10人が本棚に入れています
本棚に追加
「これより契約の儀を始める。我、三と契約を結ぶ者、前に出よ」
待ちに待ったこの日。ようやく正式に組織に配属される。これで家族を守れる。それを噛みしめるように一歩前に踏み出す。
後ろには蒲さんがいる。それだけじゃない。十人くらい人がいた。おそらく第零班のメンバーだろう。男女で多少デザインが違うけど、全員が正装を着ていた。
戦闘のときに着る白がメインの白黒衣装とは対照的。黒に赤いラインが入った中華風の正装。厳かな雰囲気がビシビシと伝わってくる。もちろん、俺も着ている。真新しい服の香りがする。陛下の前にいるのもそうだが、場に合わせた服を着るとより心が引き締まる。
陛下が木簡を取り出して詠唱する。
「五行の理を統べる神よ、我が身を依代に契約を交わしたもう。蓬木朝菊、我に忠誠を誓え」
そばに置いていた仙器を献上するように持ち上げる。先週届いたばかりの俺専用の武器。代理品と同じ短穂剣で、剣首には水晶が施されている。鞘や持ち手の装飾も代用品とは比べ物にならない。植物の模様と花が彫られている。
陛下が木簡をすっと仙器についけた。その瞬間、仙器が淡く光り出した。
——これが契約の儀……。
緊張も忘れて眺めていると、左肩に痛みを感じた。痛みと言っても、友達につねられた程度の痛み。気のせいじゃないけど、反応するほどでもない。
木簡は消えて、仙器も元の状態に戻った。
「これをもって、気象師として蓬木朝菊を正式に認める。配属先は第零班。皆、力を貸すように」
陛下の言葉に後ろの人たちが力強く返事をする。その圧力に負けそうになる。
儀式が終わり、後ろに下がる。一番端に並んで、陛下の言葉を受け取る。
「天気の加護が在らんことを」
ただの決め台詞とわかっていても、陛下の言葉が体に染みる。本当に加護がついているかのような、今ならなんでもできるような、そんな気分にさせられる。
「朝菊と桃華は残れ。早速じゃが、任務に行ってもらう」
——初任務……!! しかも今!?
他の組員がすすすっと退室していく。端にいた俺らはポツンッと取り残された。立ち上がって陛下の前へ行き、また跪く。
「場所は北海道札幌市。行けばわかるが、低気圧と高気圧が不自然に接近している。それを解決しろ」
「「御意」」
「朝菊が慣れるまではふたりで行ってもらうことが多くなるだろう。お互いの気を使って精進したまえ。あと……」
陛下が言葉を詰まらせた。なにやら深刻そうに眉をひそめている。ただごとじゃない雰囲気が伝わってくる。任務のことなのか、俺のことなのか、はたまた第零班のことか。陛下が口を開くのを待っているけど、怖い。
側近の人も顔に手を当てて、複雑な顔をしている。いったいなんなんだ……。
そのとき、蒲さんがひと言言った。
「わかってます。あれですね」
「誠か! よし、お主らを期待しとるぞ」
相変わらず、眉間にしわを寄せている側近の人。対して満面の笑みで俺らを見送る陛下。もしかして、俺だけ状況を理解できてない?
