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桜というのはとても不思議な植物だ。特別香りがするわけでもないのに、桜の味や香りといわれたらなんとなく想像できる。春になると桃色の花を咲かせて、夏には深緑の葉を身につける。秋には赤く染めあげて、冬には雪が積もる。
この木ひとつで四季を感じられる。五感を刺激する。忘れたい記憶も、思い出す。
俺は桜が嫌いだ。過去も今も、これからも。
私は桜を知った。過去のも今のも、これからのも。
季節に流されて、景色は変わる。雨の日、晴れの日、曇りの日。天気ひとつでガラリと姿を変える。
手を伸ばせば触れられそうな距離に君はいる。でも触れてはいけない気がする。雨の雫のように、触れば割れてしまいそう。
手を伸ばせば触れられそうな距離にあなたはいる。でも触れられないの。あなたが晴れ空みたいに、眩しすぎるから。
雨のち曇り、曇りのち晴れ。
晴れのち曇り、曇りのち……。
俺は……。
私は……。
雨が好きだ。
◯
“続いて、全国の天気予報です。天気お姉さんの佐藤さーん”
毎朝見る天気予報。別に注意深く見るわけじゃない。テレビをBGMの代わりにして、学校に行く準備をするだけ。雨が降ってれば音でわかるし、外を見れば晴れているかどうかわかる。俺的には星座占いのほうが重要だ。
「今日も晴れか……ん?」
テレビの左上を見る。リビングの壁を見る。携帯を確認する。念のためもう一回テレビを確認する。
“午前八時になりました。全国のニュースです”
「遅刻じゃん!!!!」
中学だったら焦ることもなかったのにと心の中で文句をいう。高校まで片道一時間半。そもそも、俺の家から最寄りの駅までが遠い。自転車で十五分もかかる。ポンコツ自転車のチェーンが外れなければ。
「母さんなんで起こしてくれ……」
振り向いてもだれもいない。リビングどころか、家全体が静まりかえっていた。そんな気がした。
“ギシッギシッ”
階段からだれか降りてくる。一階に着いたとき、足音が軽くなる。
「お兄ちゃんなにしてんの」
汚いものを見るような目で俺を睨んでいた。セーラー服を着て、スクールバッグを肩にかけていた。地元でよく見かける中学生の制服だ。髪の毛もツインテールに結んで、非の打ちどころがないほどきちんとしている。
「あ、朝顔……」
「入学早々もう遅刻してんの。どうせ寝坊したんでしょ。お母さんは早番だし、起こしてくれる人いないもんね」
「俺の目の前にいる人はどうなんですかね」
「いやよ」
「冷たいなぁ」
「遅刻おつ」
さっと髪をなびかせて玄関に向かう。蓬木朝顔、俺の妹だ。人に興味がないのかと思うくらい冷たい。基本的に仏頂面か見下すような笑いしかしない。まあそれでも、学校の成績はいいし、家でもしっかりしている。面倒くさがるのが玉に瑕だけど。
スニーカーを履くのを見届ける。ふわっと立ち上がって玄関のドアを開けた。
「学校には行ってよ、お兄ちゃん」
「はいはい、朝顔も気をつけて」
「あいよー」
パタンとドアが閉まる。相変わらずそっけないけど、なんか嫌な気にならない。妹だからかな。
「あれ、お兄ちゃんも今日学校休みなの?」
後ろからひょっこり出てきた。パジャマ姿のもうひとりの妹。といっても双子だから俺と同い年。長い髪の毛が寝癖でぐしゃぐしゃになっている。
「あーそういえば、夕菊の学校は開校記念日だもんね」
「そうだよん」
明るいというか楽観的というか、彼女はふわふわしている。昔、猫を追いかけて迷子になったことがある。こういうのを天然っていうのかな。
生まれてからずっと俺らは一緒だった。考えていることも、好きな食べ物も一緒。性格はちょっと違うけど、長男長女としてお互い支え合っている。
「ねぇねぇお兄ちゃん、帰りにさ、シュークリーム買ってきて! ほら、札駅の地下にある有名なお店の」
「しょうがないなぁ。代わりに皿洗いしてよ」
「了解であります!」
ニカッと笑って敬礼する。夕菊の笑顔は西陽のように暖かい。どんなつらいことがあっても、吹っ飛んでしまう。
