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* * *
気がついたらまたあの空間にいた。
澱んだ水の中のような、無重力空間にいた。
“リン”
唐突に鳴り響く鈴の音。妙な親近感とともに記憶がフラッシュバックした。
『お久しぶりです』
『あ、あんたは……あのときの! ここはどこなんだ、お前はだれなんだ!!』
『お答えしてもよろしいのですが、今、あなたのお仲間が黄泉の客としてお迎えがきています』
『黄泉の客……それって……死ぬってこと』
『素晴らしきことです』
『ふざけんな!! 大体なんだよ、急に現れてそんなこと言われても……。俺にどうすれと……ここにいるってことは俺もそうなんだろ?』
『身を、預けてください』
『え、身を預ける? そんなこといわれ……』
『どうなさいますか』
『……わかった。でも、あとできっちり説明してもらうからな』
『ふふふ、ご案内いたします——』
◯
蒲さんの気が尋常じゃない速度で膨れ上がった。普段感じている水徳の気じゃない。表情もつらそうで、ときどき自我を奪われたように目が裏返る。獣のうめきごえも彼女の喉から聞こえる。
今まで任務のとき、水徳の蒲さんが木徳の俺をサポートしていた。五行思考的に俺らは相生で味方なら相性がよかった。でも今回は違う。火徳になった蒲さんを、今度は俺の気で支えるんだ。立場が変わってもやることは一緒。胸の奥から生えてくる自信は根強かった。
ボロボロだった蒲さんは薪をくべた炉のように、内側から命を燃やしていた。
「いけるかい?」
「ゔぅぅ……大丈夫……。こんな姿見せることになるとはな。自分で見るのも初めてだけど」
「お互いさまさ。雨でゆかるんでるから気をつけて」
「お前もな。まったく……」
「いつもと同じで……」
「「面倒くせぇぇ天気だなっ!!!!」」
次の瞬間、ほぼ同時に、駆け出した。泣いても笑っても、これが最後の戦いだと胸に刻みながら。
* * *
豊平川の上流に向かって進んでいた。決壊したと思われた定山渓ダムは無事だった。さっぽろ湖を越えてさらに奥までやってきた。
「こ、これは……」
地響きとともに、木が薙ぎ倒される音が近づいてくる。
遥か遠くに見えたのは水の壁だった。こんな木々が生い茂っている森の中で、はっきり見えているということは、相当な水量だということ。
「まさか、あれをどうにかするってこと……じゃないよね?」
「嫌なら帰っていいぜ」
あまりにも想定を越えていたせか、頭がこれは夢だと思い込んでいる。
俺らがいる地点に水がやってくるまで、およそ一分。悠長に作戦会議をしている暇はないが、でたらめに動いてどうにかなるものでもない。ここはあいつの……。
「腕前にかかっている、そういいたいのでしょ。資文」
“ピシッ”
自前のセンスをピシリと閉じて、不適な笑みを浮かべる。どうやら俺の心配は杞憂だったらしい。小さいころからこいつは頭の回転が速い。特に香美が隣にいるときは俺が悩むまえに答えを叩き出す。そういうやつなんだ。
班員それぞれに指示を出す。その言葉には無駄がなく、馬鹿な俺でも作戦を理解できた。
仙器を手に取るもの、肩を回すもの、気をためているもの。
“ピピッ”
音にびっくりした小鳥が逃げていった。
これが、大自然様との開幕となった。
「いくぞ!!!」
* * *
ほぼ互角だった。いや、ふたりで互角という時点で、この男の力を十分に理解した。
攻撃のスピードは蒲さんのほうが速かった。さっきまで自分の意識と戦っていたが、今はほぼ完全に自我を失っている。俺も正直いうと、うまく気の放出を制御できていない。口の開いた風船のようにただひたすらに飛び出ている。
気の相性や戦闘の状況を考えると、俺が彼女の動きに合わせるしかない。でも……。
——体が……慣れない!!
まるでだれかに操られているかのように、ひとつひとつの動作に違和感を感じる。格段に運動能力が上がっているのはわかるが、普段しないような避け方を自然とやっている。
“身を、預けてください”
傘で突く攻撃も、いつもなら仙器で軌道をずらすが、重心をずらして紙一重でかわす。その流れで傘を掴んだ。放出する気から蔓を生成し、傘に絡める。この傘が仙器と同じ役割なら、それを奪えば本領を発揮できない。奪われないように手を離さなかったら、足止めになる。
俺にない経験が好機を招いた。もし野生の勘で動いてくれるなら、背後に……。
「ヴゥゥゥァァア!!」
予想したとおり、爪をたてた蒲さんがうなじめがけて飛翔した。瞬間かつ部分的に気を放出し、アフターバーナーのように加速する。腕は後ろの限界まで引かれ、力を溜めている。彼女の目が光の線を描いたそのときには爪が数センチのところにきていた。
——もらったっ!!