◯
北海道札幌市、さっぽろテレビ塔、展望台。
大通公園にある電波塔で、時計台と同じく、札幌のシンボルとなっている。ちなみに、非公式キャラクターのテレビ父さんが公式キャラより有名になっている。
「見ろよ蓬木、噴水が見え……あ……。なぁ小銭持ってないか?」
「なにしてんの蒲さん! 今任務の途中でしょ!! それに展望台って有料でしょ」
双眼鏡を両手にしっかり持って、呑気に景色を眺めていた。初任務で気合が入っているのもそうだけど、ちょっと気になることがあった。
蒲さんは戦闘服のポケットを漁って小銭を取り出す。しかしそれは華仙郷のお金。試しに入れてみると、双眼鏡が動いた。引き続き景色を楽しみながら、会話する。
「どうせ他の人には見えてないから大丈夫。それに高いところからのほうが天気わかりやすいだろ。てかお前、契約の儀のときどっか痛くなかったか?」
「あ、やっぱそうだよね。左肩が急に」
「うーん。私は左の骨盤あたり」
話の内容が見えなくて疑問に思う。蒲さんが「見てみな」と左肩を指差しながら言ってきた。襟を引っ張って隙間から見てみると……。
「なにこれ!?」
タトゥーのようなものが彫られていた。漢字で“零”と書かれていた。
「それは私たちが第零班である証拠。契約の儀で忠誠を誓うと、それが刻まれる。東の民には見えないから安心しろ。ちなみに、服にある白黒の紋様は蓬莱仙国の気象師のマーク。国家所属っていってもそんな重く考えなくていい」
つまり、あの契約の儀は型式ばったものじゃなく、本当に陛下と主従関係を結んだということらしい。別に裏切るつもりはないし、他の組員に追いつけるようにやることをやるだけだ。
服の上から軽く左肩を撫でる。その意味を知った今、少しだけこの服が重く感じた。
「クッソ……あいつら肉まん食ってやがる」
——蒲さんは……特になにも思ってなさそう……。
“ブォン”
「「!?」」
今、なにかが通り過ぎて行った。異常なほど濃厚な気の塊、そんな気がした。まさかこれが高気圧……。
さすがの事態に蒲さんも双眼鏡から手を離す。今通り過ぎたってことは近くにいるということ。こんな都心で暴れられたら一般人に被害が及ぶ。それに今日は休日の昼間。展望台からでもわかるくらい、大勢の人が行き交っている。
「この感じ……もしかして土徳?」
「ああそうだ。とりあえず、降りて索敵。どっかに低気圧があるから注意しろよ」
一気に臨戦態勢に入る。これが記念すべき俺の初任務になる。
“今日のお天気です。札幌全体で晴れ予報ですが、突風や……”
“チン”
「エレベーターで降りるんだ……」
「なんか言ったか?」
「なんも……。それより、天鬼は?」
あたりを見渡すもなにも異常は見られなかった。空を見上げても快晴、風はそんなに強くない。
——土、土、土……。だめだ、なにも思いつかない。
蒲さんの指示に従って相対的に気圧が高いほうへ行く。
この大通公園は道路に沿ってできた細長い公園。長さにして約一五〇〇メートル。その端にある歩道スペースを走り抜ける。
「お願い、思い違いであってくれ……!」
西八丁目あたりまで来たとき、それはいた。
大きさは人より少し大きいくらい。骨が浮き出ている細い手足に、ボサボサの髪の毛。地面に手をついて、砂をいじっているようだ。今回は前回に比べて人っぽさがある。いくら怪物でもためらいそうだった。
西八丁目と九丁目には遊具があり、遠くのほうで子どもたちが遊んでいる。幸いにも、天鬼はなにもない広々としたところにいる。戦闘するにはうってつけの場所。
被害が出るまえに討伐しないと……。
「いやーおいしかったね、あそこのパンケーキ」
「うん。でも、札幌ってあんなに並ぶんだね」
嫌な予感が的中した。
——朝顔……!!
近くのベンチで友達ふたりと座っていた。昨日、友達と出かけるって言っていた。だから任務場所が札幌だったとき不安だった。まさか朝顔を狙って……。
朝顔たちは俺も蒲さんも、天鬼も見えていない。どうする。どうする。
風が急に止まった。天鬼の周りには砂がふわっと浮いてまとわりついている。嵐のまえの静けさ、その言葉が脳裏に浮かんだ。
——もう二度とあんな思いはしたくない!
「私がサポートにまわる。蓬木は隙をついて……」
「おりゃぁぁぁぁ!!」
「ちょ、待て!!」
剣を抜いて走り出した。蒲さんがなにか言っていた気がするけど、手遅れにはなりたくない。今ここで仕留める。
天鬼はじっとして動かない。今がチャンスだ。前傾姿勢で一気に間合いを詰める。大丈夫、この日のために毎日修行してきた。この天鬼がなにを思っているか知らない。けど、妹を守ることは変わらない。それが俺が気象師になった理由だから。
吸収、増幅、循環、放出。腕を通して剣に気を送る。手前で跳躍して上から叩き込む。
——いける……!
