ある日やってきてこう書いた。
「私これなんですよ」そうして書いた言葉が「西日本一の駄目男」であった。
*
やがて年が改まった。ここで水田先生は学校を辞める決意をする。
事の次第は次のようなものである。
年が改まって、私は教務部、水田先生は進路指導部に配属された。
しかし、進路指導部長が突然学校を辞めてしまったのである。かなりの重責が水田先生の肩にかかるようになってしまった。
「ああ、しんどい。皿洗いしていた頃の方が楽やった」と言いながら水田先生は働いていた。そんなころに進路指導部長が去ってしまったのである。
水田先生は辞める決意を固めた。
私は大きなショックを受けた。同病の人間がいなくなってしまう。それに尊敬していた水田先生がいなくなる。
そう思って何度も水田先生に辞表を出さないように懇願した。しかし水田先生の意志は固かったようである。
そして5月に水田先生は辞表を出した。
こうして水田先生は去っていった---かと思いきやこれは大変な事態が起こる前兆に過ぎなかった。
水田先生が職員室で別れの挨拶をすることになった。しかしなぜか水田先生は前言を撤回したのである。
「私、辞めるつもりでいましたが、考えが変わりました。久田先生(進路指導部長)の辞表と私の辞表を撤回します」
しかし、時既に遅し。両先生の辞表は既に教育委員会へ渡っていたのだ。
その後、月に一回のペースで水田先生は職員室へ顔を出した。先生の机上には「講師席」と書かれていた。
校長が言った。
「あんた関係ないのに何しにきたんや? 今度来たら警察を呼ぶぞ」
それにしてもこんな言い方しなくてもいいのに。と私は思った。それから、私も色んな学校で辞めさせられかけたが、この教訓から何度も思いとどまったのである。
「みんな敵だ!」水田先生は叫んだ。それから意味不明なことを絶叫し始めた。
「キリストがあんな死に方をするから悪いんだ!」
校長も黙っていない。
「あんたの席なんかもうないで。早く帰れ」
水田先生はもう一度絶叫した。
「みんなみてくれ!『講師席』なんて書いて追い出そうとするんや! これが学校のやり方なんや!」
こんなことが数ヶ月続いた後、水田先生は学校を去っていった。
*
それから数年経って、私は水田先生の故郷である広島へ何度か赴いた。
もう水田先生は落ち着いていた。そして言った。
「絶対に辞めたら駄目やで、絶対に」
私は水田先生に関しては「自分勝手」とか「地球は自分を中心に動いている」なんて言いたくはない。先生は先生なりに造り上げてきた教育観があったからだ。それがたまたま赴任した学校と合わなかったのだ。
勿論、「自分が学校に合わないのではなく、自分を学校に合わせる」という考えもある。しかし水田先生が何か間違ったことを言っているのではないと今でも思っている。
(四)佐山真介と網田美優
私が彼と知り合ったのは西明石の空手道場であった。まだ時代は昭和であり、国鉄が民営化される以前のことである。年齢は私よりも二歳下であり、仕事はしていなかった。毎日毎日バイクに乗って遊び回っていた。
彼の症状は不安神経症、今で言うところのパニック障害である。彼は大阪にある工業系の大学へ通っていたが、ある日突然電車に乗っていて不安を感じ、大阪へ行く途中の三宮で電車を降車し、それ以来発作が起きるのが怖くて電車に乗れなくなってしまったのだ。そして家から一歩も出ない日が続き、先ずは家から出ることを始めて、回復してくるとバイクで出歩くようにまでなっていった。しかし電車には乗れなかった。
その彼がなぜ空手を始めようと思ったのかは不明である。
空手道場は本部を加古川に持ち、その支部として西明石に道場を設けていた。加古川とは別の先生がいて、旧国鉄の職員であった。道場生は十人くらいいたと思う。
私は先輩の紹介で、佐山よりは数ヶ月遅れて道場に入門した。私は大学時代に古武道部に入っており、その古武道部の先輩が行っていた道場だったので、入門を決めた。
古武道部時代にも剛柔流の空手をやっていたので、直ぐに三級をとった。そして昇級試験は必ず受けて、やがて初段になった。
一方の彼は、休むこともなく道場に通い詰めていたが、段は取らなかった。実力は私とやや同等だった。
やがて彼はバイクに乗って私の住んでいた教員住宅によく遊びに来るようになった。
当時の私は加古川で三位の進学校に勤めており、全てが順調であった。所謂「ワル」の生徒もいないし、気持ち良く教えることができた。そして部活動は合気道部を持ち、忙しくも充実した教師生活を送っていたのだ。
彼は大体空手が終わってから夜の十時頃に遊びに来て、十二時に帰っていく。正直に言って、「いい迷惑」であった。世の中にはこちらの都合も考えず、自分のペースで行動する人間もいるが、彼はそんな人間であった。
ただ、彼と全く話が合わなかったのかというと、そうでもなく、クラシック音楽のファンであり、私もかつて音大を目指していたくらい音楽には詳しかったので、よくその話をした。空手と音楽が彼と私を結びつけていたのであった。
「しかし、いい年をしてなぜ仕事をしないのであろうか?神経症というが、一体どこが悪いのだろうか?」
それはしばらく謎であった。
そんなある日、道場に高校生がやってくるようになった。商業高校の生徒が二人と、神戸市内の私学の生徒が一人やってきた。神戸市内の私学の生徒は空手部の主将であり、身長は高くはないが、かなり強かった。
そして私のアパートへやってきてはわいわいガヤガヤすることが多くなってきた。
私自身も高校の教員だったので、高校生に対しては何とも思ってなかったのだが、この佐山に対しては不満がはち切れんばかりにあった。
教員の仕事というのは、学校だけではないのである。自宅でも教材研究なんかを行わなければいけない。それが分かってか、分からなかったのか、こういう風に毎日やってこられたのではこちらのプライベートな時間もなくなるし、翌日にも差し支える。それが子供ならまだしも、大人の年齢に達している佐山には分からなかったようであった。
「切れて」みようかなと思ったこともあったが、そんなことで友人関係が崩れるのは嫌だ。我慢した。
まだ私が彼らと同じ神経症を発する以前のことであった。
*
そうこうするうちに空手道場が大変なことになった。道場を貸していた隣の住人の興信所の社長が破産して夜逃げをしてしまったのである。