「甘いね」
心を読まれ、ドクンと大きな心音を鳴らした。
やつは傘を開いて、それと同時に蒲さんの腹部に蹴りを入れた。きつく巻いていた蔓だったはずなのに、内側から崩れる感触が伝わってきた。力が反射して俺に返ってくる。自分の体で感じて、初めて脅威だと思った。守ることも、消すことも、どちらにも使える。この人も多分、そういう道の選択をしたんだろう。
地面を転がり、重たい頭を上げる。敵の後ろには息苦しそうに腹を抱えて悶えている蒲さんがいた。自分が加速した分が自分のダメージになったのだろう。軋む音がしたのは、無防備の腹にもろ入った証拠。声に出ない叫びがそれを物語っている。
「蒲さんっ!!」
とっさに蔓で包み込み、揺籃を形成する。少しでも気を吸収して回復してほしかった。あの状態の蒲さんなら、獲物の息の根を止めるまで食らいつくに違いない。内臓までやられていたら、動いているうちに内出血で死んでしまう。それは避けたかった。
回復用の陣符と違い、ただ外部から保護しただけ。蒲さんの超低気圧があるから気を吸収して己のものにできる。他の人に同じことをしても効果はいまひとつだろう。決定打がないのにもかかわらず、結局これも時間稼ぎにしかなっていない。
「時間稼ぎ……そうかっ!」
「随分のんきだねぇ。早く起きないと……ふんっ!!」
傘大きく振りかぶって狙いを定めていた。フラッシュバックするように重い一撃が脳裏に浮かんだ。振り下ろされるのとほぼ同時に、横に転がって回避する。空振りした傘は地面に刺さり、泥水を周囲に撒き散らした。
顔についた泥を拭き、相手に近づく。手のひらに集中して、構造を具体的に思い浮かべる。
——細く、大量に……もっとだ、もっと高密度の……。
傘の攻撃を避け、その隙を狙う。傘を握っている手に、気を溜め込んだ右手で触れる。
相手の手首には淡い緑色の光が巻き付いた。そのまま体を捻り、首裏を触れる。手首と同じように、首輪のような光を形成した。その瞬間、光が蔓へ変容し、手首と首の間にも蔓が張られた。
「なにっ!!」
縮むように蔓ができるため、触れた二箇所を結ぶ蔓がピンと弦のように張り詰める。直接的な拘束というより、簡易的かつ部分的に制限をつける。相手の隙を作る。それが俺の役割だ。
奇策に不意をつかれた敵はバランスを崩して傘を振り回す。
「ヴガァァァァ!!」
揺籃を盛大に破壊して蒲さんが炎を纏う。低姿勢から一気に背伸びをして、左手を振りかぶった。纏っていた炎が三本の爪になり地面を縦に抉りながら飛んできた。
狙いは不自然に右手を上げているあの男。
「まずい……!!」
* * *
三本の大木が俺を襲う。足場のわるいこの場所で避けることもできず直撃した。
「こんにゃろぉ……」
腹が立ち、一本の大木を掴み、横に放り投げた。
これもあいつの作戦だった。迫り来る水流を分散させ、進路を変える。ダムまで来てしまったら決壊するのは時間の問題。それまでに食い止めなければならなかった。
主に土徳である智明と無咎が先陣をきって堰き止める。智明にいたっては、土徳の中でも個性が土石流。これ以上にないほど適任だった。
「土石には土石! チェスト!!!」
智明は正面に立ち、ありったけの力をぶつけた。波が岸にぶつかるような轟音が鳴り響き、水流は上へ弾かれ、壁のようになっていた。
それでも水の勢いは止まらなかった。智明を避けるように流れた土石流はダムに向かって走り出した。
「くるぞ!!」
「任せて! “竹立てかけた竹立てかけの竹”!!」
藍藍が仙器を地面に突き刺した。地中からゴロゴロと音が鳴り、あたり一面に竹が生えてきた。一本だと細くて土石流には効果がないが、何本もの竹が波の勢いを削り、防波堤の役割をする。
