【第一天 雨(あめ)】

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 桜というのはとても不思議な植物だ。特別香りがするわけでもないのに、桜の味や香りといわれたらなんとなく想像できる。春になると桃色の花を咲かせて、夏には深緑の葉を身につける。秋には赤く染めあげて、冬には雪が積もる。  この木ひとつで四季を感じられる。五感を刺激する。忘れたい記憶も、思い出す。  俺は桜が嫌いだ。過去も今も、これからも。  私は桜を知った。過去のも今のも、これからのも。  季節に流されて、景色は変わる。雨の日、晴れの日、曇りの日。天気ひとつでガラリと姿を変える。  手を伸ばせば触れられそうな距離に君はいる。でも触れてはいけない気がする。雨の雫のように、触れば割れてしまいそう。  手を伸ばせば触れられそうな距離にあなたはいる。でも触れられないの。あなたが晴れ空みたいに、眩しすぎるから。    雨のち曇り、曇りのち晴れ。  晴れのち曇り、曇りのち……。  俺は……。  私は……。    雨が好きだ。    ◯ “続いて、全国の天気予報です。天気お姉さんの佐藤さーん”  毎朝見る天気予報。別に注意深く見るわけじゃない。テレビをBGMの代わりにして、学校に行く準備をするだけ。雨が降ってれば音でわかるし、外を見れば晴れているかどうかわかる。俺的には星座占いのほうが重要だ。 「今日も晴れか……ん?」  テレビの左上を見る。リビングの壁を見る。携帯を確認する。念のためもう一回テレビを確認する。 “午前八時になりました。全国のニュースです” 「遅刻じゃん!!!!」  中学だったら焦ることもなかったのにと心の中で文句をいう。高校まで片道一時間半。そもそも、俺の家から最寄りの駅までが遠い。自転車で十五分もかかる。ポンコツ自転車のチェーンが外れなければ。 「母さんなんで起こしてくれ……」  振り向いてもだれもいない。リビングどころか、家全体が静まりかえっていた。そんな気がした。 “ギシッギシッ”  階段からだれか降りてくる。一階に着いたとき、足音が軽くなる。 「お兄ちゃんなにしてんの」  汚いものを見るような目で俺を睨んでいた。セーラー服を着て、スクールバッグを肩にかけていた。地元でよく見かける中学生の制服だ。髪の毛もツインテールに結んで、非の打ちどころがないほどきちんとしている。 「あ、(あさ)(がお)……」 「入学早々もう遅刻してんの。どうせ寝坊したんでしょ。お母さんは早番だし、起こしてくれる人いないもんね」 「俺の目の前にいる人はどうなんですかね」 「いやよ」 「冷たいなぁ」 「遅刻おつ」  さっと髪をなびかせて玄関に向かう。蓬木(よもぎ)(あさ)(がお)、俺の妹だ。人に興味がないのかと思うくらい冷たい。基本的に仏頂面か見下すような笑いしかしない。まあそれでも、学校の成績はいいし、家でもしっかりしている。面倒くさがるのが玉に(きず)だけど。  スニーカーを履くのを見届ける。ふわっと立ち上がって玄関のドアを開けた。 「学校には行ってよ、お兄ちゃん」 「はいはい、(あさ)(がお)も気をつけて」 「あいよー」  パタンとドアが閉まる。相変わらずそっけないけど、なんか嫌な気にならない。妹だからかな。 「あれ、お兄ちゃんも今日学校休みなの?」  後ろからひょっこり出てきた。パジャマ姿のもうひとりの妹。といっても双子だから俺と同い年。長い髪の毛が寝癖でぐしゃぐしゃになっている。 「あーそういえば、(ゆう)()の学校は開校記念日だもんね」 「そうだよん」  明るいというか楽観的というか、彼女はふわふわしている。昔、猫を追いかけて迷子になったことがある。こういうのを天然っていうのかな。  生まれてからずっと俺らは一緒だった。考えていることも、好きな食べ物も一緒。性格はちょっと違うけど、長男長女としてお互い支え合っている。 「ねぇねぇお兄ちゃん、帰りにさ、シュークリーム買ってきて! ほら、札駅の地下にある有名なお店の」 「しょうがないなぁ。代わりに皿洗いしてよ」 「了解であります!」  ニカッと笑って敬礼する。(ゆう)()の笑顔は西陽のように暖かい。