(一) 婚約披露

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(一) 婚約披露

短くも繚乱であった時代、大正。 文化はまさに、旧から新へと移り変わっていく過渡期の真っ只中。 伯爵や子爵などと呼ばれる華族達が、相も変わらず大きな権力を持ち続けている偏った身分制度や、金で身を売る女達が男達の袖を引く遊郭などの色町が残されている一方。 カフェーや浅草十二階、華々しく立ち働く職業夫人達、洋装の流行、人力車の衰退から街を次第に埋めつつある自動車に路面電車など、西洋より流れ込んでくる文化や技術により、ここ帝都は新旧入り乱れた渾然一体の時代を迎えていた。 またこの時代、地方から帝都へ職を求めて流れてくる者達も多く、街はどこも賑々しくたくさんの人々で溢れかえっている反面、血生臭い事件が発生する頻度も格段に増えている。 浅草の見世物小屋では猟奇モノを扱う興行物が流行ったり、芝居宣伝顔負けに派手に書き立てられる事件事故の報道記事が、日々平和に飽きだした人々の話の種に上げられていた。 その中に、必ず見られる名前がある。 タダノ ハジメ 警察が解き明かす事の出来ない奇妙な怪事件にのみ姿を現し、鮮やかにその謎を解きほどいていく帝都の探偵。 住んでいる場所も、顔も、偽名なのか本名なのかも分からない名前の読み方以外は、決して紙面を飾ることのない変わり者。 名探偵としての地位も名誉も金も欲しない、その姿を知る者は、探偵が関わった事件に居合わせた極一部の関係者と、警察関係者の少数のみ。 「顔の無い探偵…ね」 タダノハジメの名が記された記事に視線を落としたまま、一人の青年が誰へともなく呟いた。 年の頃なら、二十歳代ぐらい。 目の下まで伸ばされた前髪、ネクタイを緩め、だらしなく首元を開いた白いシャツから覗く鎖骨に小さなホクロ、上質な生地で仕立てられたと一目で分かるベストと同色の背広に隠された肢体は伸びやかで、まるで大型の猫科動物を連想させる、細くしなやかな筋肉に覆われた健康的に引き締まった体つき。 なのに、どこか退廃的な雰囲気を醸し出しているのは、時折ふわりと吹く風に散らされる前髪から覗く黒い瞳の仄暗さか。 建物の壁に背を預け、形の良い眉を中央に寄せて、手にしていた新聞を吹いてきた風に拐わせて、青年は再び一人呟く。 「俺にはこれから、何が出来る…?」 風に拐われていく新聞を見ていた視線は、自然と伸ばされたままの自身の右手へと移る。 日に晒された指は、三本。 くっ、と力を入れて握りしめるも、きちんと握られたのは親指と人差し指二本のみ。 中指は中途半端に曲がったまま、完全に折り曲げることすら出来ない。 ぼんやりとその様を見つめていると、その視線の先に現れた人物が、ほっとしたように表情を緩めた。 「やっぱりここにいたか、快!」 「光輝…」 腕を下ろした視線の先、呆れたような顔をした横地光輝が駆け寄ってきた。 黒縁の眼鏡、きちんと撫で付け後ろへ整えられた髪、笑うと、右側の目尻にだけ深い笑い皺が浮かぶ。 良く見ると、まなじりに小さな傷がある。 品の良いスーツを身にまとった、どこか学者ぜんとした穏やかな気質の光輝は、石鹸や化粧品を手広く販売している横地商会の跡取り息子であり、歳は二歳しか変わらない快の従兄にあたる青年だ。 快の母親は光輝の父親の妹だったが、快が四歳になろうとする冬に亡くなった。 情の深い伯父夫婦に引き取られてからは、本当に分け隔てなく兄弟のように育てられた。 その優しい伯母も、今はいない。 お互いに母親を早くに亡くしていたせいか、性格的にウマがあったのか、当人同士の間では兄弟でもあり親友でもある、仲は良い。 ほんやりと自身を見上げている快に溜め息を一つ、両腕を腰に固定して顔を寄せる。 「お前は小さい時から何かあると、この裏庭で泣いてたよな」 「泣いてない、考え込んでいただけだ」 ムッとして勢い良く立ち上がり、服に付いた砂を払っている快を悲しげに見ていた光輝は、やがて思い直したように明るい笑顔で話しかけた。 「まぁ、今日ぐらいは傍に居てもらわないと!なにせ、今日は僕の華々しい人生の出発点になる日なんだから。そんな席に、立役者である君が居ないと困るからね」 「大袈裟な…俺はただ、馴染みのカフェーに連れていっただけだ」 「しかし、そのお陰げで僕は、蒔絵さんという素晴らしい女性と巡り合う事が出来た」 「そして俺は、夜勤明けに一杯のコーヒーを笑顔で運んできてくれる、素晴らしい女性を一人失った…と言うことだ」 「そうだな、それは済まない事をした。確かに、蒔絵さんの笑顔は輝いているからね」 「はいはい…まぁどうせ、あのカフェーに行く事は今後は無いからな。こうなる前に、お前を連れて行けて良かったよ」 得意気に話す光輝の横っ腹に、快が軽く拳を突き入れる真似をする。 光輝は慣れたものでそれをかわすと、笑顔で快の肩を抱き寄せた。 「さぁ、僕の婚約披露パーティーが始まるぞ。蒔絵さんも、君に会うのを楽しみにしている。御祝いの言葉くらい、誰よりも早く贈ってあげてくれないかい?」 幸せに満ちた光輝の笑顔に、同じような笑顔で答えながら、快は肩を抱かれたまま会場となる横地邸の中庭へと二人でじゃれ合いながら歩いていった。
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