進路を変えることはできないが、地中深くから伸びた竹はちょっとやそっとじゃ倒れない。
「金剛人虎」
他のみんなも動き出した。李徴は体を鋼に変質させ、岩を砕き、地面に向かって打撃を繰り出す。あいつが通ったあとには窪んだ道ができていた。それに導かれるように土石流の一部が道をずらし、森の奥へ流れていった。
俺も効率を上げるために、大木やら岩やらを片っ端に置いて、李徴を援護した。
無咎と大安も同じく、水流を曲げることに専念していた。無咎が土から土人形を生成し、土嚢のように配置する。その横では、大安が髪の毛を立たせて歯を食いしばっていた。
「電気で水流を曲げるって……自分、そんなことやったことないよ!」
「弱音吐くんじゃねぇ! 全然曲がってねぇぞ!! もっとバチバチためろ!!」
「やってるって!!!!」
香美の継続的なバフもあって、状況は悪くなかった。といっても、いまだ勢いは衰えず、一秒たりとも気が抜けなかった。
膝まで水に浸かり、流されないように集中しているってのに、水に紛れて小石や木の枝がペチペチ体に当たる。普段なら気にしないのに、焦りからか、じわじわといらだちが蓄積されていった。
「ぐ……まずいっ! 全員後退しろ!!」
智明の叫びが森の中に響く。何事かと彼のほうを向こうとしたとき、急に世界が暗くなった。はっとして見えげると、そこには巨大な岩が迫っていた。
とっさに拳が出て、岩を真っ二つにする。しかし、その奥にも岩があった。ひとつやふたつじゃない。産卵期の鮭のように、数多のそれが水に流されていた。
自然界にこんなに岩が出るわけがなかった。人為的ななにかを疑ったが、迫り来る岩がそれを考える時間を与えなかった。
「きゃあ!!」
「うわっ!!」
ぬかるんだ地面が滑り出し、土砂が崩れた。智明の指示も乏しく、そこにいた全員が水にのまれた。ひどく濁った泥水が口や鼻に入り、激痛を与える。どっちが上か下かわからなくなったが、少なくとも岩にぶつかっているのは感じた。
このままではまずい。そう頭ではわかっている。焦れば焦るほど、水から出れなかった。
“ゴンッ”
岩の角が頭に直撃した。すーっと遠のく意識が最後に見たのは暗く濁った世界だった。
◯
「僕もう疲れちゃった。もういいでしょ。しゅーりょー、しゅーりょー」
「岩紅、お前体力落ちたな」
「どれだけ長時間戦ってるか知ってて言ってんの?? 震こそ全然じゃん。私が建てた岩壁壊せなかったじゃん。雨をためた岩壁を君の力で壊して、全方位に拡散させる予定だったじゃん。なのに中途半端に穴空いて、ダムのほうに流れちゃったじゃん。華猫もなんか言ってやってよ」
「別にこれが失敗しても成功しても、私たちの任務には影響ないの。あのおかたが戦いやすいように戦力を分断する。それだけなの」
「相変わらず、冷静じゃん。まあいいっか。今ごろ、どうなってんかな」
* * *
「くそっ……邪魔くさいな!」
「そこっ!!」
手錠のような蔓をさらに腰と左手首につける。ひとつひとつは脆く、数秒で引きちぎられてしまうが、気を取られて隙をみせている。
最初はどうやってふたりで攻めていこうかとばかり考えていた。蒲さんの動きに合わせて剣をふり、敵の攻撃、地面、周りの状況など、気が分散していた。体がいつもの自分とは違うとはいえ、中身は俺だ。普段の癖が出てきてしまう。
しかし、俺が牽制に専念することにより、蒲さんの攻撃が格段に当たりやすくなった。仙器をしまい、相手の攻撃をかわす。あとは余裕があれば体に触れて蔓を巻きつけるだけ。
すべてをこなすのではなく、役割を分担して仲間と戦う。これを協力というのだろう。野生的に動く彼女を最大限に活かせれるのは……。
——俺だけだ!!