どんなつらいことがあっても、吹っ飛んでしまう。  頭に手を乗せて、優しく撫でる。彼女は決まって猫のように頭を寄せる。無意識でやっているのがあざとい。すぐ彼氏とかできそう。もしそうなったら俺は……なんでもない。 「ってこうしちゃいられない! 列車まだあるかな……あぁもういいや!」  パパッと制服に着替えてカバンを背負う。教科書とか資料集とかたぶん入ってる。うん。最悪ノートさえあればなんとかなる。今はとりあえず必要なものだけ確認しよう。 ——携帯、財布、定期券……。よし、全部ある。  階段をドタドタと駆け降りる。母さんがいたら怒られるやつだけど、今日は仕方がないし問題もない。あとは靴を履いて出ていくだけ。 「なにかあったら連絡しろよ。知らない人が来ても出ちゃダメだぞ。それから……」 「はいはいわかったから。お兄ちゃんは学校に行っておいで」  背中を押されて無理やり立たされる。玄関のドアを開けると眩しい光が入ってきた。 「いってきます」 「いってらっしゃい!」  今日は天気がいいみたいだ。 “続いてのニュースです。東京でまた異常気象です。現場の……”    ◯ 「な、なんだよこれ……」  札幌に着いて地下鉄で月寒中央までやってきた。そこまではよかった。それなのに……。 「土砂降りじゃねぇかっ!!」  自転車を漕いでいるときも、電車に乗っているときも、なんなら札幌駅内から見えた外の景色も快晴だった。地下鉄乗った、降りた、はい土砂降り。とんだ異常気象に一周まわって、ちょっとだけ浮かれる。けどやっぱり面倒くさい。今朝の天気予報はなんだったのか。 「今週ずっと晴れだったんじゃないのかよ……。寝坊したバチが当たったんかな」  わかっていながらカバンの中を確認する。もちろん折り畳み傘なんてない。今ある装備は学ランだけ。アニメみたいにカバンを上に持ち上げる方法もある。けど俺はスクールバッグじゃなくて普通のリュック。それに教科書やらなんやらが重たくて腕が疲れる。  コンビニで傘を買うしかないのか。でも最寄のコンビニは駅と学校のちょうど中間の位置にある。そこまで行くなら、さっさと学校に行ったほうがいいか? でも帰りのときに雨降ってたら厄介だし、今買っておいたほうがいいかも。いやまてよ、そもそもお金あるか?  財布を取り出して中身を確認する。 「三〇〇円って……遠足かよ」  フーッと息を吸って吐き出す。とうとう諦めがついた。ここにいても止む気配ないし、どうやっても濡れるなら早く行きたい。  軽く頭をかく。天気のせいにしようにもできない歯痒さを感じる。 ——くっそ、もうどうにでもなれ!  雨が真下に降り注ぐなか、一心不乱に走った。制服のおかげで多少水は弾いた。どのくらい持つかは知らない。中学校のときから着ているこの制服を信じよう。  こんな土砂降りなのに傘をささないなんて目立つに決まってる。何人か傘をさした人とすれ違った。みんな好奇の目を向けていた、気がする。雨がひどくてまともに目が開けられない。ましてや走っていると横から雨があたる。雨音も耳奥に響く。他の音なんて聞こえやしない。ほかに感じるのは雨の日独特の臭いだけだ。  走れば走るほど濡れる。濡れれば濡れるほどどうでもよくなる。不思議と落ち着いている俺がいる。 “ドンッ”  雨に目をやられてて人にぶつかってしまった。とっさに振り向いて「ごめんなさい!」と叫んで、すぐ走っていった。失礼だけど、こっちもそれどころじゃない。運よく青信号になった横断歩道を駆け抜けていく。 ——そういえば、今の人……気のせいか。    ◯  結局教室に着いたころには一時間目が終わっていた。おかげで先生からとやかく言われることはなかったけど、その分友達からいじられる。制服はびしゃびしゃだし、髪もぐしょ濡れ。幸い、カバンの中はそこまで被害がなかった。教科書の端がちょっと湿っているくらい。  あんなに晴れてて暖かかったのに、今や土砂降りで肌寒い。濡れているせいか、鳥肌まで立っている。 ——タオル持ってきてない……最悪。  前髪から滴る雨の雫が、机の上に落ちる。それをぼんやりと見つめていた。ハンカチでどうにかなるかな。