「ケケ」
天鬼と目が合った瞬間、突風が吹いた。砂まじりの風に体が吹っ飛ばされた。
「うわっ!!」
完全に空中に放り出されてなすすべがなかった。そのまま元いた地点に落ちた。地面に全身を叩きつけられる直前で、蒲さんが片手で支えてくれた。俺を見ることなく、じっと敵を見つめていた。ただ無言で敵を観察していた。
「ご、ごめん……」
返事はなかった。まるで俺なんていないかのように。それもそうだ。蒲さんひとりのほうが動きやすいに決まっている。
地面に膝をついたまま下を見ていた。立たなきゃいけないのはわかっていた。でも足がいうことを聞かない。
「蓬木、もう一回突撃してこい」
「え……?」
いたって冷静だった。俺に嫌味を言っているわけでも、むかついているわけでもなかった。蒲さんの目線はまっすぐ任務遂行を見据えていた。
ここで座っててもなにも始まらない。蒲さんにはきっとなにか考えがあるんだろう。彼女の言葉を信じて、立ち上がった。
「はぁぁぁ!!」
跳躍して斬りかかりと、さっきみたいに吹っ飛ばされる。正面は砂が舞って狙いが定まらない。狙うは足元。
体勢が崩れるギリギリまで重心を下げて足元を水平に切り込む。
「ケッケケ」
刃が足に到達するまえに、また砂まじりの風にあおられた。完全に尻餅をついて、隙を見せている。
——まずい……!!
しかし、天鬼はびくともしなかった。見えていないのか、それとも罠なのか。状況を整理するためにいったん下がる。
「蒲さん、この天鬼って……」
「黄砂だ。春に発生しやすい天鬼で、砂塵を操るのが特徴だ。このまま気が衰退していけば問題ないんだが、どうやら違うらしい。さっきより力が増している。このままだと札幌は砂に埋もれるな。あの様子だと、大きいのを一発ぶち込むつもりなんだろう」
つまり今は力を溜めている状態。隙があったのに攻撃してこなかったのははそういうことか。
天鬼は土徳、木徳の俺と相剋の関係。気だけみれば相性はいい。それに蒲さんの水徳は俺にとって相生だ。ふたりの気を使えば高火力の打点を生み出せる。
サポートが蒲さん、切り込むのが俺。彼女もそう言ったが、「ちょっと待って」と考え込んでしまった。目を瞑って顎に手を置く。そうしているうちに、天鬼を取り囲む砂の量が増した。突風がときおり発生して木々を揺らす。
「今の強かったねぇ。ビル風ってやつかな?」
「今日の天気予報で突風がなんとかって言ってた気がする」
朝顔たちはまだ怪しんでいない。それがいいのか悪いのか。できれば違和感を感じて屋内に避難してほしい。地下や建物の中なら天鬼の影響を受けないはず。朝顔が無事ならばどこでもいい。ここから逃げて、今すぐに。
「突風……そうか! 蓬木、私は低気圧のほうに向かう。お前はこいつの相手を頼む。急に暴れるかもしれないから注意しろよ」
そういうと颯爽と駆け出した。理由を聞けないまま俺はひとりになった。天鬼は依然として動いていない。朝顔もベンチに座っている。
「やってやるよ……! 俺が守るんだ。この街も朝顔も」
剣を構えて、グッと力を込めた。
* * *
陛下が言っていた——
『低気圧と高気圧が不自然に接近している——』
気圧が高くて、あの天鬼ばかり気にかけていた。冷静になって周囲の状況を見れば明らかにおかしな場所がある。低気圧だ。
天鬼が気を吸収して高気圧になるのは理にかなっている。近くに低気圧があるのは通常ありえない。気の流れで低気圧が発生してとして、近くても数十キロメートルや百キロメートル離れた場所にできる。こんな数十メートル場所にあるはずがない。
