プロローグ

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プロローグ 7月29日(金) 夜 宮下夏帆は今日1日のことを思い出していた。 思わず顔がニヤけてしまう。 「ちょっと夏帆! いつまで入ってるのよ!」 浴室のドアの向こうから、お姉ちゃんのがなり声が聴こえる。 まったく、お風呂くらいゆっくり入らせてもらいたいものだ。 いつもだったら苛立ってしまうであろう姉の言葉も、あまり気にはならなかった。 鼻まで湯船に潜って、ブクブクと息を吐く。 ニヤニヤが抑えられない。 高橋先輩、大人っぽい服装の方が好きかな…。それとも意外と可愛い系が好みだったりして… 夏帆の頭の中は日曜日の夏祭りのことでいっぱいだった。 ──あのオマジナイ、ほんとに効いたってことなのかな。 湯船に頭まで潜ってみる。 先輩とのデートのことだけじゃない、これから色んなことがうまくいき始める。 お姉ちゃんのくぐもった怒声を聴きながら、なんとなくそう思えた。 7月31日(日) 夕方 高橋拓実はそれなりには緊張していた。 自分で言うのもなんだが、それなりにモテる方だと思う。 バスケ部ではいわゆるエースだし、他校の子に連絡先を聞かれたことだってある。 夏帆との出会いは平凡と言えば平凡だった。 自分の所属するバスケ部のマネージャーとして入部してきた時は正直、「大人しそうな子だな」という程度の印象しか受けなかった。 その子が隣のクラスの宮下梨花の妹だと知ったのは、もう少し経ってからだった。 梨花とは3年に上がる時に違うクラスになってしまったが、2年間同じクラスであり、拓実にとっては馬鹿馬鹿しい話も出来る貴重な異性の友人だった。 何気ない会話を思い出す。 「バスケ部にさ、新しく夏帆って子マネージャーで入ったでしょ。あの子私の妹だから。イジめたりしたらぶっ飛ばすからね!」 「お前と同じ血が流れてると思ったら、こっちがイジメられないか心配になってきたわ。」 「なんだと! …まあ、ほんとに夏帆は私と違って良い子だからさ、良くしてやってよ。」 梨花の言う通り、夏帆は献身的にチームをサポートしてくれた。 部室の掃除からユニフォームの洗濯、試合の時にはレモンの蜂蜜漬けも作って来てくれた。 付き合うならやっぱりガサツな女じゃなくて、ああいう家庭的な子だよな〜お姉さん! なんて軽口を梨花に話した時は、強めに肩を殴られた。 そんな対照的な姉妹だから、夏帆から夏祭りに誘われた時は正直驚いた。 何故だかわからないが、なんとなく梨花に対して申し訳無いような、後ろめたい気持ちがあった。 ただ、このことを馬鹿正直に梨花に話した時は、 「うちの可愛い妹が勇気だして誘ったんだから、行ってやれよ!」 と、また強めに肩を殴られた。 それにしても大分早く待合せ場所に着いてしまった。 まだ約束の時間まで30分近くある。 拓実は祭りの会場から少し離れた公園を待合せ場所に選んでいた。 薄暗く周囲に人気は無いが、うっすらと祭りの喧騒を肌で感じる。 軽く汗をかいた体に、吹き抜ける風が心地いい。 手持ち無沙汰にスマートフォンでSNSをチェックする。 バスケ部のやつら、男4人で祭りに来てるのか… 会ったら間違いなく冷やかされるだろうな。 そんな普段通りのSNSの投稿の中に、その投稿はあった。 ──京仁駅で変質者が暴れて怪我人が出ているらしい。 京仁駅はここから最寄りの駅だ。 夏帆もその駅から歩いて向かうと言っていた。 まだ待ち合わせ時間までは余裕がある。 危ないから電車を使うな、そう電話しようとしたその時だった。 ──手元のスマートフォンがけたたましく鳴り出した。 驚いて地面に落としそうになったが、ギリギリのところでキャッチした。 慌てて画面に目を落とすと、先日連絡先を交換したばかりの番号からだった。 夏帆だ! このタイミングで連絡があるってことは、きっと夏帆も何かの方法で不審者のことを知ったのだ。 安堵して通話ボタンを押す。 しかし、電話口から聞こえてきた声は、その電話の持ち主ではなかった。 「高橋くん!? 今、夏帆がそっちに向かってるから、逃げて!」 何を言ってるんだろう? 拓実には言っている意味が理解できなかった。 そりゃ待合せをしてるんだから、来るのは当然だろう。 そう拓実が思った、瞬間。 「センパイ 。もうキテたンデす ネ。」 驚いてスマートフォンが手からすっぽ抜ける。 街灯の光が届かない暗闇から声がする。 誰かが、そこにいる。いや。 夏帆の声だ。 間違いなく夏帆の「声」だ。 こんなに手の込んだ悪戯をする子だったんだ。 そんな都合の良い解釈を本能が否定する。 背中にじっとりと汗をかいているのを感じる。 うまく息が、出来ない。 心臓が大きく脈打ち、もはや自分の鼓動しか聴こえなかった。 夏帆であってくれ、夏帆であってくれ。 拓実は必死にそう願った。 その影が、姿が、じわじわと街灯の下に現れる。 拓実の願いは叶った。 ただし、最悪の形で。 ニタニタと笑うその顔は、間違いなく夏帆のもので、 でも、もうヒトのものでは無かった。 口角は限界まで引きつり、いや、目元付近までむりやり引き裂かれていた。 口元が馬鹿みたいに赤いのは口紅か、本人の血なのか判断できなかった。 左手に何か持っている。 そこから何かが滴っている。 「オしゃれシテ、シテ、」 夏帆の声をしているソレが、今度は夏帆じゃないことを願った。 でもその期待は、すぐに打ち砕かれた。 ──だって夏帆が手にぶら下げていたのは、良く知った梨花の顔だったから。 遠くから微かに聴こえる祭りの喧騒の中、地面に落ちているスマートフォンからの声だけが、やけに現実感無く響いていた。
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