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* * *
『っていうことだから頼む! どうしても外せねぇ用事なんだ。代わりに任務行ってくれ! このとおり!』
『やなこった。どうして私が』
『サンキュー! じゃあ俺もう行くわ、じゃな!』
『おい! 話はまだ——』
非番だったのに、あいつから仕事を押し付けられた。クソ面倒くさい。
雨降ってるし、人とぶつかるし、まったく敵が現れないし。ここにきてからストレスしかたまっていない。
——あれ、私あのときって……まあいいか。
「ちょっと待ってくださいよ! 速いですって!」
「お前が遅いだけだ、烏龜」
「阿桂ですよ! 何回言ったら覚えてくれるんですか……。っていうかわざとですよね??」
工事中のビルの屋上、縁に座ってその機会を伺う。暇つぶしに傘を回す。雨が弾ける。それの繰り返し。
足をぶらつかせて、ガムを噛む。今日は仙草味、そこそこ好きなやつ。ふーっと膨らませると、コーラ味のような色になる。それを割らないで口に戻す。それの繰り返し。
「お前焼いたら雨止むかな」
「だから俺は烏龜じゃないですって……。というか、全然変化ありませんね。月寒あたりが若干気圧ありますけど」
「今日の気圧配置は?」
「今日は……西低東高ですね。温帯低気圧が移動する予報です」
春に三日の晴れなしとはまさにこのこと。気圧が交互に移動するせいで乱れが生じる。だからこの時期は予報が頼みの綱になる。変わりやすい“天鬼”に備えるために。
「いた」
“ピシャリ”
傘を閉じてそのままビルから飛び降りる。天鬼予報は当たったようだ。
「待ってくださいよー!!」
◯
気づいたら瓦礫に埋もれていた。あんな付属品のような腕でも力は相当だった。
それだけじゃない。あの図体で意外と俊敏。地面で足を滑らした一瞬の隙を狙われた。
「三小……ってお前らなんでここにいるんだ! 早く逃げろ!」
今回の天鬼は水徳、つまり私と同じ属性だ。やれないこともないけど、相性はよくない。もちろん悪くもない。攻撃が通じるかどうか、少しずつ試していかないといけない。
同じ属性の場合、優劣を決めるのは単純な力の差。さっき吹っ飛ばされた私に勝ち目はあるのか。物理ではなく能力ならいけるのか。思考を繰り返せば繰り返すほど、考えがまとまらなくなってきた。
ごちゃごちゃになった頭にふと、この任務を押し付けてきたあいつの顔が浮かぶ。
「帰ったらぶん殴ってやる……!」
こうなったら仕方がない。別にこんな雑魚、相剋の気じゃなくても倒せる。不利な相手と戦うのは今に始まったことじゃない。
いつもならなにも気にしないで、やりたいようにやる。でも今日は東の住民がいる。稀にいる“見える人”だ。こんなのがそばにいたらやりにくい。死んだらその死体処理はどうすんだよ。川に流してやろうか。
「ザ、ザムイ……ザムイ……ザザザザザザァァァァァァ!!!」
腹を突き出すように走り出した。ブルブル揺れている腕があまりにも無機物な動きをする。見た目はグロテスクなほどリアルな人間の腕なのに。
ご丁寧に向こうから突進してくるなら、カウンターを合わせる。
腰を落とす。右足を下げる。後ろに重心を置く。左手を前に伸ばす。両手を構える。相手の動きに目を合わせる。
——もう少し近づいたら……。
「ザアァァァァ!!」
「え……」
天鬼は足を使って急激に方向転換した。壁を蹴ってくの字を描いて上から襲ってくる。ターゲットは私じゃなかった。私を避けるように曲がった軌道の先に、東の男がいた。
「まずいっ!! 逃げろ!!!!」
その叫びはあまりにも遅かった。振り向いたときにはもう着地寸前だった。
——食われる……!
天鬼が地面に両足をつけたままびくともしなかった。さっきまで欲の塊だったのに、今は石膏像のようにピクリともしていない。
状況が理解できず唖然としていると、必死な声が聞こえてきた。
「あぁぁぁぁ!! 俺だって結界師の端くれなんだ!!!」
「烏龜……そうか、そういうことか」
結界だ。厳密にいうと、今あいつが発動しているのは結界じゃない。結界の一部分、ひとつの面だ。地面に対して水平になるように結界を張っている。敵を輪切りにするように張ることで、動きを封じている。
あの一瞬で自分のできることを分析して実行に移すのは簡単じゃない。咄嗟の判断にしては上出来。だがその結界もせいぜい四枚ほど。敵も少しずつ動いてきている。壊れるのも時間の問題。
「早く……もう保ちません!!!」
“バリンッ!!”