道場は差し押さえられた。
怒り心頭になったのは空手の先生であった。
「宮内のおっさん、どこ行ったんや? 見つけたら半殺しや」
そしておっさんは見つからなかった。
それに輪をかけるように起こったのが国鉄の民営化であった。時は中曽根内閣の時代であり、国鉄・電電公社・専売公社が次々と民営化され、多くの従業員のリストラが行われ、また自分から辞めていく人も多くいた。空手の先生も国鉄マンだったが、自分から辞めてホンダの店で働くことになった。アパートも国鉄の官舎を出て、神戸市西区に新しい家を見つけて奥さんとお子さんを連れて移住した。そして西区役所で再び空手を始めた。
私は相変わらず高校で世界史を教えていた。そして三年目にしてようやく担任を持つことになった。一年生の担任である。しかし、それと同時に私はあるカルト教団に入信した。後に白装束で有名になる電磁波集団である。
私がなぜこの教団に入ったかというと、田舎の本屋で著者の著した本をたまたま見つけたという他愛もないことがきっかけであった。
その本にはモーセやイエス=キリストの起こした「奇跡」の種明かしや極端な反共主義・そして動物愛護のことが書かれていた。
そして私はウルトラ右翼の教師として有名になってしまった。当時の授業で私が何を教えていたかというと、次のような内容であった。
「南京大虐殺の大ウソ」---「皆さん。日本軍は南京で二十万人殺したなどと言われていますが、一日で二十万人も殺すのは原爆でも使わない限り不可能です。また、当時の南京の人口は二十万人です。え? 皆殺しにしたの? まさかー?」
「ソ連の良心の囚人達」---ソ連にはアメリカの放送を聴いたとか、デモを企んだとか、そんな理由で多くの人がシベリア送りになっております。トマホーク反対を叫ぶ馬鹿者どもよ! なぜソ連へ行って原爆反対といわないのでしょうか?」
「君が代は平和の歌。外国の国歌こそ戦争の歌」---「天皇は日本国の象徴です。これが永遠であるようにと歌って何がおかしいのですか? 象徴とは、例えばアメリカで言えば星条旗です。アメリカの国歌は『星条旗よ永遠に』ですね。一緒じゃないですか? それに外国の歌は皆戦争を賛美していますよ。君が代のどこに戦争賛美が出てくるというのでしょうか?」
他にも太平洋戦争をルーズベルトが仕掛けたとする「ルーズベルトの謀略」も人気があった。「売国新聞、日本のプラウダ朝日新聞」をやって実際に朝日新聞から産経新聞に乗り換えたという生徒もいたらしい。
「エチオピアの飢餓救済キャンペーンに騙されるな」では、当時クイーンが歌っていた「We are the world.」で集めたお金は皆ソ連からの武器購入のお金に回ると言って、実際に募金活動を行っていた生徒会からバッシングを受けた。
「君達は真っ赤っ赤の日教組の先生によって洗脳されてきたんだ」
と言って逆洗脳をかけたのだ。そして逆洗脳は見事に効を奏し、多くのウルトラ右翼の生徒が誕生した。
そして、私の授業の噂は瞬く間に管理職や組合系の教師、そして親達の知るところとなった。
先ずは親が怒鳴り込んで来た。
「あの偏向教育やっている先生を出せ!」
「いや、あの先生はうちでも手を焼いているのです」
そして校長の呼び出し。
「先生困ります。もっと中立的な立場で授業してもらわないと」
しかし私は---幸福であった。
「ヨブのような忍耐をもって迫害者やアカどもに立ち向かいなさい」がその宗教の教えであったからだ。
また、思想がなっていない生徒の答案には答が合っていても0点をつけた。これが問題にならない分けがない。
親が怒鳴り込んで来る。
「校長先生、あの右翼の大村という先生を呼んで下さい。うちの子の答案がなぜ0点なのですか?」
私は校長室へ呼ばれた。校長と眼鏡を架けた母親がいる。
私は校長室へ入るなり言った。
「ほほう。これがアカの親御さんですか? さすがに思想が狂ってるだけあって顔もどぎついですなあ。何ですか? その眼鏡は? 喧嘩売りに来たんなら買いましょう」
「大村君、何だ、その態度は? それにこの答案がなぜ0点なのですか?」
「何をおっしゃる? この子の感想を見て下さい。『先生は戦争で死にたいのですか?』とか『先生は戦場のメリークリスマスを視ましたか? 日本人は酷いことをやったのですねえ』とか書いて私の授業を聞いてなかったことが一目瞭然です。教育勅語も書けておりませんしねえ」
「教育勅語?」
校長は声を詰まらせた。この教師は一体何を教えているんだ?
保護者が言った。
「何です? この態度。私教育委員会へ訴えます」
こうして私は教育委員会の査問委員会にかけられた。
先ずは指導主事が言う。
「大村先生、この『全て国民は(健康)で(文化的)な(最低限度)の生活を送る権利を有する』で合っているじゃないですか? なぜ0点なのですか? それにこの『教育勅語を記せ』という問題は何ですか?」
「私は日教組によって洗脳された生徒達を元に戻してやりたいのです」
「そのための方法が教育勅語ですか?」
「はい。おかしいですか?」
「全くおかしいですなあ。先生は公務員には憲法を守る義務があるのはご存じないのですか? それに教育勅語は昭和二三年に廃止が決まっているのですよ。いいですか。今回は厳重注意だけにとどめておきます。もう一度この生徒の答案をきちんと採点して下さい」
こうして私は生徒の答案を採点し直した。
こんな感じだったからたまらない。
校長から呼び出しを喰らおうが親から抗議の電話がかかろうが一向に動じない私をもう誰も止めることはできなかった。アカの教師からは徹底的に無視されて、あるいは馬鹿にされたが、考えを改めようとは一考だにしなかった。
そんな中で私の支持者となる教師も現れた。音楽の和田先生は組合をやめ、英語の竹村先生や数学の仙田先生などはあからさまに私の支持者であることを吹聴していた。憎き敵としては生物の小島、国語の相田などがいた。また、反主流派の組合を立ち上げた国語の貴田先生などは学生運動を経験しながらも私のシンパであった。社会科の教師にはなぜかアカが多かった。昔は分会長を務め、後に高教組大阪支部の委員長にまでなった剛の者もいた。
「あいつは社会科の教師の癖に右翼や」
と私に奇妙なラべリングをする者もいた。 たまたま久米宏がニュースステーションで「毎度馬鹿馬鹿しい自民党の大勝」と発言したので、私はそれは選挙民を愚弄することだと言うと、左巻きの吉本先生が異議を唱えて大論争となったことがある。