いくら蔓を千切られようとも、どれだけ距離をとられようと、近づいてまた蔓を巻きつける。攻撃は一切せず、それに集中する。
傘男が空中で一回転をし、踵落としを繰り出す。サイドステップで避けて、すかさずその足に触れた。もう片方は自分の左手首。このとき俺は、相手の動きを見切っていた。
反動を利用してうしろに向かって距離を取ろうとする。しかし、蔓で繋がった俺が足枷となり、背中から盛大に転んだ。何度か繰り出していた踵落としにやっと順応できた。とっさの判断がうまいこといき、鳥肌のようなゾワゾワとした高揚感を感じた。
傘で蔓を切ろうとした彼の上空に、赤い火の玉が浮かんでいた。垂直に落下してきたそれはうめき声をあげていた。
「ゔぅぅあぅぅぅ!!」
「こいつっ……どこから!!」
蒲さんの炎で蔓が焼け切れた。業火の近くでは呼吸すらできず、巻き込まれるまえに退散した。こうなると俺は手出しができない。相手が力尽きるか、逃げるか。それを待つしかなかった。
揺籃でバフを試みたが、あまりの熱で消し炭になってしまった。それが蒲さん養分になっているのか正直わからない。獲物を食らう餓狼をただひたすらに眺めていた。
「なるほど……そういうことか……」
“バフン”
急に視界が白くなり、たまらず腕で顔を守った。煙幕、いや、これは水蒸気だ。蒲さんの熱で急激に蒸発し、煙幕のように水蒸気が発生したんだ。おそらく、水を噴射したのはあの傘男。
白いもやがはれ、景色が見えるようになった。しとしと雨が降る中、その男は優雅に傘をさしていた。自分が噴射した雨粒を確認するように、音を聞きながら見上げていた。敵ながら、絵画のようにさまになっていた。
「いやーほんと君たちには驚かされるよ。さすが原初の力だねぇ。この戦い、そろそろいいかな」
「げ、原初……なんのこと言って……」
俺が言い切るまえに、蒲さんが飛びついた。そうだ、今は敵に集中しないと。
地面を蹴って近づき、さっきと同じやり方で蔓を巻きつけようとする。右手首に触れて、次は……。
“ジュワ”
もう一箇所触れるまえに蔓が焼き切れてしまった。動揺した俺は反応が遅れ、だれもいないところに手を伸ばしていた。それを嘲笑うかのように、重たい裏拳が後頭部に直撃した。鐘をついた衝撃が頭に響く。吹っ飛ばされているのかどうかも、ぐわんとした脳では判断ができなかった。
地面に倒れ、すぐに起きあがろうとする。こんな隙を見せていたら、また攻撃を喰らってしまう。目の焦点がじわじわあってきた。いつでも対応できるように身構える。しかし、目の前に傘男はいなかった。俺なんて目もくれず、蒲さんの相手をしていた。
蒲さんが地面に手をつくと、地面が赤くなり、火柱が上がった。それをまた、あの水蒸気で姿をくらまし、彼女の背後を取る。
「蒲さん!!!」
腰を低くし、前に突き出すように掌底を打った。死角からの攻撃を避けられるわけもなく、背中を反るように飛ばされた。
「くそやろう……」
感情で体を動かす。泥で滑るのもお構いなしに、突き進む。
傘を持った右手に触れようとしたそのとき、傘の柄ではたき落とされ、手首をぐっと握られた。
「君は頑張ったよ、うん。あの蔓は実によかった。でも、相性が悪いね。君の蔓は二箇所に触れなければ具現化しない。だから二回触られるまえに、君の右手から出ている蔓を焼き切ればいいんだよ。あの女の子のそばにいれば自然に焼かれる。まあ、あの子もそろそろじゃないかな。業火に熱せられた体はそう長くもたないよ」
奇策の弱点を敵から教わるなんて思いもしなかった。胸の奥がざわつく。それが俺の技を対策されたことなのか、蒲さんが心配なことなのかわからない。確かなのは、恥ずかしさや悔しさに似た感情で頭が熱いことだ。
傘男が手首を掴んだまま、自分に引き寄せた。体が密着し、不適な笑みが横切る。耳元で囁かれた言葉は俺の心臓をドクンといわせた。
「君、足手まといだね」
腹を突き上げる痛みが全身を襲う。手首を握られていたせいで、力の逃げ場がなかった。そのまま腕を巻かれ、背負い投げをされる。一瞬上下がわからなくなり、気づいたときには地面に叩きつけられていた。