頭に手を乗せて、優しく撫でる。彼女は決まって猫のように頭を寄せる。無意識でやっているのがあざとい。すぐ彼氏とかできそう。もしそうなったら俺は……なんでもない。
「ってこうしちゃいられない! 列車まだあるかな……あぁもういいや!」
パパッと制服に着替えてカバンを背負う。教科書とか資料集とかたぶん入ってる。うん。最悪ノートさえあればなんとかなる。今はとりあえず必要なものだけ確認しよう。
——携帯、財布、定期券……。よし、全部ある。
階段をドタドタと駆け降りる。母さんがいたら怒られるやつだけど、今日は仕方がないし問題もない。あとは靴を履いて出ていくだけ。
「なにかあったら連絡しろよ。知らない人が来ても出ちゃダメだぞ。それから……」
「はいはいわかったから。お兄ちゃんは学校に行っておいで」
背中を押されて無理やり立たされる。玄関のドアを開けると眩しい光が入ってきた。
「いってきます」
「いってらっしゃい!」
今日は天気がいいみたいだ。
“続いてのニュースです。東京でまた異常気象です。現場の……”
◯
「な、なんだよこれ……」
札幌に着いて地下鉄で月寒中央までやってきた。そこまではよかった。それなのに……。
「土砂降りじゃねぇかっ!!」
自転車を漕いでいるときも、電車に乗っているときも、なんなら札幌駅内から見えた外の景色も快晴だった。地下鉄乗った、降りた、はい土砂降り。とんだ異常気象に一周まわって、ちょっとだけ浮かれる。けどやっぱり面倒くさい。今朝の天気予報はなんだったのか。
「今週ずっと晴れだったんじゃないのかよ……。寝坊したバチが当たったんかな」
わかっていながらカバンの中を確認する。もちろん折り畳み傘なんてない。今ある装備は学ランだけ。アニメみたいにカバンを上に持ち上げる方法もある。けど俺はスクールバッグじゃなくて普通のリュック。それに教科書やらなんやらが重たくて腕が疲れる。
コンビニで傘を買うしかないのか。でも最寄のコンビニは駅と学校のちょうど中間の位置にある。そこまで行くなら、さっさと学校に行ったほうがいいか? でも帰りのときに雨降ってたら厄介だし、今買っておいたほうがいいかも。いやまてよ、そもそもお金あるか?
財布を取り出して中身を確認する。
「三〇〇円って……遠足かよ」
フーッと息を吸って吐き出す。とうとう諦めがついた。ここにいても止む気配ないし、どうやっても濡れるなら早く行きたい。
軽く頭をかく。天気のせいにしようにもできない歯痒さを感じる。
——くっそ、もうどうにでもなれ!
雨が真下に降り注ぐなか、一心不乱に走った。制服のおかげで多少水は弾いた。どのくらい持つかは知らない。中学校のときから着ているこの制服を信じよう。
こんな土砂降りなのに傘をささないなんて目立つに決まってる。何人か傘をさした人とすれ違った。みんな好奇の目を向けていた、気がする。雨がひどくてまともに目が開けられない。ましてや走っていると横から雨があたる。雨音も耳奥に響く。他の音なんて聞こえやしない。ほかに感じるのは雨の日独特の臭いだけだ。
走れば走るほど濡れる。濡れれば濡れるほどどうでもよくなる。不思議と落ち着いている俺がいる。
“ドンッ”
雨に目をやられてて人にぶつかってしまった。とっさに振り向いて「ごめんなさい!」と叫んで、すぐ走っていった。失礼だけど、こっちもそれどころじゃない。運よく青信号になった横断歩道を駆け抜けていく。
——そういえば、今の人……気のせいか。
◯
結局教室に着いたころには一時間目が終わっていた。おかげで先生からとやかく言われることはなかったけど、その分友達からいじられる。制服はびしゃびしゃだし、髪もぐしょ濡れ。幸い、カバンの中はそこまで被害がなかった。教科書の端がちょっと湿っているくらい。
あんなに晴れてて暖かかったのに、今や土砂降りで肌寒い。濡れているせいか、鳥肌まで立っている。
——タオル持ってきてない……最悪。
前髪から滴る雨の雫が、机の上に落ちる。それをぼんやりと見つめていた。ハンカチでどうにかなるかな。いっそのことトイレに行って、トイレットペーパーを使うとか。
「朝菊……」
名前を呼ばれて顔をあげる。下の名前で呼ぶのはあいつしかいない。
「なんだよ……ッゴフ!?」