ところが、佐山氏はこれが気に入らなかったらしい。親が学生運動の生き残りだったからであろう、自称「左翼」であり、当時の大学紛争を賛美していたのだ。
そして私は一年生を二回もち、そのまま二年生に持ち上がった。そこにその子がいた。 その子の名は河田志恩。昭和にしては珍しいキラキラネームである。
私は二年生に持ち上がると共に補習を開始した。私の元来の専門は世界史であったが、始めた補習は英語の補習であった。私は地歴公民科と英語科との免許を持っている。従ってそのことでの問題はなかった。
この補習に七名の生徒が参加した。その中に河田志恩ちゃんもいた。
私はこの七名をことごとくひいきした。特に志恩ちゃんは、私が手渡した問題集の最後に載っている問題文の解説を綺麗な字で丁寧に書写してきていたのだ。こんなことをする生徒は他にいなかった。だから私は志恩ちゃんを徹底的にひいきした。
その後、私は冬休みの補習も計画した。英語長文の問題をイェスペルセンの手法を使って構造解析していくというものだった。
この補習に参加したのは志恩ちゃんだけだった。
マンツーマンの風変わりな補習が始まった。五日間だけの補習であったが、私は補習というよりはあたかもデートでもしているかのように、この企画を楽しんだ。
やがて、スキー修学旅行がやってきた。志恩ちゃんは乗り物酔いがひどいので参加できないと訴えてきた。
私はバスの前から三番目の特等席を用意し、養護教諭をバスに乗せ、酸素まで用意して彼女を修学旅行に参加させることに成功した。
その後、校内マラソン大会が実施されることになった。
私の赴任した学校では、マラソン大会の二週間前から軽くロードを走る「耐寒訓練」というものが実施されていた。みんなでゆっくりとコースを走るのである。ところが、何を思ったのか、志恩ちゃんは前列の生徒達を勢いよく抜き去り、一生懸命駆けだした。
私は女子の先頭を走りながら「河田、頑張れ」と声をかけた。「ひいき」は誰の目にも一目瞭然であった。
*
そんな折、タイミング悪く事件が起こった。
私のクラスで女子生徒二名が万引きで補導されたのだ。双方ともに真面目な生徒であったので連絡を受けた私は驚いた。
土曜日の半ドンの授業だったので、私は食事をして職員室に戻ってきた。無造作にわら半紙にメモが書きつけてある。
「本日二時三十分、二年三組A・Bの二名、ジャスコで万引きし、補導。現在、応接室と生徒指導室で事情を聞いています」
先ず、応接室へ急いだ。
半泣きになったA子がいた。がっしりとした体格の生徒指導部の体育教師と父親、そして教頭と学年主任が腰かけていた。
「お前、何したんや?」
質問にA子は答えず、学年主任が答えた。
「万引きや。十万円のジーンズを試着室で穿きこんだらしいわ」
「君、まだ他にもやってるやろ。どこでいくらぐらいやった?」と教頭。
おもむろにA子が重い口を開く。
「二百万くらいかな? だいぶやりました」 ---重い沈黙が続いた。
そこへA子の母親が入ってくる。
「この子何したん?」
「万引きだよ」と父親が答えた。
と思うや、いきなり娘にビンタを喰らわす母親。
「この子、どうしてそんなことするの? 私が何のためにパートしてると思ってるの?何のためにおこずかいあげてるの?」
ビンタは止めそうにない。
A子は「ごめんなさい」と言いながら泣きじゃくっている。
そこへ生徒指導部の体育教師が口を開く。
「まあ、本人も反省していますから」
母親の愛の鞭は終わった。
------何か言わねば。と思いながらも声が出せない私。情けない。
やっと口をついて出た言葉が
「わし、あんまり勉強勉強言うて言いすぎたかな」だった。
親からも担任からも勉強勉強では確かに息が詰まる。
彼女からも「先生は勉強さえしてたらいいような言い方ばかりするもん」と返ってきた。
後に、そのことを親しかった竹村先生に告げると、彼は
「その通りや。勉強さえしてたらええんや。なのに万引きなんてなんでするねん」
と言った。あまりに平然と言ってのけたので私は面食らった。
次はB子の番だ。
私は生徒指導室へ急いだ。
そこには、クラス一の美人のB子がいた。
A子は成績がクラスでもトップクラス。B子はクラス一の美人である。
まるで悪夢を見ているようだった。
「これは夢だ。早く醒めてくれ」
そして、生徒指導室にはB子の両親と校長がいた。
「信じられない」
私からの言葉はそれだけだった。叱ることもできなかった。
そして、二人に無期謹慎が言い渡された。
それから私は家庭謹慎になった二人の家へ足しげく通った。そして約一ヶ月後、二人のうちB子は大変良く反省し、反省文も完璧であったので、謹慎解除にしてもいいと私は考え、学年団の先生も同意した。しかし、A子は反省が不足しているというのが私を含め、学年団の意見であった。
そしてB子は謹慎解除になった。
この時の校長の方針は「二人同時解除」であった。しかし私はその方針に全く合点がいかなかった。「本当に心から悔い改めたら解除する」というのが私や学年団の意向であった。その裏には、解除されていないA子はもっとしっかりとした反省文がかけるはずだという私なりの生徒理解があった。
何度も校長室に呼び出された。
「あなたはA子さんが悪くなっても責任がとるのですか?」と校長は詰め寄ってくる。
「逆に今A子を解除してより悪くなったら誰が責任取るのですか?」
不毛な言い争いが続いた。
生徒のことは担任の私が最もよく知っている。彼女は「本当は出来る子なんだ。だからこの反省文は本物ではない」と私は感じていた。
そこで私は最後の手段に打って出た。それは謹慎解除になったB子の反省文を、B子の同意のもとで見せるということであった。
これは見事に功を奏した。A子は友達の反省文を読むや否や泣きながら二階へ上がり、一気に反省文を書き上げたのだ。
こうして二人とも謹慎解除になったが、この事件は私と校長の関係を急速に悪化させ、また十二分に私を疲れさせた。
そんな折、志恩ちゃんがとんでもない行動に出たのだ。
*
どこの学校にも「学級日誌」というものがあって、一日にあったことなどを日番が書いて担任に渡すのだが、この志恩ちゃんが信じられないようなことを書いてきたのである。