「よくやった」
結界が割れると同時に私が追いついた。敵の正面から掌底を打ち込む。水の気を練り込んだ一撃は深く刺さり、天鬼を吹っ飛ばした。数回地面をバウンドして転がる。あの奇妙な腕を使い、地面を削りながら無理やり停止した。相当効いたのか、姿勢はそのままで息を荒くしている。
今がチャンス。ここで一気に決める。
“ジャラジャラ”
腰についけていたものを手に取る。こいつを使わなくても仕留められるけど、さっさと終わらせたい。
「な、なんだあれ……」
「うわわわぁぁ……建物壊さないでくださいね!」
「気が向いたら」
長さ約二メートルの鎖の両端に拳ほどの錘が取り付けられている。鎖が絡まっていないか確認して軽く振り回す。問題はなさそうだ。
“双水流星”
通称“双水”、私専用の“仙器”だ。人によって体内に流れている気の属性が変わる。さらに言えば、同じ属性でも性質が異なる。私とあの天鬼のように。
この流星錘は私の気に合わせて製造されたもの。ゆえに他人が使っても能力を引き出すことはできない。普通の武器に比べて本体の性能がいいとはいえ、使いこなすのは難しい。
「泣いたり叫んだり、動いたと思ったら急に止まるし。まったく……」
「変わりやすい天鬼だ」
地面を蹴って一気に近づく。走った勢いをそのままに、跳躍して空中で体を捻った。右手を離して左手で双水を振り回す。気を流し込むと錘が青い光を帯びた。光はやがて水のようにうねり始める。
もう一度体を一回転させ、背中めがけて錘を振り落とす。
“バリッ”
寸手で横に回避され、空振った双水は地面にめり込んだ。
鎖鎌やヌンチャクもそうだが、鎖や紐で繋がれている武器は隙が多い。物体にぶつかれば、跳ね返って力を失う。鎖が絡まれば制御できない。その隙を狙うのは当然。こいつも例外じゃなかった。
「そうくるなら……!」
鎖を自分に巻きつけるように体を回転させて攻撃をいなす。右手に持ち替えて、下から斜め左に向かって振り上げる。
「ザザ!?」
体に生えた腕のうち一本に絡み付いた。そのまま渾身の力で引っ張る。少しでも敵の動きを封じることができれば上出来。あるいは………
“ブチッ”
血飛沫とともに腕がもげた。自由になった腕は宙を舞って地面に落ちる。なるほど、力はあるけど脆い、だから数で補っているのか。適当にみえて、案外しっかり肉体が形成られている。
すぐに双水を手元に戻し、敵の足を狙う。
自分を中心に弧を描いた錘は狙いどおりに足に絡みつく。敵の重心移動を見極めて最小限の力で引っ張る。下手に強く引っ張っても体力を使うだけ。それに運が悪ければ鎖が絡まって解けなくなる。そうならないギリギリのラインを攻める。
右手に持ったまま左手で鎖の中央を押しながら回転する。巨体はドドンッと崩れて、地面に寝そべる。この隙を逃すわけにはいかない。すかさず双水を戻して腰を落とす。息をすーっと吸う。腹のさらに奥あたり、丹田に空気を溜める。ふっと下っ腹に力を入れて息を止める。
“ポンッ”
丹田に一粒の滴が落ちた。
——陀玖流流星招……。
「水蓮撃!!!!」
低い姿勢から繰り出される高速の連打。両手を使って錘を八の字を描いて振り回す。敵に当たった跳ね返りを利用して方向転換をすることにより、従来の打撃より不規則かつ高速に繰り出される。そこに水の加速が加わる。
その速さがゆえに、錘が分身して軌道を可視化する。それが水蓮の花に似ていることからこの名前がついたらしい。やっている本人は本当にそう見えているのかわからない。けど、先生がやっているのを見たことがある。錘が分身するとかそういう次元じゃない。まさに、花が顕現していた。
「ザッザッザッザ!!」
打撃のせいで声を出す暇すらないらしい。このまま押し通す。
「おららららぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
敵はなすすべなし。これなら……いける!