いっそのことトイレに行って、トイレットペーパーを使うとか。 「(あさ)()……」  名前を呼ばれて顔をあげる。下の名前で呼ぶのはあいつしかいない。 「なんだよ……ッゴフ!?」  その瞬間、顔めがけてなにか飛んできた。顔を守ろうと腕を動かすも、間に合わなかった。中途半端に上がった両手は行き場をなくしている。  顔面に直撃。あれ、でも痛くない。痛いには痛かったんだけど、それは濡れた肌が敏感に反応しているだけ。パサッと腕に落ちたそれを見てみると、タオルだった。 「ちゃんと受け取れよー」 「そんなとっさに反応できるわけないだろ」  笑いを交えて俺のほうに歩いてくる。学ランの内側にパーカーを着て、ボタンは閉めないで開放的な見た目。校則に引っ掛かるが、顔がよくてさまになっているのが腹が立つ。  彼の名前は(きよ)(みず)(せん)、小学校の幼馴染だ。卒業とともに彼が札幌に引っ越したため、一緒の中学校には通えなかった。  高校の入学式当日に話しかけられたのを覚えている。つい数週間前の話だけど。初めはだれかわからなかった。だって昔は半袖短パンで鼻水垂らしているようなやつだったから。人ってこんなにも変わるんだな。 「災難だったな、(あさ)()が来るまじでちょっとまえは晴れてたんだぞ。お前やっぱ雨男だろ」 「それな、だから傘持っていかなかったのに。はぁ、晴れ男になりたいよ」 「晴れ男は俺なんで、ちょっとパスで」 「パスってなんだよ」  行事やイベントごとは昔からなにかと悪天候が多い。運動会も、スキー学習も修学旅行も。キャンプに行こうものなら土砂降りでもはやサバイバル。雨は俺にとってきっても切れないもの。悪い意味で。  嫌なような、懐かしいような記憶を思い出しながら髪の毛を拭く—— 『こらまちなさい。ちゃんと拭かないと風邪引くよ』 『じゃあお母さんやって!』 『もう仕方ないわね』 『ニシシ——』 「おーい聞こえてっか?」 「え、なんだっけ」 「だから、それ放課後までに返してくれればいいから」 「ああわかった。ありがとう」  ちょどそのとき、先生が教室に入ってきた。ちょっと湿っているけど、短髪だし問題ないだろう。  教科書とノートを取り出して、使い終わったタオルを一旦カバンの上に置いた。 「日直さん号令お願いします」 「気をつけて帰れよ」  学校についてからはなにも起きず、そのまま放課後をむかえた。教室を掃除する人、部活に行く人、駄弁っている人。日常のテンプレがそこにあった。俺も俺でそのモブキャラのひとり。強いてイレギュラーをあげるなら、ずっと雨が降っていることだ。  さっさと帰ってゲームでもしたい。 「おい(あさ)()、どうせ暇だろ。掃除手伝えよ」 「なんで俺が……」 「うちの班のやつが欠席して人数少ないんだよ。お願い!」  返答する時間すら与えてもらえず、(ほうき)を押し付けられた。タオル貸してもらったお礼として割り切る。 ——俺ってやっぱ暇人なんだな。部活、入ればよかったかな。  運動も学業もそこそこ。突出して得意なものがあるわけじゃない。唯一の趣味といえば、観葉植物を育てること。花の高校生とは思えないほど地味すぎる……。  このクラスでそれを知っているのは(せん)だけ。隠しているわけじゃないけど、あまり言いたくない。 「しっかし、雨止まないなぁ」 「それな、ここ数年の北海道まじで異常気象だよな。おととしは雪全然降らなかったのに、去年はドカ雪だったし。四月なのに気温が十七度とか大雨とか。地球温暖化してんなぁ、暇なのかな」 「暇つぶしで地球温暖化とか勘弁してほしいんだけど」  他の県からすれば普通なのかもしれない。でも慣れていないとそれは異常気象になる。東京に雪が降るのと同じ原理。北海道が避暑地なんて呼ばれていたのはもう昔のこと。今は……。 「“試される大地”だな」 「それな」  雨が降っているせいで、教室内がやけに明るい。まるで夜の学校にいるみたい。その非日常感に少しだけ心が弾む。  窓の外に見えるプールに水が溜まってしまうんじゃないかって思う。そんなことはないってわかってはいるけど、想像力が掻き立てられる。  床をはいて、(せん)と駄弁って、また床をはく。