その瞬間、顔めがけてなにか飛んできた。顔を守ろうと腕を動かすも、間に合わなかった。中途半端に上がった両手は行き場をなくしている。
顔面に直撃。あれ、でも痛くない。痛いには痛かったんだけど、それは濡れた肌が敏感に反応しているだけ。パサッと腕に落ちたそれを見てみると、タオルだった。
「ちゃんと受け取れよー」
「そんなとっさに反応できるわけないだろ」
笑いを交えて俺のほうに歩いてくる。学ランの内側にパーカーを着て、ボタンは閉めないで開放的な見た目。校則に引っ掛かるが、顔がよくてさまになっているのが腹が立つ。
彼の名前は清水仙、小学校の幼馴染だ。卒業とともに彼が札幌に引っ越したため、一緒の中学校には通えなかった。
高校の入学式当日に話しかけられたのを覚えている。つい数週間前の話だけど。初めはだれかわからなかった。だって昔は半袖短パンで鼻水垂らしているようなやつだったから。人ってこんなにも変わるんだな。
「災難だったな、朝菊が来るまじでちょっとまえは晴れてたんだぞ。お前やっぱ雨男だろ」
「それな、だから傘持っていかなかったのに。はぁ、晴れ男になりたいよ」
「晴れ男は俺なんで、ちょっとパスで」
「パスってなんだよ」
行事やイベントごとは昔からなにかと悪天候が多い。運動会も、スキー学習も修学旅行も。キャンプに行こうものなら土砂降りでもはやサバイバル。雨は俺にとってきっても切れないもの。悪い意味で。
嫌なような、懐かしいような記憶を思い出しながら髪の毛を拭く——
『こらまちなさい。ちゃんと拭かないと風邪引くよ』
『じゃあお母さんやって!』
『もう仕方ないわね』
『ニシシ——』
「おーい聞こえてっか?」
「え、なんだっけ」
「だから、それ放課後までに返してくれればいいから」
「ああわかった。ありがとう」
ちょどそのとき、先生が教室に入ってきた。ちょっと湿っているけど、短髪だし問題ないだろう。
教科書とノートを取り出して、使い終わったタオルを一旦カバンの上に置いた。
「日直さん号令お願いします」
「気をつけて帰れよ」
学校についてからはなにも起きず、そのまま放課後をむかえた。教室を掃除する人、部活に行く人、駄弁っている人。日常のテンプレがそこにあった。俺も俺でそのモブキャラのひとり。強いてイレギュラーをあげるなら、ずっと雨が降っていることだ。
さっさと帰ってゲームでもしたい。
「おい朝菊、どうせ暇だろ。掃除手伝えよ」
「なんで俺が……」
「うちの班のやつが欠席して人数少ないんだよ。お願い!」
返答する時間すら与えてもらえず、箒を押し付けられた。タオル貸してもらったお礼として割り切る。
——俺ってやっぱ暇人なんだな。部活、入ればよかったかな。
運動も学業もそこそこ。突出して得意なものがあるわけじゃない。唯一の趣味といえば、観葉植物を育てること。花の高校生とは思えないほど地味すぎる……。
このクラスでそれを知っているのは仙だけ。隠しているわけじゃないけど、あまり言いたくない。
「しっかし、雨止まないなぁ」
「それな、ここ数年の北海道まじで異常気象だよな。おととしは雪全然降らなかったのに、去年はドカ雪だったし。四月なのに気温が十七度とか大雨とか。地球温暖化してんなぁ、暇なのかな」
「暇つぶしで地球温暖化とか勘弁してほしいんだけど」
他の県からすれば普通なのかもしれない。でも慣れていないとそれは異常気象になる。東京に雪が降るのと同じ原理。北海道が避暑地なんて呼ばれていたのはもう昔のこと。今は……。
「“試される大地”だな」
「それな」
雨が降っているせいで、教室内がやけに明るい。まるで夜の学校にいるみたい。その非日常感に少しだけ心が弾む。
窓の外に見えるプールに水が溜まってしまうんじゃないかって思う。そんなことはないってわかってはいるけど、想像力が掻き立てられる。
床をはいて、仙と駄弁って、また床をはく。雨の音をBGMにしながら。
「そういえば朝菊、ゴールデンウィークなにすんだ?」
「ゲームとガーデニング。あ、久々に原始林行こうかな。仙は?」
「遠征だよ。まじでだるいわ。まあ、他校の女子マネと知り合えるチャンスだし、ついでに他の部活も!!」
「お前の中学時代が気になるわ……」