西四丁目まで戻って、大通公園から札幌駅方面に走った。道ゆく人は私に気がついていない。多少ぶつかっても致し方ない。今は急がないといけない。
突風が吹いて街路樹を揺らす。次第に気圧が低くなってきた。
「私の予想が正しければ……」
大通公園と札幌駅のおよそ中間。札幌市北三条広場、通称アカプラ。
北海道庁赤れんが庁舎や赤れんがテラスが近くにあり、地面は赤れんがが敷き詰められている。脇にはイチョウ並木があって、定期的にイベントごとを催している場所。
「あった」
広場の中央にそびえる一本の砂の柱。まるで木のように根を張っている。上部にある球状の突起物に土の気が吸われている。そのせでい周りと比べて気圧が低くなっている。突風が吹くのもこの気圧差が原因とみて間違いない。
吸収された気はおそらく天鬼に送られている。早くなんとかしないと、天鬼が覚醒してしまう。
ジャケットは着たままで仙器を取りだす。双水を首にかけて軽くストレッチをする。相性は最悪。土は水に対して有利に働く。
単純な物理火力で勝負するか、水侮土、つまり膨大な水の力で土を凌駕するかの二択。
仙器を構えて、呼吸を整える。
「まったく、面倒な天鬼だ」
低姿勢で弾けたように走り出した。勢いをそのまま双水にのせる。右手を放して左手を軸に回転させ、後ろから回ってきたところを右手で掴む。体も一緒に回転して速度を上げていく。左手を放し、右手を使って鞭のように振り回す。狙うは柱の根元。
“ブオン”
突風で双水があおられた。速度が激減した一撃は表面の砂を数粒落としただけ。それどころか、周りに砂をまとい始めた。
「これは厄介だな……」
* * *
敵の攻撃を剣で受け流して、前方に回避する。
「急に攻撃してきたぞ……! どうなってんだ」
さっきまで大人しかったのに……どういう風の吹き回しなのか。一撃一撃はそんなに重くはないが、速度が速い。それにくわえ、砂で視界が遮られる。攻撃をいなすので精一杯だ。
——蒲さんが注意しろって……まさか、向こうでなにか起きたのか。
“キンッ”
他人の心配をしている暇はなかった。天鬼と距離を離したいが、砂のせいで距離感が掴めない。今見えている砂はおそらく気が具現化したもの。でもいつ黄砂が札幌に降り注ぐかわからない。
黄砂の被害はインフラ、作物、人体にまでおよぶ。降り始めたら最後、砂と混乱が街を包む。
「どうすれば……あ! あれならワンチャン」
修行のときにこっそり練習していた技。といっても、資文さんや蒲さんの真似だけど。
剣を両手で握って集中する。剣先に意識を向けて、送る気の量を増幅させる。イメージは植物の蔦を剣に巻きつけるように。それを何重にも重ねて剣を大きくさせる。
「技名とか……ってそんな余裕ない! 集中集中……」
練習のときはうまくできなくて、ただ体の気を消費しただけだった。でも今回はいける気がする。それが着ている戦闘服のおかげか、はたまた近くに朝顔がいるからか。もしくは気のせいか。
剣に巻きついた蔦は先端を尖らせた。切り込むというより突き刺すのに特化している。突き刺したあとは気を解放して四方八方に蔦を伸ばす。というイメージは万端。
「よし、あともう少し……」
「ゲゲェェェ!!」
飛びかかってきた天鬼を寸手でかわす。溜まっていた気が散ってしまい、ただの剣に戻った。
「くっそ……気を溜める時間がない! それになんかこいつ怒ってる……?」
それだけじゃなかった。気を大量に使ったせいで、体内にほとんど残っていない。これ以上気を使うと命の危険がある。