雨の音をBGMにしながら。 「そういえば(あさ)()、ゴールデンウィークなにすんだ?」 「ゲームとガーデニング。あ、久々に原始林行こうかな。(せん)は?」 「遠征だよ。まじでだるいわ。まあ、他校の女子マネと知り合えるチャンスだし、ついでに他の部活も!!」 「お前の中学時代が気になるわ……」  掃除が終わって、今度こそ帰宅する。(せん)に「じゃあな」と言って玄関に向かう。一年生の教室は一階にあるため移動が楽だった。俺のクラス、一年三組は比較的玄関に近い。遅刻しても、必死で階段を登らなくて済む。  購買がある広場を抜けて短い階段を登る。あとは自分の下駄箱を探すだけ。たまに見失うことがある。まだ四月だし、しょうがない。来月にはきっと覚えている。 “キー”  木造の下駄箱の蓋が開く。 ——うわ……まだ濡れてる……。  ずぶ濡れになった靴はいつもより色が濃くなって、重たい。ちょっとだけ気分も落ち込む。 「あ、そっか……」  靴を見て、あることに気づく……。 「傘忘れたんだった……」  依然として雨は降っている。学校来るときにコンビニで買わなかったことを後悔したけど、お金がなかったことを思い出す。結局、天気には抗えない。  全力で走れば駅まで五分かからないか? 濡れること自体はそこまで問題はない。それよりも周りからの目線が気になる。隣に全身ずぶ濡れの人がいたら「あ、傘忘れたんだ」ってなるでしょ。確かにそうなんだけど……。座席が濡れるから座れない。  止むまで待つのもひとつの手段。それなら図書館で時間を……。 「あの!」  ビクッと体が反応する。振り返ってみると、ちょこんっとひとりの女子生徒がいた。黒髪ロングで清潔感があって、聖女や巫女を彷彿させる外見だった。こんなシチュエーション、ゲームとかアニメでしか見たことがない。  浮だつ心を抑えて、念のため周りを確認する。もちろん俺しかいない。俺に話しかけているのは確実だった。 「え、えっと……」 「こ、これ……! 使ってください!」  手渡されたのは透明なビニール傘だった。ビニールが手に張り付くような感覚がする。もしかして新品なのか? 「え、でも悪いよ」 「大丈夫です! 私折り畳み傘あるんで! それじゃあ私部活行ってきます!!」  嵐のように現れて去っていった。玄関でひとり、唖然としている。あの子は一体だれなんだ?  そういえば、うちのクラスの人だった気がする。けど名前が思い出せない。顔はなんとなく覚えているのに、漢字ひと文字すら出てこない。  どうして俺に傘を貸してくれるんだろう。目的がわからないし、怪しいとは思う。じゃあなんの疑いがあるのかって聞かれたら、正直わからない。答えのない疑惑に頭を悩ませる。  タグがついた傘をどうして俺に。 「明日確認するか」 “バサッ”  暗い雨の中をひとり突き進んでいく。 “パランパラン”  雨が傘に当たる音が響く。上を見ると雫が当たっては流れ落ちて、当たっては流れ落ちてを繰り返している。 ——まあでも、傘があってよかった。  もしなかったら、これらの雫は俺に当たって染み込む。流れ出すのは髪と服が飽和したとき。要するにずぶ濡れってことだ。 “グチョ、グチョ”  雨を吸ったスニーカーが音を立てる。ここまで濡れているとどうでもよくなる。どうせ家に帰るだけだし、これ以上濡れてもなにも変わらない。諦めたほうが気が楽になる。  信号待ちもおっくうに思わない。学校に行くとき、あんなに急いでたせいか、今はゆっくりまったりしている。きっと普段より歩くの遅いと思う。それもこれも、全部雨のせい。世界をモノクロに変えたのも、信号機の灯りが鮮やかなのも、身に覚えのない感傷に浸るのも、全部。 “パッポ、パッポ”  信号が青になって歩き出す。足元の水たまりを警戒して一歩踏み出す。傘を後ろに傾けて前を見やすくさせた、そのとき……。 「えっ……」  見てはいけないものを見た、直感でそう思った。 「サ……サ……」  雨の日に傘をさしていない人は目立つ。その理屈は人以外でも当てはまるらしい。横断歩道のちょうど真ん中、視界の左側にそれはいた。 「サ……サ……」  身長、約二メートル五十センチ。全身石膏のような灰色の体で、服は着ていない。