奇策が対策されたいま、振り出しに戻ってしまった。それも、悪い意味で。
* * *
「資文、大丈夫か」
振り出しに戻ってしまった。あの激流の中、智明が助けてくれたらしい。周りを見てみると他の仲間も安全な場所にいた。
流れは収まっておらず、轟音を立てて進んでいく泥たちを眺めていた。もうそれは水流というより、土砂崩れに等しい。頭を打ったせいか、やけに冷静だった。街の様子をぼんやりとした頭で心配する。
「今、湖陽がひとりで食い止めている」
「てことは……さっぽろ湖まで行ってしまったのか」
さっぽろ湖、そこにはダムがある。それが決壊すれば、下にある街は確実に消滅する。湖陽の個性は湖。あいつがさっぽろ湖を担ったのはそれが理由だ。
「もう無理だよ……」
「なに言ってんだよ。まだ……」
藍藍の弱気な言葉に反応するが、ふといろんなものが見えた。応急処置をしている仲間、いまだ意識が戻らない仲間。そして目に入ったのは無咎の姿だった。
「……」
耳を両手で塞ぎ、身震いをしながら縮こまっていた。あいつのこんな姿初めて見た。いつもは強気なことをいって、突っかかってくるのに、今はただの怯えた子どもだった。呼吸も荒く、目から涙を流していた。
「おい、だいじょ……」
「待て」
声をかけようとしたら、智明が遮った。その眼差しはいつにも増して真剣なものだった。
「あいつの個性は知ってるな」
「確か、土偶だろ? それがなんだって……」
「昔、橋の上で人を待っていたら、氾濫した川に流されたらしい。そこを某が助けた。その中で生まれたのが土偶という個性。自己防衛と彼の意志が反応したと某は考える。逃げればよかったのにそうしなかったんだ。その体験を思い出してしまたんだろう」
思いもしないタイミングで、想像し得なかった過去を聞いてしまった。人の個性はなにかしら強力な影響を受けて形成される。それはいい過去ばかりじゃない。過酷な経験ほど心に根付き、力となる。ここにいるみんな、そういう人ばかりだ。
人の過去は生々しく、それを目の当たりにしているため、信憑性が高かった。無咎が慕っている智明の口から説明されたとはいえ、聞いてしまったという後悔が心を締め付ける。
「撤退だ」
「今なんて……」
一番恐れていた言葉が出された。ここまできて、大災害になるって知ってて、諦めるなんて俺にはできなかった。でも、この状況を理解できないほど子どもではなかった。
理想と現実に押しつぶされそうになる。策を考える頭は俺にはない。街のみんなが避難したと願って退散すべきなのか。それともギリギリまで足掻くか。街もそうだが、仲間のことも考えなければならない。下手をすれば、華仙郷に戻れなくなる人が出るかもしれない。そんなのは微塵も望んでいない。
「応急処置が終わり次第、湖陽と大通のふたりを回収する。資文と大安は……」
「……ざけんじゃねぇ」
「え?」
「ふざけんじゃねぇぞ!!」
走り出した。考えることをすべて放棄して走り出した。理論だとか効率だとか、そんなものは俺にふさわしくねぇ。今までも、これからも信念で動く。それが俺の……俺の憧れた……。
「気象師じゃい!!」
さっぽろ湖に到着すると、湖陽が気を使って水量を調節していた。勢いを相殺するように湖に渦を作り、なんとか食い止めていた。
「他のみんなは……ってなにしてるんですか!!」
近くに転がっていた岩を持ち上げ、湖の入り口に置いた。岩が流されないように全身を使って必死で押していた。作戦なんてものはない。もしかすると、こんなの無意味かもしれない。でもなにもしない後悔より、最後まで泥臭くやった後悔のほうが断然いい。
少しでも水の力がおさまるように激流に逆らう。
“ゴロッ”
水が覆いかぶさるように流れていく。岩が皮膚に刺さろうとも、何度も滑りそうになるのも関係ない。ただただ、脳筋的に押し込むだけ。そんな意思とは反対にとうとう岩が動き始めた。
——やばっ……!!