ステップを踏んで体勢を変える。双水の軌道を垂直方向にして、重力を利用した重い一撃を放つ。
——これで最後……。
「グワァァァァァァ!!!!」
命を枯らす叫びがつんざいた。音圧に押されてたまらず耳を塞ぐ。ふらふらっと後ろに倒れそうになるが、なんとか耐えた。まだこんな気力が残ってたのか。
窓を揺らしガラスが割れる。地面を揺らし小石が弾む。空間が歪む感覚に襲われた。まずい。でもどうしようもできない。明らかな隙を敵に見せている。
かすかに開いた目に拳が映る。
——やられる……!
「ザザザァァァ!!!」
「!?」
私には届かなかった。いや、目的は私じゃない。地面に向かってまっすぐ殴り、腕を突き刺した。地面が陥没したわけでもないし、地下の下水パイプを狙ったわけじゃない。こいつらはそんなに頭はよくない。なら、どうして……。
警戒を強める。周囲の気配を注意深く探る。
「なんだこの音……まるで地面の中を……ってまさか!!」
私と戦っているときも、そのまえも、狙いは私じゃなかった。
弾かれたように目線を送る。そこにいるのは男ふたり、ターゲットにされている東の男。間に合え、間に合え、間に合え!!
喉がはち切れんばかりに叫んだ。
「逃げろ!!!」
その声は敵の叫びよりもか弱かった。棒立ちの彼に敵の攻撃が襲う。地面から突き出てきた腕が彼の心臓を貫く。
“グサッ”
* * *
ここはどこだ。なにも見えない。左右どころか、上下すらわからない。水の中に浮かんでいるような感覚がする。
確かさっき、あの女の人がなにか叫んでいたような気がする。重要なことなのかな。でもなにも思い出せない。雨の音のほうが鮮明に覚えている。頬をつたう雫、生暖かい液体、赤黒く染まる水溜り。
恐る恐る自分の胸触ってみる。しかしそこにはなにもなかった。ぽっかりと穴が空いていた。
「俺……死んだのか」
一瞬、体を突き抜ける痛みを感じた。それを自覚するときにはもうここにいた。正直まだ困惑しているけど、死んだってことは理解できた。
「そっか……俺の人生、これで終わりなんだな。よくわからない化け物に殺されるなんて……」
“リン”
「ん? なんだ?」
突如どこからか鈴の音が聞こえた。風鈴のような涼しげで小さな音。リンリンリン。徐々に音は近づいてくる。でもいくら探してもだれもいない。ものすらない。幻聴を聞いているのか?
“リン”
俺の目の前で鈴が鳴った。確かにそこにある、そう感じる。
——なんなんだ、一体……。
「お出迎えに参りました」
「えっ……」
聞き覚えのありそうな女性の声。でも思い出せない。記憶を辿って答えを出そうとする。しかし、そんな時間すら与えてくれなかった。
「な、なんだこれ!?」
ぽっかり空いていたはずの胸から緑色の光が溢れていた。植物の蔓のようなものが四方八歩に伸び、次第に光が強くなっていく。
「ま、眩しい……」
* * *
「嘘だろ……ひ、人が……死んで……」
「泣いてないで蘇生仙術かけろ、このグズがっ!!」
「俺、結界師っすよ! それにこんな大穴どう見ても……」
迂闊だった。単純な物理攻撃しかしてこないとたかをくくっていた。戦略に合った変則を見せるなんて微塵も思わなかった。こんな芸当ができるなら、取り込んでいる気の量も半端じゃないはず。
思考が揺らいで焦りがでる。目の前の敵に集中しないといけないのに、足がもたつく。手が滑る。
後ろにいる烏龜を庇って防戦一方になる。敵の攻撃をいなすのに精一杯で、この場面を打開する策を練れない。
「ザザザァァァ!!」
死角からの攻撃をもろに喰らう。殴り飛ばされて建物にめり込む。そんな私など目もくれず、東の男に向かって一直線に走っていった。烏龜は腰が抜けて動けない。このままではふたりとも食べられてしまう。