美術の資料集に載っている石像のように、大胸筋や上腕二頭筋が浮き彫りになっていた。脇腹や背中から不規則に数多(あまた)の腕が生えている。もちろん正規の腕もちゃんとある。ピクピクと指が動いていることを知らなきゃよかった……。  血の気が引くような悪寒が全身を包む。それなのに、体はいうことを聞かない。 ——やめろやめろやめろ!!  好奇心が体を支配して、上を見上げる。 「サ……サ……」  頭らしきものが……なかった。 「サ……サ……」  まさかと思って目線を目の高さに戻す。ちょうど腹の位置。 「サ……サ……」 「サムイィィィィ!!」  腹がガバッと裂けて口が現れた。生々しいほど人間な歯がずらりと並んでいた。その音圧と恐怖に押されて後ろに倒れる。 「なんなんだよこいつ……!」  声を出した瞬間、この化け物と目が合った感覚に襲われた。口を手で塞いで息を飲んで凍った。 ——殺される……。 「ウガァァァァァ!!」  口が体を引っ張るように俺に飛びついてきた。舌を出してよだれを垂らし、不規則に生えた腕をブルブルと震わせてる。腹を空かせた猛獣のように欲のままに欲していた。 ——逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ!!  噛みつかれる寸手で、生存本能が仕事した。手元にあった傘で必死に防御した。けどそんなの意味がなかった。化け物に理性なんて存在しない。その巨体を止めることなく突進してきた。ビニール越しに見える貪欲な歯、生温かい吐息が傘をすり抜ける。  ビニール傘でどうにかなるわけなく、抗えない力に押されて変形する。 「くっそ……!」  死にたくない。雨なんてどうでもいい。周りの目なんて気にしない。傘を身代わりに横に身を投げ出した。情けなく地面に顔をつけて、すぐに起き上がる。考える余裕なんてない。とにかく逃げるんだ……! 「ザァァァァァァ!!!」  足がもつれる。それでも必死で走った。後ろを振り向きたくない、でも振り向かないのも怖い。不規則で重たい足音がどんどん近づいてくる。 ——国道に出れば助かるかも。  ぐっと力を入れて右に曲がった。そこはスナックや居酒屋が並んでいて、昼間はシャッターが閉まっている。さっきと比べて道幅は狭いしアスファルトは割れてる。車一台通れるかどうかの細い路地だ。  距離にしておよそ一◯◯メートル。いつも通りなら十数秒で走り切れる。 ——いける! このままいけば……。 “ドンッ!!!”  地面が揺れるとともに、巨体が目の前に現れた。距離は離していたはずなのに、それを跳躍ひとつで軽々と超えられてしまった。  死ぬという恐怖とどうしようもないという絶望が全身を支配する。立つことすら忘れてその場に崩れた。腰が抜けている。脚も腕も力が入らない。頭の中が真っ白だ。 「あっ……あ……」  とうとう声の出し方すら忘れてしまった。大声を出そうとしても、大量の息が吐かれるだけ。声帯はびくともしない。 「サムイサムイサムイ……ザムイィィィィィ!!!!」  生温かい吐息が全身を包む。俺の上半身が口の中に入った。あとは噛むだけ、それで俺の人生は終了する。味気ない人生を飾るのは暗い口の中。いいことといえば雨が当たらないこと、わるいことといえばよだれが頬をつたうこと。  瞳孔が限界まで絞られる。俺が唯一できる最期の抵抗だ。死への恐怖を和らげるために。 ——食べられる……! 「せいっ!!!」  突然視界が明るくなった。それと同時に轟音が鳴り響く。唖然としながらも、首を横に回す。そこには建物にめり込んだあの怪物がいた。 「な、なにが起きたんだ……」 “タタン”  目の前にふわっとなにかが舞い降りる。人……なのか? まさかこの人が……。  次から次へと状況が変わって頭がついてこない。今は別の意味で声が出ない。 「あれ、案外しぶてぇじゃねか」  耳に入った瞬間、謎の安心感を得た。さっきまであまりにも人の気配がなかったせいかもしれない。  男勝りな口調の女性の声。背中から漂ってくる覇気は凡人な俺でも感じる。黒いジャケットのポケットに手を突っ込んで、悠然と立っていた。