それは私が「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官物語」をホームルームでやり、感想を求めた直後のことであった。
「大審問官物語」とは、「カラマーゾフの兄弟」の中の次男イワンの作った劇中劇である。十五世紀のスペインのセビリアの町に突然イエス・キリストが現れ、それを大審問官が捕える。そして悪魔の三つの誘惑を斥けたことをなじる。その間、キリストは一言も言葉を発せず、最後に血の気の失せた大審問官に接吻するというものだ。
三つの誘惑とは、キリストが四十日四十夜断食をした後にサタンが現れ、空腹になったキリストに「この石をパンに変えてみよ」と言う。キリストは「人はパンのみで生きるのではない」と言ってこの試みを拒否する。するとサタンはキリストを高台に連れて行き「あなたが神の子ならここから飛び降りてみよ。神が支えるはずだ。」と言う。キリストは「主なる神を試みてはいけないと書いてある」と言って、これも斥ける。最後にサタンはキリストに世の栄耀栄華を見せて「ひれ伏して私を拝むならこれらのものを全て上げよう」と言う。キリストは「黙れサタン。心を尽くし思いを尽くして主なる神にのみ仕えよと書いてある」と言ってこれも斥ける。---というものだ。
キリスト教徒にとっては大変有名な部分である。
私は、これを自分の反共思想の根拠にしていた。
すなわち、統制された社会でパンを与えられることを拒んで、貧しくとも自由意思を選びとるという意味でとらえていた。
この「大審問官物語」は倫理の授業用に用意していたものであったが、内容があまりにも難解であったので、高校生には無理と考えてしまっていたのだ。
それをホームルームでやってみた。誰も理解出来ないであろう。
------と思っていたら志恩ちゃんがとんでもない行動に出たのだ。
ホームルームが終わってから彼女が職員室の私の席まで来て「このプリント何のことか教えてほしい」と言ってきた。確かに、プリントを渡した時の彼女は何か不自然に落ち着きがなく、奇妙な動きをしていた。「理解できないのだろうか。興味もないのかな?」
そう私は思っていたのだ。
そこで、彼女にプリントを渡した意図を簡単に説いて聞かせた。
そして彼女が学級日誌の感想欄を目一杯使って書いてきたのだ。
「先生が配った『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官物語』はイワンが作ったものですね。イワンはアンチ=クリストですか。先生がプリントを渡す時に『これが私の全てだ』何て言って渡すものだから、先生はてっきりアンチ=クリストかと思ってしまいました。ところで、最近の量子論の発見から、宇宙を観察するから宇宙が存在するのであって、宇宙があるから観察するのではないようですね。これで仏教の唯識論が証明されます。即ち、宇宙の中に我々が存在するのではなく、我々の中に宇宙が存在するようです。ところで、たらこ唇の植芝翁ですが、この前も、あの有名なロゴ May peace prevail on the earth. の五位昌久と一緒に写真に写ってました。それから、無念無想って何も考えないことではなくて『無を想い無を念じる』ことですね。学研の『ムー』という雑誌もこれに関係があるのかな?ところで、私は最近バグワン=シュリ=ラジニーシにはまっています。和尚の優しい説法が好きです」
「これはすごい。こんなことを考えている高校生がいたんだ。しかも私が渡したドストエフスキーのプリントも量子力学も唯識論も植芝先生のことも完全に理解している。この子、今までひいきしてきた生徒だったけど一体何なんだ?」
そして私と志恩ちゃんはこれ以降密会を重ねる仲になっていった。会う場所は決まって喫茶店。学校から少し東へ行ったところにおしゃれな喫茶店がある。中は暗く、窓はステンドグラスで、そこを通してほのかな太陽の光が差し込んでくる。生徒と先生の「密会」の場所としては最適だ。彼女の家もこの近くだし、こんなうってつけの所はない。因みにこの学校では喫茶店の出入りも校則で禁止されていた。
「あのー。先生、喫茶店なんかええの?」
「先生が一緒やから別にいいやないの。何か言われたら『先生に誘われた』と言ったらええんや。でも、こんなことどこで勉強したの?」
「ラジニーシズムについては教えてくれるお兄さんとお姉さんがいた」
「どんな人?」
「二十七、八の人で○○大学の哲学科を中退したって言ってた」
「(俺と同じ年齢。しかも同じ大学だ。でもだめじゃないか。こんな真面目な子に変なこと教えたら)ふーん。今でも連絡はあるの?」
「はい。手紙が来ます。本も送ってきます。キリスト教会で知り合ったんですけど、キリスト教から助けられてバグワン=シュリ=ラジニーシの所へ行ったと言ってました」
「(キリスト教から『助け出される』ってどんなんや?)
その人達からラジニーシズムを知ったわけやね。(バグワン=シュリ=ラジニーシって、何かアメリカで武器を集めて蜂起しようとしてインドへ送り返された人や。おー怖。でもこのことは言わないでおこう。彼女は信じているようやから)」
「はい。今では封筒に糊をつけずにチューインガムをくっつけてきます」
「(何だ、それは? 普通じゃない)」
「今ではサニアシンになってサニアス=ネームをもらってます。」
「(サニアシン?サニアス=ネーム? 何だ、それは?)」
「量子力学のことなんかどこで勉強したの?」
「『ムー』なんかに載ってます」
「志恩ちゃんはクリスチャンじゃなかったよねえ」
「はい。洗礼は高校を卒業してからだと父に言われました」
「お父さんはこの手紙なんか送ってくることに関しては何か言ってない?」
「受験も近いのでしばらくは止めて欲しいと言ってます」
「(そりゃ、そうだろう)」
「植芝盛平先生のことを『たらこ唇』と言ったのも彼らやね。」
「はい。それから、合気道の先生も危険だから注意するようにって言われた」
「(どっちが危険なんだ?) でも、植芝先生のこともよく知っているねえ。どうして?」
「何言ってるの? 先生が練習終わったらいつも言ってるやないの?」
「(そうか、俺だった。)でも、インド哲学ってすごいよね。僕も『ヨーガ根本経典』や『バガバット=ギーター』や『ラマナ=マハリシ』なんか読んだよ」
この時、彼女がクスッと笑ったので私は話題を変えた。