「くそがぁぁぁ!!」
——先生……私……また……。
そのとき、眩い光が視界に広がった。
緑色の光。雨で分厚い雲が空を覆っているのに、まるで太陽がそこにあるように輝いていた。
「なにが起きたの……ってこれは!?」
そこには数多の植物が蔓を伸ばしていた。一本一本光を発して、壁や地面や空中に広がった。そのうちの一本を辿ってみる。花には詳しくないけど、よく美容院やカフェで見かける観葉植物に似ていた。
目を滑らせていくと、光が一番強い部分にたどり着いた。たまらず腕で目元に影を作る。目を凝らして中心をみると、そこには……。
「あ、東の男……!」
彼の胸から生えている。こんなの、普通じゃありえない。怪我をしているのも雨が降っているのも忘れて、ただ呆然と立ち尽くしていた。
ただならぬ気を感じる。その膨大さもそうだけど、性質も特殊だった。今まで感じたことがなかった。
“リン”
どこからともなく鈴の音が鳴った。その瞬間、膨れ上がった気を一箇所に凝縮するように敵に絡み付いた。さっきまで伸びていたものが巻きついて球体になる。
「ザ……ザ……!」
抵抗もできないまま、高密度の気に押しつぶされていく。その様子を見た瞬間、涙が頬をつたった。悲しいわけでも苦しいわけでもない。ただひたすらに、残酷で美しかった。
とうとう身が耐えられなくなって、巻きついた蔓とともに消滅した。
あたりは静けさを取り戻した。さっきの衝撃と天鬼が消えた影響で雨が止んだ。空を見上げると、分厚い雲に円形の穴が空いていた。そこから崩れるように範囲を広げていき、やがて青空に戻った。
目の前で起きた現象に頭が追いついていない。ただ放心状態で太陽に照らされていた。夢を見ていたのか、それとも現実か。その区別さえつかない。
「桃子さん!! 大丈夫ですか!?」
遠くから聞こえた声ではっと我にかえる。顔を引き締めてすぐに向かった。
見る限り、烏龜は怪我してない。意識もはっきりしている。問題は東の民。気を失って倒れていた。服は円形に破られていて、確実に胸を貫かれていた。しかし、その傷はすっかり治っている。まるで元から傷なんてなかったかのように。
「ひとまずここを離れる。お前は自分でいけるな」
「はいっす!」
彼を抱えてあのビルへ向かう。
* * *
目が覚めるとそこは薄暗い場所だった。廃墟というより工事中の建物かもしれない。まだ意識がぼんやりする。体を起こしてみると例のふたりがそこにいた。
「あ、気がついた。大丈夫か? なんか体に異常とか?」
「い、異常? 特には……っていうかあなたたちって」
「とりあえずこれを飲め。少しは楽になるだろ」
竹の水筒を渡してきた。言われるがままそれに口をつける。乾き切った喉にじわじわと染み渡る。
それはお茶だった。でも麦茶や烏龍茶とは違う。舌にまとわりつくような感覚がある。抹茶や緑茶の新鮮なまろやかさというより、干物のような濃縮された味。もちろん、味自体が濃いわけじゃなく、クセがある複雑な味
「おいしい……」。
ふっと気持ちのいいため息をついた。その反応を見て、女性が俺に問う。
「お前はだれだ」
「お、俺は蓬木朝菊……」
「そうじゃない。こっちの人間かどうかって聞いてんだ」
彼女の話は掴みどころがなかった。若干いらついているようにも見える。そんなこといっても、俺にはさっぱりだ。
説明が欲しいと思ったそのとき、隣の彼が「まあまあ」と宥めて丁寧に教えてくれた。