「なにやってんだ! もっと腰入れろ!!!」
そこに現れたのは無咎だった。肩で押すように、岩を押していく。さっきまでの幼顔はどこかへいき、いつものしかめっつらがそこにあった。
それだけじゃなかった。他の仲間も次々と加勢してくれた。岩や大木、竹でできた壁などを水流に押し当てて抵抗していた。その姿は決してかっこいいといえず、ボロボロの根性の塊だった。とっくに限界を超えているはずなのに、体は動く。
「某はバカだったな。大切なことを忘れるなんて」
「六華仙の座を俺に受け渡してもいいんだぜ」
「これを防いでからいうんだな」
ここまで仲間が一丸となったのはいつぶりだろうか。天鬼を倒すことが俺らの仕事。でも元をたどれば、天の気を調節し、災害から人々を守る。おそらく昔の人もこうやって体を張っていたのかもしれない。そんな妄想が、俺を奮い立たせる。
街が助かるなら、何時間でも何日でもこうやって食い止めてやる。その思いはみんな同じだった。
「「「止まれぇぇぇぇぇ!!!!」」」
* * *
近づいても、離される。さっきまでとうって変わって、攻撃が一切当たらなくなった。
蒲さんが背後にまわり切り裂こうとすると、地面すれすれまでしゃがんでかわされる。そこから一気に拳を突き上げ、腹に命中。攻撃のあとなら隙があるだろうと、俺も試みる。しかし、あたかも予期していたかのようにすかされ、背中を蹴られる。
がむしゃらに突進してもうまくいくわけもなく、また避けられ打撃を食らう。血反吐が飛び散り、意識も揺らぐ。なんとか視覚が戻ったそのとき、掌底を受けて地面を転がる。
何度も地面に体をぶつけてようやく停止した。顔を上げると蒲さんが戦っていた。
腕を掴まれ腹を殴られ、踏まれ、潰され。首を持って放り投げると、ボールのように空中で蹴った。飛んできた彼女を全身で受け止める。
「蒲さん、しっかり!」
炎が消えかかっていた彼女は力なく立ちあがろうとした。骨折とか内出血とかそういう次元の怪我じゃない。生きているのが不思議なほど、全身が痛々しかった。
案の定、立てずに倒れる。それでもまた立ちあがろうとしていた。そんな彼女になんと声を掛ければいいかわからなかった。失うのが怖くて、心の緊張が解けかけていた。
「あ、朝菊……」
か細い声は雨の中でも聞こえてきた。背中に手を当て、耳を近づけた。
「肉まん……食べたいな。夜市にも行きたい……。桜を見て、蝉の声を聞いて、紅葉狩りをして、雪だるま作って……。そんな日常おくれたらなぁ……。学校だって、最近楽しいんだ……お前がいるから。お前が一緒だから……私……」
泣きながら、小雨のようにポツポツと言葉を並べる。いつも強気な彼女が見せる意外な一面。いや、意外じゃないかもしれない。今目の前にいるのは気象師としての彼女ではなく、友人の蒲桃華だということ。
雫のように壊れそうな彼女の手を握る。地面に涙を落としていた彼女は顔を上げた。その瞳を優しく見つめる。
「俺も、蒲さんがいる日々が楽しいよ。怒ったり拗ねたり、あまり笑わないけど、どの表情も思い出も、ちゃんと覚えている。だから俺は……」
「君と出会えた、雨が好きだ」
手をすっと解き、立ち上がる。深呼吸をして全身に酸素と気を巡らせる。もう迷わない。彼女を守るためなら、この体がどうなってもいい。蒲さんを華仙郷へ避難させる時間は稼げるはずだ。
——持ってくれよ俺の体。
「待てよ……待ってて言ってんだよ」
ふらふらよろめきながら、俺の肩に手を置く。ぐっと指に力を入れて俺を睨みつけた。
その瞳はいつも以上に輝いていた。
「鈍感すぎんだろお前」
「え?」
「それでかっこつけてる気か? あーあ、なんか腹立ってきた……。なんかぶっ飛ばさないと気が治らないな」
そういって敵に目線を送った。ふらついてまともに立ててないのに、呼吸も荒いのに、どうしてそうも笑顔なんだ。
蒲さんが笑うときにはいつも決まっている。意地悪をするときか、怒りが一周まわったとき。または肉まん頬張るときくらいだろう。でも、どの笑顔でもない。いたずらっ子でも、純粋無垢な子でもない。彼女らしい、歳相応の女性の笑顔だった。
こんな状況でも、俺の目は釘付けだった。
「雨が好きなんだろ。じゃあ傘をささないとな。ちょうど最近買ったのが家にあるんだ」
「私の傘、入るだろ。全部受け止めてあげる」
ほのかに色づく雨中の花。赤く染まった頬に滴が当たって、ひんやり気持ちがよかった。
結局蒲さんのこと、なにもわかってなかった。どういう気持ちなのか、なにを望んでいるのか。もちろん、それらすべて理解したわけじゃない。少なくとも、心にある決意は同じだった。