髪の毛は中華風のお団子で、覆っている白い布には黒と赤でなにか模様が描かれていた。 「あ、あの……ありがとう……ございます」  自分でも驚くほどに震えていた。久々に声を出した気分だ。  彼女はピクッと頭を動かして俺を見る。まるで俺の存在に今気づいたようだった。  若干吊り目のキリッとした目。左目にはほくろがあった。顔も小さく、幼い印象を受けたが、耳元には大きめのピアスがそれを取り消す。数珠(じゅず)についているふさふさした紐束のような赤いピアス。純白の肌に咲き誇る。 ——び、美人だ……。  見惚れる俺とは反対に、目を開く彼女。 「お前、私が見え……」 「ザアァァァァァァ!!!!」  彼女の言葉を遮って怪物が雄叫びをあげる。耳をつんざく。脳が揺れる。たまらず耳を塞いでうずくまった。かろうじて開けていた目が見たのは彼女の姿だった。動じず、ただ怪物のほうを向いていた。  あの怪物に同調するように、雨は激しさを増した。 「同類かよ」 「ちょっと待ってくださいよ! 置いていくなんてひどいじゃないですか!!」  後ろから人がやってきた。相当焦っている、いや、疲れているようだった。  白黒の中華風の服を着ている。全体的に白の面積が多く、顔には黒子のような布をつけていた。顔は見えないけど、声的に男性と思われる。  彼が到着するのを待たずに、怪物から目を離さないで命令する。 「結界」 「だから! 俺まだ丙級ですって!!」 「使えねぇな」  雨の中にもかかわらず、彼女の声は鮮明に聞こえた。別に大声でもなく、ちっと舌打ちをした音さえ聞こえてしまった。  羽織っていたジャケットを脱ぎ始めた。すると、その背中にあるものが見えた。 ——あれは……。 「おい一般人。これ持ってあいつのとこに行け。死にたきゃそこにいろ」  乱暴に投げられたジャケットを受け取る。彼女が指さすほうにはさっき現れた人がいた。必死で手招きしている。でもそんな急に体と頭が動くわけがない。依然として腰が抜けていた。  彼女の服装も白がメインのチャイナ服。ズボンは黒で裾の部分が窄まっている。袖は七分丈で法被のように広い口をしていた。そしてなにより目立つのが背中に大きく描かれた紋章。正方形を角が上下左右にくるように回転し、稲妻のような線で分断する。一方を黒く塗って白い点を、もう片方には黒い点をつける。  これに似たものを見たことがある。よくアニメや漫画で見るやつ。そう、(いん)(よう)(たい)(きょく)()だ。かくばっているが、勾玉に見えなくない。全身が白黒の衣装なため、よりそう思ってしまう。  この紋章の意味は知らない。けどなぜか長い歴史の威厳を感じる。それと同時に恐怖の対象が怪物から彼女へ移り変わった。 「なにしてるの!! さあ立って!!」  黒子の彼が俺を抱えて走る。引きずられているせいで、うまく足が動かない。彼に身を任せて連れていかれる。外に置いてある店の看板に俺らは身を隠した。  息が荒いふたり。状況を整理する暇も心の余裕もなかった。 「あんた、“(あずま)”の人か? 怪我はない?」 「あ、あず? と、とりあえず怪我はないです」  彼は布を後ろにやって顔を見せる。自分と同い年、あるいはもっと若い青年だった。心配そうにつま先から頭の先まで目視する。そのあと、へその下あたりを触り出した。いくら男とはいえ、際どい部分。ほんの少し顔が熱くなる。 「木か……ってことは相当まずいな」 「なにがですか」 「いいかよく聞け。これから……」 “ズドン!!”  さっきまで建物だったものが()(れき)と化す。とっさに看板に隠れたからものの、頭を出してたら飛んできた瓦礫が直撃していた。  恐る恐る頭を出してみると、あの女性が建物にめり込んでいた。 「(サン)(シャオ)……ってお前らなんでここにいるんだ! 早く逃げろ!」  さっきの地点から相当離れていたはず。その証拠に怪物の位置は変わっていない。あんなところから吹っ飛ばされて大丈夫なのか。  彼女は瓦礫から這い出して「油断した」と言いながら肩を回す。 「帰ったらあいつぶん殴ってやる……!」
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