「俺の名前は阿桂、この人は桃子さん。おそらくあんたは見える人。ほら、よく霊感があるとかいうだろ? さっきみたいな化け物を見て幽霊って勘違いするんだ。桃子さんが気になっているのはその能力がどれだけあるのかってこと」
その話は聞き取れた。けど理解はできなかった。つまり、彼らが言うにはさっきの化け物は本物で、霊感がある人だけ見えるってことらしい。今までの人生で幽霊とかお化けを見た経験はない。能力なんてなおさらわからない。
反応に困って首を傾けると、深いため息をつかれた。呆れられているのか、単にそれが癖なのか。どっちにしろいい気分にはならない。
「まあいい。もうひとつ、お前に兄弟はいるか」
「双子の妹と、ふたつしたの妹がいるけど」
桃子さんの目が鋭くなった。すとんっとしゃがんで俺と同じ目線になる。ちょっとでも動いたら鼻の先が当たりそうだった。異性にも、美人にも耐性がない俺は息を止めた。いや、自然と息が止まった。苦しいからなのか、見つめられているからなのか、それとも両方か、どっちにしろ心臓が張り裂けそうだった。
しばらくして立ち上がると、なにも言わずに、背中を向けて歩き出した。
「た、桃子さん?」
「帰るぞ」
タジタジになる阿桂さんを置いて窓から飛び降りた。慌てた様子で「待ってくださいぃ!」と彼女に続いて落ちていった。
——あれ、ここって……。
不思議に思って窓に近づいた。下を見ると、人が豆粒に見えた。もちろん、彼女らはいなかった。この高さから落ちてどこにいったっていうんだ。
「な、なんなんだ……」
◯
すっかり夜になっていた。ちょっとだけ肌寒いのはおそらく服に穴が空いているからだろう。
見慣れた街並み、通い慣れた家までのルート、切れかけの街灯。それを感じるとなんだか安心する。まして今日みたいな変なことが起こったあとならなおさら。きっとあれは夢だ、そう信じるために深く息を吸う。
駅からの帰り道になにも起きず、あっさり家に着いた。いつもどおり自転車から降りて車庫に入れようとする。
「お、朝顔も帰ってきたんだな」
玄関のドアを開けたまま、中に入らず突っ立っていた。俺を待っているのか? とりあえず自転車を車庫に入れて朝顔のもとに向かう。
「なんで中に入らな……」
「……」
そこは玄関だった。血に塗れていたが。
床だけじゃない、壁にも天井にも滴るほどついていた。朝顔の顔は引き攣っているってもんじゃなかった。催眠術にかかったように、眉毛ひとつピクリとも動いてない。それは俺も同じだった。目の焦点を合わせようにも、ぐわんと歪む。どこを見ても血、血、血、血。
「夕菊……」
脳裏に彼女の顔が浮かんだ。父さんと母さんはもしかしたらまだ仕事から帰ってきていないかもしれない。そうなると、確実に家にいるのは夕菊だけだ。
朝顔はすとんっとその場に崩れた。
「頼む……頼む……!」
この血が彼女じゃないことを祈りながら、リビングに行く。
ふらついて壁にもたれる。玄関からすぐそこなのに遠く感じる。近づけば近づくほど、いやな臭いは増していく。
重たい頭を持ち上げて見渡すと、夕菊はいなかった。代わりに、変わり果てた父さんと母さんがいた。
肉は飛び散り、骨が散乱している。胴体といえるものは一切なかった。かろうじて残っていたのは頭と何本かの指だけだった。内臓が生々しく壁に張り付いている。まるで内側から破裂したような、そんな印象だった。
どうしてこうなったのか。だれがこんなことをやったのか。頭の中は疑問と憎悪と吐き気でいっぱいだった。
“次は明日の天気です”
つけっぱなしのテレビから天気予報が流れる。そのテレビも半分以上画面が割れていた。この非日常的な空間にある唯一の日常。生まれて初めて、天気予報で心が落ち着いた。
——夕菊はどこだ……!