予想以上に代償がひどく、目の前がテレビの砂嵐のようにかすむ。
「ケケケケケケ!」
体はふらつき、剣を持っているだけで精一杯だった。右から、左から。高スピードの連撃をサンドバックのように受け止めるしかできなかった。
——朝顔は無事か……。
気を逸らした瞬間、天鬼の爪が頭上から襲いかかる。
「やばい……!」
* * *
「ぺっ……! 三小……砂が口に入りやがる……。文字どおりサンドバックみたいで体術も全然効かない。どうすれば……」
砂の塔に傷ひとつなく、さらに規模を増していた。こういう無生物を模したものはやりにくくて仕方がない。動きというものがないし、隙も伺えない。基本、返し技や相手を翻弄するのを得意としている私はこういう単純に破壊しろというのは専門外だ。
「ゴホゴホ」
「大丈夫?」
「なんか急に埃っぽくない? それになんだかクラクラする」
通りすがりの人々に影響が出始めた。大気中の気を吸収しすぎて、今度は人からも気を奪っている。このままだと気の枯渇で死人が出る。
東の民に砂が見え始めているのも非常にまずい。予想以上に早い。この公害を阻止しなければ。
「せいっ!!!」
双水を柱に巻きつける。絡まったのを利用して、一気に引っ張る。折れてくれたら上々、固定されれば至近距離で気を打つことができる。どっちにしろ……。
「なにっ!?」
鎖はそのまますり抜け、勢い余った体は後ろに倒れた。上を見上げた瞬間、砂の塊が私を狙っていた。
「まずい……!!」
* * *
右からのひっかき、後ろにまわって噛みつき。飛んでから踏みつけ。
敵の動きが素早くなるにつれて、俺の体力は奪われていく。砂の奥から天鬼が睨む。狂気に塗れた瞳は俺の体を震わせた。
そのとき、心の奥がキュッとする感覚がした。
「無理……」
涙がもう出かかってる。目を瞑って、必死で見ないようにした。体に力なんて入らなかった。ただただ、恐怖で固まっていた。
——任務なんてどうでもいい。俺の知ったことか! 天気は自然現象なんだよ……!!
無責任なことはわかっていた。俺だってこんなこと思いたくない。でも責任感より恐怖が遥かに上回っていた。
正直いって情けない。今流れてる涙はどっちの涙なのか。
「ケッケケケケ」
「もうどっか行けよ!!!」
手に持った仙器を天鬼に向かって投げた。しかしそれが当たることはなかった。すっと避けられた。嘲笑うような雄叫びが聞こえてくる。
耳を塞いで独り言をぶつぶつと言う。こうすると、自分の声以外なにも聞こえなくなる。それでいい。何時間でもいい。耐えていればじきに済む。もしあいつが俺を引き裂こうとしても、見えてなければ怖くない。一瞬で終わるはず。どうにしたって逃げれない。それがわかっているから、余計に心臓がバクバク動く。残り少ない体力を削っていく。
——死にたくない死にたくない死にたくない……!!!
“リン”
頭の中に鈴の音が響いた。はっとして目を開けた。顔を上げると、そこには天鬼がいた。体は正面を向いているが、顔だけ横を向いている。じっと何かを見つめている。
そのとき、心の奥がキュッとする感覚がした。
「やめろぉぉぉぉぉ!!!」
枯れた叫びは自分に響いた。枯渇していたはずの気力も体力も限界を超えた。がむしゃらに走った。手をついて芝生を掻いた。間に合ってくれ、やめてくれ。そんな感情が俺を動かす。
案の定、天鬼は走り出した。朝顔に向かって。それも、俺を追い抜いて。
——動け動け動け!! 動けよ!!!
