一、唐突な婚約

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 ──フレイヤがローガンへ淡い恋心を抱いたのは、十歳の頃だ。  当時のフレイヤは、それはもうお転婆娘で、時折父を訪ねてやってくる武官の名門アデルブライト伯爵のきりっとした近衛騎士団長服に憧れていた。  刺繍やダンスなどはそっちのけで、年子の弟・ルパートと一緒になって、乗馬や剣術の稽古に明け暮れる日々を送っていたほどだ。  母は、フレイヤが大怪我をしないかとはらはらしていたそうだが、フレイヤ自身は子供らしい無鉄砲さで、楽しくやんちゃに過ごしていた覚えがある。  そんなある日のことだ。  フレイヤはふと思い立って木登りに挑戦し、見事に失敗して落ちた。  木登りをしているところなど見られては怒られそうだからと、侍女たちもまいて挑んでいたため、周囲には誰もいない。痛みと心細さで泣いていた時、ふと、影がさした。 「大丈夫?」  涙でぼやけた視界。しかし、少し硬い指先がフレイヤの涙をそっと拭ったことで、声を掛けてきた人物の姿が明瞭になる。  白金のさらさらとした髪に、穏やかに凪いだ湖の水面のような、淡い水色の瞳。  絵本で見た王子様みたいな人だ……と、フレイヤは目を奪われて、いつしか涙は止まっていた。 「ああ、膝を怪我してるね。転んだ?」  上手く言葉を紡げず、フレイヤは首を横に振って、木を指差した。 「もしかして、この木に登ったの? ははっ……父上からやんちゃだって聞いてたけど、想像以上だ」  おかしそうにくすっと笑った彼は、フレイヤの頭にそっと手を乗せ、優しく、しかし言い聞かせるように言う。 「元気なのはいいことだけど、気をつけないと大怪我をするよ。もうこんなことしたら駄目だからね、かわいい小猿さん」 「うん……」  この時、フレイヤの心には、小さな恋が確かに芽生えた。  当時は「かわいい」と言われてぽわっとなってしまったが、十八歳になった今では「小猿さん」はなかなかひどいのでは?と思ったりもする。  しかしそれでも、彼──ローガンとの出会いの一幕は、今なお鮮やかにフレイヤの中に刻まれているのだった。  ローガンはソフィアと同い年で、フレイヤの二つ年上。  アデルブライト伯爵家の嫡男で、親同士が懇意にしていることもあり、幼少期からたまにレイヴァーン伯爵家に遊びに来ていたらしい。 「らしい」というのは、あの鮮烈な出会い以前に、フレイヤには彼と会った記憶がろくにないからだ。  ローガンとしてはあれが初対面ではなく、遠目に見かけたことは何度もあったそうだが、当時のフレイヤは遊びに夢中で、来訪者のことなど気にしていなかった。  しかし、あの出会いを機に、フレイヤはローガンの訪れを楽しみに待つようになった。  剣術の稽古の相手をしてほしい、一緒に遊んでほしいなどと頼んではまとわりつく様は、飼い主が大好きな子犬のようだったことだろう。  微笑ましく見守られる中、アデルブライト伯爵は、「フレイヤちゃんが『おじさま、剣術教えて!』って言ってくれなくなった……」と嘆いていたという。  そうして、幼すぎる恋心を、フレイヤ自身ですら恋だと認識することのないままだったある日。十三歳になったローガンは、近衛騎士志望者向けの寄宿学校に入学した。  ぱったりと現れなくなったローガンを恋しがって泣いたというのは、フレイヤの消し去りたい恥ずかしい過去である。
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