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天使/タイムマシン/朝
目を開く。なんだか随分長いあいだ眠っていたような気がした。ぐっと天井に腕を突き上げると、ごつんと眼前にあった壁にこぶしがぶつかった。痛。
「……?」
天井かと思ったが、うちの天井はこんなに低くない。ていうかベッドの高さプラス五十センチは欠陥住宅もいいところだ。ヤナギ、と相棒を呼びながらコンコンと数度叩くと、ガコっと音がして、それからゆっくり天井が離れていく。すうっと流れ込んでくる天井の――というか、扉の外の空気は中より少し冷たく、肌を舐めるそれに身震いをした。
「おはよう、ユキ」
私をそうやって呼んだ声は、一緒に住む相棒のものではなかった。体を起こして確認すると、聞こえた声の通りにくたびれて痩せた体に白衣をまとった、ずいぶん年上の女が少し離れてこちらを見ている。目が合い、微笑まれて――ふと、その顔にどこか見覚えがあった。見覚えなんて物じゃない、もっとこう、毎日のように見ていたような、奇妙な感覚だ。私は生まれてこのかた、年老いた人間の女なんてみたことがないはずなのに。
「だ、……誰?」
そう言った自分の声が少し枯れていて、反射的に咳き込む。その様子を老女はじっと見て、幾度か頷いた。それから彼女は近づいてきて、私が寝ている寝台、というよりはもはや棺に近い、ともかくこの箱の横にそっと膝をついた。よくよく観察するような目。大変、居心地が悪い。
耐えきれず目を逸らした私に、老女はすっと腕を伸ばし、まず私の腕に触れた。ぎょっとなって固まっている私をよそに、手のひら、二の腕、肩を触れて確かめ、その手のひらはついに両頬を包んだ。
すべすべとした、冷たい手だ。
否応なく目が合う。
老女のその、色の薄い虹彩がみるみるうちに涙で揺れ、あっという間に溢れるのを呆然としながら見ていた。
「よかった」
そんなことを言われて泣かれても、私はどうしたらいいのか。老女が私の肩口に目頭を押し付け、そこを濡らすのを感じながら、そっと眼球だけ動かして辺りを確認する。全体的に白っぽく、生活感がない。まるで何かの研究室のようだ。いくつものモニターとコンピュータ、その向こうにあるのは、見慣れない形だがアンドロイド用の充電機だろうか。アナログな紙のファイルにノート、タブレットとペンがあちこちに散乱している。その散らかり方に覚えはあるけれど、それはそれとして当然のように、ここは私が昨日眠った部屋ではない。
ここはどこだろう。
ヤナギは、どこだろう。
相棒の名前を心で呼びながらじっとしていると、わずかなモーター音とともに扉が開いて、そこにはまさに今私が助けを求めていた彼の姿があった。
「ヤナギ」
呼ぶと、水色の目が僅かに見開かれる。
「ユキ」
まるで、百年会ってなかったみたいなリアクションだ。彼はゆっくりと近づいてきて、今私に縋っている老女がしたのと同じように、そっと私に触れた。温度のない指がいつもとは違う、壊れ物にするかのような丁寧さで私の輪郭をなぞった。ねえ、なんで泣きそうな表情なの?
「博士、……間に合ったの」
「そうだよ。そう、間に合ったんだ……」
老女が顔をあげた。涙で汚れたその顔、口の端に茶色い何かがこびりついている。
「ユキ、あのね」
そこまで言って、言ったのに、彼女はそこで咽せたように咳き込んだ。げほ、ごほ、と何度も繰り返す。その口から飛び出した赤黒い血液が、私を包んでいたシーツをぼたぼたと汚した。崩れてくるその体を受け止めながら、唐突に気がつく。
「もういいよ」
背中をさすると、白衣の上からも骨の感触がありありとわかった。死に瀕している。……きっと、私が目覚める、ずっと前から。
「もういいよ、わかったから」
ずっとずっと昔から、周りのみんなみたいになりたかったもんね。頭の良い人間じゃなくて、お世話してくれるヤナギみたいに。老いず、死なず、痛みも回路を切って仕舞えばわからなくなるような、機械仕掛けの存在に。
「頑張ったね、ユキ」
夢を叶えたんだね、おめでとう。
そう囁くと、腕の中で人間の私は嬉しそうに頷いた。徐々に力が抜けていくその肉体の、心臓がそっと動きを止めていくのを、私は内蔵されたセンサーで観測していた。
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