「(何か馬鹿にされたようだ。話題を変えよう)ところで、志恩ちゃんはどうして合気道部に入ったの?」
「私、運動があまり得意じゃなかったから、最初は怖かった。でも最初から合気道部に入ろうと決めてたの。入部届を出す時もどんな怖い先生がいるかと思ったら先生のような人だったから安心して入ったの」
「僕のような人ってどんな人だと思った?」
「何か眼鏡を架けてて気が弱そうでスリムで---。もっと体育会系で,マッチョな人だと思ってたから安心したの」
「お友達の島元さんもこんなこと知ってるの?」
「いや、彼女はあんまりこんなこと興味ないから。一応同じ教会に通っているけど」
「ふーん。僕のこと、今ではどう思う?」
「普通の人じゃないと思っていたけど、やっぱりそうだった」
「ふーん。(『普通の人じゃない』ってどういう意味だ)」
「それから、先生の机の上にあった本、私と同じ趣味」
「ふーん(俺はさっきから頷いてばかりいる)」
「ところで、先生は何か宗教にでも入っているの?」
「実はこの本だけど、来岩現正法という変な団体に入っているんだ。変かなあ?」
「(かなり変)ふーん」
そしてある日、私が図書室に寄贈した来岩現正法の本の束を持って志恩ちゃんが現れた。
「え? これ読んだの? どう思った?」
志恩ちゃんは笑いながら「これが悪魔やったらどうしようと思った」と快活に答えた。しかし、私にとってはこれは一大事である。
「もしも本当にこれが悪魔だったらどうしよう?」
そう考えを巡らすようになってきたのだ。
私の根拠のない独りよがりの自信が揺らぎ始めた。
「相手は小学校5年生から宗教遍歴をしたという剛の者だ。言ってることは本当かも知れない。それに、これが元で志恩ちゃんから嫌われたらどうしようか?」
真剣にそう考えた。
実は、彼女の言ったことは、その後の来岩現正法の動きを見ていると正しい見解であったのである。共産主義者がS波で信者(「正法者」と内部では呼んでいた)や来岩先生を狙っていると言ってワゴン車で全国を放浪し始め、言動も常軌を逸したものになってきたのだ。この直後に耕輔は来岩現正法を辞めるが、もしもこの時に志恩ちゃんのこの言葉がなかったら、あのワゴン車の列について行って大変なことになっていたであろう。そう考えると彼女は私にとっては「カルトから救ってくれた天使」だった。
そしてこのようなことが何回も繰り返され、志恩ちゃんと私の関係は先生と生徒という垣根を越えるかとも思われた。しかし、間もなく悲劇が二人を襲う。
*
志恩ちゃんはやがて三年生になった。また私が担任になった。---というよりは、実は私が担任になるように私自身が計略を巡らせたのであった。普通は担任を決めるのは学年主任と学年会である。しかし、私はそれを無視して自ら「Bコースの担任は私がやります」と言って志恩ちゃんのいるクラスの担任におさまってしまったのだ。
しかし、3年生になって受験も近づいてくると、なぜか二人の間に溝ができはじめた。その確たる理由は分からない。しかし、どうも二人の関係を怪しいと思った男子生徒が「お前、もう大村とやったのか?」とはやし立てたりしたようである。あんなに贔屓していたのだから当然と言えば当然かも知れない。こうして、志恩ちゃんは私を避け始めた。
その頃、模擬試験の結果発表があり、志恩ちゃんは英数国で学年3位という好成績を取った。しかし、私は素直には喜べなかった。
そして破局は突然訪れる。
志恩ちゃんは唇が乾くので薄いリップを塗っていた。この学校ではリップは禁止されていた。それを英語の教師であった村本が見つけ、言ったのだ。
「最近志恩ちゃんの唇、赤いと思わないか? なぜ注意しないんや?」
大体そう思ったなら自分が注意すればいいのである。しかし志恩ちゃんとの関係を知っていた村本は私を試したのだ。
先輩教師の言うことだから私は仕方なく従った。そして彼女ちゃんを呼び出した。
「志恩ちゃん、リップ塗ってるね」
「山本先生が唇が乾く場合はいいと言ってました」
「そうか。それなら山本先生に聞いておく」
「あのう。世界史の補習やめます」
「(しまった。これは嫌われたな)」
こうして二人の関係はガラスが床に落ちて割れるように粉々に砕け散ってしまった。そして、それに輪をかけたようにカルト教団による洗脳が解け始めた。私の心の奥に心臓をえぐられるようにあの志恩ちゃんの言った言葉が残っていたのだ。
「これがもし悪魔だったらどうしよう」
実は、私の入っていたカルト教団には恐るべき教義があった。それは、教団を脱けた者は「消滅」、すなわち魂を消されてしまうと言うものだった。ここで私は村本にも相談したが、何の助けにもならなかった。肝心の志恩ちゃんにはそっぽを向かれたままだ。
「怖い。消滅だ。誰か助けて。」という心の声は砂漠で一人叫ぶように誰にも届かなかった。もしもカルト教団の言うことが本当ならば魂を消される。カルト教団が悪魔だったら地獄行きだ。そんなジレンマに苦しむようになってきた。
私の心が闇の中でざわつく木々のようにざわつき始めた。そして、自分のノートに何回も同じ言葉を書き殴った。
「誰か助けて、誰か助けて。助けて、助けて、助けて」
授業なんかまともにできる状態ではなかった。心がSOSを発信していたのだが、そんなことには誰も気づいてもらえない。難破した船に一人取り残されたような心境であった。
実は、この教団はその後おかしな路線を進むことになり、この時になって私は初めて「やめて良かった」と思えるようになるのだが、そうなるにはまだまだ時間がかかるのだった。
「おかしな路線」というのはソ連が消滅してからのことである。共産主義者が電磁波で攻撃をしかけてくるという妄想に教祖が取り憑かれ、ワゴン車数台で全国をさまようという愚かなことをやり始めるのだ。そして、その頃には私はその教団から脱退していた。
それにしても洗脳が解ける瞬間というのはこんなにも苦しいものだったのか?今になって当時を述懐して感じる。まるで心臓を鷲掴みにされて腑をえぐられるようなものだ。今まで信じていたものが音を立てて崩れていくのだから。
そして、このような状況に至っても私は志恩ちゃんの「助け」を待っていた。彼女なら何か解決法を知っているかも知れない。そう思った。しかし、この期待は見事に裏切られる。
彼女の日直当番が回ってきた。日番日誌に何を書いてくるのだろうか?
