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「今日こそは……」
そう呟きながら、桐野瑛太(きりのえいた)は、自分の斜め反対側に座る男をこっそりと見つめた。
生徒たちがほぼ全員帰宅した放課後の残務の時間。仕事はこれからが長いという、中学校という名のブラックな職場。でも、今日はもう絶対にこれで仕事を切り上げるつもりだ。
桐野は意を決し立ち上がると、その男のデスクまで近づいた。
「芹沢先生……今から暇? もう帰れる?」
桐野に声を掛けられた男は、きょとんと目を丸くしながら桐野を見上げた。
「え? まあそうだな。暇とは言えないけど、帰れなくもないよ」
「そうか! じゃあ、帰りに一杯ひっかけないか? 俺の行きつけの店でさ」
桐野はわくわくする心を落ち着かせながら、そう元気よく言った。
「飲むってお酒を?」
「そうだよ。もちろん」
芹沢は一瞬困ったように顔を引きつらせたが、しばらく間を置いた後「いいよ」と一言言った。
「良かった。先に校門の前で待ってるよ」
桐野はそう言うと、浮足立つ心を抑えながら、そそくさと帰宅する準備を始めた。
新年度が始まり、桜がハラハラと舞い散る季節に、桐野の学校に新任教師が赴任してきた。彼はベータでもちろん男だが、女性を負かすくらいの綺麗な整った顔立ちをしていた。透き通った白い肌。桐野と同じくらいの背丈だが、悔しいことに桐野よりもスタイルがいい。ユーモアのセンスもあり、立ち居振る舞いも優雅だ。でも、どこか謎めいていて、妙に興味を引かれる。名前は「芹沢諒平(せりざわりょうへい)」。理科の教師で、新採2年目の桐野と同い年だが、彼は今年初めて教師に採用になったため、必然的に桐野がこの男の世話役を担うことになった。
桐野は2年生の担任。芹沢は桐野のクラスの副担任。大きな学校だから学年ブロックで一緒に仕事をすることが多いという理由で、二人が親しくなるのに時間などいらなかった。
桐野は自分と同い年の男性教師が赴任してきたことが正直嬉しかった。若い教師は桐野の学校には少なく、いたとしても皆女性教師ばかりだったからだ。悩みや愚痴をぶつけ合うには丁度いいし、尚且、同い年の男の同僚と、仕事帰りに一杯ひっかけるという桐野の長年の夢が現実になることに、密かに興奮していた。
でも、ただ一つ気に食わないのが、今までは桐野が女生徒たちの人気ナンバー1だったのに、芹沢の出現で、一瞬でその立場が覆ってしまったことだ。今どきの女子たちは体育会系より知的でクールな理系に魅力を感じるらしい。たまに授業中に芹沢が眼鏡をかけたりすると、クラスのほぼ全員の女子がウットリと彼を見つめてくる。しかもそれは桐野にまで伝線してしまった。彼の時折見せる陰りのある儚げな表情に色気を感じ、桐野は相手が男だと分かっていても、強い何かに引き寄せられるように目が離せなくなってしまうのだから。
5月の下旬。初夏が近づき日中は夏日になる日もあるが、夜になるとやっぱりまだ肌寒い。桐野はリュックから薄手のパーカを取り出すと、それを着こんだ。
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