階段を駆け上がって部屋に入る。けどそこにはだれもいなかった。カバンはあるし、携帯は充電したまま。気になる点といえば、少し部屋が荒れているということ。あまり気にしない性格といっても、床に化粧ポーチとその中身が散乱しているのは不自然すぎる。
「出かけてはいない。なら夕菊も殺され……いや、まさか誘拐……!」
ひとまず玄関に戻った。朝顔はまだ放心したままだった。優しく声をかけても反応はない。ただ涙を垂れ流していた。
「警察に連絡……」
「遅かったか」
背後から声がして、反射的に振り向いた。そこには桃子さんがいた。
「なんでここに……」
「やられたのはふたり……おい、もうひとりの妹はどこだ」
「見当たらないんだよ。携帯は置きっぱだったから、もしかしたら誘拐されたのかも……」
興味なさげに「そう」とだけ言って立ち去ろうとしていた。この状況を見て、なにか知っているような物言いにもかかわらず、なにも説明がない。あのときもそうだ。言葉がいちいち足りない。束の間の安堵はいらだちに変わった。
「ちゃんと説明しろよ! なにが起きてんだよ!!」
歩く足が止まった。風が吹いて彼女の髪をふわっと揺らす。ゆっくり振り向いて俺の目を鋭く睨んだ。
「この世にはふたつの世界がある。私たちの住む世界とお前らが住む世界。ここの住民を私たちは“東の民”って呼んでいる。おそらくお前の家族を殺したのは東の民じゃない。天鬼だ。夕方お前を襲ったあれだ。お前の気はただものじゃない、妹もおそらく同じ。だから襲われると思ってここにやってきた。まあ間に合わなかったけど」
作り話もいいとこだと初めは思った。アニメや映画でよくある設定で、ファンタジーが過ぎていた。こっちは両親を殺されてるのに、よくもそんな笑えない冗談を言えるもんだ。
そう頭の中で思っていると、リビングの光景が思い出される。あれは人の仕業じゃない。彼女の話を信じざるをえなかった。
真実はあまりにも残酷で無責任なものだった。恨む相手が化け物なんて……。このことをほかの人に話したら、頭がおかしくなったと言われるに違いない。両親の変わり果てた姿を見たのに、ここまで冷静な自分にもどうかと思う。行き場のない感情が胸に渦巻く。
「だったらなんで……なんで教えてくれなかったんだ!!!」
「教えてどうなる? お前になにができる? どうせあのとき言っても信じないでしょ。素質はあっても使えなきゃ意味がない。無能なんだよお前は」
言い返せなかった。馬鹿にした言い方はもちろんむかついた。でも、その言葉自体は芯をついていた。俺はなにもできない。
拳を握った。爪が刺さるほど強く握った。悔しくてたまらなかった。今日起きた現実と無能な自分を嘆いた。
——俺がなにをしたっていうんだ……。こんな……こんな……。
神のいたずらにしては度が過ぎている。運命だとしても酷すぎる。簡単に感情が整理できるわけがない。ただ立ち尽くすだけで精一杯だった。
「お前らはまた襲われる。だからお前だけでもこっちの世界で匿うことができる。さて、どうする?」
「ちょ、ちょっとまって。なんで俺だけなんだ。妹も一緒に……」
「ねぇお兄ちゃん、さっきからだれとしゃべってるの……。だれもいないでしょ……」
憐れむような、痛いものを見るような目だった。助けを求めるように桃子さんのほうを向く。「だから言ったでしょ」と言わんばかりのため息をついた。
「その子は見える人じゃない。一般の東の民だ。それでも命を狙われる可能性がある。両親が殺されたのと同じ理由でね。ただ妹を連れ去るだけなら殺す必要はない。理由まではわからないけど、同じケースをいくつも見てきた」
「だったらなおさら一緒のほうがいいでしょ」
「通れないんだよ。向こうの世界に行くための陣にね。陣に触れるどころか、見ることさえできない。だからお前の選択肢はふたつ。ここに残って妹の死体を見ながら死ぬか、私と来てお前だけ助かるかのどっちかだ」
迫られた選択は雑だった。どっちの選択をしても朝顔が死ぬ。あがいて一緒に死ぬか、見殺しにするか。朝顔には見えてないらしいから、知らない間に殺されるんだろうな。それがいいか悪いかは正直言ってわからない。どっちみち一生後悔するのは変わらない。
朝顔はまだ中学二年生。人生これからというのに、兄だというのに……守れないのか——
『お兄ちゃん、一緒に遊ぼ』
『見て見て、満点。すごいでしょ』
『あ、ついでにアイス買ってきて。お兄ちゃん』
『気をつけてね』
『あいよ——』
涙が溢れていた。自分の不甲斐なさのせいか、朝顔との別れがつらいのか。もしかしたらどっちもかもしれない。耐えきれなくてその場に崩れる。