蒲さんは肩から手を離して、自力で立つ。深く息を吐いて、新しい空気を取り込む。噛み締めるように息を止めると、目を鋭くして身構えた。
「いい技考えたんだけど、決定打にかけるんだよね」
「奇遇だな。私も考えたんだけど、隙がないとできないんだ」
「やるか」
「おう」
右手に仙器を握って、蒲さんにさす出すように腕を伸ばす。不意をつかれないよう、じっと敵を見ながら、左手で仙器を持った。ふたりでひとふりの剣を握る。剣を通して、彼女の気が伝わってきた。馴染みのある、流れるような気。
剣先を傘男に向けた。腰を徐々に落とし、お互いの気を練り合わせる。焦らず、じっくりと、性質の異なる気を剣に集中させる。周りの音が聞こえなくなり、彼女のことだけ感じた。
——ありがとう。
——こちらこそ。
反対側の手を前に出す。親指と親指、人差し指と人差し指をくっつけて、ふたりで三角形を作る。うしろに目一杯引いた剣をその三角形に通すように、ピッタリと軸を合わせる。
「まだやる気なんだ。じゃあこれで終わらせてやるよ!!」
雨にも負けず、敵が迫ってきても、微動だにしなかった。
風にも負けず、凛とした表情で目を瞑っている。
雪にも、匹敵する冷たさが指先を襲う。それでも、身震いひとつしなかった。
夏の暑さにも、耐えて特訓をした日々を思い出す。どんなときでも彼女がそばにいた。今度はちゃんと面と向かって感謝を言いたい。
たとえ絶望的な状況でも、俺と蒲さんは……。
「「負けない!!!!」」
“ボワン”
傘男がおよそ十メートルくらいまで近づいてきたそのとき、陣が発動した。地面から太い蔓が飛び出し、腹に命中する。貫通はしないで、枝分かれをしてやつを拘束する。巻きついた蔓はそう簡単に解けない。俺らの間合いに入ったいかなるものも即座にとらえる。一回死んだ経験も役に立つんだな。
身動きが取れない敵に標準を合わせる。木と水の気がドリルのように、剣先を軸にして渦を巻き始める。徐々に範囲は大きくなり、お互いの腕に当たりそうになる。
「合わせ技……」
「「螺穿!!」」
体のひねりを利用して、敵のさらに奥を狙い突いた。その瞬間、渦は俺らを包み込み、レーザーのように飛んでいく。十メートルの距離も、瞬きが終わるまえにたどり着く。体の中心、みぞおちに剣を突き立て、高速に回転する青と緑の光がその体をズタズタに引き裂く。
「「はぁぁぁぁぁあ!!」」
背中合わせで腕を伸ばし、さらに押し込む。ここで力尽きてもいい、ありったけの力を仙器に集める。一滴残らず絞り出した。
抵抗する暇も与えず、傘男を貫いた。余韻で十数メートル進み、まとっていた気が消滅した。体は乾き切っていた。気だけでなく、体の水分まで持っていかれた気分だった。
うしろをおもむろに振り向く。そこにはふたつに裂けた傘男だったものが落ちていた。それを目を見てから認識するまで、少々の時間が必要だった。雨も止み、あたりは静けさを取り戻している。優しく肌を撫でた風が現実を教えてくれた。
「やった……やったよ俺たち!」
「そうだな」
早朝のような涼しい表情でぽつりと声を出した。
終わったんだ。ようやく終わったんだ。
勝ったんだ。俺たち……。
「いやーまったくすごいね」
声の主は、とても聞き覚えがあった。傘男の死体のそばに、傘男がいた。まったくの瓜二つで、違いをあえていうなら服が汚れてなかった。目立った外傷もなく、道端で出会ったあのときのようだった。
なにが起きているのかわからず、目を見開いて唖然としていた。
「雨宿り」
傘男の声に反応して、地面に落ちていた死体が光り出した。青い気になったそれは傘男に取り込まれていった。それが終わったやつの体は青いもやがかかったように気を身に纏っていた。
ただ光っているのではない。膨大な気を体に蓄えていた。
「不思議そうな顔をしてるね。特別に説明してあげるよ。この技、雨宿りは自分と同等の分身を作って、それが破壊あるいは解除されたら蓄えた気を得ることができる技。敵が気を使えばそれを吸収する。もちろん欠点もある。分身がある限り、本体は身動きを取れない。分身も気を放出する以外技を使えない」
「そんな……」
今までやってきたことが無駄になった。そんな気がした。やつに攻撃をしているつもりが、養分を与えていたとは思いもしなかった。あまりにも度を超えた存在を目の当たりにし、悔しさのほかに、諦めざるを得ないという絶望を感じた。
命を削って、力を合わせたはずなのに、俺たちは分身を倒すのでやっとだった。今思い返すと、確かに体術や傘を使った攻撃しかしていなかった。その事実だけでも、心を折るのには十分だった。
「楽しかったよ。おふたりさんっ!!」
