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国立N大学に併設された公園は、様々な木々や草花が生い茂り市街地の一画にある緑豊かなオアシスとして多くの市民に親しまれていた。
初夏の清々しい天候の下、散策路をウォーキングする者、芝生にシートを広げお弁当を食べているカップル、公園のフェンス外で煙草をふかすサラリーマンなど皆が思い思いのひと時を過ごしていた。
園内の池のほとりで、老人が野鳥たちにエサを与えていた。
岸辺にはすずめに鳩にカラス、池には数羽のマガモが、老人の撒いたパンくずを我先にとついばんでいた。
そこを通りがかった一人の若者が老人に向かって言った。
「餌づけは禁止ですよ」
老人は特に反応するでもなく、コンビニ袋に入ったパンくずを撒き続けている。
「ちょっとあなた、聞こえませんでしたか?餌づけはだめだって」
老人はエサをひと掴み撒いたあと目の前に広がる池をつかの間見つめていたが、やがて目線は池に向けたまま口を開いた。
「なぜエサをやっちゃだめなんでしょうか」
若者からは老人の表情が見えなかったが、ひどくかすれた声が印象に残った。
「なぜって。ほら、そこの看板に書いてあるでしょ。ルールは守らなきゃ」
老人は看板をチラッと見たが、ふたたび池の方をしばらく見つめて呟いた。
「あのマガモたちはどうしてこの池に居残ってしまったんだろう。他の仲間は北へ向かったというのに」
若者は老人の言った意味が分からず何も答えなかった。
老人はまたエサを与えはじめた。
「やめる気はないんですね」
フェンス外で煙草をふかすサラリーマンの数がいつの間にか増え、一定間隔でずらっと並んでいた。
「こっちだって聞きたいですよ、なぜエサをやるのかをね。さぞ気分がいいんでしょう。かわいい鳥たちがあなたを頼って集まって来るんですから」
立ち昇る煙草の煙は空に浮かぶ大小様々な雲と交わっていった。
「ふだんのあなたは誰からも相手にされず寂しい思いをしているのでは?違いますか。その寂しい心のすき間を鳥たちに慰めて貰っている、まあそんなところでしょう。でもね、鳥たちのことも少しは考えてやって下さいよ。あなたの自己満足のために鳥たちは自力で生き抜いてゆく本能を失っているかもしれないのですよ。何とか言ってみたらどうなんです?見ず知らずのやつは相手にせずですか」
池の水面に反射した雲は微動だにせず留まっていた。
雲の在る池の方に老人は顔を向けたまま、相変わらずエサを撒く手を緩めなかった。
「聞く耳持たずというわけですか。わかりました、こちらもあれやこれや勝手なことを言ったかもしれませんね。ただ最後にこれだけは言わせて貰いますよ。あなたの暇つぶしというか、道楽に過ぎない行為がですね、鳥たちの生態系を崩すことになりかねないということを、まかり間違えばこの星の環境破壊につながっていくかもしれないということを、どうか忘れないで下さい。こうやって訴えるぐらいしか僕に出来ることはないんです。どうかお願いします」
すると老人はゆっくりと、はじめて若者のほうを振り返り話し掛けた。
「私もね」
声はかすれていなかった。
「私にしかできないことをしただけだよ」
エサが入っていたコンビニ袋は空になっていた。
数週間後、公園周辺において野鳥が大量に死んでいるとの報告が複数寄せられた。
当局が死亡した野鳥を調査分析したところ、未知なる高病原性鳥インフルエンザウイルスが検出されたと公表される。
この未知なるインフルエンザウイルスが前例のない強い感染力と強毒性を持つ性質であったことは当局の調査結果が出るまでもなく、ヒト自ら身をもって知ることとなる。
その禍いは瞬く間に全世界へと広がっていった。
人々に出来ることは何もなかった。
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