何度試しても、足は動かなかった。
気力じゃもうどうにもならなかった。
天鬼が欲望のままに両手を伸ばす。
「あさ……がお……」
「お兄ちゃん?」
「陀玖流流星招、地瀑流!!」
轟音が鳴り響く。一瞬滝のようなものが見えた。その余波は凄まじく、打撃地点を中心に水飛沫がたった。
水飛沫とともに、天鬼も消えた。まるで川が河縁を削ぐように、水に流されていった。
そこに残っていたのは蒲さんだった。仙器片手に、もう片方をジャケットのポケットに手を突っ込んでいた。疲れた様子は見受けられなかった。川のせせらぎのように涼しげに遠くを見ていた。
仙器をしまってゆっくり近づいてくる。
「まこ……も……さん」
「しゃべらなくていい」
そう言うと、俺の背中に手を当てた。じんわりと暖かくなったと思ったら、不思議と体が軽くなった。目が覚めるように視界も脳もはっきりとした。
乾いた大地に水を垂らした感覚に似ている。体の芯にまで染み込み、やがて満たされる。
「水がなければ木は枯れてしまう。相生を利用した応急処置だ。まだ動くなよ」
懐から陣符を取り出した。それを地面に貼り付けて展開させる。
人ひとり分がすっぽりと入る陣が形成された。
「回復陣符だ。ここにいれば一定時間、気を蓄えることができる。ちょっとした傷も治るけど、これも応急処置だからな。陣が切れるまでおとなしくしてろ」
さっきは指一本も動かせなかったのに、今は座ることができる。
蒲さんはどこか歩いていった。それについていくこともできず、言われたとおり、おとなしくすることにした。なんとも情けない。
「あれは……俺の本心だった……」
逃げたい、怖い、死にたくない。すべてに嘘偽りがなかった。そしてそれを実行した。
妹守ると決めたのに、妹を探すと決めたのに。
——誓ったのに……。
陛下の前で契約の儀をしたとき、修行を始めたとき、家族が殺されたとき。そのときあった気持ちはどこへ行ったのか。厳しい修行を乗り越えた意志はこんなにも弱いものだったのか。気象師になったのは浅はかだったのか……。
“カチャ”
蒲さんが目の前に立っていた。手には俺の仙器が握られていた。
それを受け取り、静かに目を落とす。
「仙器を手放すな。これはお前の意志だ。後悔したいのか反省したいのか、自分の頭で考えろ」
はっと目を開く。俺はなにも言えなかった。責め立てるように言ってるわけじゃない。いつもの蒲さんの口調で涼しげに言っていた。それが余計に心に刺さる。これを後悔と言うんだろうか。
俺の顔が剣に映る。ひどく、ひどく、惨めだった。
大通公園に風が吹いた。柔らかな夏の風が木々を揺らす。天気がよくなった証拠。でもそれは蒲さんのおかげ。俺はなにもしていない。
初陣は苦い結果となった。
「そんなにへこむなよ。いじめてるみたいじゃないか。それにまだ仕事は残っている」
そういうと、親指で後ろを指さした。そこには小さな天鬼が数体いた。大体中学男子くらいの身長。ボケッと突っ立っているもの、しゃがんでいるもの、砂を出しているもの。見た感じ害はなさそうだった。
「土の気が散って、その余波でできた天鬼だ。放っておいても害はない。でも倒しても問題はないし、そっちのほうが安全。頼めるか?」
「……うん」
「よし」
重たい体を持ち上げる。重たいのは体だけじゃない。剣も、心もだった。
蒲さんの意図は読めた。俺のためだ。不甲斐ないという言葉に尽きる。
彼女がポンッと軽く背中を押してくれた。深呼吸して走り出す。練習どおりに斬りかかり、重心を前にして別の天鬼を突き刺す。
あっという間に倒せた。
「やればできんじゃん。初討伐おめでとう」
「うん。でもこれを初には入れたくない。もっと修行しないと……」
太陽が雲に隠れて、地面がかげる。涼しく感じたのも束の間、雲が通り過ぎて眩しい光に照らされる。
「じゃあ最後の仕事に取り掛かるか」
「まだあるの?」
「ああ、最重要任務だ」
「ゴクリ……」
◯
「うまいぃ!!」
「陛下、あまりそういうのは……」
「いいじゃろ、この“まるごとやんバナナ”略して“やんバナ”がうま過ぎてたまらん。お主もひと口どうじゃ?」
「結構です」
「ど・う・じゃ??」
「じゃあいただきます……っ!? ま、まるごとやん……!!」
「じゃろ!」
最初のコメントを投稿しよう!