掃除が終わって、今度こそ帰宅する。仙に「じゃあな」と言って玄関に向かう。一年生の教室は一階にあるため移動が楽だった。俺のクラス、一年三組は比較的玄関に近い。遅刻しても、必死で階段を登らなくて済む。
購買がある広場を抜けて短い階段を登る。あとは自分の下駄箱を探すだけ。たまに見失うことがある。まだ四月だし、しょうがない。来月にはきっと覚えている。
“キー”
木造の下駄箱の蓋が開く。
——うわ……まだ濡れてる……。
ずぶ濡れになった靴はいつもより色が濃くなって、重たい。ちょっとだけ気分も落ち込む。
「あ、そっか……」
靴を見て、あることに気づく……。
「傘忘れたんだった……」
依然として雨は降っている。学校来るときにコンビニで買わなかったことを後悔したけど、お金がなかったことを思い出す。結局、天気には抗えない。
全力で走れば駅まで五分かからないか? 濡れること自体はそこまで問題はない。それよりも周りからの目線が気になる。隣に全身ずぶ濡れの人がいたら「あ、傘忘れたんだ」ってなるでしょ。確かにそうなんだけど……。座席が濡れるから座れない。
止むまで待つのもひとつの手段。それなら図書館で時間を……。
「あの!」
ビクッと体が反応する。振り返ってみると、ちょこんっとひとりの女子生徒がいた。黒髪ロングで清潔感があって、聖女や巫女を彷彿させる外見だった。こんなシチュエーション、ゲームとかアニメでしか見たことがない。
浮だつ心を抑えて、念のため周りを確認する。もちろん俺しかいない。俺に話しかけているのは確実だった。
「え、えっと……」
「こ、これ……! 使ってください!」
手渡されたのは透明なビニール傘だった。ビニールが手に張り付くような感覚がする。もしかして新品なのか?
「え、でも悪いよ」
「大丈夫です! 私折り畳み傘あるんで! それじゃあ私部活行ってきます!!」
嵐のように現れて去っていった。玄関でひとり、唖然としている。あの子は一体だれなんだ?
そういえば、うちのクラスの人だった気がする。けど名前が思い出せない。顔はなんとなく覚えているのに、漢字ひと文字すら出てこない。
どうして俺に傘を貸してくれるんだろう。目的がわからないし、怪しいとは思う。じゃあなんの疑いがあるのかって聞かれたら、正直わからない。答えのない疑惑に頭を悩ませる。
タグがついた傘をどうして俺に。
「明日確認するか」
“バサッ”
暗い雨の中をひとり突き進んでいく。
“パランパラン”
雨が傘に当たる音が響く。上を見ると雫が当たっては流れ落ちて、当たっては流れ落ちてを繰り返している。
——まあでも、傘があってよかった。
もしなかったら、これらの雫は俺に当たって染み込む。流れ出すのは髪と服が飽和したとき。要するにずぶ濡れってことだ。
“グチョ、グチョ”
雨を吸ったスニーカーが音を立てる。ここまで濡れているとどうでもよくなる。どうせ家に帰るだけだし、これ以上濡れてもなにも変わらない。諦めたほうが気が楽になる。
信号待ちもおっくうに思わない。学校に行くとき、あんなに急いでたせいか、今はゆっくりまったりしている。きっと普段より歩くの遅いと思う。それもこれも、全部雨のせい。世界をモノクロに変えたのも、信号機の灯りが鮮やかなのも、身に覚えのない感傷に浸るのも、全部。
“パッポ、パッポ”
信号が青になって歩き出す。足元の水たまりを警戒して一歩踏み出す。傘を後ろに傾けて前を見やすくさせた、そのとき……。
「えっ……」
見てはいけないものを見た、直感でそう思った。
「サ……サ……」
雨の日に傘をさしていない人は目立つ。その理屈は人以外でも当てはまるらしい。横断歩道のちょうど真ん中、視界の左側にそれはいた。
「サ……サ……」
身長、約二メートル五十センチ。全身石膏のような灰色の体で、服は着ていない。美術の資料集に載っている石像のように、大胸筋や上腕二頭筋が浮き彫りになっていた。脇腹や背中から不規則に数多の腕が生えている。もちろん正規の腕もちゃんとある。ピクピクと指が動いていることを知らなきゃよかった……。
血の気が引くような悪寒が全身を包む。それなのに、体はいうことを聞かない。
——やめろやめろやめろ!!