そして日誌を見た私は言葉を失った。彼女から完全に嫌われてしまったのだ。日誌にはこう書かれていた。
「先生のマルクス批判は中途半端です。それから先生の字があまりにも汚いので読めません。日ペンの美子ちゃんからでも字を習ってはいかがですか?」
この時より私の恋心は怒りに変わった。
「(どうせマルクスのマの字も知らないくせに。それならば期末考査は資本論を引用して超難解な問題を作ってやる)」
そして、高校生ではとても太刀打ちのできない難解な試験問題が出来上がった。
そんな頃、英語の村本がとんでもない「解決法」を伝授した。
「一ヶ月間志恩ちゃんの顔を見るな。そうすれば向こうからやってくる。必ずやってくる」というものだった。馬鹿な私はそれをそのまま実行したのだ。
しかしこんな解決法なんてあるのだろうか? 志恩ちゃんの座っている席の周りには他の生徒だっているのだ。
そして、「消滅」の影に怯えながらそれを実行した。
一ヶ月が経ち、学校は文化祭を迎えていた。これで志恩ちゃんは振り向いてくれるかも知れない。
そして、渡り廊下で志恩ちゃんと遭遇した。彼女は満面に怒りを蓄え、私を見ようともしなかった。
全ては終わったのだ。私は自分の実存が足下から崩れて行き、その崖っぷちに立っているような奇妙な感覚に襲われるようになってきた。
そして、その日佐山が私のアパートへやってきた。憔悴しきった私を見て「良い病院があるんやけど行かないか? 学校を休むことになるけど」
と言った。
私は学校を休みたかった。こんな重さを持って、この上に働くということは重圧であった。そこで彼の進言に従って心療内科医を訪れた。
車を市営駐車場に置き、港の方角へ十分くらい歩いた。足は重かった。
やがて角を曲がって「生田心療内科」と掲げられた医院へ入った。三階建てのビルの二階部分が医院であった。
小一時間程待たされて、私の名が呼ばれた。診察室へ入ると白衣を着た年輩の医者が、診察室の中だというのにタバコをくゆらせながら聞いてきた。
「私は貴岩現正法というのを知らないのですけど、どんな教えですか?」
「何か反共的なことばかり言っている集団です」
「ふーん、ところで、学校の方は行ける状態ではないと思いますから二ヶ月ほどお休みになってはいかがですか?」
その言葉で私は憑き物が落ちたように安心しきってしまった。この医者の判断で学校をお休みできるのだ。そんなことは考えてもみなかった。私は即答した。
「はい、休めるのなら休みたいです」
「じゃあ、診断書を書きましょうね。これを持って行ったら休めますから、何か楽しいことをして下さい」
「楽しいことって何ですか?」
「そうですねえ、旅行ですかねえ」
こうして診察を終えた私は佐山と一緒に喫茶店へ入った。
佐山はここで病気という自分の「勲章」についてとうとうと語り始めた。この時、私は彼が電車に乗れないということを初めて知った。それから教師というものはこうも簡単に休めるものだという事実も初めて知った。
*
この間、私は佐山の知り合い(というよりは彼女)の女性と知り合った。彼女も神経症である。この女と最初に会ったのは、佐山から頼まれたからだ。
いつの日だったか記憶にないが、彼女が突然食べたものを吐瀉したので、佐山より私に電話があって、「友達が調子悪いので病院まで車で連れていってもらえないか?」ということであった。
「(どうしてそんなことまでしなくちゃいけないんだ?)」とは思ったが、仕方なく夜遅い時間に彼女の家の近くまで行った。佐山が助手席に乗り、しばらく行ったら彼女の家に着いた。すると、一軒の家から「彼女」が出てきた。佐山が自慢するだけあって大変な美人である。しかし私は彼女に対して何の感情も起きなかった。「(こんな夜中になんだ?)
」としか思っていなかったからだ。
国道をしばらく走って隣町の、彼女が行っているという病院に到着した。彼女は検査を受けることになった。病院の看板には「○○精神神経科医院」と書かれてあった。
検査が済むまでと思って私と佐山が待合室で待っていると、看護師が出てきた。
「網田さんは一日病院に泊まりますから、また明日おいで下さい」と告げられた。
翌日、彼女を迎えに行くことになった。私は道が分からなかったので、先ず佐山の家まで行き、彼の先導で病院まで行って彼女を乗せた。彼女はしきりに「すみません」を連発していた。
途中で彼女が「何か食べたい」と言ったので、車を牛丼屋に入れた。
三人で牛丼を食べていると、佐山が突然「トイレ」と言って場を離れた。彼女と私は対面で座っている。私がばつが悪そうに「えへへ」と笑ったら、彼女も笑った。どんな話を切り出して良いものか分からなかったからである。
しばらくして佐山が帰ってきた。私は安堵した。初対面の女性と面と向かっていて、確かに気まずかったのである。
その後、私の休職期間が伸ばされて三月まで休職することになった。
やることがなくなった私は神戸の英会話学校へ入った。それから三月に韓国へ行く計画を立てた。
この間、私の家に卒業生が遊びに来たり、佐山が遊びに来たりしていた。時々、網田美優と三人で会うこともあった。
当時の私には二つの不安があった。
「初めての海外旅行へ一人で行けるのだろうか?」ということと、「三月から本当に学校へ復帰できるのか?」ということであった。
韓国へ行く前に佐山と網田が手巻き寿司でパーティーを開いてくれた。
そうして韓国へ無事に行ってこられたのだったが、その後に事件が起こった。
*
やがて3月になると急に不安が押し寄せてきた。
「俺はきちんと学校に戻れるのだろうか? 朝起きられるのだろうか? 授業ができるのだろうか?」
そして佐山に電話を入れると、彼が「どこかの安いホテルで泊まろう」と言ってくれた。そうして不安になりながらも、ホテルで一夜を過ごした。
事件は翌日に起こった。
私は佐山に礼を言おうと思って電話をしたが、なしのつぶてであった。何か用でもあったのだろう。そこで網田に電話をして遊びに行った。とりとめもない話をして帰ってきた。しかし、これが佐山の逆鱗に触れたのであった。何か私と網田が関係を持ったかのように疑ったのであろう。
翌日、佐山から電話があった。
「もしもし、佐山ですけど」
「ああ、ハロー」
「何がハローですか? 昨日網田さんの家に行ったやろう」
この言葉で私は全てを悟った。彼は彼女を取られたくなかったのだ。だからこれから彼女に会う時には必ず三人で会おう。しかし、私は彼女に何の魅力も感じていないし、少し家へ行っただけなのにこちらこそいい迷惑だと思った。
その後、誤解も解けてまた三人でカラオケなんかへ行った。
そしてある日、とんでもない電話が彼女からかかってきたのである。