“バキッ”
間合いに入られたと認識したとき、俺たちはすでに痛みを感じていた。バットでボールを打つように、傘で胴体の真ん中を狙う。大きくフルスイングするとともに、うしろへ一直線に飛んでいった。
——あさ……がお……。
これが走馬灯なのかと客観的な感想を持った。結局なにも守れなかった。夕菊の居場所もわからない。友達の身も危険に晒した。俺は、なんてダメな兄貴なんだ。
魂が解放されるように、意識が薄らいでいく。
——ごめん……。
「うちの仲間になにするんじゃ」
* * *
まっすぐ飛んできたふたりをそれぞれ片手で捉える。伝わってきた余力が、彼らに与えた力を教えてくれた。それは人に向けていいものではなかった。
「おい、うちの仲間になにするんじゃ」
「久しぶりだね三、君がここにいるってことは……」
「あやつらはわしが始末した。こざかしいまねしおって」
「でも、足止めは成功したみたいだね」
久々に見たあやつの顔は、気取ったようにすまし顔で、気に入らなかった。歯をぐっと噛んだが、一旦冷静になる。ゆっくりふたりを地面に下ろし、懐から木簡を取り出す。これは応急処置用の回復陣と同じもの。わしの血を混ぜた墨で書いた特級品じゃ。
「雨に濡れるが、ちいとばかし堪えておくれ」
わしの到着がもっと早ければ……。
わしが朝菊を救出に行ってれば……。
わしが保護してたら……。
わしが契約を断っていたら……。
「君の仲間、弱いよね」
「戯言も大概にしろ!!!」
みんなが弱いんじゃない。わしが弱いんじゃ。わしが未熟じゃったから、みなが怪我をする。
このふたりは特に酷かった。桃華の体は皮膚が焼けて水膨れが割れておる。おそらく、瘋狗状態になったのじゃろう。まともに気を蓄える体じゃなかった。
朝菊も、普段とは違う気の流れを微量に感じる。なにか、いや、だれかが体に干渉したのじゃろうか。いずれにしろ、強い力に体がついていけず、気が枯渇していた。
今は一刻を争う。今すぐ治療をしないと、ふたりの命が危ない。別のところにいる他の班員も気になる。だからといってあやつが素直に引き下がるとは思えん。それに……今は腹の虫がおさまらない。
「仲間の強さはひとりひとりのつよさじゃない。支え合う力のことなのじゃ。それを絆というのじゃ! 人を信用しないお主に仲間を語る資格などない。それでも侮辱するのなら……」
「この三が許さない!!!」
右手を真横に伸ばして手のひらを外に向ける。臨戦態勢で相手の動きを見る。ちょっとでもふざけたことを言ったら、容赦なく殺る。
あやつは傘を広げて肩にかけた。
「雨が止んだみたいだね。なら降らせてあげないと」
一瞬でその言葉を理解できた。雨宿り状態のときのみ繰り出せる最強かつ必殺の技。あやつが今やろうとしていることは無差別かつ、非人道的で、禁術に指定されているのじゃ。
阻止せねばと近づこうとしたとき、壁に激突したようにはじかれた。触るとそれは結界だった。憎たらしいほど、どこまでも用意周到なやつだ。
手出しができず、なんとかして結界を解除したころ、地面に巨大な陣が形成されていた。
半径約五〇〇メートル。致死率一〇〇パーセント。範囲内に一滴ずつ雨を敷き詰め、雨の絨毯を形成する。術を発動するとともに、それはそのまま落下する。ほんの少しでも雨に触れたものはあの世行き。服の上からでも、傘をさしていても、貫通して皮膚に到達する。陣の内側に入っていれば、例外はなく死にいたるのじゃ。
「落ちるとこまで落ちたな……この腐れ外道がっ!!」
横に出した右手に陣を出す。気をためてさらに集中する。今からやるのは普通の術の発動とは違うのじゃ。さらに高次元の陣、いにしえの陣を形成しなければならない。
「人の闇に降り注ぎ……」
——間に合え間に合え間に合え!!
あいつの陣が先に光を放った。詠唱から発動まで時間があるといえど、急かされてるのと同義だった。ここで焦ると仲間を守るどころか、陣の発動すらできない。落ち着け、落ち着けと、自分に言い聞かせる。
「生命の理を解き放たん……」
“パキッ”
右腕に亀裂が入った。いにしえの陣を発動させる代償とでも言いたいのじゃろか。それなら……。
「腕のひとつやふたつくれてやる!!!!」
一気に気を放出させる。大きく広がった陣は地面を突き抜けた。地上に見えている上半分を確認する。間に合うかどうか五分五分。ちょっとでも気を緩めたら全員死ぬ。
——間に合ってくれ……!
間に合ってくれ……。
「天永に祝福を……」
「雨」
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