——いやだよ……一緒に……いたい……。
鼻をすすったそのとき、背中に暖かいものを感じた。
「お兄ちゃん……」
目が覚めた気分だった。そうだ、俺は兄貴だ。朝顔のお兄ちゃんだ。朝顔を守るのは俺の役目。それを自覚すると、胸が熱くなった。
もう迷いはない。ゆっくり立ち上がって、朝顔の手を握る。被害者のお面を捨てて、真っ直ぐ前を向く。これが俺の答えだ。
「連れてってください。あなたの世界に」
「それが賢明だ。じゃあ……」
「勘違いしないでください! 俺は妹を見捨てない。桃子さん言いましたよね、俺には素質があるって。それに、連れ去られたもうひとりの妹も探さないといけない。だから……」
「家族を守る力を、俺に教えてください!!」
深く頭を下げた。恥ずかしさとか見栄はない。妹たちを守るためにはこうするしかない。もしかしたら能力が使えないかもしれない。朝顔を失うかもしれない。死ぬかもしれない。
そんなのは百も承知だ。地を這ってでも、この身が滅んでも守るって決めた。それが俺の決意だ。
「頭上げろ」
舌打ちが聞こえたような気がした。ビクッとしてこわばる体をゆっくり元に戻す。
“コツン”
頭になにか当たった。反射的に「いたっ」って言ったけど、そんなに痛くない。頭だけ動かして前を見る。右手を伸ばしてチョップするように手を置いていた。身長が低いせいか、手の位置も低く、結構つらい体勢で止められた。
「あ、あの……」
「うるさい。何時だと思ってんだ」
すっと手をどかして、その手をそのまま妹の頭に乗せた。朝顔には見えていないが、桃子さんの表情が変わった。まるで実の妹のように慈しみの目線を向けていた。
そんなことを思った矢先、朝顔の全身が水で包まれた。どうしてと疑問に思っている暇もなく、彼女は倒れた。
「なにをして……」
「気絶させただけだ。このほうが都合がいいだろ。それより、本当にいいのか」
「ああ、男に二言はない」
「あっそ」
自分から聞いておいて、興味なさそうにひと言吐き捨てた。それ以上会話することなく、彼女は消えた。
“ピーポーピーポー”
タイミングよく救急車とパトカーが来た。呼んだ覚えはなかった。
彼女の顔を覗き込む。気絶というよりすやすやと気持ちよさそうに寝ているようだった。
「君たち大丈夫? 怪我はない?」
◯
ゴールデンウィークも終わって学校にも慣れてきた。結局あの後、警察の指示に従って妹を病院に預けた。心配していたけど、翌日の朝には目を覚ました。桃子さんが気絶させてくれたおかげで自分の“ひとりごと”が夢だと錯覚している。
遺品整理とか葬式なんてやったことない。わからないことが多すぎて、ほとんど親戚に任せていた。
“キーンコーンカーンコーン”
さすがにあの家には住めないため、親戚の家に居候することになった。息子さんがちょうどひとり暮らしを始めたらしく、部屋が空いていた。場所も札幌だし、前よりも通いやすくなった。朝顔は転校せざるを得なかったけど。
——こんな形で引っ越しなんて。俺ですら寂しいって思ってるんだ。朝顔はもっと……。
「連絡は以上かな。最後にみんなに紹介したい人がいます。入ってきて」
“ガラガラ”
教室がざわざわと音を立てる。もしかすると雨の音かもしれない。今日も今日とて雨だし。
今はまだ環礁に浸りたいらしく、窓の外をぼんやりと眺める。雨の雫がガラスに溜まってゆっくり落ちていく。なんだか心も落ち着いていく。
「今日からこの学校に転校してきた……」
転校生なんて興味ない。多分事情があって転校してきたんだろうけど、それどころじゃない。家族を失ったんだ。こんなジメジメした日は特にネガティブになる。
「はぁー、切り替えないとなぁ……。そういえば転校生って……」
「蒲桃華です。よろしく」
「え……? はぁ!?」
そこにいたのは桃子さんだった。長い髪の毛をポニーテイルに結んでいる。前に会ったときと比べて大人しい印象だった。
——あれ、でも他の人には見えないんじゃ……?
「じゃあ、あそこの席に座って」
俺の周りから「めっちゃ美人」「かわいくね?」「絶対ドS」と言葉が飛んできた。他のクラスメイトがあれこれ言っている間、別のことが気になっていた。
トットットッと軽い足音が鳴る。カバンを置いて席に座る。空いている席……空いている席……。
「って俺の隣かよ!!」
「じゃあ蓬木、よろしくな」
「ちょ、待って!」
「よろしく」
「えぇぇぇぇぇ!!」
雨降りの今日、桜前線は彼女を運んできた。
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