「もしもし、網田ですけど」
「はい、何ですか?」
「あのー、好きなんですけど」
「え?」とは思ったが、私は気を取り直して言った。
「それは光栄です」
「はぐらかさないで下さい」
「いやー、正直言うと僕はあなたのことを何とも思っておりません」
「そうですか」
今度は佐山の逆鱗の矛先は網田に向かった。絶交したようであった。まあ、それは一時的なものであったが---。
そうこうしている間に私と佐山はキリスト教会の遍歴を始め、やがて網田もそれに加わった。そうして明石イエス教会という所へ行くようになった。私の紹介した教会であった。
そこへ行ったきっかけは、また網田から電話がかかってきたからであった。
「もしもし、網田ですけど」
「何ですか?」
「私、大変な罪を犯しました」
「何をしたのですか?」
「佐山君とは別の人と寝てしまったのです。私は罪深い女なのでしょうか?」
私は、罪の問題ならば簡単だと思った。キリスト教は罪を許す宗教なのである。
「罪を犯さない人間なんていません」私は言い放った。
「え?」
「姦淫の女がいて、それに石を投げようとしたところ、イエス=キリストは『罪なき者から石を投げよ』と言ったんです。そうしたら誰も石を投げなかったのですよ」
そして、このことがあってから彼女はクリスチャンになった。
それから私は彼女の家に一回電話をしてお祈りを頼んだことがある。精神の具合がよくなかったからである。彼女のお祈りは、クリスチャンになりたてとは思えないほど上手かった。
やがて私が学校へ復帰してから2年が経った。私は島の学校へ転勤になった。引っ越しの手伝いに佐山が来てくれた。
その後、私は島の教会を遍歴した。最初に行ったのは母が通っていた教会ではなく、ウェスレーの教会であった。
礼拝には参加しなかったものの、何度も牧師と話をした。牧師は眼鏡を架けていて痩身で、気が弱そうな男だった。
この教会で私は実はニーチェの信奉者であったことなどを話した。
しかし、当時の私は気が荒んでいた。進学校にいたのになぜか島の盲学校へ行かされ、次には島でも最悪の教育困難校へ回されたからだ。
私は軽いカウンセリングを受けるような気持ちで教会を訪れた。そして牧師とよく話した。
開口一番、牧師は言った。
「あなたが病気になった原因はその女生徒のことですね。あなたは女性を見ると何を感じますか?」
女性を見たらって言われても状況や女性の態度如何で様々である。私は言葉に窮した。すると牧師は言った。
「私ねえ、犯したくなるのですよ」
「(何言うんだ?こいつ本当に牧師なのか?)」
牧師は言葉を続けた。
「このように、人間はみんな罪を犯しているんです。でもイエス様は『見て姦淫をする者はすでに姦淫を犯した』と言っているのですよ。さあ、どうします?」
「さあ?」
「実はねえ、そのような人間の身代わりとなってイエス様は十字架にかかったんです。このイエス様を信じるだけで天国へ入れるのです」
私は思った。
「(何だ、これは○○学会の折伏と同じじゃないか? この牧師は私を折伏するつもりなんだ)」
その後、この牧師との交流は続いた。当時は携帯なんかなかったので、学校の公衆電話を使ってカウンセリングを受ける気持ちで何度か電話をした。
そしてある日のことである。私は、例の教育困難校の公衆電話から牧師に電話をした。
すると牧師から意外な問いが発せられたのだ。
「あなたは生徒を愛してますか?」
授業さえまともに聞こうとしない生徒なんか愛せるわけがない。私は即答した。
「いいえ」
するともっと驚くべき答えが返ってきた。
「じゃあ、どうして先生なんかしてるのですか?」
私の腑は煮えくりかえった。生徒を愛したら生徒がおとなしく授業を聴くと思っているのか?と思った。教育に携わったことのない人間はこんなことを平気で聞くのだ、とも思った。そこで牧師に問い直した。
「じゃあ、先生はどうなんですか?」
するともっと意外な答えが返ってきた。
「私は世界人類を愛しています」
「(え? 『世界人類を愛する?』 そんなこと不可能だ。目の前の人間一人をも愛せない人間がどうやって世界人類なんか愛せるんだ?)」
私は言葉に詰まってしまった。
そんな折、ペルーで日本大使館の占拠事件が発生した。センデロ=ルミノソという毛沢東を崇拝する団体が日本大使館員を人質にして立てこもったのだ。私は「世界人類を愛する」という牧師を試してみた。
「もしもし、村岡先生ですか? 今先生の大好きな世界人類が喧嘩をしてますよ。どうして止めに行かないんですか? 僕は生徒を愛せないヘボ教師ですけど生徒が喧嘩してたら止めますよ。世界人類を愛するなら止めに行ったらいかがですか?」
村岡牧師は激怒した。
「あなたは何が言いたいのですか? 教会まで来なさい」
この命令口調は何だとは思ったが、直ぐに私は車で教会まで乗り付けた。
教会では怒りで鼻息を荒くした牧師が待っていた。喧喧顎顎の言い争いになった。
「あそこにはシュプリアーノ大司教が行ってるからいいのです」
などと宣う。そこで私は声を荒げて言った。
「ドスとエフスキーが言ってるんですけど、『世界人類を愛するという人は目の前の一人の人間も愛せないのだ』って」
すると牧師はもっと意外なことを言った。
「あのね、ここはキリスト教会なんです。文学の話をされても困るのです」
私は呆れて物も言えなかった。
「(ドストエフスキーがただの文学? その深い宗教性も、この人は文学の一言でかたづけてしまうんだ)」
そして、これを機に私は教会から足が遠のいていった。そしてなぜか神慈秀明会という新興宗教に入った。勧誘に来た女の子が私の大学の後輩であり、しかも美人であったという何とも情けのない理由で入信したのだ。
*
この頃は、私と佐山は離れていても関係が続いていた。牧師が高校生を引き連れて鳴門でキャンプをやると言った時には私と佐山もついていった。
そして間もなく、私は年間生徒指導件数200件という教育困難校に赴任することになった。
最初からこの学校は教師にとっては地獄であった。三年生の授業なんかへ行くと、授業を聴いている者なんか誰もいない。実習用の長靴でキャッチボールをする奴、競馬新聞を読む奴、紙麻雀をする奴、とにかくそこは「野獣の檻」であった。
また、担任生徒がタバコを吸って謹慎になり、続いていじめ事件が発生して七名の生徒が謹慎になり、多くの生徒達がやめていった。
私は担任を降ろされ、閑職に退いた。
そしてそんな頃に阪神淡路大震災が起こった。二週間学校は休校になった。
その間、私は同僚の教師と共にボランティアを始めた。学校のあった町は完全に破壊されていた。不幸中の幸いと言おうか、生徒に死者はいなかった。勿論、家が倒壊してしまったという生徒は何人もいた。