好奇心が体を支配して、上を見上げる。
「サ……サ……」
頭らしきものが……なかった。
「サ……サ……」
まさかと思って目線を目の高さに戻す。ちょうど腹の位置。
「サ……サ……」
「サムイィィィィ!!」
腹がガバッと裂けて口が現れた。生々しいほど人間な歯がずらりと並んでいた。その音圧と恐怖に押されて後ろに倒れる。
「なんなんだよこいつ……!」
声を出した瞬間、この化け物と目が合った感覚に襲われた。口を手で塞いで息を飲んで凍った。
——殺される……。
「ウガァァァァァ!!」
口が体を引っ張るように俺に飛びついてきた。舌を出してよだれを垂らし、不規則に生えた腕をブルブルと震わせてる。腹を空かせた猛獣のように欲のままに欲していた。
——逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ!!
噛みつかれる寸手で、生存本能が仕事した。手元にあった傘で必死に防御した。けどそんなの意味がなかった。化け物に理性なんて存在しない。その巨体を止めることなく突進してきた。ビニール越しに見える貪欲な歯、生温かい吐息が傘をすり抜ける。
ビニール傘でどうにかなるわけなく、抗えない力に押されて変形する。
「くっそ……!」
死にたくない。雨なんてどうでもいい。周りの目なんて気にしない。傘を身代わりに横に身を投げ出した。情けなく地面に顔をつけて、すぐに起き上がる。考える余裕なんてない。とにかく逃げるんだ……!
「ザァァァァァァ!!!」
足がもつれる。それでも必死で走った。後ろを振り向きたくない、でも振り向かないのも怖い。不規則で重たい足音がどんどん近づいてくる。
——国道に出れば助かるかも。
ぐっと力を入れて右に曲がった。そこはスナックや居酒屋が並んでいて、昼間はシャッターが閉まっている。さっきと比べて道幅は狭いしアスファルトは割れてる。車一台通れるかどうかの細い路地だ。
距離にしておよそ一◯◯メートル。いつも通りなら十数秒で走り切れる。
——いける! このままいけば……。
“ドンッ!!!”
地面が揺れるとともに、巨体が目の前に現れた。距離は離していたはずなのに、それを跳躍ひとつで軽々と超えられてしまった。
死ぬという恐怖とどうしようもないという絶望が全身を支配する。立つことすら忘れてその場に崩れた。腰が抜けている。脚も腕も力が入らない。頭の中が真っ白だ。
「あっ……あ……」
とうとう声の出し方すら忘れてしまった。大声を出そうとしても、大量の息が吐かれるだけ。声帯はびくともしない。
「サムイサムイサムイ……ザムイィィィィィ!!!!」
生温かい吐息が全身を包む。俺の上半身が口の中に入った。あとは噛むだけ、それで俺の人生は終了する。味気ない人生を飾るのは暗い口の中。いいことといえば雨が当たらないこと、わるいことといえばよだれが頬をつたうこと。
瞳孔が限界まで絞られる。俺が唯一できる最期の抵抗だ。死への恐怖を和らげるために。
——食べられる……!