その頃、私は覚えていないのだが、佐山や網田に電話をしていた。そして佐山に言ったことが「震災なんかよりも日常生活の方が怖い」ということだった。これは三島由紀夫が「戦争よりも日常生活の方が怖かった」と言ったことの受け売りである。
そして、なぜかそれから佐山や網岡との連絡が途絶えてしまった。韓国の教会で聖霊体験をして、それを網岡に話そうと思っていたら、「ちょっと電話は---」と言われてしまったのである。
その後、私は神戸の大教会で洗礼を受けた。
不思議なことに、というよりは友達に聞いたのであろう、志恩ちゃんがお祝いに駆けつけてくれた。
その後、佐山から稚拙な手紙が来た。絶縁状である。文学や音楽についてよく語り合っていたので、文章力もあると思っていたら、全くの小学生が書いたような作文が送りつけられてきたのだ。
「前略。
あの震災で苦しんでいる方がまだまだ多くいます。私もその一人かも(かもって何ですか?あなたは震災の時に布団の中で丸くなっていただけじゃないですか?私はボランティアで炊き出しなんかを行っていたのですよ。それから明石なんか震災の影響を全く受けていないじゃないですか?それが今になって精神的な事由で『震災怖い』なんて言ってるのですか? あなたには不幸というものがなかったのですね。だから震災はあなたにとって生きる意味を与えてくれたようなものじゃないですか? それが自分を不幸な被災者だなんて思うのは本当の被災者に失礼です)。
でも、あなたはおっしゃいました。『震災より怖いものあり日常生活』。あなたと私とでは価値観が違うようです。価値観の違う人間が一緒にいては不幸なことだと思いませんか(思いません。あのねえ、引きこもりのあなたには分からないでしょうが、この世の人間はみんな価値観が違うのですよ。価値観がみんな同じっていうのは北朝鮮じゃないですか? それに、仕事をしていたら分かると思うのですが、みんな価値観の違う人間と仕事をしているのですよ)。
それから、私とあなたの間で迷っている網田さんにも連絡はしないで下さい(へー、網田さんってもてるのですねえ。私は何とも思ってないんですが)
なお、これに対する反論は一切受け付けません
佐山真介」
私は呆れるとともに怒りが湧いてきた。因みに( )は私が呆れてしまった文面に関する感想である。
*
やがて私は知的障害を持った女性と結婚し、西宮へ転勤になった。勿論、医者も紹介状を書いてもらって西宮のクリニックに代わった。しかし、暇な時には佐山のいた医者へ通っていた。
その頃、私はしょっちゅうイタ電をしていた。勿論184を押してかけていた。かける相手は当然佐山である。私は許せなかったのだ。イタ電の回数は一ヶ月に一回か二回。そして時間帯は朝出勤する前の六時頃であった。
先ずは電話をする。無言電話である。ここでイタ電の極意を話そう。それは「細く長く」ということだ。私もこの先例に漏れず、彼には「細く長く」イタ電をした。
しかし、どうも彼はそのイタ電の主が私だということに気づいていたらしい。そして事件は起こった。
時は春休み。学校も暇になったので、私は西宮から新快速で明石まで行った。まるでピクニックにでも行くような浮かれた気分であった。そして海辺の治療院に入ると、タバコの吸える席に陣取った。そこへ、見慣れた奴が怒気も荒げに入ってきたのである。佐山だった。
彼は私の席まで近づくと、開口一番こう言った。
「お前なあ、ええ加減にせえよ」
「何がよ」
「悪戯電話のことじゃ。お前やろ」
なかなか勘のいい奴だ。私は184をきちんと押しているのに、私がイタ電の主だと感じたようであった。
「いや、何のことかわからん」
と私は咄嗟に言った。そして悪霊追い出しのお祈りを始めた。すると彼は言った。
「お前、卑怯な奴やのう。ここでお祈りか? 耳が聞こえない奴はどうしたらいいんや?岡田先生(私の紹介した牧師)も心の中で祈ったらええと言うてたわ」
「(こいつ、誰々が言ってたなんて聖書も読んでいないのか?)」
「最近は番号の分かる電話もできているんやぞ」
「(あほか? ナンバーディスプレイのことか? そんなこと知ってるわ。先ず間違いなくこいつの家にはナンバーディスプレイなんかないな。大体私は必ず184を押して電話している)」
「どないせえっちゅうねん?」
「土下座して謝れ」
「(おお、これは強要罪。イタ電なんかよりも罪は重いぞ)」
それからは「やった」「やってない」の応酬である。
「(しかし、人を不快にさせる手紙を勝手に送りつけてきて何だ?)」
そこで彼は言った。
「そんなら診察室へ行こうか?」
そうして二人で診察室へ入った。私はもう観念して土下座でもしてやろうかと思った。
実は、私にとって土下座をすることは、それこそ「日常」のことであって、何でもないことであった。私は学校では駄目教師であったから何度も土下座をしていた。しかし、ここでこんな引きこもり野郎にまで土下座をするのか?
私は自分が情けなくなってきた。そして、土下座をさせたら勝ちと思っているこの世間知らずの坊やに何と言おうかと思案していた。まあ、そんな簡単なことで事がすむのならお安いご用だ。
二人で診察室に入った。中には医師が待機していた。
医師には何のことかわからなかっただろうが、私は土下座をして「どうもすみませんでした」と言った。
その後の彼の勝ち誇ったような顔、顔、顔。まるで子供だ。そして待合室に帰った彼からとても四十代とも思えないような言葉が返ってきた。
「お前、こんな病院から出て行け。名前呼ばれたら呼んでやるから」
私は結婚して名前が変わっていた。だから呼ばれてもわからないだろう。私は彼の言葉を黙殺した。すると彼はとてもじゃないが四十男とは思えないような言葉を発した。
「お前、わしとタイマンはるか?」
「はあ?」
「わしはお前が空手の段持ってることも知ってるわ。わしとタイマンはるか言うとるねん」
「なんでそんなことせなあかんねん?」
「何ビビってるんや?悪戯電話なんかして。国から金もらって」
「はあ?(私の給料は国からじゃなくて県からだけど)」
とにかく、こんな奴には勝てるが、私は知らぬ存ぜぬを決め込んだ。相手は子供である。相手をしたってどうしようもない。
とにかく、彼との関係は完全に切れてしまった。その後も彼は私を許していないだろう。電話はいつの間にか通じないようになっていた。地獄行きだ。クリスチャンになっても自分が他人を許すことができなければ地獄行きなんだ。
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