「せいっ!!!」
突然視界が明るくなった。それと同時に轟音が鳴り響く。唖然としながらも、首を横に回す。そこには建物にめり込んだあの怪物がいた。
「な、なにが起きたんだ……」
“タタン”
目の前にふわっとなにかが舞い降りる。人……なのか? まさかこの人が……。
次から次へと状況が変わって頭がついてこない。今は別の意味で声が出ない。
「あれ、案外しぶてぇじゃねか」
耳に入った瞬間、謎の安心感を得た。さっきまであまりにも人の気配がなかったせいかもしれない。
男勝りな口調の女性の声。背中から漂ってくる覇気は凡人な俺でも感じる。黒いジャケットのポケットに手を突っ込んで、悠然と立っていた。髪の毛は中華風のお団子で、覆っている白い布には黒と赤でなにか模様が描かれていた。
「あ、あの……ありがとう……ございます」
自分でも驚くほどに震えていた。久々に声を出した気分だ。
彼女はピクッと頭を動かして俺を見る。まるで俺の存在に今気づいたようだった。
若干吊り目のキリッとした目。左目にはほくろがあった。顔も小さく、幼い印象を受けたが、耳元には大きめのピアスがそれを取り消す。数珠についているふさふさした紐束のような赤いピアス。純白の肌に咲き誇る。
——び、美人だ……。
見惚れる俺とは反対に、目を開く彼女。
「お前、私が見え……」
「ザアァァァァァァ!!!!」
彼女の言葉を遮って怪物が雄叫びをあげる。耳をつんざく。脳が揺れる。たまらず耳を塞いでうずくまった。かろうじて開けていた目が見たのは彼女の姿だった。動じず、ただ怪物のほうを向いていた。
あの怪物に同調するように、雨は激しさを増した。
「同類かよ」
「ちょっと待ってくださいよ! 置いていくなんてひどいじゃないですか!!」
後ろから人がやってきた。相当焦っている、いや、疲れているようだった。
白黒の中華風の服を着ている。全体的に白の面積が多く、顔には黒子のような布をつけていた。顔は見えないけど、声的に男性と思われる。
彼が到着するのを待たずに、怪物から目を離さないで命令する。
「結界」
「だから! 俺まだ丙級ですって!!」
「使えねぇな」
雨の中にもかかわらず、彼女の声は鮮明に聞こえた。別に大声でもなく、ちっと舌打ちをした音さえ聞こえてしまった。
羽織っていたジャケットを脱ぎ始めた。すると、その背中にあるものが見えた。
——あれは……。
「おい一般人。これ持ってあいつのとこに行け。死にたきゃそこにいろ」
乱暴に投げられたジャケットを受け取る。彼女が指さすほうにはさっき現れた人がいた。必死で手招きしている。でもそんな急に体と頭が動くわけがない。依然として腰が抜けていた。
彼女の服装も白がメインのチャイナ服。ズボンは黒で裾の部分が窄まっている。袖は七分丈で法被のように広い口をしていた。そしてなにより目立つのが背中に大きく描かれた紋章。正方形を角が上下左右にくるように回転し、稲妻のような線で分断する。一方を黒く塗って白い点を、もう片方には黒い点をつける。
これに似たものを見たことがある。よくアニメや漫画で見るやつ。そう、陰陽太極図だ。かくばっているが、勾玉に見えなくない。全身が白黒の衣装なため、よりそう思ってしまう。
この紋章の意味は知らない。けどなぜか長い歴史の威厳を感じる。それと同時に恐怖の対象が怪物から彼女へ移り変わった。
「なにしてるの!! さあ立って!!」
黒子の彼が俺を抱えて走る。引きずられているせいで、うまく足が動かない。彼に身を任せて連れていかれる。外に置いてある店の看板に俺らは身を隠した。
息が荒いふたり。状況を整理する暇も心の余裕もなかった。
「あんた、“東”の人か? 怪我はない?」
「あ、あず? と、とりあえず怪我はないです」
彼は布を後ろにやって顔を見せる。自分と同い年、あるいはもっと若い青年だった。心配そうにつま先から頭の先まで目視する。そのあと、へその下あたりを触り出した。いくら男とはいえ、際どい部分。ほんの少し顔が熱くなる。
「木か……ってことは相当まずいな」
「なにがですか」
「いいかよく聞け。これから……」
“ズドン!!”
さっきまで建物だったものが瓦礫と化す。とっさに看板に隠れたからものの、頭を出してたら飛んできた瓦礫が直撃していた。
恐る恐る頭を出してみると、あの女性が建物にめり込んでいた。
「三小……ってお前らなんでここにいるんだ! 早く逃げろ!」
さっきの地点から相当離れていたはず。その証拠に怪物の位置は変わっていない。あんなところから吹っ飛ばされて大丈夫なのか。
彼女は瓦礫から這い出して「油断した」と言いながら肩を回す。
「帰ったらあいつぶん殴ってやる……!」
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